修験子栗原茂【其の一】

落合本の読者で修験に関心をもつ方々の志を大変うれしく思います。

 以下の与太話が参考になればと執筆に及びました。

 先生を師と仰ぐ栗原茂は還暦を過ぎてから、自らを修験子と認識するようになりました。とはいえ落合先生以外では他に自称したことはありません。私が修験子を自負した事由は、私の父親が四国山脈の石鎚山で三歳から九歳までの間、古希を越えた祖父に修験道の訓育を受けた事に起因します。

 祖父と父は血縁ではありません。天保十年(一八三九)生まれの祖父は、愛媛県温泉郡荏原村(現松山市上野)の産で栗原友次二男として当該地に育まれました。家督を継ぐ長男が偉丈夫だったことから、身軽な二男坊として、幕末維新の時代を燃え滾る炎のように生きたと思われます。幼少時から石鎚山の修験道場で鍛えたようで、後年には丹波の出口清吉も来たと伝わります。青年期には時代の大転換期を象徴する京都を躍動の場としたようです。

 江戸の火消し頭でのち徳川慶喜に随従する新門辰五郎(藤堂高虎庶流)が上京したとき、会津藩の京都屋敷に出入りしていた通り名を会津の虎徹と呼ばれた侠客とともに、辰五郎から兄弟分の下がり盃を受けたとも伝わります。どうあれ、鳥羽伏見の戦においては、虎徹とともに戦死した会津藩士の遺品を収集して、官軍の目を盗んでは遺族の手元に届ける事に従事したようです。

 維新政府の幕開けから西南の役までの間、再び石鎚山に籠った祖父(常吉)は、常吉家を創設する未来設計に取り掛かります。常吉は自分一代と妻帯忌避を通してきたが、明治二十二年に郷へ帰ると義侠の友が死んで、未亡人と嫁入りも間近な年頃の娘が生活苦に困窮していた。栗原の家督を継いだ戸主長男家から分籍した常吉は、翌年未亡人と娘を常吉家へ入籍、五年後には義侠で結ばれた友人の家へ嫁入りさせている。未亡人は娘の嫁入り七年後に孫の顔を見て永眠したという。

 他方、救済した娘の嫁入りを済ませた翌二十九年、常吉は県内宇摩郡(現伊予郡砥部町)の旧家で代々が神職を継ぐ真鍋氏の分流平吉家から養子を迎え入れている。養子は二男源五(同九年生まれ)そして翌三十年に伊豫郡原町村大野家の娘トラヨ(同六年生まれ)との婚姻を済ませた。すなわち、栗原常吉家の血脈は真鍋氏と大野氏へ受け継がれたわけである。私の父秀孝(同四十一年生まれ)は源五とトラヨの子七人(男五女二)中五番目にあたり、祖父常吉七十二歳は秀孝三歳を伴い石鎚山に籠ったそうである。以後、常吉七十八年の生涯を閉じるまで二人は修行に徹するが、のち常吉の遺骸を背負い秀孝九歳が親元に帰ったのは大正六年であった。

 閑話休題、秀孝の血脈で神職真鍋氏の本流を出自とする八千代(一八九四~一九七五)に触れておきたい。甲州の素封家田辺氏の宗英(一八八一~一九五七)は、兄とその息子が衆議院議員、異母兄小林一三(一八七三~一九五七)など、著名人多数を輩出した家に生まれ、真鍋八千代とは兄弟分の契りを交わしていた。宗英は関東八州に睨みを利かす顔役で実業家として知られ、正力松太郎(一八八五~一九六九)に依願され、真鍋八千代をパートナーにプロ野球スタジアムを創設している。

 神職真鍋氏が出自の八千代は維新変革の渦中、幼少期一族郎党と共に開拓団として、北海道に移住のち苦難の生活を乗り越え東京へ進出して弁護士となった。後楽園スタジアムを創設すると、宗英が初代社長となり、八千代は監査役で顧問弁護士に就任している。出資者には小林一三はじめ実業界の

 重鎮が協賛しており、日本初の本格的プロ野球場は、米国メジャーリーガーのベーブルースなど超級選抜チームを招聘したうえで、日本選抜チームと華々しいお披露目ゲームを開催したという。

 宗英と八千代の事業構想は野球場創設に限られなかった。それは現在の東京ドームシティを見れば明らかなように、都市型複合レジャーランドを視野に含んでいたのである。役人天国の時代到来後にスポーツ型ギャンブル事業は国営や公営に横取りされたが、以前は後楽園競輪場も増設され、熱海の後楽園ホテルなど時代の先駆けを担っていたのである。宗英没後に八千代は後楽園スタジアム五代目社長に就任、ほか日本ボクシング二代目コミッショナーでWBA終身名誉会長など、プロ野球はじめスポーツ界や映画界など、日本興行界の発展に大いなる遺産を築いていた。

 私が真鍋八千代七十歳から多くの秘話を聞かされたのは結婚直前二十四歳のときであった。秀孝が私を伴って八千代に引き合わせたときは二十歳であった。私の経歴は後述するが、八千代の秘話こそ修験子になるべくしてなった私のガイダンスそのものになっている。

 以下、前段に戻るとする。

 秀孝二十歳が東京駅に降り立ったのは昭和二年の春だった。秀孝の上京前に仕組まれた事か否かは本人も答えなかったが、私は後年どちらとも思える裏付けに出会う機会に恵まれている。それはさて上京した秀孝は東京駅の次に丸の内警察署へ移動している。それも留置場内で事由は喧嘩沙汰による身柄拘束であり、けんか相手は佃政一家の若衆三人いずれも病院おくりにされた。当時の佃政一家を語ればキリないため省略するが、秀孝の身柄引取人は佃政一家の代貸三浦繁二郎親分であった。

 東京は江戸城開府後の土地拡大策によって、埋立てに次ぐ埋立てを続け大都会になった。東京湾に流れつく隅田川の河口には、佃島と石川島という中州があった。臨海部の堆積は次第に中州を広げる事にも通じるが、埋立地拡大は政策上の造成が圧倒的な進運のカギとなり、現代の月島・晴海・築地などの一帯も埋立地がほとんどである。その歴史的過程にあって、地域一帯の顔役で台頭した一人に金子政吉がおり、佃政一家の名で縄張りを広げていった。

 埋立地の造成事業を取り仕切り、当該地周辺の全域に顔役の名を馳せていったのが、行政の一端を担った明治時代や大正時代の侠客で佃政一家の名も関東一帯に知られていった。代貸の三浦繁二郎は佃政一家三代目で実質上の二代目とも伝わるが、丸の内警察署から秀孝の身柄を引き取ると、住居や就職先まで斡旋してくれたそうである。

 大正天皇の大葬礼に始まる昭和初期の東京は、関東大震災の復興課題を抱えつつも、摂政時代から稀有の存在感を示した昭和天皇が大嘗祭に臨む時世の大転換期でもあった。以後の秀孝が最初に得た資格は大型自動車の運転免許で、取得すると、直ちに京成バスの運転手に転職したという。千葉県の中枢部を走る路線バスを運転しながら、秀孝の思いは東京にあり、その旨を三浦に打ち明けたが返事は「もう少し待つように」とのことであった。

 秀孝は「同じ言葉を再び繰り返すな」という訓えが修験の世界だと私に言い遺している。二・二六事件が一段落すると、三浦から東京都交通局へ出向けとの報せがあり、局長室に通されると「やがて都バスの運転手になってもらう」と言い渡されたそうだ。どうやら一連のクーデターと思われるガス抜きが落ち着くまで、秀孝を東京に置いておきたくない事情があったのだろう。この憶測は私が思うところで秀孝は何も語ってはくれなかった。

 都バス運転手にトラバーユした秀孝が命じられたことは、足立区内の千住車庫に勤務する就労者の労組専従者になること、昭和十二年の人事で配属されたそうである。つまり、労働組合支部への潜入工作を命じられたわけである。ちなみに、秀孝の体躯は身長一五八センチメートル・体重六五キログラム前後を維持しており、骨格の偉丈夫は没後火葬に付したとき、最大の骨壺に入りきらず、砕いて納めた事から想像してもらえば分かるだろう。

 ちなみに、秀孝の晩期は還暦から享年八二歳まで、一酸化中毒で発症した脳閉塞の入院生活を自ら望んで退院しようとはしなかった。臨終前の重篤期間も実に半年を要している。

 秀孝の生涯を解明すべく私が最も手間取ったのは、昭和十年から同十五年までの間であるが、私の異母姉は同十一年に生まれ、生母すなわち秀孝の先妻は娘のひと誕生前に他界している。私の調べは戸籍謄本の入手を前提としており、先妻の親家系までさかのぼっていく。秀孝も隠す事なく、先妻と異母姉を自分の父が戸主の籍に入れており、同じ戸籍に私の生母も登記されている。私の生母は初婚で後妻にあたるが、婚姻前から乳飲み子を養育した事情を明かさなかった。

 つまり、先妻の入籍は同十一年の異母姉出生一か月前、異母姉は出生一か月後に入籍され、先妻は同十二年五月末に死亡(除籍)、翌月に異母姉は生誕一年目を迎える。後妻の入籍は同十四年十一月とされ、翌十五年一月一日に私の実兄すなわち長男が生まれ、同月末死亡、翌十六年に戸主源五家の分家として秀孝家の戸籍編製、同年九月一日に二男すなわち私の出生が登記されている。同年十二月八日未明、大日本帝国海軍が真珠湾を砲撃して第二次世界大戦へ突入していく。

 同十一年の二・二六事件が鎮まってから、秀孝に「交通局へ出向け」の指示があり、同年六月に娘が生まれ生母は翌年五月末に死亡している。三か月後に京成バスから都バスへトラバーユ、その間に引っ越し先を決め、千葉県から東京都への移動を終えている。先妻は享年二二歳で親は埼玉県比企郡唐子村に在住していたが、若年死ともなれば相応の挨拶も必要だろうし、一方で引っ越し先の手配はもとより、最大の難関は乳飲み子の養育で容易に済む課題ではない。

 愛媛県から上京して九年目、数え二九歳に生じた回避不能の責務であるが、修験のネットワークが支援しなければ対応しようもあるまい。

 秀孝の後妻(つぎ)すなわち私の生母は東京荒川区尾久で生まれ、出生一年後に父が死去その同居遺族は母三七歳ほか長兄一六歳と次兄一四歳の四人になった。年長一八歳の姉は出生後すぐに母系へ養子入り、父没の翌年に協議離縁したあと、生家から南足立郡千住町の家へ嫁入りした。大正十二年八月に長兄が結婚、その二十一日後に発生したのが関東大地震である。家族に死者は出なかったが家は瓦礫と化し、私の母つぎ一二歳は伯父さんの家へ居候することになった。

 私の母つぎ二五歳のとき秀孝の乳飲み子に引き合わされる。年少一二歳から居候となった身の上が如何様なものか、当事者でなければ知りえないが、私が聞いても何も答えようとしなかった。晩年の母つぎは「東京大空襲(一九四五)の爆撃で死んだ母親を引き取りたかった」と呟いた。この一言で私は瞬時に覚ることができた。それは同性の母を思う娘が心に秘める「ナミダ」なのである。私には落合先生と同等の敬愛で結ばれる盟友がいる。本姓は石川恵一その法号は釈恵念、埼玉県草加の地に大慈悲山白蓮寺を開山しており、聖徳太子と親鸞聖人に帰依した現代に得難い真心の僧である。

 恵念師は「私たち僧が初めて出会う人々は、その方々が人生で最も悲しい涙を見せる時です」との法話を丁寧に語りつくしてくれる。さらに「現世に涙が涸れたとき、私が人々から頂戴したナミダを現世にお返しいたします。そのナミダは永遠の愛で究極の愛でもあります」と諭すのである。

 同性の母を思う娘が心に秘める「ナミダ」とは恵念師が説く「愛」であり、私の母つぎの呟きとは運命という計り知れない計らいの事を指しているのだ。それは父を知らずに死に別れ、大震災は年少一二歳の少女を母から引き離し、居候生活一四歳からは織物工場で働く身の上、花嫁なんぞは夢また夢の絵空事、突然ふってわいたのが乳飲み子の養育、秘めたるナミダは、秀孝が望む結婚に応じれば実兄と同居の実母を引き取れるかも知れない、これを世間は打算と言うのであろうか。

 母つぎを打ちのめす命運は右にとどまらなかった。実兄宅から母を引き取り同居できるだろうかと秀孝にうちあけた。秀孝は「それは必然のこと」と即答した。同十四年に新生活の住居を決めて母を引き取る矢先、実兄の妻が死去、母の手を借りる子が遺されたゆえに転居は先おくり、すでにつぎの胎内には秀孝との子が宿されており、年明け元旦に元気な産声を発する男児が授けられた。苦難から脱したと思えたが、希望と期待をもたらした子(誠)は僅か一か月で天国に召された。

 他方、交通局における秀孝の潜入工作は、本人の資質に与るところ大とみなされ、有力人士の協賛出資で事業会社が設立されるや、代表取締役の地位は秀孝に委ねられる。私は兄の死去から十九か月後の出生だから、母つぎは兄の死後九か月目に受精したことになる、これら尋常一様ではない衝撃の連鎖を超克したエネルギーが気になってたまらない。

 ともかく、昭和十年から同十六年の間に遭遇した秀孝の経歴は判明しえた。私が特殊な調査能力を有するには相当の援助があって為しえると思ってほしい。日本最大の個人情報を収納した行政機関は当時の自治省総務であろうが、旧内務省が所管した警察ファイルを引き継いでおり、その史料一部の検索なら警視庁所管のファイルで十分に用が足りえる。むろん、伝統的シンジケートの信頼なければ密偵は不能であり、首相といえども簡単に通過できるルートではない。

(続く)

 

 

 

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