【文明地政學叢書第三輯】第一六章 透徹史観に透かす現況と未来

●透徹史観に映る現況図

 現代テレビ文明は携帯電話インターネット端末に蹴散らかされ、生き残りに死後の足掻きを繰り返しているが、無残に散りゆく徒花の醜さは見るも儚い晒しもの。それさえ気づかない流行病には慈悲の念を禁じ得ないが、時事ニュースなどの報道と偽る井戸端会議の無様は自ら朽ち果てるしかない。それもこれも、横並びで隠謀と謀略に奉仕する御用史観のゆえであり、そこに独自のポテンシャルは微塵もなく、単に視聴率を競い争う電波公害を拡散するだけである。その結果、あらゆる公害病には潜伏期間があって後遺症にも苦しむという経験則は承知しても、精神を蝕む総白痴化には処方がない。
 つまり、現下金融恐慌は楽観・悲観の限界値を越えており、教皇と金融の歴史に鑑みるなら蓋然性では済まない潜伏後遺症が病原ゆえに、麻酔も効かない。精神異常のワクチンは製造できないから、生活給付金のようなアヘンでごまかせば、モルヒネの禁断症状も及ばない惨状が待ち受けよう。ケシは大江山霊媒衆と対発生の関係にあり、文明開闢の時代から現在、いな未来に向けてもその薬効と薬害の功罪二元性に変化は起こらない。
 古来ケシは文明の進展に歩を合わせその隠謀と謀略に荷担してきた。科学第一世代による兵器開発に際しては、英支阿片戦争を奇貨として、軍費調達の手段となり、近代化の尖兵たる金融政策の要として君臨するようになる。麻薬の怖さは中毒に気づいたときにはすでにポテンシャルを使い果たしていることであり、いくらヘッジを賭けたと思い込んでも、その賭場を操る先物にのめり込むほかないシステムの下、利息(ゾンビ)が利を生む幻想空間から脱せられないのだ。
 つまり、いかなる理屈を用いようと、現下の金融恐慌は麻薬中毒症状の終末現象ゆえ、末期ガン患者と同様の覚悟が必要なのだ。ところが、国際金融シンジケートが頼るのは電脳ゆえ、生き物の感覚を分別できないのだ。たとえば、痛みを感じて当たり前の情報と、痛みを感じたら危険と覚らねばならぬ情報とを分別する機能さえ持ち合わせない。今や同様の認知障害は国際政治の膏盲に入り、生活給付金の横並びなど痛みを阿片で封じ込めようと企む暴走ぶりは総白痴化を越えて、総アヘン禍による総不感症に達しており、これを救う道は神格の禊祓を手本として自ら更生に励むのほかはない。
 聖地を高天原と定めた日本文明は、公地の確立とともに、荘園と称する私有地の開墾に従事するなか、時代の変遷に見合う場のポテンシャルを蓄えていき、その潜在力を原資として生活の基盤を整える歴史を積み上げてきた。この荘園システム構造は秀吉が実施した太閤検地で姿を消すが、そのポテンシャルは何ら損傷されず、地層に深く根を張る潜在力はGHQさえ気づかずにいた。ところが、金利自由化(一九八五)を自ら呼び込む総白痴化現象が露になると、土地本位制を支える貯蓄性向を自ら破壊する金融政策の下で土地評価も預金利息も潜在力消滅の自爆テロを決行している。氷山の一角に過ぎない金融バブル論も単なるヒト・モノ・カネの説も生ける屍の合唱は単なる消費性向の戯言であり、貪欲な胃袋しか持たないゾンビと何ら変わりなく、その不感症は現代テレビ文明が尖兵となり、今やアヘン禍は政策中枢にまで蔓延して止まない。この病理は歴史問題であり、無知蒙昧の輩どもが「どうする」と騒いでも処方箋はなく、まずは成るようになるという、時代を透かした現況図がなければ、公は浸透しないのだ。
 金融三業種の住み分けは古来ニギリ(契約)の大前提として、その信用力保全のためホテンを必要とし、直接相場は証券が、間接相場は銀行が、機関投資は保険が、それぞれ政府の干渉を伴い始まるが、その資金は次第に国境を超えるようになる。これを場の歴史に伴う共時性で見ると、前記の通り、宗教的信奉あるいは軍事力崇拝のファンド、また荘園システム構造の特殊なファンドを基礎に起ち上げられている。それに相乗りするのが個人投資家だが、ホテンに関する情報が乏しいために、金融三業種の託宣とニギリに頼って、現在と未来の保障を得ようとした。
 以後の顛末は本稿のこれまでの記述に「お金」を当てはめてもらえば諒解して頂けよう。隠謀や謀略を含む信託ルーレットは、常に弾丸(たま)をトバシて、限りないゲームの繰り返しとなるのだ。また弾丸(ぎょく)のトバシ先にも隠謀や謀略は付きものであり、御用史観が描く図柄では東京国際軍事裁判と同じ結果しか得られないのだ。それにも拘らず、何ゆえ日本は戦後復興を成し得たのか。しかも、財政の債務超過がいくら嵩んでも、それに堪えうる原資の正体とは何か。これこそが日本文明の遺伝子に宿るポテンシャルであり、それは荘園システム構造に潜む底力に支えられていたのだ。

●透徹史観に映る未来図

 労使が共闘するダブルスタンダードに第三極を交える社会は、その形態も様々あるが、主権在民と嘯く立憲構造の基本は多数決であるため、その合議に付き纏う総論賛成・各論反対の呪縛が問題となる。つまり、全体が部分を統御するメカニズムは何某かの強制力で部分接合を補足しなければならず、科学の変遷に連れて民主化が普及していくと、国際間を結ぶ吸着法が必要となるのだ。以後このメカニズムの決め手は、部分接合を適える実証的吸着法が要となり、科学は物理吸着と化学吸着の実証法を差し出すが、いずれも決定的な欠陥は接合に耐用年数があり、その度に分離または剥離を繰り返す点にある。それはロボットやサイボーグの限界を示すものであるが、国際シンジケートはマネーも人が扱う傀儡と勘違いして、通貨本位制に基づく国家の格付けにまで触手を伸ばした。その結果、潜在力を使い果たした金融は自ら破綻に追い込まれ、もはやいかなる通貨を生み出そうと基軸通貨のポストは定まらず、電子マネーに活路を見出そうとしても、前半世紀末に施した国際決済銀行の謀略すなわちBIS規制が仇となり、自ら犯した禁じ手が自らの首を絞め結果的に霊流子(ひるこ)と同じ運命をたどるほかない。
 物質や物性の恒久化リサイクルシステムと無縁の生ける屍どもは細胞培養クローン現象を剖判し得ないまま、市場原理と嘯く神学論争に酔い痴れ音字(おんじ)を弄んでいるが、その口舌や筆先の空回りも政策に縋(すが)ればこその話であり、政策がポテンシャルを使い果たせば、養分枯渇で自ら朽ち果てるしかない。現代ジャーナリズムもまた自壊の命運にあるが、それもこれも後発のテレビ映像がもたらす網膜剥離に原因があり、ロボット、サイボーグ、クローンなど生殖機能を喪う生き物が増加する一方、人の認知症は若年化の一途を免れない。文明史観に基づいて現況を透かして見て、これらの諸問題を未来に結び付ければ、場の歴史に伴う共時性は如何なる展開を見せるだろうか。
 透徹史観の写像は国際外交が厳しくなることを教えている。人は衣食住で文明開化したが、文明の要諦は不飽和を保つことにあり、人口問題をも絡む自給率の確保は何よりも重大な未来のテーマとなる。この重大テーマを疎かにした文明は亡びるしかない。今や、高い自給率を持つ政府も低い自給率に悩む政府も未来の養分まで食い潰しており、相互一長一短の鬩(せめ)ぎ合いで円滑な外交を展開する余裕などない。
 現在そして未来にとりもっとも畏怖すべきことは天誅であり、すでに予兆は年々の天災と人災に顕れており、海洋深層部のマグマを含め地殻の振動も通常にあらず、宇宙船をゴミとして廃棄した問題も天変地異に影響するであろう。最大の問題はこれらの課題を抱える未来の原動力が何をエネルギー源に形成されるかであるが、その道筋は後発の記紀にすでに示されており、似非教育の呪縛を解き放つため、史家に問われる責任は特に重大となるのだ。すでに実証現場の基礎史料は臨機応変の技芸に活かされているが、その価値観は私利私欲に基づく特許独占思想に拐(かどわ)かされ、記紀描くところの皇統奉公の精神に反している。これを正すには公私を峻別する史家の能力に期待するほかなく、史家を自負をするほどの者は、実証現場を体認することで情報統一の場を啓く責務がある。これは得手とか不得手という問題ではない。よく一芸に秀でるは万技(ばんぎ)に通じるが如きの迷言あるが、いくら技芸に優れようと、私を率いる公の統一場を現出させなければ、過去の迷言に惑わされて潜在力を使い果たすだけだ。公の統一場にてはすべてが万民の資源であり、独占権を欲する利己欲など公にあらず、その証は無意味な独占スクープを競い争うジャーナリズムの目に余る醜態に象徴されている。
 似非教育自壊の現象も未来図の範疇であり、すでに学校制度の崩落は避けられず、その受皿に外交問題が絡むのも現実である。教え育む成果を徳知体で測るのは世界共通の標準であるが、徳は意を元としその源泉は公にあり、知の性質は本能的属性ゆえに私であり、体は行為を以て徳知の程度を現すのである。それゆえ体の成果たる行為を競う国際五輪大会も支持されるのだが、近代オリンピックが外交に関わって、その主催が国家の威信を高めることは広く知られている。問題は公と私の確執にあり、平和の祭典と言いながら国益優先の矛盾を含んでおり、蓋然性の玉虫色ワードを使う条約は国際政治の常套手段ではあるが、公私の整合がどこにも見当たらない。
 ところが、現下の実証現場においては波形と波長の謎が解明されつつあり、これまで統一場の理を妨げていた呪縛が少しずつ溶け始めている。これこそは未来に差し込む希望の光であるが、それに同時並行して為さねばならない重大テーマに史観がある。すなわち、これまでの文明史観の最大の弱点は、公私を整合できないまま知の極致たる史観を原動力に文明を衝突させてことにある。意に倣う知の置き処を定めるには、記紀を知で読まず意で読む訓練を積み上げる道しかない。その禊祓によって天の岩戸が啓けるように未来に光明が差し込んでくる。物心恒久化のリサクルシステムの原義については複雑な図解を要し、本稿では割愛するが、日本列島がもっとも聖地に相応しい所以は、空と海と陸の滋養が永遠不滅であり、その気流と潮流もまた、大地の生命メカニズムと一体化している点にあり、記紀の真髄もここにある。
 
●奉公の精神は潜在性にある

 木は枝葉の繁茂が過ぎると、風通しや日当たりが悪くなり、虫がつき、梢(うら)枯れ、根上りして、幹が朽ち果てる。広く知られる「木の五衰」であるが、この現象は目に見えない気でも同じで、日常生活における運動量と深い関わりを有する。つまり日常的運動量の養分は相応の補給を要するが、気の使い方を怠ると、木の五衰と同じように身も心も不安定となり、安定しようと思えば思うほど気の病に取り憑かれることになる。また気の限界を知らず思うに任せて気遣い過ぎても同じ結果は免れず、目に見える分野と目に見えない分野の配分は疎かにできない。
 さて、そこで問題となるのは、気の本体たる潜在性エネルギーであり、この潜在力を強めるのも弱めるのも本人次第であるが、人の運動量は潜在力の範囲内に定まるため、自らの潜在力を推し測る自覚を常に磨く必要がある。この自覚を促すには歴史に学ぶしかない。すなわち、過去と未来の連続性に気づくことである。歴史を透徹すれば明らかなように、物質と物性は恒久化リサイクルシステムに基づいて結合しているから、いくら分解と復元を繰り返そうが素(もと)の性質を喪わない。
 木の五衰と同じような結果に陥る要因は結合法にあり、その結合は物理的吸着法または化学的吸着法が用いられ、通常科学では担持とも言うが、正確さを欠いている。物理吸着や化学吸着による結合は耐用年数に限りがあるため必ず分離や剥離が起こり、互いの物質や物性は相手の性質を千切り取るので素にもどそうとすれば、再び溶解して摘出するなどの手間暇を要する。
 これと同じことが考古を発掘する度に必要となる歴史の改定ゆえ、歴史に基づく政策も改定が必要になり、果てしない法律の改定は日常生活における活動を無駄遣いさせ、内的エネルギーの潜在力も次第に根上り幹が朽ち果てることになる。実存の生命が遭遇する出来事のうち、素早い措置を講じ適切な処理を可能とするのは、同等の前列の環境条件が出揃うときである。ある出来事が生じて区切りがつくまでを、通常は現在と認識している。今や現在に生かされ、現在に身を置く生命の数が飛躍的に延びるなか、現在という場の何と短いことか。過去と未来の連続性とは悠久の歴史を超克し現在に適応する不滅の道徳を本義とするが、現在という場が短い因果応報は歴史認識が混濁に極みに達したからである。
 奉公の精神は潜在性にあるが、その潜在力が今こそ求められる時代ゆえ、「真贋大江山系霊媒衆」と題し本稿を起こした所以であるが、その核心は実在の神格天皇の振る舞いと型示しにある。ただし、求心力は揺るぎないとしても、その潜在的遠心力が強く働くには神格天皇が聖地に坐(おわ)す必要がある。その聖地は大和であり、そして吉野に通ずる。その意は本稿の監修に筆致を加える天童竺丸により本年年頭と巻頭言「大和へ、そして吉野へ」に要略されており、ここで重ねて述べる必要はない。是非とも巻頭言を参照されたいと念ずる。
 筆者は成るようになる現実を透かすことで人為の限界に挑むことを心がけているが、皇統奉公衆との交流に基づくと、現状最大の課題は高齢化構造と少子化構造にあり、この資源を活かす道が開かれるとき、必然性を以て現下の似非教育制度に代わって過去と未来の連続性が保たれ、本義の奉公もまた甦ると確信するものである。
 具体的な例を示せば、都市化生活での延命工作は認知症を生みだし、人の本能的属性に迎合する営利社会が電磁波障害を蔓延させ、技芸を弄ぶ構造は大自然を遊興の観光地に作り替えて、結果的に生ける屍らが天下に蔓延闊歩する現実をもたらした。だが、素より人は自然の産物であるがゆえに、原点回帰の揺り戻しは避けられず、やがて人は大地の懐に抱かれるようになる。
 宇宙船の夢を見るのも勝手だろうが、地球人が大気圏外にゴミをばらまく権利をどうして手にしたのか。はたまた、知りたいことを知るのも勝手と嘯くのだろうが、恒久リサイクルシステムの原義も確定できないまま、やりたい放題の隠謀と謀略をめぐらし、その結果は未だに繰り返す戦争に帰結するしかない。このような算段が、何の利益も産まないのは歴然ではないか。
 さて未来を透かす段に至れば、人がもっとも畏怖するのは天変地異だろう。だが、今昔を問わず、遠くない未来の時空を照らすとき見えるのは、祖父母と孫の世代が楽しく大自然と戯れる姿である。 
 祖父母と孫の関係性は必ずしも實の親族に限らない。祖父母が孫と接すれば、若年化一途の認知症も防げるし、過疎化を防ぐこともできる。孫を祖父母に預ければ、わが子を手放し養う親の威信も培われ、再び子を親が手元に引き取るときは互いに自立が芽生えており、たとえその期間が一年未満でも十分の効果がある。教育の淵源もここに存するのが歴史の教えではないか。養う力を知らない親と子に通学を強いれば、養う力に気づかぬ教員は教える力も禁じる力も知らず、全体が知らず存ぜぬの集まりゆえ欺し合う社会に埋没するのも当たり前ではないか。万事が万事かかる無責任連鎖の惨状を生み出した元凶こそ似非教育であり、その禊祓には何より記紀が必須の養分を潜ませている。

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