修験子栗原茂【其の二十九】真田家の家督継承と甲賀流シノビ衆

 さて、そろそろ甲賀シノビ集団が精神的支柱にした道真流美濃部家の本領に触れるとする。

 なぜかというと、将軍三代目の義満に触れたら一篇のスペースが必要になり、本稿テーマに触れるチャンスを失いかねないからである。義満の治政は全盛期の佐々木流をたしなめる事にもなり、その戦略を補うために潜伏を旨とした奉公シノビ衆を歴史に浮上させる事を意味していた。

 閑話休題(しゃめんしばらく)、ただ今(令和三年七月四日)さる筋から、「宇和島藩主家と信濃松代藩主家との関係を検めると述べながら記事が途絶えている」とたしなめられてしまった。

 本文150ページ目の記事を指しており、自らの額を叩き冷や汗したところである。

 つまり、伊達家と真田家の家督継承を説かないまま、記事を天明年間の世界情勢へ運んでしまった失態のことであり、読者には深く御詫びするしだいであります。

 戦国武将の印象が大きすぎるため、古代まで遡る真田家は世に知られないが、この系譜が突然この世に出現するなど有りえない。その証左が真田家の断絶を避けるため、信之系の断絶を宇和島伊達が補完した事実にあり、それだけは記事にしておかなければ文責を免れない。真田昌幸は三男ゆえ家督継承に無縁ところが兄の信綱と昌輝が長篠で戦死そのため昌幸が真田家の家督継承者となった。

 昌幸は子の信之(信幸)と信繁(幸村)に家督継承を託すことになるが、戦国の世にかける保険は終戦後の建て直しに必要な國體を保全することにある。信之と信繁のどちらか一方が欠けても一方が生き残れば、日本伝統の國體は保たれると自負していたに違いない。

 信之は東軍に属して、信繁は西軍に属したが、その両者に気づかれないように、真田兄弟に対して分け隔てのない手を差し延べていたのは伊達政宗であった。結果、信之は徳川政権に必要かつ重大な戦力となり、信繁は潜伏を旨とする甲賀シノビ衆とともに泉下に潜むこととなった。

 上野沼田藩主を死守した信之は藩政を子に託したあと、徳川政権の意向で信濃上田藩の破却と共に信濃松城(のち城を代に改める)初代藩主として、享年九三歳の長寿をまっとうしている。ただし、日本全土を東西に二分した戦後の建て直しは文字にするほど簡単なことではない、その歪みはいつか必ず表面化するのが世の習いであり、それは最重要な家督継承に現れるのが歴史の訓えである。

 以下、信濃松代藩主の歴代を生没年および続柄を加えて列記しておきたい。

 一、信之(一五六六~一六五八)真田昌幸の長男

 二、信政(一五九七~一六五八)信之の二男

 三、幸道(一六五七~一七二七)信政の六男(五男とも)

 四、信弘(一六七一~一七三七)信就(のぶなり)の七男

 五、信安(一七一四~五二)信弘の三男(四男とも)

 六、幸弘(一七四〇~一八一五)信安の長男

 七、幸専(ゆきたか一七七〇~一八二八)近江彦根藩主井伊直幸の九男

 八、幸貫(ゆきつら一七九一~一八五二)松平定信と側室の長男(十一日後に正室の子が誕生した事から通史の続柄は二男とされる)水野忠邦の抜擢で外様から譜代そして老中に昇っている

 九、幸教(ゆきのり一八三六~六九)幸貫の孫

 十、幸民(ゆきもと一八五〇~一九〇三)宇和島藩主伊達宗城の長男

 見出しだけなら右の通りであるが、戦国期を脱した真田家の後遺症は見出しの数万倍を費やしても語りきれるものではない。とはいえ不本意ながらダイジェストにせざるをえない。

 元和八年(一六二二)信濃松代に加増移封されたとき、信之の所領は沼田三万石を加えて大凡十三万石に達しており、長男信吉を沼田藩主二代目に据えること、二男信政を伴い松代に赴き領内一万七千石を分知のうえ信政を大名に列すること、この決行は信之ゆえの深謀遠慮だったのだろうが、のち生じる現実は苦難の連続となった。それはまた國體の國體たる由縁ともなるのである。

 寛永十一年(一六三四)沼田藩主二代目信吉が死去(享年四〇歳)、長男熊之助三歳が家督を継ぎ四年後(一六三八)七歳で早世したという。その後継は熊之助の弟四歳で信利(一六三五~八八)と伝わるが、時に信之七三歳、信政四二歳に当たり、二十年後には信政と信之が相次ぎ死去する。この予測不能な出来事に重なるのが、父昌幸と弟信繁との通牒を担ったクグツの存在であった。

 東西二分化に際して、昌幸と信繁(幸村)が西軍に属して、信之が東軍に属した事は前記した通り國體の為すべき保全の策であるが、そこには両者の通牒を担うシノビこの場合はクグツの存在あって成り立つこと、それが通史に言う謎の女「小野お通」と呼ばれる甲賀流クグツのことである。

 そして、お通の娘である宗鑑尼(生年不明~一六七九)が信濃松代藩主二代目信政の側室となって生まれた子が信就(生年不明~一六九五)とされる。信就(のぶなり)は将軍三代目家光(一六〇四~五一)に拝謁(一六四八)その後しばらくして勘気を被る出来事あり、家光薨去後(一六六五)に赦されると、同年十二月二十五日に寄合に列される。元禄七年(一六九四)七月十日付で致仕その十五か月後に死去したあと、長男信方(生年不明~一六九八)が信就の家督を継いだとされる。

 さらに、信濃松代藩主四代目に就くのが、信就の七男とされる信弘であり、その家督を継いだのも信弘の三男(四男とも)であり、私は何とも表現しがたいトゲに悩み謎を追うことにした。

 もう一つ遡るなら信濃松代藩主三代目の幸道にまつわる家督継承の騒動である。信之の長男信吉が沼田藩主二代目となるのは、父と二男が信濃松城へ発つ元和八年(一六二二)二八歳に当たり、のち寛永十一年(一六三四)四〇歳で死去その家督を継ぐ長男七歳で早世、その後継は二男四歳それゆえ沼田藩三万石の所領は松代藩主二代目と分割のうえ信政が沼田藩の責務も担うことにした。

 ところが今度は松代藩で似たような事が生じるのである。信政二代目の長男は側室(宗鑑尼)との間にもうけた信就であり、信就は将軍家光の勘気に触れ家督継承のチャンスを失ってしまう。家光が薨去したあと赦された信就は勘解由家を創建その祖となっている。いわば信就は信繁のち幸村と改名九度山に籠った弟と信之の絆を保つ忘れ形見ともいえる。

 宗鑑尼も優れ者であるが、その母は土師流道真の訓えを骨の髄まで沁み込ませたクグツゆえ、その絆を真田家の血肉に加えようとした信之の念は私にも痛いほど滲み込んでくる。こうした念を遺産に成り立つモノゴトを家督と言うのである。

 信就が将軍の勘気に触れた事で家督継承のチャンスを絶たれた信之九二歳と信政六一歳は、最後のチャンスとして、信政の還暦に因んで生誕した六男(五男とも)幸道を信濃松代藩主三代目にすべく決した。過酷な廻り合わせは幸道二歳すなわち翌年のこと、信政死去その家督継承に対して、今度は沼田藩主三代目信利の家臣団から、かつて沼田藩が味わった苦難の意趣返しが起こった。

 沼田藩の抗議は初代藩主信之が幸道を後見する事で一瞬は鎮まったが、直後に信之も死去そのため騒ぎは前にも増して大きなものとなった。さすが真田家の人材に不足はなし、信之に代わって後見を担ったのは内藤忠興その艱難辛苦は表現しようもなかったろうが見事な善政で事を治めたという。

 成長した幸道は父信政に勝るとも劣らない苦労人としての大仕事をこなしている。領内の検地から江戸城普請さらに朝鮮通信使の饗応役など相次ぐ出費は藩財政の悪化を積み上げてやまない。それを苦とせず、叔父昌親(信幸や幸村の弟)の三男信親へ新田二千石を分知、信親は信就の七男に当たる信弘の養子中継役となり、幸道は信親を経由のうえ信弘を養嗣子に迎えて家督を継がせている。

 つまり、武田氏崩落後の真田家は昌幸の深謀遠慮に始まり、信之と信繁の兄弟が弟たちを含め伊達政宗の庇護下のもと、見事な自立と共に土師流道真の遺訓を活かしきったのである。

 さて、執筆を美濃部家にしぼるとするが、本稿に登壇する土地柄、家柄、人柄は総合的に何らかの相関性を担っており、その基軸は言うまでもなく神格天皇に支えられるのであるが、その奉公衆たる國體の理念もまた絶たれる事のない強い絆にまもられている。

 菅原家は大江(大枝)家・秋篠家と共に土師氏の分流であり、土師氏の祖は野見宿禰(天穂日命の十四世孫)で出自は出雲とされる。

 アメホヒのミコトはアマテルとスサノオの誓(うけひ)の際に生じた男神五柱と女神三柱のうちの一柱であり、アマテルの角髪(みずら)に巻いた勾玉から成った物実(ものざね=物体全部に関わるタネ)の持主で第二子(アメオシホミミのミコトの弟)にあたり、その使命はアシハラのナカツクニ平定のため、出雲のオホクニヌシの元に遣わされたが、オホクニヌシに心服して住みつき、高天原に戻ったのは三年後になったという。

 のちアメホヒの子タケヒラトリ出雲へ遣わされ、オホクニヌシの子コトシロヌシやタケミナカタと和合に成功すると、そのままオホクニヌシに仕えるよう命じられたという。以後タケヒラトリは出雲国造の歴代から祖と仰がれるが、垂仁天皇(第十一代)のとき、大和の力自慢である当麻蹴速(たいまのけはや)の対戦相手として、出雲の力自慢が呼ばれ角力(当時は蹴り合いが主とされた)をとる事になり、出雲の力自慢が勝利して当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を拝領したという。

 この出雲の力自慢は当時の風習だった葬送殉死に当たって、埴輪を以て代える事を発案それが受け容れられ野見宿禰と認められ、代々天皇の葬儀を司る土師臣を賜ったという。以後この土師氏を継ぐ系に生じるのが、百舌鳥古墳群(現大阪堺市)が本拠の大枝氏、宝来山古墳群(現奈良市尼辻町)が本拠の菅原氏そして佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群(奈良市北西部)が本拠の秋篠氏で、この三家分流がまた後世の奉公衆として今に家督を継ぐとされる。

 藤原基経(八三六~九一)享年五六歳と長男時平(八七一~九〇九)享年三九歳の生涯に対比的な鑑識は酷かもしれないが、どちらも身に余る責務を担った事は共通している。基経は道真が居た事で救われているが、時平の悲運は道真が去るのを止められなかったこと、そればかりか追いやる方向に加担した決断は苦労を知らないためと断じられても仕方あるまい。

 道真没(九〇三)後の政治抗争としては、瀬戸内で決起した藤原純友(八九三?~九四一)と東国独立を標榜した平将門(九〇三?~四〇)の乱が同時代に生じており、純友の祖父遠経は基経の兄、純友の父有範と時平は従兄弟、ただし、純友が瀬戸内で海賊の頭目(九三六)となり、畿内侵入(九三九)から大宰府襲撃(九四〇)の際は時平の後の藤氏長者を継いだ弟の忠平(八八〇~九四九)が政権をリードしていた。その施政を延喜の治と言うが元々の献策者は道真である。

 忠平の後継は長男実頼(九〇〇~七〇)と二男師輔(九〇九~六〇)が協調あるいは競い合う中に天暦の治と称される経世済民を行ったとされる。ただし、この兄弟は生母が異なっていた。天暦とは村上天皇の年号であり、醍醐天皇の年号と併せ延喜・天暦の治とも呼ばれる。

 一方、純友が大宰府襲撃で命運が尽きた同年内に討伐された平将門は別名を坂東の虎と呼ばれ神田明神ほか各地の神社に祀られている。この将門を討った武将を藤原秀郷と称している。

 秀郷(八九一~九五八)の出自ほど多くの説あるのは何ゆえだろうか。どうあれ、源氏や平氏とは一線を画する武家の棟梁となった秀郷の氏姓鑑識は必ず記事にしなければならない時がやってくる。今は美濃部家を優先したいので見送るが、奥州藤原京(一〇八七ー一一八九)と、治承四年(一一八〇)から元暦二年(一一八五)までの源平戦と共にお預けとさせてほしい。

 道真没後に続く政治抗争は公家から武家への移行期ともみられるが、私は戦記物が大嫌いで事由は権力に群がる御用学の脚本が実に賤しく思えるからである。

 殺し合いは平和主義を唱える野次馬のように生易しいものとは異なり、自分が生き残ったとしても殺した相手の鎮魂は生涯つきまとって解放されないのだ。

 甲賀流シノビ衆にしても、伊賀流シノビ衆にしても、当該者たちの自覚は潜在を旨として、政体に関わる場合にはそれ相応の仕度を整えるため、数年を要する時もあれば、数代にわたって数十年もの時を要する場合もあると教えられた。

 まず通史(私見あるが、ここではコメントしない)に刻まれる甲賀五十三家に触れておきたい。

 望月家(出自は信濃佐久郡望月の豪族のうち一部が移住したとされる)筆頭格とされ、出雲守の旧居が甲賀流(著名人多数)忍術屋敷として今に残るが観光用に使う場合もあるという。

 柏木三家(山中家)代々が鈴鹿山警固役に任じた大身で著名人多数を輩出している。

 柏木三家(伴家)大伴氏末裔、鎌倉ご家人の家柄(分家筋に大原・上野・喜田あり)で本拠地を伴中山城として著名人多数を輩出している。

 柏木三家(美濃部家)菅原氏末裔、本テーマの主役ゆえ後記詳述するが、吉薗周蔵手記に載る呉秀三(一八六五~一九三二)と美濃部達吉(一八七三~一九四八)は箕作系で結ばれている。

 北山九家(黒川家)著名人少数を輩出している。

 北山九家(頓宮家=とんぐうけ=行在所)

 北山九家(大野家)

 北山九家(岩室家)

 北山九家(芥川家)著名人少数を輩出している。

 北山九家(隠岐家)大身六家のうちの一家にあたる。

 北山九家(佐治家)著名人少数を輩出している。

 北山九家(神保家)

 北山九家(大河原家)

 南山六家(大原家)大原家庶流の篠山(ささやま)景春が知られる。

 南山六家(和田家南山六家(高峰家))

 南山六家(上野家)

 南山六家(高峰家)

 南山六家(池田家)大身六家のうちの一家にあたる。

 南山六家(多喜=滝家)中村一氏・多喜環八・瀧飛騨守など瀧家一族説が生じている。

 荘内三家(鵜飼家)

 荘内三家(内貴家)

 荘内三家(服部家)

 小泉家 倉治家 夏美家 杉谷家 針家 小川家 大久保家 上田家 野田家 岩根家 新城家

 青木家(大身) 宮島家 杉山家 葛城家 三雲家(大身) 牧村家 八田家 高野家 上山家

 高山家 守田家 嵯峨家 鳥居家 平子家 多羅尾家 土山家 山上家 相場家 長野家 中山家

 以上、甲賀五十三家のうち、柏木三家、北山九家、南山六家、荘内三家の甲賀二十一家が一般的に知られる甲賀流忍術の中心的家柄とされている。

 合戦に命運を託す武士の殺し合いは「俺がオレがの世界」であり、殺してナンぼ、死んでナンぼのサバイバル、その渦中にソロバンを弾く暇なんぞないであろう。すなわち、当初の打算は消え去って損得なしの殺し合いのみ、映画や芝居の娯楽ものとは断じて異なる修羅場の繰返しだけ…。

 平氏敗北年(一一八五)のあと、鎌倉期の開府(一一九二)、後醍醐天皇親政(一三二一)、のち隠岐配流(一三三二)その道中警護を担った武士は京極道誉(一二九六~一三七三)、巷間バサラと呼ばれた道誉の毀誉褒貶を支えたのが甲賀流シノビ衆ではなかったか。つまり、美濃部郷に浸透した道真の遺訓が甲賀シノビ衆に沁み込むまで約四百年すなわち美濃部家創建(九二六)から道誉が隠岐配流となる天皇警護に任じられるまでの間を指している。

 後醍醐天皇(一二八八~一三三九)は父帝が後宇多天皇であり、九州大宰帥(一三〇四)歴代中の英明君主で帥宮(そちのみや)様と親しまれる神格であり、世界最大かつ圧倒的数量二百二十か所を超える荘園(八条院領)最後の保有者ともされる。その経済基盤を活用すれば、院政を廃した父帝と自らの意で成る親政は必ずや國體との合一を達成したに違いない。

 しかし、有職故実に長じた神格天皇は聖地(荘園)を穢すことないまま、親政と國體の二元制から成る伝統日本の未来図を護良親王に託して崩御されたのである。(八条院領は公金として寄贈)

 それが何ゆえ甲賀シノビ衆と関係あるのか、その証が浮上するのは江戸期まで待ってほしい。

 ここでは後醍醐天皇が道誉(道真ほまれ)と甲賀シノビ衆に詠んだ御製を紹介しておきたい。

 隠岐配流の警護役当時の道誉は一介の佐渡判官にすぎない弱小身分であり、天皇方の勢力に襲撃を受けたら自分さえ殺されかねない。而して、必要なのは道誉の警固を担う他に知られる事のない甲賀シノビ衆にまもられ、その甲賀流を率いたからこそ道誉は警護役に抜擢されたのではないか。後醍醐天皇はそれを知る有職故実に長じたからこそ、道誉にも甲賀シノビ衆にも通じるように御製を詠んで思いを伝えた、それが現代に伝わる後醍醐天皇の御製集になっている。

 後醍醐天皇の御製集『増鏡』から「久米のさら山」の人を労る歌の中にあるー佐々木道誉へー

 しるべする道こそあらずなりぬとも 淀のわたりは忘れじもせじ

 大凡の意味するところは、道誉よ、あなたが私を囚人として護送する道は、私が天皇だったそのむかし石清水八幡宮へ案内してくれた時とは、全く違ったものになってしまったね。そうだったとしても、この淀の渡し場は、あの時と変わらないのだから、私と同じくあなたもあの懐かしい日々を、きっと忘れてはいないだろうね。

 元弘の乱の初戦に敗北したのち、鎌倉幕府に捕まって隠岐国へ向け京都を出立した元弘二年(一三三二)元徳四年(北朝年号)三月七日、道中を先導する武士の佐々木道誉に向け詠んだ御製である。足利尊氏の側近バサラ大名として権勢を誇る道誉も、この頃はまだ一介の佐渡判官に過ぎなかった。後醍醐天皇は人の資質を見抜く神通力あり、地位の上下に拘らないため、昔日、石清水八幡宮へ向け同天皇の案内役に任じた当時の道誉を正確に記憶していた。その往時を懐かしく思って道誉と甲賀流シノビ衆に親しく語りかけた御製なのである。

 もう一つ、征夷大将軍に昇った足利尊氏が後醍醐天皇を偲ぶ著の末尾一部を転写しておきたい。

 後醍醐天皇崩御百日目に著した尊氏の「後醍醐院百か日御願文」訳であり、「陛下の聖霊は、この千五百秋之神州である日本より出でて、すみやかに阿弥陀如来の宝座へと向かわれるでしょう。三十六天の仙室へは向かわず、直ちに常寂光土、永遠の悟りを得た真理の絶対界へと到達なさる事でありましょう。そして、仏への敬いが足りない者に至るまで、あらゆる民を八正道へ、すなわち涅槃へと至るための正しい道にお導きになるでしょう。弟子 征夷大将軍正二位権大納言源朝臣尊氏 敬白」とあり、平成十二年(二〇一〇)以降の史学界に大きなうねりを起こした。

 従来、建武政権を悪評してきた勢力までもが、真逆の再評価を行う掌返しに転じたのである。

 後醍醐天皇の事績に痕跡が認められる甲賀シノビ衆と美濃部家については、追々記事にしていくが史上に現れる甲賀シノビ衆は「鈎の陣」とも言う長享・延徳の乱にクローズアップされる。

 応仁の乱が収束(一四七七)されると、各地で守護や国人らの荘園横領が拡大していった。後醍醐天皇が寄贈した八条院領の始まりは、鳥羽院東殿仏堂の後身安楽寿院を軸として、鳥羽院領と美福門院領を相続した八条院暲子(あきこ)内親王の所領からとされる。八条院は二条天皇の准母その異母弟以仁王(一一五一~八〇)の猶母となり、八条院領を以仁王(もちひとおう)の後ろ盾にするかの如くみられたが、以仁王が先に薨去したので以後も天井知らずに増大していった。

 増大した荘園の規模は相続した安楽寿院領四八か所のほか、八条院庁領七九か所、歓喜光院領二六か所、蓮華心院領一五か所、真如院領一〇か所、弘誓寺領八か所、智恵光院領五か所、禅林寺今熊野社領三か所などの御願寺社領を含む二二〇か所以上に達したとされる。

 これら所領は八条院春華門院昇子内親王→順徳天皇→後高倉院→安嘉門院→亀山院→後宇多院→昭慶門院嘉子内親王→後醍醐天皇の順に継承のち政体へ公金として寄贈されたのである。この神聖なる荘園の横領を現世が指弾できるだろうか。地上げで含み資産を大きくしたあと、株式公開で紙切れを通貨に換金そして再び地上げした含み資産で業績を誇る行為のどこが違っているのだろうか。

(つづく)

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