【文明地政學叢書第三輯】序章 大江山系シャーマニズムとは?

●出口清吉について

 出口清吉(出口なおの二男)は明治五年(一八七二)に兵庫県綾部で生まれた。同二五年(一八九二)に東京の近衛師団へ入隊する。同二七年(一八九四)日清戦争勃発のとき、台湾へ出征しており、翌二八年八月一八日に戦死というのが軍籍上の公式記録である。
 ところが清吉と一緒に綾部から出征した戦友・足立の話では、帰還の際も清吉と一緒だったが、台湾から日本へ向かう船中で病死したため、その遺体は全身包帯巻きの姿で海中に葬られたとされている。
 また、清吉の所属した部隊は戦死者ゼロというのが軍や役場における公開情報であり、綾部町役場に残る抄本では清吉の死亡日を明治二八年七月七日と記している。ちなみに、出口家関係の霊媒による説では、清吉は死なずに神の使いとなって難局打開のため働く姿を詳しく述べており、特に出口なお三女(福島久)に降りた清吉霊がよく知られている。
 大本教のお筆先においては、清吉を「日の出の神」と呼んでいるが、その名前を冠した往時の「京都日出新聞」は北清事変(一九〇〇)の殊勲者として王文泰の名を報じており、同新聞の明治三八年(一九〇五)八月一三日付二面記事では、「軍事探偵王文泰」との見出しで、年齢三〇歳前後の人物が十数年来にわたって支那人に扮し内偵活動を行うと紹介している。
 つまり、「王文泰」なる支那人変名を使って大陸で活躍する清吉の消息を伝えているのである。さらに、その後の清吉を詳しく描いているのは、出口王仁三郎の入蒙経緯を記した入蒙秘話である。そこに多くの軍人が登場するので、当時の軍と大本教の関係につき、少し触れておく必要がある。

●大本教入信の主要軍人

 軍関係の重要人物と大本教との関係は、大正二年(一九一三)五月に福中鉄三郎(予備役海軍機関中佐)が大本に入信したのが嚆矢である。二年後の大正四年(一九一五)には福中を介して飯森正芳(同)も入信した。飯森は戦艦「香取」乗組員二五〇人を甲板上に集めて大本教の講話を行うほどの熱心な信者となったが、一方で飯森は「赤化中佐」とも俗に呼ばれており、トルストイ主義を自ら奉じて無政府主義者や社会主義者の札付きとも平然と親交を結んだ豪放磊落な性格で知られていた。
 大正五年(一九一六)一一月には、横須賀海軍機関学校の英語教官だった浅野和三郎とその実兄である浅野正恭(海軍少尉)も大本教に加わってくる。やがて浅野和三郎は王仁三郎をも凌ぐ一大勢力を大本教内に有し、実質的に大本教ナンバーワンと目される時期もあり、日本海海戦の名参謀として有名な秋山真之の入信にも荷担している。
 秋山真之の入信がきっかけとなって桑島省三大佐(のち中将)や山本英輔大佐(のち大将)ほか、四元賢吉大佐や矢野祐太朗中佐(のち大佐)などの海軍軍人が陸続と大本教へ入信するようになる。
 こうした影響力は陸軍にも及んで、大正七年(一九一八)入信の小牧斧助大佐を契機として石井弥四郎(予備役大佐)や秦真次中佐(のち中将)などの入信が相次ぐことになる。
 さて王仁三郎の入蒙経綸であるが、王仁三郎に強い影響力を及ぼしたのは日野強陸軍大佐(一八六五〜一九二〇)が筆頭とされている。日野は日露戦争に先立って軍命により満州と朝鮮を踏査した経験があるが、日露戦争の明治三九年(一九〇六)七月、陸軍参謀本部から天山山脈に囲まれたイリ地方を中心に支那新疆省を視察せよとの密命を帯びて出発した。日野の踏査紀行は後に『伊犁紀行』(芙蓉書房刊)という著書として刊行されている。それは新疆地方を中心にカラコルムを経てヒマラヤを超えインドまで達する壮大な探検物語である。
 出口王仁三郎入蒙の相談相手として陸軍は、退役後に支那青海で缶詰業を営んでいた日野強を呼びもどし綾部に送り込んだが、海軍は退役大佐で大本信者の矢野祐太朗に大陸現地の奉天で王仁三郎の受容工作を進めさせていた。
 矢野は奉天において武器斡旋を業とする三也商会を営みつつ、大陸浪人の岡崎鉄首らと組み、満蒙独立を志していた廬占魁(ろせんかい)と渡りをつけ張作霖ルートの取り込みに成功するが、その裏には堀川辰吉郎の手配があったことはほとんど知られていない。岡崎鉄首は玄洋社の末永節(みさお)が大正一一年(一九二二)に創設した肇国会のメンバーだった。
 肇国会は満蒙およびバイカル湖以東シベリア地域を「大高麗国」と名付け中立ワンワールド構想の下に大陸工作を行っており、その活動は犬養毅や内田良平らの支持を得ていた。
 肇国会による大高麗国ロードマップは王仁三郎入蒙経綸の版図と重なり、その思想的背景をなしたと見ることができる。
 大正一三年(一九一四)二月一五日、王仁三郎は朝鮮経由で奉天に到着すると北村隆光と萩原敏明に迎えられて、その日の内に岡崎らが手配した廬占魁とに第一会談に臨んでいる。続いて岡崎鉄首、佐々木弥市、大石良、矢野が加わって第二回会談が行われた。
 村上重良『出口王仁三郎』(新人物往来社、一九七五)によれば、大石は大正九年五月新設された奉天特務機関「貴志機関」(初代機関長貴志彌次郎少将、貴志はのち張作霖顧問)の有力メンバーであり、奉天第三旅団長の軍事顧問兼教官に任じた人物である。宗教学者の村上はまた、「奉天軍閥が盧を迎えた背景には、かねてからの盧の利用を考えていた日本陸軍の貴志機関の工作があり、王仁三郎と盧の提携も貴志機関が終始、その推進にあたったことはいうまでもない」とも指摘している。

●奉天特務と出口王仁三郎

 いま貴志彌次郎少将(のち中将)については省くが、村上は「王仁三郎と盧の提携は貴志機関工作構想に従い、町野武馬大佐や本庄繁大佐(のち大将)らも上原勇作の密命で動いた」とまでは読むが、惜しむらくは堀川まで達していない。
 王仁三郎は入蒙に際して多くの変名を使っている。日本名「源日出雄」のほか、朝鮮名の 「王文泰」や支那名「王文祥」などが知られる。王仁三郎入蒙経綸に際しては推進派と弾圧派の対立があり、推進派の矢野や貴志などに対して、弾圧派は徹底的に王仁三郎を尾行するが、その動きは推進派も先刻承知しており、王仁三郎を入蒙の方向とはまったく異なる町(赤峰)に案内した。
 この赤峰の町で王仁三郎と出会うのが王清泰と名乗る清吉であった。清吉は蒙古人を装って小興安嶺山中に住む道士で押し通すが、両者は尋常でない互いの関係を直ちに認識した。弾圧派は王清泰の正体を徹底調査しており、「年齢五〇歳前後、流暢な日本語は山陰訛り、蒙古人の間で生き神と崇められ徳望が高い」などの情報を総合して、清吉は日本人だと突き止め、関東軍に協力するよう求めた。
 これに先立って推進派に与した矢野は、大正七年(一九一八)二月二七日から三月三日まで、台湾沖澎湖諸島を発ち支那を経て佐世保に到着する日程を刻んでいる。この道筋は出口清吉の足取りを踏むものであり、その目的は京都日出新聞に報じられた王文泰の情報と写真を入手することにあった。
 他方、同じ時期の王仁三郎の記録は「三月三日から八日まで、京阪地方に出張」とあるが、子細アリバイは不明であり、佐世保で矢野に会って王文泰(清吉)の情報と写真を渡されたことは容易に察せられる。
 ところで王清泰と名乗る清吉を取り込んだ弾圧派は、ミイラ取りがミイラになる話と通じて、昭和一四年(一九三九)まで親密に清吉と接触していた長谷川久雄が記録を残したことから、王仁三郎の入蒙経綸が清吉に引き継がれた裏付けを立てることになる。その長谷川久雄とは王清泰の尾行を行っていた弾圧派の一人である。

●出口清吉=王文泰=王清泰

 赤峰の宿で王清泰と神意を交わした王仁三郎は蒙古で女馬賊と出会うことになる。女馬賊は三千人に及ぶ部下を擁する棟梁で蘿龍(らりゅう)と名乗るが、流暢な日本語を話し、王仁三郎に忠誠を尽くすと約する。その蘿龍の父は誰あろう台湾から入蒙した王文泰であり、日本名を「出口」とも言うという。そのほかに「蘿清吉」とも称し馬賊として頭角を現した人物とのこと。因みに、母は蒙古人であると蘿龍は王仁三郎に話している。
 つまり、出口なお二男の清吉は並みいる「クサ」と異なり、少年期に表芸から裏芸まで徹底して仕込まれていく資質を持ち合わせることから、杉山茂丸ラインを経由して堀川辰吉郎に達していたのだ。出口王仁三郎は出口清吉の身代わりになって軍閥の腐食と心中するが、清吉ラインは大東亜戦争後の今も健在で平成大相撲を支えていることは知る人ぞ知る。
 され史家としては、出口の氏姓鑑識が必須の心得であり、大本教を論ずるには、何ゆえ霊媒衆を出口姓としたのか、また王仁三郎(上田王仁三郎)を養子とした背景にどんな企みが潜んでいようかなどの問題とともに、最大の課題は大江山系シャーマニズムを解く能力が問われよう。
 維新政府が行った最大の弊政は、天皇一世一元制(明治元年九月八日)の制定であり、これは明治五年(一八七二)一一月九日のグレゴリオ暦採用にも通じており、皇紀歴を踏みにじる最大の汚点として政策全般に及ぶ迷走を呼び起こしていく。
 その迷走の例を挙げれば、東京遷宮(一八六九)、仏式陸軍と英式海軍の兵制布告(一八七〇)、寺社領没収(一八七一)、壬申戸籍実施(一八七二)などが数えられよう。
 特に神仏分離令(一八六八)により平田派国学神官を中心にして廃仏毀釈の運動が高まって多くの仏教事物が破壊・焼却されたことは、大化改新の前夜に生じた狂気の様相を彷彿させる。これらは西洋の天啓思想に汚染されての所業ゆえ混迷ますます深まり、一方で平民苗字許可制(一八七〇)を施せば、他方で士族と平民の身分制存続(一八七一)という矛盾を重ねていく。その混迷が大江山系シャーマニズムを覚醒させる要因と成ったのである。

●統一場を啓く共時性

 日本を和と仮定すれば、東西混淆の洋は南北を巻き込む遠心力のもとに、求心力が働く核心の和に集中するのが回転トルクのベクトルである。短絡的な文明史観に陥る人の通弊として、和を保つ努力が希薄になると、和洋折衷の千切り取り思想に奔るという傾向が生じてくる。
 富国強兵を誘引する兵制改革は日清戦争の顛末情報を正確に伝えられず、抜き差しならない日露開戦も止むなき成り行きに流されたが、歴代の神格に支えられた天皇の透徹史観は常に備えを怠らない。フランス仕込みの陸軍とイギリス仕込みの海軍が橇(そり)を合わせる何ぞは夢物語なのである。光格天皇の御代を振り返り通暁すれば、すでに答は出されており、アメリカ独立戦争やナポレオンの執政などの事例を引いて多くを語る必要はあるまい。
 光格天皇は神変大菩薩の諡を贈号して役小角シャーマニズムを蘇らせた。さらに約四〇〇年にわたって途絶えた岩清水八幡宮や賀茂神社の臨時復活祭なども挙行した。東京遷宮の強行さえ超克する神格天皇ゆえ、祐宮兼仁親王(光格天皇)と同じ称号の祐宮睦仁親王(明治天皇)が新開を啓く奥義も、相応の未来透徹から生じている。
 すなわち、祐(たすく)は「う」を「示す」天子の真事を顕す表意であり、連続性を断つ局面のとき、天子が超克の型示しで民心一つに纏め上げる振る舞いから、霊言(たまこと)「あおうえい」五十音図をフル活用する意を潜ませるのだ。
 統一場を啓く共時性は開かれた空間に顕われて、素元の因子が恒久リサイクル・システムにより、分子結合構造を成すが、分子の結合法すら弁えない閉じられた空間では、霊言五十音図の原義を勘違いして外来文字と結ぼうとする本末転倒さえも起こる。例えば、漢字「安」から霊言「あ」が生まれたように勘違いして、分子構造「安」の還元論から素元「あ」を突き止めようとするのだ。この還元論が似非教育の病巣であり、実証現場を知らない文学の仮説が史観の原義を狂わせている。

●大江山系シャーマニズムの留意点

 光格天皇による神変大菩薩号贈号で蘇るシャーマニズムは吉野(金峯山)に根ざしている。御所の焼失で聖護院三年間の仮御所生活をした光格天皇の神意によるが、東京遷宮の暴挙を犯した人意は大江山系シャーマニズムを編むと兵制に基づく疑似天皇制を仕立て上げた。これが役小角らの呪術的伝承とともに、似非の神を奉じるユダヤ病ウイルスの増殖を重ね合わさり、日清戦争や日露休戦を通じて広く大陸各地に拡散していく。似非教育下で巣立つ純心の傷には慈悲の念を禁じ得ないが、展開図法による擬似立体史観では総合設計が成り立たず、結局は部分接合が仮説の重ね着となり、本義の立体史観である共時性を伴う統一場は完成に至らない。
 筆者は落合(井口)莞爾の純心を深く愛して、その史観設計に取り組む努力に多大の敬意を表するも共振は得られない。なぜ落合を引き合いに出すのかというと、善くも悪くも、落合ほどの大仕事を成し得た生き証人はおらず、ニギリ・ホテン・トバシの渦中に純心を失わず、自ら稼ぎ出す多額資金に溺れず、歴史の焼き直しに献身的努力を怠らないからである。
 惜しむらくは最高学府に巣くう性癖を拭いきれず、思考回路が構造不全のまま情知が先んじるため、実証現場の意を整えきれず、共時性を伴う統一場を形成できない。
 しかし筆者は井口に期待している。人の本能的属性は純心を失わなければ、必ず瞬時の閃きによって覚醒したうえ、積み上げた素養が役立つ時が必ず訪れよう。それが純心の本義だからである。落合が誤る還元論を改めたとき、筆者も井口と場の共時性を保ちながら意の共振状態を形成するに違いないと期待している。
 本稿では落合説を根幹から揺るがす因子の不全を時に指摘するかもしれないが、現行下の状況では落合説の誤謬を質す次元ではない。
 さて、大江山系シャーマニズムの留意点であるが、出口家また大本教幹部の編む史料も所詮はオカルトロマンであり、落合説も含め密教を解くような文法では、迷路を彷徨う仮説を重ねるしかあるまい。

●大江山系シャーマニズムとは

 大江山系霊媒衆がなにゆえに近代に出現したのか。その要諦を禊祓すれば、役行者は時空の伝道師であって、その託宣は上古の代に使い古された言質を繰り返して、場の共時性を訴えるだけの求道にすぎないことが分かる。
 つまり、新開を啓くものなどは何もなく古語を新語に置き換えて、単なる時代的徒花にも等しい亜流の増殖を拡散させるだけの存在にすぎないと言わざるをえない。
 落合が解読した『吉薗周蔵手記』は労作であり、生ける屍が政官業言に跳梁していく近現代を描いており、大江山系シャーマニズムを解く仮説では出色の著作と言えよう。
 むろん、詮ない個人情報には限界があり歴史の真事に通じないが、大江山系シャーマニズムの問題提起としては、他に類例のない設計パーツを揃えていると評価することができる。
 大江山系シャーマニズムの本質は、本筋を外した亜流であるところにあり、政策に綾なす徒花として咲きほころぶ現象にすぎない。
 光格天皇の神変大菩薩は純血皇統に立脚する聖地(結界)に根ざすのだが、亜流の大江山霊媒衆は混血の統御に立脚するため、更地(俗界)を紡いで繕う版図(ロードマップ)に重点を注ぐことになる。
 人類文明最古の皇紀歴を刻む日本史が何ゆえもっとも遅れて記紀を編んだのか。それは人類の知を刺激して已まない問題であるが、捉え方を誤ると、記紀も単なる物語でしかなくなる。
 つまり、大江山系シャーマニズムのような亜流は須佐之男命(素戔嗚尊)を尊崇するが、スサノオは総じて神話の主役であり、ワンワールドを企んで勇躍するコスモポリタンたちが奉ずる似非の神に共通する。
 記紀がスサノオを主神とするのではなく、そのスサノオを窮める天照大神を中心に定めるのは深い理由があってのことであり、最古を刻む皇紀歴が記紀編纂を遅らせた理由でもある。考古渉猟は情知を刺激して已まないが、記紀の解読すらいまだ暗中模索の状態であり、過去と未来とを透徹する基礎教本に成り得ていない。ここに大江山系シャーマニズムを解く意義があるのであって、その意義とは現行下の妖怪変化に対抗して自らを強化し、欺し欺される生活から脱却する素養を磨く土台を整えることにある。
 例えば、大江山出自の大本教団が衰退すると、現行下の徒花に相当する創価学会のような新興勢力が出現して、際限ない宗教ビジネスを目指す妖怪が霊媒衆を食い物にしていく。つまり、大江山系シャーマニズムを題材として過去と未来を透かすと、地名の大江山は単なる象徴にすぎないが、その歴史はやがて室町幕府を滅ぼすことになる鉄砲伝来に通じて世界史全般に及んでいくのである。

●八紘為宇の誤訳

 日本書紀の神武即位前己未年三月に「兼六号以開都、俺八紘而為宇」とあり、この記述に基づいて<八紘一宇>なる語が生まれ、これを大日本帝国は海外進出の口実として、軍国主義を高めるスローガンに掲げたという通釈一般説がある。
 また「宇」は家をイメージしており、「八紘」つまり地の果てまでを一つの家のように統一支配する野望を秘めた語であるとか、あるいは元来は日本国内を一つに纏める必要があって生まれた標語だったとか、「八紘一宇」という語の解釈は様々あり、国際社会でも物議を醸す言葉となっている。
 しかし、日本書紀の記述はあくまで「八紘為宇」であり、「為宇」と「一宇」ではたった一字の違いながら、意味するところが微妙に、そして深く違ってくる。
 大江山系シャーマニズムは近現代を司るロードマップに荷担し、その影響力は国際社会にも通じて、生ける屍の増殖拡散を促している。近代オリンピックを称する五輪大会は、金・銀・銅のメダルを競い争う運動会で人の本能的属性を露わにするが、学芸を競い争うノーベル・ショーも金・銀・銅の物性を論じる分野に力を注いでいる。
 記紀は三種の神器として鏡・玉・剣の機能性を論じつつ未来透徹の禊祓を説くが、似非の神を奉じる文明史観は誤訳を恥じずに、勝手な仮説を講じて共時性に伴う場の歴史を破壊していく。大義名分の演出を問えばキリがないが、その核心は神の正体を掩蔽するものであり、神々に肖ろうとする人の本能的属性が為せる業に支配される。
 脳内を狂わせる周波数を使うテレビ機器が出揃うころ、仏文学一九二〇年代末の流派としてポピュリズムと嘯く「立体的平面思考」が普及していく。例えば球は立体であるが、球を平面化した円に準え中心を描く設計があり、楕円の場合は中心点二つだから、集束も一つではない。それと同じように、真理は複数の場合もありうるとして、物質リサイクル・システム恒久原理を否定する愚昧も出てくる。
 「八紘一宇」というスローガンも同様の思考不全から生じており、それらは大江山系シャーマニズムの影響であり、未来透徹が求められる現在において、記紀解読の誤謬を正すのは急務なのである。

●天気予報を嘲笑う気象攻勢

 現行下の社会を透かそうとすれば、共時性に伴う場の歴史を整える必要がある。人の違いが五十歩百歩とは、国連の井戸端会議でも立証されており、環境に伴う族種の異質性を訴えて部分を論じても詮ない話にしかならない。
 もともと生命は安定しようとする要求をもち、不飽和の状況下では要求度も低いが、飽和状態に陥ると要求度が高まり、様々な手段を講じて淘汰も辞さない現象を歴史に刻むのである。
 朝令暮改の天気予報を嘲笑うかのように、近年の気象は文明の如何に構わず、その脆弱性を露わに暴き出している。土石流に巻き込まれ事物損壊する様は言うまでもないが、気象は元気・病気など含めて気を象(つかさど)るものであり、気は圧を受けて変わり、不飽和が飽和に転じるメカニズムとも通ずる。文明は神の正体を暴き出すため苦心惨憺しており、天体を地球から観測する術を磨くと、宇宙船を放ち地球を観測する段階にまで達したが、情報は未だ神の正体を見極めていない。
 前項で「神の正体を掩蔽する」と馴染みの薄い語を用いたが、これは地球から天体を観測するとき使う語であり、掩蔽(occultation)とは通過(transit)や食(eclipse)に比べて、近い天体が大きく見えて遠くの天体を完全に覆い隠すとき使われる。
 因みに、通過は日面通過の略であり、天体による見かけの大きさが、遠くの天体より小さく見えるときに使うが、例えば、水星や金星など惑星が太陽面を通過していく様を指している。また、食とは特定の天体が別の天体にできる影に入って隠れる様をいう。
 だが、この「食」なる用語が情報化されると、まさに神話スサノオ文明を象徴する解釈論となって、大同小異を伴いつつ大江山系シャーマニズムとも通ずることになる。つまり、朔望時に目視可能な現象で月食または日食という語は広く使われるが、月食は兎も角として、日食などありうるはずがない。月は太陽と地球の間を移動して、陽光を遮り地球一部に自らの影を及ぼし、太陽を食したような錯覚を生じさせるが、錯覚するのは人の都合で、月には何の責任もない。実証現場ではすでに日食を掩蔽と正している。

●神話スサノオ伝説の文明概略

 古代四大陸文明を基準とする仮説を究めていくと、文明の一般論は総じて神話スサノオ伝説に集束されて、記紀編纂が何ゆえに後発であるかの理由も定まり、陽光アマテラス祭祀の意義も、そして月光ツキヨミ輔弼の義も明らかになり、畢竟してスサノオ文明が電光(雷光)を放つ理由も解けて、未来が透けてくる。
 気象攻勢による土石流が暴き出した情報量は膨大であり、それは気象操作基地(アラスカ州ガコナ)の隠匿情報まで普く知らしめるに至った。記紀を参照しつつスサノオの伝承を引き継ぐ文明を実証的に検証してみると、通説の大陸文明すなわち大河・車輪・金属を利用する点で共通する歴史に転機が訪れるのは、共時性を同じくしながら場の歴史で大陸文明に優るとも劣らず、完全に異なるマヤ文明を掠奪してからである。
 以後、侵略文明は異質文明に関する情報の隠蔽を徹底するため、マヤ文明本拠地ユカタン半島の破壊を敢行すると同時に移転先を定め、「メシカ」と自称したアステカを再現して疑似文明体制を仕立て上げた。
 いま、カテリーナやグスタフなどと名付けられるハリケーンによって天誅が降ろされるのは、侵略文明に対する戒めであり、いかなる時代にあっても常に難儀を祓うのは神である。こうした現実を含め、「神とは何ぞや」という問が解けなければ、未来を透徹するなど不可能であり、霊媒衆の筆先に降る位相も単なる幻想で消えるだろう。
 而して、以下の年代表記には皇紀歴を用いて、便宜的に西暦を括弧内に記すことにする。その理由は共時性に伴う場の歴史を基準にして記述を進めたいからであり、実証考古から導く教本に記紀は必須であり、世界最古の暦に基づかなければ、歴史が千切れてしまうからである。

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