修験子栗原茂【其の四十八】JFKと花見弘平の密命

 協定世界時すなわち時間を征する事は文明そのものを征した事にも通じており、その資金源になる時代の寵児はモータリゼーションに尽きるのであり、それが私の初夢にもあらわれたのである。

 ドルとゴールドの兌換停止を可能としたのはオイルマネーであり、オイルマネーを生み出したのはモータリゼーションであり、リチャードをスターにしたテレビを繫栄させたのも、コンピューターを普及させたのもモータリゼーションであり、世界中の道路と共に都市化インフラ整備を促進したのもモータリゼーションに起因している。

 つまり、国際政治も高度経済成長もモータリゼーションに支えられたのである。その対発生は地球生命を脅かす環境汚染化と寒暖激化の気候変動にあらわれ、天災と言うよりは人為的な文明信仰から起こった対消滅のようでもあるが、こうした私の自覚も一般には筆舌のみに限られている。

 下院三期(一九五〇)リチャードは、共和党上院議員ジョセフ・マッカーシーが「赤狩り」旋風を巻き起こしていた時代にあり、リチャードは「反共の闘士」と呼ばれる特攻隊の先陣を担っていた。テレビに後押しされたリチャードは、二年後(一九五二)に移る上院議員三九歳の若さで副大統領の座を占めるが、それらの背景には米国メディアの激震が色濃く反映していた。

 即ち、テレビの抬頭により、マスコミの盟主だった新聞の地位が崩落の危機に瀕したのである。

 テレビの申し子リチャードの「チェッカーズ・スピーチ」は周知のネーミングであるが、テレビは政治活動を支える資金集めに大いなる効能をもたらし、その広告塔たるリチャードの演説は飛躍的な支援金コミュニティーの形成に拍車をかけたのだ。

 一方、赤字経営と嫉妬心に燃える商業メディアのサバイバルとしては、古来、商業メディアの常套手段とされる「カネとセックスにまつわるスキャンダルのネタ」を用いるほかなくなった。それらのスキャンダルは揣摩臆測を交えた針小棒大を常とするが、狂気を好むヤジウマにすがる新聞や雑誌はサバイバルのみが関心事にすぎない。而して、カネとセックスにまつわるスキャンダルの手ごたえを知る商業メディアは、その矛先をリチャードつぶし一点に絞り始めたのである。

 共和党リチャードの四年後に生まれた民主党ジョン・F・ケネディとリチャードの経歴は海軍から政界へ身を投じたこと、党派は違っても下院の同期生のち大統領選で一戦を交えるライバルとなった事など、その運命的な類似点を見出すことに労苦はいらないが、この二人が敬愛してやまない共通の日本人が居た事は一部の記憶にしか伝わっていない。

 その日本人とは花見弘平(一九〇九~九四)で海軍兵学校の第57期生として記録がのこる。第二次世界大戦の真っ只中(一九四三)八月二日(午前二時半ころ)ソロモン諸島の海域にあって花見は駆逐艦「天霧(あまぎり)」艦長として、米海軍魚雷艇十四艘の群がパトロールする中でケネディが艇長だった魚雷艇と遭遇その際に衝突のうえ撃沈せしめた。

 以下ケネディ手記の要訳ほか、本事案の関係記事など検証したのち、私が高松宮殿下から教わったアメリカンドリームと日本との関係を私自身の主観で記事にする事を決した。

 まずはケネディ手記から要約していく。ソロモン諸島ニュージョージア島の西域において、日本の海軍艦隊が行う輸送業務を妨害すべくケネディ艇長の魚雷艇は他の十三艘と出撃したが、深夜に至るパトロールも敵を発見できないまま基地へ帰還しようとした。その帰路のこと魚雷艇PT.109は日本海軍の駆逐艦「天霧」と不意に遭遇して衝突された。

 次は日本側の記事から要約してみる。天霧が所属する第十一駆逐隊の司令は山代勝守大佐で当該の時刻たまたま天霧に座乗していた事が判明している。艦長の花見弘平は少佐であった。前記の日時に帝国海軍の駆逐艦「天霧」は輸送任務を終えソロモン諸島海域を帰航中だった。見張員が一キロ先の黒いモノを発見、天霧は第五戦速三十ノット(時速50キロ弱)、黒いモノは瞬く間に接近それが米海軍の哨戒魚雷艇と確認できた時点では接近しすぎて俯角が足らないなど砲撃は不能とされた。

 若きケネディ中尉が艇長の魚雷艇は最高速度四十一ノット(時速76キロ弱)を誇るが、日本軍の航空偵察を警戒して艇のエンジン三基のうち二基を停止、のこる一基で減軸運転その機関音を抑制して操舵していた。米側にとっても、会敵は突然だったので増速が思うようにならない。焦った乗組員は艇の甲板で火力を強化せんとして特別に換装した対戦車砲に弾を装填するため焦っていた。

 山代司令の言「魚雷艇が右わき腹をさらしていたので船尾をすり抜けようとした。衝突して相手が搭載している魚雷が爆発したら天霧にも被害が及ぶと懸念したからだ。」との記録がのこされる。

 山代司令は天霧の進路を左に執るべく「とーりかーじ」と指示したと言われる。

 直後、花見艦長は「おもかじー」と正反対の号令を発したあと、「もどーせー、取舵いっぱい」と言い直したと伝えられる。

 若きケネディの魚雷艇は右舷を見せたまま、吸い込まれるように天霧の艦首につっこんだ。基準の排水量1680トンの鋼鉄艦が38トンの木製艇に「衝撃戦法」を仕掛けた形となったゆえ魚雷艇は真っ二つに引き裂かれるのは当たり前のこと、十三人のうち二人の乗組員が戦死してしまった。

 のち山代司令は「単なる事故」と、花見艦長は「司令の『取舵をとれ』は聞いていないし、命令を変更したおぼえもない」と言い、今も戦史の謎として伝わっている。

 海中に投げ出された乗組員はケネディを含めて十一名、大破した船体の一部に身を潜めたケネディ中尉ら十一名は夕刻まで隠れたあと、負傷者を励まし命綱で括るとケネディは五時間かけて五キロを泳ぎ近くのプラム・プディング島(のちにケネディ島と名付けられる)に上陸したとされる。以後も島から島を泳ぎ接ぐこと五日目に上陸した際に島民に出会ったとされ、ヤシの実に友軍への伝言など刻んで届けてもらった事が後のホワイトハウスに飾られたヤシの実に示されている。

 下院三期目(一九五一)に来日したケネディは、明日は帰国という日程の中で花見に面会したいと願ったとされるが、当時の花見は福島県塩川町(現喜多方市)町長に就いており、公務の都合でケネディとの面会は出来ずに手紙での交誼が続けられたとされる。

 以後二人の親密な交流が語り継がれるうち、ケネディの娘キャロライン駐日米国大使が花見の妻で未亡人となった和子と濃密な面会(二〇一五)を行う公式公開の場も報道されている。

 つまり、戦争中に花見艦長の駆逐艦に撃沈されたケネディ中尉が大統領となり、花見少佐は郷土の町政首長となり、互いに殺戮も辞さない関係にあった二人が親密なペンフレンドになり、その二人が物故者となったあとも、ケネディの娘が駐日米国大使となり、父の魚雷艇を撃沈した敵国方未亡人と笑顔の面会で絆も新たに両家の交流を保つ美談で語り継がれるわけであるが、どうにも理解しがたい腑に落ちない白日夢が現実に広く伝えられるのは何ゆえだろうか。

 もはや両家の絆が日米の懸け橋と伝わるからには、深層を知る私は一般的に知られる情報を述べるエネルギーなど湧くはずないため、これ以上のコピーは読者に委ねるほかない。

 ところで…。大統領ケネディ明殺の証拠資料が公開されるのは二〇三八年とされている。 

 電脳コンピューター二〇三八年問題との符号に何某かの秘め事は潜んでいないのだろうか。

 御印が若梅の高松宮二九歳(一九三四)の海軍大学校(甲種学生三四期)入校は十一月十日、翌年十一月十五日に少佐、その五年後(一九四〇)十一月十五日に中佐、その二年後(一九四二)十一月一日に大佐へ進級している。高木惣吉(一八九三~一九七九)少将を信任し、側近に細川護貞(一九一二~二〇〇五)を擁していたが、宮様の近習は百姓多彩のカバネが限りなくいる。

 花見も宮様に仕えた海軍士官の一人で特にお忍びの同行役が多かった一人に数えられる。

 さて、ケネディと花見との密命を矮小化したアリバイ作りの真意は何処にあるのか、何ゆえ愚劣も極まりない作り話でアリバイを残さなければならないのか、深層これを解く事こそ落合先生が晩年に精魂を傾け洞察史観に邁進された事に対する私が為すべき恩返しの一つでもある。

 実に日本伝統の國體とは「そうしたもの」と導かれたゆえ私は修験子を自負しえるのだ。

 今は本筋のケネディを解くためにリチャードに触れねばならず、ニクソンを明らかにすれば自ずとケネディが明らかになるので、まずはリチャードのその後に戻って続けることにしたい。

 政治活動の資金援助は全政治家の常であるが、リチャードに敵対するメディアの偏向報道はカネに関するスキャンダルを捏造まじえて徹底的な攻勢キャンペーンを繰り広げていった。その異様な相を後年ソックリ真似るのが日本のテレビ業界であるが、アメリカではアイゼンハワーの選対が本命たる大統領選に悪影響が及ぶとリチャードを副大統領指名から外そうとする動きにまで達していた。

 近年トランプ大統領の再選を巡るアメリカの狂気も類似するが、人種の坩堝である移民国家の常が現行日本に根付いた事も、大半はテレビの病原菌が茶の間に浸透したからと思えないか。

 パソコンやスマホを使ったネットのやりとりもテレビの亜流にすぎないが、一方通行が双方向へと移るのもマインドコントロールの一環そのエネルギーこそ時間の周期性に秘められるのである。

 もとより、政治はアリバイを成立させる場であり、政党や政治家の公約などは既に企画されている施策をキャスティングに沿って配分している代物にすぎないのである。

 国民の大多数が望む政策を選挙で決するなんて信じ込むのは一般的投票者に限られるのである。

 米大統領選(一九五二)は共和党アイゼンハワーとリチャードの正副コンビに対して、民主党アドレー・スティーブンソンとジョン・スパークマン正副コンビが、覇を競い争ったが本選挙一般投票の五五パーセント・四十八州のうち三十九州を征した共和党に勝利の軍配が挙げられた。

 副大統領リチャードは初外交の地をキューバやベネズエラとして、そのまま南米諸国を回る日程を消化しているが、特にベネズエラ首都カラカスの反米デモは激しく暴徒化したが、逆にリチャードの冷静沈着かつ毅然とした姿は米国メディアの悪評を一掃する国際的な賞賛の嵐を巻き起こした。

 つまり、逆境こそ最大のチャンスであり、目前の評価を上回るには、遠目に評価される自分の姿を演出すれば良いわけで、すべからく信用を上回る力量など「ない!」と断言してもよいのだ。たとい信用を上回る暴力に追われたとしても、その土俵(場)を替えれば信用に勝るものなど存在すること有り得ないのである。その一端が郷土を追われても帰巣本能は生きている証になっている。

 それがケネディとニクソンに観られる僅かな違いともいえよう。要するに、ケネディは目前で死ぬ事あっても遠目で生きようとする國體的タイプであり、ニクソンは目前の酷評を遠目の賞賛に覆って生きようとする政体的タイプなのである。

 リチャードのアフリカ訪問も米副大統領としては史上初の事であった。着任一年後(一九五四)は前年七月の朝鮮戦争休戦協定や米韓相互防衛条約の発効年でもあり、同年十月五日~十二月十四日の間はジャパン、チャイナ、コリアの北東アジア方面からフィリピン、インドネシア、ラオス、カンボジアの東南アジアを経てインド、パキスタン、イランの西アジアを回って、オーストラリア、ニュージーランドのオセアニアに至るまで精力的かつ積極的な外交パフォーマンスを演じている。

 大統領アイゼンハワーは在任中三度の病気療養に見舞われ、その期間はリチャードの指揮監督下で臨時の大統領府となったが、正式な権限委譲は行われなかったという。政治に限らず権力者の周囲は特定グループが干渉する事は常だから、リチャードも得難い経験をしたはず、その事がリチャードの大統領在任年(一九六八)に挙行された娘ジュリーとアイゼンハワーの孫ディヴィッドの政略結婚と思うのであるが、それ相当の裏付けあるため揣摩臆測とは違うと断じておきたい。

 政界は政策利権に群がるロビーストやジャーナリストの筆舌とは完全に異なるのである。

 寄せ鍋の残り汁を飲み干して生きるが如き筆舌の徒を養うのもまたテレビの仕事ではないのか。

 私が東西冷戦構造をインチキと断じるのは、関東大震災追悼記念日に生まれ、約三か月後の真珠湾砲撃に始まる衝撃の日々に戸惑いながら、なぜか玉音放送で安堵のナミダにくれたこと、日本史上に初の現人神を仰いだこと、自分と同世代である戦争孤児と触れ合ったこと、銀座で半死半生になった経験など経てから、宮様の型示しと振る舞いに接する事が出来たうえでの自負によるのである。その裏付けとも覚る現実こそ米ソ間の「台所論争」で、ソ連第一書記ニキータ・フルシチョフ首相(一八九四~一九七一)とリチャードが演じた短期間の緊張緩和に観られたのである。

 米ソ文化協定(一九五八)の結果お互いが自国の博覧会を相手の地で催すことが合意された。一九五九年六月にソ連がニューヨークで博覧会を開催すると、その翌七月モスクワのソコーリニキ公園で米国の博覧会が開催された。副大統領リチャードはアメリカ博モスクワ展へ出向き、フルシチョフと共に会場見学を楽しみながら所々で意見交換を行っている。

 リチャード四六歳、フルシチョフ六五歳が会場内のハウスモデルの前にとどまり、都合四回に及ぶ所見をデスカッションした録画は後に両国で放送されることになった。

 モスクワの会場は三万平方フィートの施設に科学技術実験を収容したジオデシック・ドームを建て開催されたが、終了後にソ連政府はドームを買い取っている。

 リチャードに随行した中には、大統領の弟ミルトン・アイゼンハワー(前ジョンズ・ホプキンス大学長)や大統領スピーチライターのウィリアム・サファイア(後のコラムニスト)などおり、案内と司会を務めたサファイアは博覧会の広報も担当していた。

 台所論争とは会場内のキッチン・モデルの前に来たフルシチョフとリチャードの間で互いの主観を論じ合う即興が通訳を介して行われた事から名付けられたとされる。次の対談は会場内に設けていたテレビスタジオで行われ、その対談内容は英語とロシア語に翻訳のうえ互いにテレビ放送するべきと合意しており、その録画は私も宮様の許しを得て見させてもらっている。

 アメリカで三大テレビネットワークが放送したのは大統領選挙(一九六〇)の前年七月二十五日でソ連と約束した同時放送を反故にしてのことである。ソ連の放送は二日後であった。

 私は主義主張の是非を問うほど愚かな行為はないと自負しており、それは単なる好き嫌いに甘えるヤジウマの畜生論議に変わらないと断じている。

 口角にアワを滲ませ何も得る事ない討論はテレビの常であるが周波数のむだ遣いにすぎない。

 米ソ間で行った短期間の雪解けムードを演出した目的は何であったのか。台所論争を演出したのち翌年の米大統領選を干渉したとされるフルシチョフの噂の深層には何が潜んでいたのか。

 私が米ソインチキ体制と断じる裏付けこそ「米ソ文化協定」の深層に隠されているのだ。

 それがケネディとリチャードの二人が演じた大統領選一九六〇年バージョンであり、二十一世紀の狂気を演じた米大統領トランプ再選バージョンも類似ではあるが劣悪な役者では話にならない。

 名優ケネディには消える価値あったが、後のトランプなど消えても消えなくても、飽和の終末期に現れる淘汰の対象でしかない。アメリカンドリームだけでなく腐れ外道は消えるしかあるまい。

 さて一九六〇年代も緊張感みなぎるが、副から正へ転じるリチャードの予備選に立ちはだかるのは大富豪のネルソン・ロックフェラー共和党ニューヨーク州知事と思われていた。洞察史観を持たない単なるメディアの妄想であるが、ネルソンが自ら撤退する事をリチャードは解っていた。ケネディが民主党を背負って予備選を勝ち抜く事もリチャードには御見通しであった。

 前述しているが、副大統領時代に手を組んだFBI長官ジョン・エドガー・フーヴァーとのギヴ&ティークは、リチャードに秘蔵っ子と鬼っ子が憑りついたと同じ事を意味している。

 アメリカの政権史上もっとも謎に包まれた権力者こそエドガーその人である。表記エドガーとする事由はエドガーも仕えた第三十一代ハーバート・フーヴァー(一八七四~一九六四)大統領が時代を同じくしたからだ。エドガーは大統領フーヴァー生誕の二十一年後に生まれとされる。

 先に正体を明かしておく。四重スパイのリヒャルト・ゾルゲ(一八九五~一九四四)と同類の系に属するが、紀元前八世紀ころオリエントを席巻したスキタイが忽然と消えたあと、その末裔がコスモポリタンの潜入スパイを養成のため、ウクライナに設けたキャンプ出身のキャリアと教わっている。エドガーが仕えた大統領は第三十代カルビン・クーリッジはじめ、前記フーヴァー、第三十二代フランクリン・ルーズベルト、第三十三代ハリー・トルーマン、第三十四代アイゼンハワー、第三十五代ケネディ、第三十六代リンドン・ジョンソン、そして第三十七代ニクソンその在任中に没した。

 エドガー二九歳のとき、米国司法省内の捜査局(BOI)六代目長官に任じられている。この組織強化に取り組んだエドガーは独自の目論見を秘めて連邦捜査局(FBI)と改称し、長官のポストを独り占めしたまま現役の渦中で死去している。

 南北アメリカ大陸に英仏主体の政体が持ち込まれるのは、大航海時代を経て個々人の集団的な探検ブームが何度か繰り返されたあと、長い空白期間を経て落ち着いた頃からのことである。ハリウッド映画は文明人に都合の良い捏造で歴史をごまかしているが、英仏の植民地政策が本格化した頃の最も厄介な先住民とはヨーロッパからの移住民であった。

 即ち、南北アメリカ大陸は英仏が国策で侵略する前から、ヨーロッパの闇をアメリカに根付かせた独自のコミュニティーが形成されていたのである。その中には西インド諸島の部族と交易することで土着した集落も分布しており、それら土着新住民は大航海時代の略奪に苦しめられた先住民と独自のネットワークすら形成していたのである。

 而して、英仏の国策にとって最大の厄介はヨーロッパの闇を知る土着新住民であり、旧来先住民は国策が丁寧に接していれば、ハリウッド映画の如きインチキは有り得るはずない良民なのである。

 それはともかく…。英国アメリカ政権の治安維持は英国の警察制度が導入され、自治体警察を主に連邦政府の法務執行機関は限られた特殊領域を所掌するに止められた。今も同じ事であるが、警察の縄張り意識は官僚が言う反社会勢力の遥か上であり、連邦捜査局のような地元に密着しがたい組織は敬遠されるのがオチである。

 ところが、連邦国家や合衆国のような大陸連合型の治安となれば、連邦捜査局のような法務執行を司る政府機関を設置しなければ政権なんぞ保てなくなる。

 そのプロフェッショナルがエドガーであり、エドガーは少年期からスキタイに伝承される専門的な訓練を身に帯びたプロゆえに、そのエドガーに勝る人材など探してもいなかった。

 以下、周知のエドガー評価を要約しておく。

 生誕日は一八九五年一月一日、ワシントンD.C.生まれと自称したらしいが、生い立ちの詳細はほとんど知られておらず、アメリカ特有の出生証明書は四三歳となる一九三八年までファイルされる事がなかった。その前年ジャーナリストが執筆したプロフィールが公開一号とされている。

 実父は連邦政府職員(公務員はアリバイ作りの常套手段)だったが、心を病み療養施設を行き交う事が少なくなかったとされる。高卒後アメリカ議会の図書館で働きながらジョージ・ワシントン大の学士号を取得したあと、同大ロースクールを卒業(一九一六)、翌年に同大法律学の修士号を得ると共に司法試験にも合格したとされる。

 学生時代にフラタニティの一つ「カッパ・アルファ・オーダー」のメンバーとなり、図書館勤務でファイリング術を体得したとされている。

 脚注、英語フラタニティはラテン語の「兄弟および姉妹」に由来しており、何でも短縮してしまう口語は「フラット」の語を用いている。その意味は一般に男性あるいは性別を問わないクラブなどの構成員を指していたが、一八七四年「ソロリティ」と呼ぶ女性のみで構成されるクラブを指す新語が生まれており、またカッパ・アルファ・オーダーの対語カッパ・アルファ・シーターも生まれ、現行クローズアップされる流行語大賞のようなブームが常態化した事の先駆けになっている。

 ソロリティのモデルは、ウェスレイヤン女子大に設けられた秘密修道女子会(一八五一)の「アルファ・デルタ・パイ」と呼ぶクラブの事を指すが、その後フラタニティと共に同種のクラブ結成から多数の流行語が続出されており、それが現行社会のテレビやネットワークを「ざわつかせる」言葉の乱舞を助長させている。

 本源のフラタニティとしては、たとえば、国際ロータリー・クラブ(以下クラブを省略)、ライオンズ、イプシロン、シグマ・アルファ、東方騎士団などや、フリーメーソン付随の組織であるシュライナーなど、多数の社交団体や慈善団体を指す場合に使われる単語だと思っても誤りではない。

 今やアメリカやカナダの北米では、フラタニティやソロリティは大学・大学院など高等教育に学ぶ男子寮や女子寮あるいは学生のための社交団体を表す用語として最も広く知られている。それはアメリカナイズされた日本でも同じことであり、訳語としては、男子および女子の社交クラブから同種の学生友愛クラブに使われている。

 以上は一般に周知されるフラタニティとソロリティの解釈であるが、その根をたどっていくと正体不明のユダヤなど多数の意味不明につきあたり、何が何だか整理がつかなくなってくる。これこそがスキタイの末裔により構築されたウクライナの潜入スパイ養成キャンプの深謀遠慮と教わっている。黒海に突き出るクリミア半島、イスタンブールを抜け地中海文明を堪能すれば、もはやカオスの虜と化したヨーロッパの頭脳は力学系カオス理論によって評価されるのがオチとされている。

 山中教授の研究アイ・ピー・エス細胞の世界とも思えるが、同じ系にあっても微差あれば、それは時間の発展と共に指数関数的に大きな差に広がる初期値鋭敏性の定義と歩を合わせる。

 娯楽物の潜入スパイと同義に誤解されやすいが、娯楽産業が力学カオス数理に触れても本源に迫る作品には出会ってないため、ゾルゲもエドガーも正体が判明し得ないのは当然であろう。ケネディを明殺した捜査の証拠資料はホワイトハウスの意でエドガーの手に隠蔽されたが、二〇二九年九月まで強制法に縛られても、二〇三八年には公開される事になっている。

 それがコンピューターの二〇三八年問題と如何に絡むかまで私の天命は保てないだろう。

(つづく)

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