【文明地政學叢書第三輯】第四章 日野強の宗教観(後半)

●新疆イスラム教(回々教)の由来

 さて西蔵(チベット)を出自として、蒙古、支那、新疆まで広がるラマ教を説けば、新疆周辺に波及したイスラム教について日野が説くのも必然ゆえ、手抜きはできない。以下、さらなる説を要略のうえ、大江山系シャーマニズムに通ずる筋を確かめ、現在の世相を透かし、未来に及ぶ連続性を透かしていくことにしよう。
 イスラム教は、耶蘇(キリスト)紀元六世紀末アラビアに興ると、勢いは迅電激雨の如く驀然四方に伝搬、北から東まで一㵼千里、澎湃は新疆に止まらず、支那本土に進入したり。新疆に入るころ、天山南路は国号をウイグル(回鶻)と称せり。
 因みに鶻(こつ)は隼とも書くが、記紀には応神天皇(第一五代)の皇子(隼別=速総別王)で描くも、いまだに正解が広まる歴史教育ないまま、支那人は回鶻と表記し、イスラム教を回教または回回教と称する。
 この地方は蒙古高原ウイグル帝国に属したが、帝国の崩壊によりトルコ化(八四〇)するのはトルコ系ウイグル族が移住してからで、それ以前はインドとイランの系統言語が併存していた。これら原住民とトルコ系ウイグル人の混合をチャントーホイ(纏頭回)といい、ハンホイ(漢回)は黄河套の地域に定着したイラン系ソグド人の子孫であり、唐代には六州胡で知られ、のち寧夏回族自治区(首都銀州市)を構成している。
 因みにカザク(哈薩克)とは、純粋なトルコ系であり、この新疆三人種に蒙古人、漢人、満人を加えて新疆六人種と呼ぶ通説がある。
 時代応求の産物たるを免れない宗教は、必ず偉大と称えられる者の熱狂的努力と活動を資源として勃興の歴史を編む。例えば、仏教における釈迦牟尼然り、キリスト教におけるイエス然り、イスラム教におけるマホメット然り。その後は共時性に伴う場の歴史から、時代応求の産物たるゆえに各種の分派を組み立てるのも歴史の常である。

●日野が渉猟した図書イスラム教

 史書を繙いて日野が得たイスラム教草創の事情は次のようなものだった。
 西暦五〜六世紀のアラビア人は蒙昧野蛮で、ほとんど私闘の修羅場しか知らなかった。すなわち、アラビア人はマホメット出現以前には国民たる組織を有せず、ただ区々の遊牧民にして、国内に二、三あった都市に生活する民もいるにはいたが、民を統治する制度もなく、彼らは古来伝承された同一の口碑・風俗・偶像崇拝の宗教によってわずかに支配されたにすぎない。
 アラビア人の住居した土地は、万里一望の大砂漠であって、天然の風物は単調なる荒地で農耕には適さず、また外部の感化を破ること少ないため、民は天然を友とし同族を伴侶とする外はなかった。
 このような荒野に棲むアラビア人には何らの宗教上あるいは道徳上の趣味も持ち込まれず、日に夕に行うところは、掠奪と私闘と復仇等に過ぎなかった。ただ毎年一ヶ月の間はその私闘復仇の惨劇を中止する時期があって、この間だけは平素反目の嫉視を封じ、手を携え各所の霊場を参拝したが、酒食の陥落を好む風習も根付いていた。
 この時ばかりは砂漠の隊商も掠奪を恐れない時期で、旅行の安全から互いに市など交わし、相集い置酒歓楽を偕(とも)にすることができたのだった。
 皇紀一二三〇年(五七〇)アラビア半島メッカにマホメットが生まれた。アラビア語でムハメットは教主と訳されるが、後にマホメットが尊崇を集めることで転訛するに至るとは日野強の説である。岡田英弘の註はこれを否定して、マホメットは本名ムハメットであって、日野による邦訳「救主」も誤りで、正しくは「称賛される者」と訳すべきであると補足を加えている。
 幼くして両親を喪ったマホメットは親戚コレーイシュ家の長モターレブの手元で赤貧に塗れて成長する。当時、毎年一ヶ月の間を山林で隠遁する風習があったが、これをマホメットは九歳から踏襲し、毎年九月にメッカ近傍のへエラ山中に静座する。天然の純潔と親しみ、沈思瞑想下に神霊と接触する感覚を得たという。
 また、当時のアラビアには、すでにユダヤ教、キリスト教の偶像崇拝が進入しており、マホメットも一四歳から隊商に混じって、シリア、パレスチナ方面にも出向き、畢竟の風俗・風習に接触することで、様々な宗教思想にも関心を深めていた。

●大悟マホメットの建宗

 アラビア語で「ハニフ」(懺悔者)と称する団体があった。私闘・復讐の悪風に苦しみ、在来の宗教に満足せず、一大宗教の樹立を期待する集まりだと伝えられる。マホメットもその一員であった。彼は弊風刷新と新宗教樹立の思いを潜ませ、沈思瞑想を重ねたが、知名(論語でいう五〇歳)に及んで、アラビアの宗教思想は混乱の域にあり、人心は日に腐敗が進み、道徳いよいよ衰頽の極みに達していた。へエラ山中で大悟感得したマホメットは民族腐敗の原因を偶像崇拝の妄心と開眼して、迷信打破は唯一天神の宗教に帰すべきと断を決する。
 人種的関係を偏重するユダヤ教を是認せず、天父・神子並立のキリスト教にも満足することなく、マホメットは独りアルラー、すなわち唯一真神への服従が責務と思惟して、アルラーの道を啓く意の体認を決した。へエラ山中を抜けてメッカへもどるマホメットは、これを万言のコーラン経として、アルラーの唯一神が世に出る始まりとなしたのであった。
 爾来、幾多妨害のなか、自ら建てた信教を拡布するため、同調者を率いて、
   ①神を信じること。
   ②神に対する人の義務
   ③人の人に対する義務
などを詳細に記述して布教に努めた。
 さらに日野強は要諦の一部を記すも、それを本稿は省き、日野がユダヤ教、キリスト教と対照するコーランの読み方を検証しておく。
 コーランの意義は深いため、門外漢には容易に批評しがたきも、イスラム教の本体はユダヤ教、キリスト教とは甚だしく異なると日野は見ている。
 すなわち、偶像を否認し、神格を唯一とし、これに服従するまでは同じであるが、ユダヤ教の豊穣と守護と神で編む組み立てと、キリスト教の神子説による三位一体は、イスラム教が徹底的に排斥するところである。イスラム教も天啓たるは同じであるが、自分は在来信仰との違いを明示するために出現したとマホメットは主張している。

●建宗後のマホメットの沿革

 日野はイエスとマホメットの天神観について、キリストに映る神は如何なるときも厳父の如く成りえず、慈母の如しであり、マホメットの神はこれに反して、慈母の如く成りえず、厳父の如し、とその相違を記している。
 また道徳観において、マホメットは男女同等を否認し、布教手段は自己の目的貫徹に戦争も辞さずと、他宗教に宣戦布告する性根も加えた。
 さりながら、一宗を建てる者と言えども違いは五十歩百歩であり、古来開教者の難銀辛苦も同一経路を歩むもので、驚嘆するほどのことにあらずとは筆者の心得であるが、日野も同義を吐露している。マホメットが他と決定的に違うのは布教活動にあり、例えば、釈迦、キリスト、ルーテル、日蓮などが到底企及すべからざるエネルギーを有した点である。マホメットは「アラビアの先人みな地獄に堕ちるべき大罪人で、現在の汝らはアルラーの責を免れるにあたわず」と異教徒と迫害に対峙しており、自ら暗殺者出現を誘うかの如き事態も生み出すが、増大する信者の懇願でメッカを去り、メヂナに移住して布教に専念した。
 以後、布教に円滑さを加えて、崇拝儀式を組織すると、私闘を禁じつつ、自ら獄訴を裁断、これ人心をアルラー一神に帰すことに勉めたのだ。やがてメヂナに純乎神政の政府が成立するや、その首長に就任したマホメットは民に適する政教の改造を進めて、尊敬の念は深く強い信条として高まる。
 信者は人種が異なるも同胞となり、相互親交を厚く深めて、神への義務として異教徒の撲滅があり、抗争は死を辞さず、力の限りを尽くすと定めた。
 日野はマホメットが右手に殺人剣を提げ、左手にコーラン経を捧げていたというが、岡田註はイスラム教の実際は異教徒に寛容であり、征服地の異教徒は人頭税を支払いさえすれば信仰の自由を保障された事実を指摘している。これも場の歴史と共時性に生じる史観のズレである。

●イスラム教徒の新疆・支那入り

 異教闘争に身を投じたマホメットは、メヂナにおけるユダヤ教を全滅して、キリスト教をアラビアの外へ放逐することに成功した。アラビア半島メッカもマホメットの手中に墜ち、メッカはイスラム教の霊場拠点として巡拝一切の祭を行う式典本拠地と制定された。
 そして、国王たる地位を得た教主マホメット六三年の生涯は、皇紀一二九二年(六三二)六月八日に閉じる。
 このとき教主の命で、東ローマ帝、ペルシア王、エジプト王に向けて派遣されていた使徒はイスラム教の帰依を目的に働いたが、成果は得ていない。しかし遺命を背負う信徒は付近の王国ほか欧亜各国に遠征し一億七〇〇〇万余の入信者獲得に成功したという。
 さて、天山南路はアラビアの商人が往来する交易路、新疆の民をコーランの教えに接したものの(六世紀末)、潔く西暦八世紀に始まるイスラム教への帰依は決して多くないと伝わる。
 問題は支那史にある。すでに唐代(七世紀)初めには風力に乗じ大洋を往還する回教徒があって、毎年一度の通商のため、広東、寧波、福州で交易したが、支那では彼らをテンファン(天方)人と称した。後にアラビア人と分かると、高祖は遣使を送り修好を求め、回教王もこれに応じた。
 皇紀一二八八(六二八)のこと、マホメットがサアドサハーバ(賽爾第蘇哈爸)とワッカース(甘古土)を派遣すると、太宗は使者を留め、広東に寺を建立、サアドサハーバはコーラン経を奉じて専心布教、多くの信者を得るのが支那初の回々教としている。
 この偽作を見破るに苦はいらない。アラビア語サハーバは「同志たち」の意味で、教主マホメットで直弟子の総称で使う。つまり使者は一人であり、その名前がサアド・イブン・アビー・ワッカースだったのだ。ワッカースはペルシアの征服に功ある将軍で、その死去(六七〇年代)まで、西アジアを離れたことがなく、支那上陸などありえない。
 また広東に建立された懐聖寺は西暦一一世紀のもので、広東郊外の古い墓をしてワッカースを葬るなどという伝承は、横田めぐみの遺骨と偽る北朝鮮にも通ずる話である。

●救主マホメット没後の東方布教

 アラビア将軍クタイバに率いられた大軍が中央アジア地域を侵略のうえ、天山の南北まで攻略の手を伸ばす伝承あるが、アミール・クタイバ・ビン・ムスリムのアラブ遠征軍が東トルキスタンに進入した事実はない。
 西暦六世紀末、雲南地方でも回教さかんに行われしが、土人の口碑など含めて考えれば、唐朝のころ東南海口に入るのが初で、天山南路より来たという筋と異なる。新疆土民が帰依したのは、アラビアの将軍クタイバが西暦八世紀に天山南北を攻略し回教を流布して以来のことで、当時アラブ宗教軍の勢いは破竹の如きであり、カシガル(喀什噶爾)以東にも侵略に出向き、ホテン(和蘭)の族と二五年(一三年ともいう)に及ぶ壮絶な戦役を征すると日野強は伝えている。
 この役アラビア軍が勝つも、多くの名将が戦死して、その墳墓はホテン、ヤルカンドの地に多く見られ、土着民これをシャイダン(斎旦)と呼び尊崇する。皇紀一六二六年(九六六、支那宋朝乾徳四年)、カシガル王ブグラが回教を奉じるや、民の入信も忽ち増大する状況において、ブグラは兵を率いトルキスタンを征した。その捕虜を天山南路に集めたが、後にトルキスタンのサマルカンドに帰した。天山南路および甘粛などに住まわせる者を仕分け回教流布に当たらせた。漢回(言語風俗の漢人化した回教徒)のトンガン(東干)はその遺族である。
 その後、二〇〇年の時を経て、奇傑チンギスハン興り、西征の途上にて、西トルキスタンおよびアフガニスタンを経由しパキスタンと境に達するが、進路を東に移して支那を攻め、その子オゴデイ(阿格帯)もまた引続き侵略を広げる。彼らは回教を奉じて、侠甘二省を拠点とした。またチンギスハンの第二子チャガタイ後衛にアブドル・ラヒーム・ハン(阿都喇汗)あり、明朝末トルファン(高昌)王家を継いで、子九人のうち、夭折した第七子を除く子八人は各地に擡頭する痕跡を刻んで今に知られる。
 第四子バーバーの孫のムハンマド・ユースフは、教祖マホメット子孫たるオージャ家系統のイーシャーニーヤ派を率いる指導者として子アーファークを伴い西トルキスタンから布教に尽くし、子アーファークはホージャ家初のカシガル・ハンとなり、孫ヤフヤーの娘婿スルターン・ムハンマドを立てる物語は広く知られている。

●ラマ教とイスラム教の比較

 さて日野の宗教観を理解するには、新疆六人種に無知では意が通じまいが、宗教説も残り僅か少しく辛抱されたい。
 何れの宗教も教義は深遠で、門外漢が容易に知り得ないところも窺えるが、遠く立教以来の活動の事跡を追うと、現実社会を惑わす痕跡も消しがたい。
 例えばラマ教も教理の深遠は察するも、日本の真言宗に比べ浅薄の感あって、宗教上の儀式また道徳に進歩が伴わず、布教の方法また教育法も不備にして、拡張なすべき機能も見られない。目下の教徒間に弊害の多きも、社会に裨益は少ない。なぜなら蒙古族をして貧窮の境遇に陥らしむるのみならず、また厭うべき姦通、忌むべき毒殺の悪風を助長する現実を免れない。
 他方、イスラム教の思想は非進歩的で偏狭を免れず、道徳も儀式も全体に適せず、殊に教育不備は布教の進展を策す人材を得られず、教徒に立教以来の殺伐気象を鼓吹したるは、末法の徒みだりに教主の遺訓経典を楯に、時運叛乱を企図して蠧毒(木喰虫の毒)の如く領域人民に弊害を与える。ただし、ラマ教に比すれば、やや優るも宜なるかな。
 筆者は比較論を嫌うが、あえて日野が比較論を使うのは相応の事由あり、それは日野宗教観を締めくくる段階に記されて明らかになる。本稿が日野本に潜む出口清吉を浮上させ堀川辰吉郎の段を描くときには、大江山霊媒衆の真贋も明らかとなろうが、それには日野本に残る宗教観と、新疆六人種の出自も確かめておかないと読者に意味が通じないだろう。もう少し日野本を引用することにする。

●清朝の宗教政策と新疆事情

 清朝成立後の支那大陸においては、天山北路・南路に強引な移住策が施され、新疆の版図は大きく変貌し、因子が揺らぐ構造不全を未来に潜ませた。つまり、侠甘二省の漢回(漢化イスラム教徒)が天山北路に移され、また南路各域にいた纏頭回(イスラム教徒)もイリ(伊犂)に移され、新疆全土は全人口の大部分がイスラム教徒(回教徒=回々教徒)で占められる。以後、支那大陸の回教徒は新疆省を本拠とし、広西省先住の苗族に回教徒が雑居、湖南省に侵入の回教徒も人口の約一割に達して、特に常徳府は市民三分の一が回教徒で占められる。
 信徒が集う回教寺を見ると、長沙に二ヶ所、湖北省の盛況は武昌付近のみで六〇ヶ所、その他一五里ごとに推知一ヶ所に及ぶ様相が見られ、古来から盛んな雲南省、江蘇省を含めて、南京四八ヶ所に建立の清真寺は回教教会堂を指す呼び名である。ほか蘇州二ヶ所、上海一ヶ所、蘇湖一ヶ所と江西省にも比較的少ないが、回教徒は河南省、直隷省ともに多く住んでおり、うち最も盛んなるは通州信徒で他に白河沿岸一帯にも多く見られる。
 元来清兵は無頼漢の応募入営多くして、しかも回教徒の多くが窮民であり、教会堂は貧民の集合所に似て、回教徒が清兵に多いのも当然至極といえよう。兵営が回教徒中心ならば、変乱もまた怪しむに足らず、回教徒と交際するに際しては宗教上一切に立ち入らないのが世間の厳制ともなる。かつ支那官吏は三品(さんぽん)に昇級昇進すると回教離脱を常とするため、回教が盛んな通州においては、小商い、露天商、車夫、兵丁など下層階級に居る大部は、みな回教徒と見なされ、場外一千余戸の市街ことごとく回教徒といわれる。
 これらは北清から満洲まで及んで、回教徒は支那全土に約三千万超の時代があり、回教徒の霊場巡りは次の如しとなる。
 回教総本山はアラビア国メッカ市にあり、新疆省内の霊場はトルファン南山の教会堂が第一とされ、第二はカシガルの東北一里弱の教会堂とされる。メッカ参詣を行なう場合は第一、第二の教会堂で読経のうえ、旅立つことを常とする。
 教主マホメットの後継者をカリフすなわち代理人といい、ウマル(ウンマ)はイスラム共同体を意味するが、纏頭回の道心を事例に引けば、参詣にハアジ(哈吉)とハラマインの二通りがある。ハアジはメッカでマホメットの墓を拝した後、初代カリフのアブー・バクル・アル・シッデイクとウマルの霊場を巡拝して堂内儀礼を経た後に帰国する者らで教徒間の信用も高まる。ハラマインは前記三霊場の巡行まで同じくするも、自らの不浄を省みることで、門前礼拝のみで帰国する者を指していう。
 これは教徒間における尊敬度の区別であり、心身共に清浄でなければ入堂は許されず、罪業の深き者は還を得ずの確信ゆえである。宗教の違いは所詮五十歩百歩が日野の宗教観といえる。

●漢人の在理教

 勢力扶植の先駆キリスト教は支那侵入も早く、大陸内各所に信者が居るも、新疆は千有余年来ラマ教とイスラム教が根付いて、宣教師いかにキリスト教で領分の蚕食を試みても、その余地なく引き揚げ、目下キリスト教は隻影も見られないと日野は伝えている。
 また満人、漢人は従来儒教を信奉し、彼らの頭脳は孔孟の仁義道徳が染みついて、向後といえども抜くこと功なき勢いを保ち続けている。さらなる道教に諸種あり、いま漢人の間に在理教と称する流行り思潮のもと、多数が漸次これに帰服せんとし、なかんずく天津商人の大半は最も堅き奉教と信ずる。
 けだし商人の活気それがため、その由来および主義を少し記しておこう。その起源を辿れば清の初期に現れた開祖を揚莱茹(ようらいにょ)といい、明の万暦年間(一五七〇年代)の進士と伝えられ、山東省の莱州府すなわち墨県蕭何(しょうか)村の人といわれる。
 揚莱茹は明滅亡後に程揚旺のもとで龍門派の道教を三年間修行し大悟すると、老子を教祖に仰ぎつつ燕斉の間を行き交い高弟の八人を率いて在理教を立てる。
 在理とは儒仏道三教の理が在る謂れから名付けたもので、仏教の法を奉じ、道教の行を修め、儒教の礼を習う、を目的に次の如く教旨を集約する。基礎は「正心、修身、克己、復礼」が第一義であり、教俗では煙(アヘン)も酒も禁じるが、茹葷(臭いの強い野菜)は禁ぜずと教える。即ち偶像を供えず、香を焚かず、単に咒歌偈語(しゅうかげご)を用いる。嘉慶年間(一七九〇年代)に至って、天津梁家咀子(りょうかしょんす)に公所が設けられた。
 彼ら曰く「ひとたび煙酒を戒むれば、その性乱れず、身体よく健なり。鮮魚肥肉は口に適する所にして、吾人ただまさに心を修むべし、必ずしも口を修めず」と。この教え習俗に益あるため、帰向する者多く旺盛を来たし、満洲の馬賊中に信奉者は少なからずという。
 この日野情報こそが、出口清吉との邂逅一端であり、清吉から日野に伝授された現地情報に加えて、新疆踏査の体験で得た宗教観を以下のように締めくくるのである。それは大谷光瑞にも通じることであり、大江山霊媒衆の真贋問題にも波及して、神格天皇の禊払で救われる「みち」とも合流する。その次第はさておいて、先ずは、日野宗教観の締めくくりを紹介しておく。

●ラマとイスラム両教徒の将来

 けだし新疆は多数人種の集合体にして、各人種その信教を異にせり。人種の相違、宗教の違い人心一致を欠き、争乱起因を醸すこと自然なり。為政上の困難、統率の容易ならざるは、知り易き道理なり。
 これを救うの道とは、教育を普及して智識を啓発し、而してのち国家観念を養成して、宗教的団結以外に人心統一謀らざるべからず。妄りに信教の自由を許して、その国民教育を放任すれば、民心の帰向するところ予め測るべからざるなり。あに危うからずや、民を愚にして、為政の極意を為す如きは、鎖国時代の政策にして、東西交通の今日、決して施し得べきものにあらず。
 そもそもラマ教徒は宗教を信ずるといわんより、これに心酔せりという評が適している。その宿弊の潜むところ、根深くして、容易に抜くべからず。高僧の出でて根本的刷新を行うにあらざれば、到底人心を司配すべき宗教たる価値なきは勿論、その教徒たる人民ますます文明と背馳(はいち)して、蒙昧の界に沈淪するのみならず、国民的精力は時に従い減少していき、終に滅亡の悲境に陥るは防ぎようなし。
 顧みれば、現在ラマ教徒の蒙古民族は千古の英傑チンギスハンに属して、鉄蹄欧亜大陸を蹂躙せし勇壮を示すも、現在その面影を見るよしなく、同治回乱の際の如く、譜代恩顧の清国官兵が回匪の毒手に全滅の悲劇を見ても国難に殉ずるなし。遠く山中に遁逃して卑しくも生を全うせんと謀りしは、卑怯未練の民族に化けたりや、奇怪のほかなし。たとい宗教一存といえずとも、宗教の影響また消しがたし。
 当時の清廷は政策の敵薬にラマ教を利用、否、現時も宗教の利用は為政家に潜む要件一つで剽悍は御し難き気骨を有して、容易に外誘に応ぜざる気風がありてこそ、支那帝国の藩塀となすを得べけれ。ラマあるを知りて、清廷あるを知らねば、国家の用を為さぬばかりか、虎視眈々たる隣国の籠絡する所なり。その利用する所となり、ひるがえり国家の大害を醸すに至るは、覩て易き道理となす。
 また新疆住民の大部分を占める回教徒は、これをラマ教に比べて観れば弊害の少きは前述のごとし。多角的観察においても、回教徒がラマ教徒に優るは万万なり。また遊牧民カザクは蒙古族より義に富み、礼を知り、潔癖あり、団結心あり、騎馬に巧みあって、ことに纏頭回、漢回に至りては智識程度はるかに優秀にして、農牧商工いずれも解して、勤勉有意の民族と言えり。これを誘導啓発する道を得れば、将来有望の人民を得べき見込みあり。

●ラマ教徒とイスラム教徒の将来②

 日野強はその宗教観を締めくくるに際して以下のように述べている。

——–
 予は旅行中、しばしば次の如き言を耳にしたり。曰く。
「我々の帝王を仰げるトルコ帝は大日本帝国皇帝陛下と極めて親善なることを聞き、哀心実に欣喜に堪えず、かつて我が同胞トルコ人が日本に漂流せし際(軍艦エルトゥールル号の紀州沖難破を指す)これを救助するや、日本人は慰撫いたらざるなく軍艦金剛、比叡にて、首府コンスタンティノープルにまで護送したり。この博愛精神に富める点一例といえども、深く吾々をして感動せしめ、深く脳裏に印されて忘るる能わざるもの有り。ゆえに日露戦争の開始せらるるや、吾々は相集いて、日夜、日本の勝利を神に祈りたり云々」
 この言こそ実に清国の臣民なり。さればこそ彼らは清国皇帝と、わが日本皇帝陛下との親善なるを喜ぶは当然なり。しかるに外(と)つトルコ帝と、わが日本皇帝陛下との親善を祝することは、大いに吾人をして一種の疑惑を惹起せしむるものなくんばあらず。況や単に新疆においてのみならず、露領中央アジア、英領インドおよびアフガン、等の回教徒からも変わらぬ同一の言を聞けるにおいてをや。
 また露国カザン州の回教徒と会談したる有り、支那人この人種をノカイといい、天山北路の露国商に多いというが、彼らは口を揃えて、わが天皇陛下に宿る威徳を称揚しながら、露国政治に悖る非を説き、日本とトルコとの親交につき曰く
 「我々ムッスルマン族(自ら名乗る)は、中央アジアのみでも約二千万の民衆あり。往時は相団結共同して優勢一国を成せしに、物が変わり、星が移り、現今離散して、各国に隷属しるる、冷遇不平等のもの、心あるもの誰か感慨なからんや。ただ目下は時機いまだ熟さず、暫くは苦痛を忍ばんのみ」
 これも説き去り説き来たりて破顔一笑せり。そもそもマホメット教すでに欧亜大陸に跨り一億七千余万の大信徒を有する。されば、宗教の可否は暫く措いて、彼ら信心堅固と団結心鞏固を備えてもかくのごとし。
 今後もし、大信徒中に非凡なる奇傑たとえばタメルラン(達迷児蘭陀)の如き者を輩出して、トルコ帝を擁立するなら、ムスルマン族の帝国を建設するの動向も見逃せず、そのとき欧亜を跨ぐ大騒乱の惹起せざること無しとすべからず。
 しかれども、目下の族は智識程度が低いうえ、回教国の現行勢力も極めて微弱なり、ゆえにかくのごとき現象露呈も信じがたいとし、単なる杞憂と済まされようが、火あれば煙が揚がり、因あるゆえ果と結ぶは自然の理なり。識者の参考に供す。
——–

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