【文明地政學叢書第三輯】第一三章 皇統奉公衆とは?(後半)

●溥儀の紫禁城退出動機

 紫禁城に入った辰吉郎の初仕事は、宣統帝(溥儀)退位の環境を整備することだった。一九一二年正月南京臨時政府樹立、翌月の溥儀退位で支那は廃帝時代となり、その翌月には袁世凱が北京で臨時大総統に就任するも、大言壮語は中華思想の特徴で大総統も祝着とならず、翌一九一三年には江西都督李列鈞らの反袁世凱運動が起こった。
 山西省都のクーデターに始まる南京政府樹立を第一革命とすれば、江西省都の独立宣言は第二革命であり、孫文ら南京側も袁糾弾に呼応したが、李は北洋陸軍に打ち克てず、袁もまた三年後に没して群雄割拠の幕開けとなる。これ辰吉郎入営六年間の事跡である。
 この間に日野は「共和制反対党ノ動静ヲ偵知」せよとの辞令を受け、廃帝四ヶ月後に支那へ出向、その帰朝報告(一九一三)を済ませて大佐に昇進、すぐ予備役編入となるが、再び支那に渡るや、青島を本拠に日支合弁の会社を経営したという。また宗社党や革命党の士と交流、支那人社会に受け入れられたともいうが、宗社党は清朝擁護派の再興運動であり、その真反対が革命党ゆえ、いくら日野が優れた特務といえども簡単に済む話でなく、そこに多くの謎が潜んでおり、その謎は皇統奉公衆を知らずして解けないものだ。
 日本政府は対独宣戦布告(一九一四・八・二三)を発して第一次世界大戦に参戦。停戦の翌年(一九一九)パリ講和会議の決定により、日本は青島を含む膠州湾の租借権ほか、支那大陸にドイツが保有する権益を譲渡された。ここに重大な歴史認識のズレを生じる問題があり、通称五四運動が抗日を盛んとし、以後反日が本格化するという通説が現在に尾を引いている。
 そもそも、世界大戦の結果に生じる問題は日支間の位相を越えており、共時性を伴う場の位相を統一統合しなければ、何のために世界大戦と呼ぶのか道義が通らないではないか。
 すなわち、火種は国際労働者協会の創設(一八六二)に端を発しており、第一インターナショナルはパリ・コミューンの理屈戦争で消炭の如く分裂、第二インター(一八八九〜一九一四)も結果は同様で、次の第三インター(コミンテルン)に至る間の火種が撒き散らされたのが支那大陸だった。
 燻り続ける思想という火種は消炭ゆえ燃え盛るのも簡単で、矛先は日本政府に向けられた。これも日露戦争を上手く鎮めた在野の労苦に対して、爾後の外交を迂闊に過ごす日本政府の権益抗争に要因があり、その主犯こそ中華思想を読めない和魂洋才だった。
 ロシア一〇月革命二年後の一九一九年ボルシェヴィキ(後のソ連共産党)はコミンテルン第一回モスクワ大会を開催、二一ヶ国の代表が参じており、世界革命の実現を目指し各国への支援を宣言し、レーニンがデビューする。
 イタリアのミラノではムッソリーニが戦闘ファッショを結成(一九一九)、社会党や共産党と武力衝突、その勢力は議会三五の議席を占め(一九二一)、翌年に国王から組閣を命じられる。
 また、ドイツ労働党ヒトラーと貴族ゲーリングへの会合(一九二二)は貧困層ナチ党と上流階級を結び付けて後の政権成立(一九三三)への基礎となる。
 これら共時性を伴う動向を含めずに、支那反日運動の推移を読むだけなら、その視野は単なる千切り取りゆえ、現時商業ジャーナリズム一般と変わらず、その自虐感情が亡国に導くのも宜なるかなである。この間に辰吉郎は閉じられた空間たる紫禁城を開かれた空間へ導くため、皇統奉公衆の報告を受けて未来を透かし、自ら溥儀を教育のうえ、支那流の訓育は王国維に託した。
 大正一〇年(皇紀二五八一)は大正天皇在位一〇年に当たり、皇太子裕仁親王二一歳の御学問所解散とともに、共時性を伴う場の歴史は重大な節目を刻むことになる。
 欧州での滞在国は英仏蘭、ベルギーおよびバチカンを含むイタリアに限定されていた。随行は閑院宮載仁親王元帥以下三四人、乗員を運ぶのは軍艦香取で護衛艦を従え同年三月三日に離日した。この重大事もまた世界的共時性を伴う場の歴史ゆえ、神格皇太子の禊祓(みそぎはらひ)は満願の目的を達したが、帰国二ヶ月後に首相原敬は鉄道運転手二〇歳に刺殺された。
 つまり、内外に風雲が吹き荒ぶなか、その経世済民を担う日本政府は、自らの国運の定まる先を読めず、神格皇統の渡航反対に説得も成し得ないままに、その醜態を晒したため、旧土佐藩士の血を継ぐ中岡艮一が政権責任者の首相を封じたのであるが、これ政治に絡む遺恨とは違う公なのだ。それを政治的謀略と読み違えるのが、似非教育下の性癖であり、そんな推理を弄ぶ風俗を募らせるがゆえ、歴史が千切取られるのである。それはさておき、この神格皇太子の渡欧に潜む情報こそが、溥儀旅立ちの仕度であり、皇統奉公衆の本領に通じていく筋となる。

●皇太子裕仁親王の神格

 大正一二年(二五八三)摂政宮裕仁親王は、北白川宮能久親王の御霊の鎮魂のため台湾に行啓する。日清戦争講和条約により台湾平定に向かわれた能久親王(一八四七〜九五)は、享年四八歳、一〇月二八日に現地で薨去。後に台湾に設けられる神社六八のうち能久親王を祀るのは五八社あり、その評価については諸説もあるも、神格の意に通じない話は論じても詮ない説ゆえ、行啓の義も的外れが多くある。総督府総務長官の賀来佐賀太郎が説く親王の道徳と仁慈にしても、様々な捉え方があるのは仕方ないことである。
 この行啓を終え摂政宮が帰国すると、日本政府を揺るがす天誅二つが降される。一つは日本共産党創設が発覚したこと、もう一つは関東大震災であり、いずれも神格皇太子への不敬を重ねる政府に天罰が襲うのである。同年一二月二七日に難波大助が起こす事件は、関東大震災で延期された神格御成婚の儀を再び遅らせるものであり、山本権兵衛の総辞職、警視総監罷免と管轄地一般警官の免職など、共時性を伴う場の歴史は千切取りを許されない歴史を刻んでいる。因みに難波事件は虎ノ門事件とも呼ばれている。
 翌大正一三年(二五八四)一月二六日、立太子礼(二五七六)を機に始まった数次の騒乱を超克して神格皇太子御成婚の儀が挙行された。
 この間に台頭著しい米国はワシントン会議(一九二一)を開催して、欧州列強に仲間入り、日本は対米六割比率を承認せざるを得なくなる。また事実上の対ボリシェヴィキ戦(一九一八〜二二)もあるなか、陸軍は三度の人員削減(二五八二〜八四)、海軍は主力艦の建造中止に追い込まれ、山県没(二五八二)さらに政党内閣制開始(二五八四)なそ、疑似天皇制が陥る先は神格以外に知る由もない。
 以後、統帥権の独り歩きが始まり、政党の間抜けを和魂洋才が埋めるも、文民に軍の暴走を封じる手立てなく、支那朝廷の再生と日本社会を救うため、辰吉郎と神格皇太子を結ぶ仕事は皇統奉公衆がフル回転する。皇太子御成婚の祝儀を奇貨として、辰吉郎は溥儀を日本租界へ移すため、随伴の王国維や升允などの護衛に皇統奉公衆を用いている。孫文没(一九二五)に際しては、支那五〇〇年の禁制地公開を決して、支那人の愛国心を慰めるなど、時局柄こんな発想も断行も支那に当事者能力なく、神格以外に成し得ない事績また歴然ではないか。
 翌大正一五年(二五八五)宇垣陸相は「中学生以上の軍事教練に現役将校を配属する許可を得たい」と摂政宮に上奏した。これ文官と武官の間に衝突を引き起し、教育界は侃々諤々の議で揺らぐも、腐食頽落が進む軍閥抗争を戒めるとともに、軍部内に燻る鎮撫効能および妖怪覚醒の良剤たるは否めない。この上奏を陸相の発想と読むのが物証しか信じない官吏の限界であり、時の陸相が宇垣というだけで、宇垣は単なる増長ゆえの発心にすぎない。
 大正天皇の意を継ぐ皇太子は以後、辰吉郎の紫禁城入営に関する機密情報を受け取りながら自ら軍事関係の行啓に時空を使い分ける。同年八月五日、葉山に待機する戦艦長門に乗るのは、摂政宮、高松宮、久邇宮の青年将校であり、駆逐艦四隻を伴い最北の樺太(サハリン南部)大泊港を目指した。日本人居留民六万ほどの歓迎を受けて上陸、連日行幸しての視察に教育環境や産業現場は当然として、最も時間をかけたのは樺太特有の植物観察と記録されている。これこそ神格の神格たる所以であり、万世一系これ歴代の生命メカニズムは共時性を伴う場の歴史にあり、空と海と陸の滋養に生かされる植物を知ることはその土壌(鉱物)と動物を知ることに通じる。そこに手を加えて生きるのが人の生き方であり、それゆえに先住アイヌ民族に深く敬意を表するものだった。
 樺太で会得した時代の気風を東京に持ち帰った皇太子は日光滞在中の天皇と皇后を訪ねて自ら覚えた認識を奏上するや、大正天皇その禊祓に安堵の念を深くし貞明皇后もその皇祖皇宗に感銘を奉じて、新婚生活も僅かな良子妃殿下の高い霊性に皇太子を託する。
 政府は第四九議会(二五八四)から第五二議会(二五八五)まで加藤高明を首班に護憲三派政党連合体制を主導するも、私利私欲の脆さは議会内抗争を再燃させ、その火種は常に都合勝手な天皇制解釈を名分に使用していた。結果、太政官制度の廃止以来初めて、法律上の「国体」が問われる事態となるも、議論は不毛を極め、祖国を暗黒に導く夜郎自大が跳梁跋扈する。その詳細は省くが、これを救う禊祓は常に神格のほかなく、大正天皇崩御と昭和天皇即位により、辛うじて幕末維新の二の舞は繰り返されずに済んでいる。
 これらの型示しは歴代神格の常道であり、孝明天皇崩御の際も同じこと、このときも神格の型示しにより未曾有の危険を封じる禊祓に救われた。だが、聖地の聖地たる所以を知らないまま、統治権と統帥権を弄ぶ社会は、神格を東京行宮に閉じ込める愚策を改めようとせず、自ら袋小路に迷い込む政策を連発するようになる。

●大嘗祭と東京行宮の贖罪

 大正一五年(二五八六)一二月二五日、大正天皇四八歳の崩御を受け継ぐ昭和天皇は宝寿二六歳、第一二四代目の即位であり、昭和三年一一月六日に京都へ還幸され、その四日後に祭祀を行って、参列者およそ二七〇〇人の前で次の勅を発せられた。

  朕内は即ち教化を醇厚(しゅんこう)にし愈民心の和合を致し
  益々国運の隆昌を進めんことを念(ねが)ひ
  外は即ち国交を親善にし永く
世界の平和を保ち
  普く人類の福祉を益さんことを冀(ねが)ふ爾有衆其れ心を協(かな)へ
  力を戮(あわ)せ私を忘れ公に奉し
  以て朕が
志を弼成(ひっせい)し朕をして祖宗作術の遺烈を揚げ
  以て祖宗心霊の降鑒(こうかん)に対(こた)ふることを得しめよ

 
 同月一四日の静夜から一五日の未明まで続く大嘗祭は儀仗兵が居並ぶなか、公式参列が祭祀用の社殿に近い座席を埋め尽くし、絹の白生地斎服を纏う天皇が采女と掌典を先導に歩を進めて、木造建屋三棟の社殿へ独り身を潜めていく。最初の社殿で沐浴その身を浄め高天原の降臨を振る舞うと、次に扈従(こしょう)らと廊下を進んでいき、東方の悠紀殿、また西方の主基殿において独り聖儀を行うのであるが、両殿の中には御衾(おぶすま)、神座(かむくら)、御座(みくら)が設(しつら)えられ修験の超克が待ち受ける。天皇は自らの身に御衾を重ねると皇祖神(スメラミオヤスメラオンハシラ)の体認まで超克を尽くし、天照大神と同位相の悠久を覚えたとき、神々に与えられし供物を奉じて現人神に蘇るのである。さて、東京行宮の贖罪は以下の如し。
 同年三月、支那大陸では南京の英米領事館が革命軍兵士に襲われ、揚子江碇泊中の英米軍艦は直ちに市街へ砲撃開始した。日本領事館も襲われたが、このとき日本軍はすでに撤兵しており、政府は何らの手立ても講じられていないでいた。日本の被害を最小限に食い止められたのは正体不明の者の働きであった。後に紅卍字会ではとの噂が流れ、辰吉郎と結ぶ仮設も立てられるが、実は皇統奉公衆の働きである。
 以後、支那国民革命軍は北上を続け北京へ向かうとの情報もあり、日本は第六師団五〇〇〇人部隊を青島に派遣した。五月に政府派遣軍は支那革命軍と衝突、これが済南事件と呼ばれるが、翌年初頭まで決手を欠いて長引いた。
   この間六月四日に張作霖爆殺事件が勃発、その主犯説は視野の狭い仮定と仮設に惑わされ共時性を伴う場の歴史を無視して現在に尾を引いている。
 火種が尽きない世界では八月にパリ軍縮会議を開き、「国家政策の手段としての戦争を放棄し、紛争争議一切は平和的手段で解決処理する」との趣旨でケロッグ=ブリアン条約が結ばれる。日本では「不戦条約」と呼ばれた。
 だが、この条約の眼目は不戦どころか、コミンテルンに対する宣戦布告になった。国家=宿主に救う寄生体たるその革命思想はすでにロシアを転覆させて立場が逆転し、他の国々も侵蝕きびしい状況下にあり、日本も例外ではなかった。
 不戦条約すなわち戦争放棄は現行法にも規定され、現在は集団自衛権とか平和貢献とか騒いでいるが、その解釈の「何でもあり」は語るも虚しい劣化ぶりである。
 翌昭和四年の世界最大ニュースは、かつて世界史上最大の領土を支配したローマ帝国の現状に関するものだった。皇帝と勢力を二分した教皇が世界最小の国家にして世界最大の力を潜ませるバチカン市国を成立させたのである。
 すでに大江山霊媒衆も潜入ずみで、ただミイラ取りがミイラとなる現実もあり、昭和大戦後のイスラエル建国にも通じており、現時ではパレスチナとの間で迷走やまない現実を抱える。
 宗教はかくも虚しい歴史を刻むなか平和を希求しているが、これ他人事ではなく、神格の意を解せない日本政府が満洲建国の義を崩してしまう歴史にも通じている。これ宿主と寄生体が一対で成る生命メカニズムに遵えず、自ら飽和に陥る高熱症状に原因があり、張作霖爆殺の呪縛に慌てふためき、疑心暗鬼の連鎖を生み出す醜態に通じる。
 昨今、その主犯をコミンテルンとする説も浮上するが、当時の日本の高熱症状を検診すれば、要因は治安維持法制定(二五八五)に端を発しており、三年後の改定によるヒートアップ著しい様は戦後GHQによるパージと同じゆえ、こんな暴力はコスモポリタンの発想でしか浮かびようがない。もはや支那大陸の実相は日本の運命そのものとなる。
 同年(一九二九)一〇月二四日の株価破綻は金本位制の崩壊を意味して、その恐慌(教皇も)は国際社会に前例のない影響を及ぼすことになる。関東軍高級参謀河本大佐の後任に石原中佐が赴任、東三省(満洲)軍閥は張作霖の子の学良が引き継ぎ、その支配地は南京国民政府の支配下に統合された。日本議会は調印済の不戦条約をめぐり、後々も侃々諤々の解釈論に明け暮れたが、その最大テーマが満洲における租借権に尽きることは疑いようがない。だが、この課題も通説は千切取りでしかない。つまり、清国と日本の締結条約に満洲租借権があり、のち南満洲鉄道設立(一九〇六)など日本が施す政策は開拓のみならず、張作霖(地方軍閥)を支持、その経営に協力して、列強が力尽くで得た植民地政策とは完全に異なるのだ。
 不戦条約パリ会議で日本の全権大使(枢密院顧問官内田康哉)はその経緯を説かず、本音が異なる条約規定に調印してしまう。今さら国内で井の中の蛙に斉しい鳴声を発しても、国外に通用するはずもなく、張作霖の後継が南京国民政府に統合されるよう仕掛けを施せば、後は不戦条約という国際法の玉虫色ワードも自在に操って日本の満洲租借権を無効にするなど簡単な話だったのである。

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