【文明地政學叢書第三輯】第十章 堀川辰吉郎の神格

●日野氏庶流の日野強情報

 通説に従えば、日野氏は中臣鎌足系の藤原北家流・真夏(まか)が祖といわれ、孫の家宗が山城宇治郡(京都市伏見区)日野に法界寺(真言宗)を創設、のち資業(すけなり)が薬師堂を建立して日野氏を称したという。また代々が儒道と歌道で朝廷に仕えており、室町時代に将軍家と結縁(けちえん)が成り家格の安定を図るも、将軍八代目義政の室となる富子が応仁の乱を引き起こす火種を生むともいう。すなわち富子が産する義尚を次期将軍に立てるべく、山名氏を後見役として応仁の乱に及ぶ原因とされる話のことである。
 富子は専横を極め政治に介入のうえ、京七口(ななつくち)に関所を設けて税を課したり、高利貸や米相場にも手を出すなど、市場混乱を招く張本人と見なされるが、たとい悪女としても同類の責任転嫁は政治の常である。こんな物語で歴史が組み立てられるのも、氏姓鑑識が粗末ゆえ起こる現象であり、大江山に根ざす大本教団の講社を何ゆえ綾部に据えたのかを氏姓鑑識ないまま個人情報の糸を手繰れば、歴史が千切れるのも当たり前である。
 本稿第二回(通巻二七九号)に記した通り、日野強が新疆を目指しハミ、トルファンを経て省都ウルムチに到着したとき、清国の文武諸官を漢詩交流を重ね、南州少佐と呼ばれ大歓迎され、新疆の巡撫(じゅんぶ)や布政使ほか、赴任のため途次滞在中の伊犂将軍などに、特段の厚遇を得るのも、姓(家業)に根ざす遺訓として、儒道歌道に通じたからで、家訓に学ぶ伝承あればこその惠みなのである。
 また日野は宗教観として信仰の伝染および宗教心の遺伝にまで踏み込み「信仰も宗教心も人から人へと、系統的経路を通り伝わるは免れないため、その祖先とか人種により、また智識程度の如何により、崇拝する信奉する、宗教の同一ならざるは、自然の勢いなり」と結ぶのも、宜なるかなである。さらに、日野は浄土真宗本願寺法主に昇る大谷光瑞一〇年少を通じて特命遂行に特段の協力をさせるが、これぞ日野が少尉任官後三年間(明治二二〜二四)の消息となった事情と重なる。
 大谷家は天皇歴代の皇女の降嫁先であり、その経歴は省くも、光瑞(一八七六〜一九四八)が日野と出会うのは、嘉仁親王(大正天皇)の宝寿一一歳の時で、光瑞一四歳、後のロンドン留学(明治三二〜三五)の一〇年前である。当時二四歳の日野は神仏分離令や寺社領没収などの後遺症が残るなか、愛媛県出身で軍閥と無縁ゆえ、京都在留の歴代天皇家側辺および大江山霊媒衆の手配により、主に軍事訓練の移動を繰り返し、京を中心に二六歳までの三年間を過ごし、丸亀の歩兵第一二連隊附で年末中尉に進級するのは二七歳である。日野はすでに六歳年少の出口清吉とも出会いを重ねており、日清戦争の勃発(明治二七年)においては釜山に上陸後各地を転戦して、講話後は大連湾から乗船して混成第九旅団の編成地に帰還した。清吉も台湾へ出征、その帰還船内で病死、全身包帯巻きの姿で海中に葬られたとする偽装も、本稿第一回の冒頭に記している。以後、清吉の消息は北清事変(明治三三年)の殊勲者として名を改めて京都日出新聞に奉じられるが、参謀本部出仕の日野が対露戦略の下で現地赴任後の一〇年(明治三五〜四四)を特務で働くこともすでに記しており、明治三八年の日露講話の後は、日野が功四級錦鶏勲章、清吉が再び京都日出新聞に軍事探偵として奉じられている。
 明治三九年(皇紀二五六六)日野は「その筋・・・」より、新疆視察の特命が降ると、身の回りを備えるや直ちに北京入り、以後は『伊犂紀行』に詳しいが、本稿も概略を抜粋して紙面を費やした。日野本に清吉は登場しないが、監修の岡田は日野が綾部に帰住するのは大正八年(同二五七九)と記し、大本教の幹部となった翌年五六歳で長逝したと日野の個人情報は結んでいる。
 大正一三年(二五八四)王仁三郎は朝鮮経由で奉天に到着する。大正天皇宝寿四六年であり、前年に関東大震災が勃発、皇太子殿下の裕仁親王(昭和天皇)が摂政宮を務めておられた。
 明治一三年(二五四〇)日野一四歳のとき、京都堀川御所に貴子(うづみこ)が降誕、後に辰吉郎と称えられる。日野が伊犂紀行を終え東京に戻るのは明治四〇年(二五六七)四二歳のときで、辰吉郎二八歳であり、清朝は袁世凱が担うも同二五七二年(一九一二)には宣統帝退位の幕引きがある。ヨーロッパ発の津波は支那大陸と朝鮮半島に及ぶほど大きくなり、日清・日露戦争を誘引して日本に雪崩れ込む亡命勢力も人知で計れない土石流に巻き込まれる。

●堀川辰吉郎降誕をめぐる諸説

 大正天皇はアマテラスの本義に逆らう文明が行う侵略に慈悲の念を禁じえず、超克の型示しで女官制度を禊祓している。明治天皇までの女官制度は皇后(中宮、後宮)ほか順に典侍、権典侍、掌侍、権掌侍、命婦、権命婦、女嬬などの階級があり、皇統譜に刻む位階は典侍と権典侍に限られていた。これを大正天皇は皇后のみ妻帯して、他の女官はすべて皇后および皇后が認める子に仕えるだけとした。明治一三年の貴子の降誕は嘉仁親王の降誕翌年に当たり、明治天皇が京都行幸のとき、用意されていた施設を堀川御所というが、そこで幼年期を過ごしている。当時、堀川の地には皇統譜に記載される系統ほか、旧摂家制度下の公卿クラスが住む屋敷以外はなく、ある種の治外法権が働いた地と受け止めても間違いはない。この事実をして、堀川辰吉郎が明治天皇の皇子と勘ぐる好事家(こうずか)を刺激するが、真実は明治天皇も辰吉郎自身も知る由のない位相である。没年は昭和四一年(二六二六)一二月一九日ゆえ行年八七歳の生涯となる。
 皇紀歴上最大の暴挙、現人神の東京行宮をして、睦仁親王(明治天皇)の東上を案じた勢力が大室寅之助を替わり役とする噂話もある。本稿も真贋問題を採り上げているが、その目的は個人情報に埋没するのでなく、過去と未来の連続性を禊祓のうえ、成るようになる透徹史観を通じて、飽和を不飽和に導く応えを出すことにある。以下、堀川辰吉郎の噂話に不可欠の個人につき、例の如く少し付記しておく必要がある。

★岩倉具視(一八二五〜八三)
堀河康親(やすちか)二男、一四歳の時に岩倉朋康(ともやす)家へ養子入り、三〇歳時に鷹司政通の門流として孝明天皇に侍従このとき和宮降嫁を推進、これが幽居の原因といわれ、探偵好事家は天皇毒殺の首謀説を唱える。
★井上馨(一八三六〜一九一五)
萩藩士井上光亮(みつあき)二男、父は徳山藩士棟居景敏(むないかげとし)の弟で、井上家へ養子入り、薫は兄幾太郎(重倉)と明倫館へ遠距離通学、二〇歳のとき志道慎平家へ養子に入り名を文之輔また惟精(これよし)と改めるが、密航二八歳時に企て養子先への迷惑を考え井上姓に戻り、維新政府の元勲まで昇る。
★貝島太助(一八四四〜一九一六)
炭鉱事業を二七歳で興し、西南役で巨利を掴み、五〇歳時に井上薫の後援で大之浦を買収、翌年の日清戦争を機に事業拡大、五五歳で合名会社貝島鉱業を設立して、筑豊一の炭鉱王となる。
★乃木希典(一八四九〜一九一二)
長州藩士の子、五九歳の時に学習院院長に就任、明治天皇崩御の日に六四歳で妻とともに自刃して殉死を遂げた。
★頭山満(一八五五〜一九四四)
平岡浩太郎(初代社長)の玄洋社に協力し、長寿の生涯を敬天愛人に尽くし、玄洋社の海外活動を支えるため、在野の自在姓を縦横に活用のうえ、国内活動の重鎮を為し、杉山茂丸とも親密に通じた。
★孫文中山(一八六六〜一九二五)
支那人、三二歳のとき横浜上陸、のち辛亥革命の軸に働き五〇歳時に初婚の妻と離縁、直ちに浙江省財閥二女宋慶齢二三歳と再婚するが、以後ブルジョワ批判のなか支那特有の愛国心を貫いた。
★張作霖(一八七五〜一九二八)
日清戦争に若き馬賊として台頭するが、日本軍に捕縛され処刑が決したとき、陸軍参謀長児玉源太郎に救われ、以後協力者として日本軍のため働くも、国際勢力が企てた謀略で爆殺される。
★岡田茂吉(一八八二〜一九五五)
東京浅草橋場町に生まれ、綾部講社が第一次受難に見舞われる前年の三九歳のとき大本教入信、のち王仁三郎に異能を指摘されて霊媒に専念、脱会時五二歳で応神堂を開業、現世界救世教を創設する。
★張宗援(一八九二〜一九四八)
伊達宗敦(むねあつ)男爵(一八五二〜一九〇七)六男順之助の支那名であり、壇一雄の小説『夕日と拳銃』のモデル、学習院に在籍したが大陸の馬賊を率いて暗躍したとされ、子の宗義は拓殖大学教授となる。

 右は辰吉郎に関わる個人情報一端であるが、岩倉没三年前に生まれた辰吉郎は自分自身が何者かを問わずして、その生涯を全うしうる神格を備えていた。岩倉家は関白近衛尚道の子が久我道言(こがみちのり)家へ養子入り、その子具堯(ともたか)に羽林家(公家侍)創設の許しが下されて始まる。さらに具堯の子有能(ありよし)は千種(羽林家)姓で分流し、その子が植松(羽林家)姓で分流。その後、岩倉は千種、植松の分家と養子縁組で結び合うも、広雅八代目が早くに死去、柳原家から養子を迎えて岩倉具選(ともかず)九代目とする。柳原家は日野家庶流であり、具選と同じ血脈を有する、柳原光愛二五代目の娘(愛子)が大正天皇の生母とは、広く知られ、柳原二位局の別称でも親しまれる。具選嫡流は孫が早世して、今城(いまき)家の子で繋ぐも同じく早世、直ちに大原家から養子を迎えるが、その後も苦しい後継を続けていく。今城は花山院(清華家)系中山親綱一四代目の子を家祖とし、大原は宇多源氏庭田(羽林家)の系を引く分流であるが、岩倉具慶(ともよし)一三代目となる大原の父は富小路貞直(とみこうじさだなお)の子で、富小路は二条(摂家)系庶流半家に許された姓である。また貞直の父は清原氏船橋(半家)庶流に当たる伏原宣条(ふしはらのぶただ)(平堂上)ゆえ、岩倉家の格付けを低く見る傾向も出てくる。この傾向も似非教育下の格付け会社に阿る市場経済に通じている。
 宜条の生母は柳原光綱二〇代目の娘であり、宜条の正室は柳原紀光(もとみつ)二一代目の娘ゆえに氏姓鑑識は重大なのだ。
 さて、岩倉具視一四代目であるが、父は萩原員幹(かずみき)の子康親(やすちか)で一三代目として、堀河家に養子入りしている。先ず堀河家を要略すると、祖は藤原北家長良系高倉庶流の親具(ちかとも)が藤原北家道隆系庶流水無瀬兼成(ともしげ)一九代目へ養子入り、子の康胤(やすたね)が姓を許され始まる。また萩原家は本性卜部氏で吉田神道系支流に当たり、分家に錦織(にしごおり)を出して共に公家社会に参入するが、その出自が霊媒衆たるは歴然の痕跡を刻んでいる。水無瀬の家系は六代目のとき、三条家に嫁ぐ娘の縁組みを通じて、三条の子が水無瀬家に養子入り相互血縁を濃くしていく経歴があり、具視に不可欠の氏姓鑑識は高倉家であるが、これは長くなるので省くほかない。具視と三条実美(一八三七〜九一)の確執を中岡慎太郎(一八三九〜六七)が取り除いたり、参内七卿落ちした両者が九州太宰府へ向かう行程なども、氏姓鑑識なくして解けず、辰吉郎降誕が具視没三年前の解き方にも通じるのだ。
  井上馨の兄重倉を戸主とする抄本に、重倉五男で辰吉郎の名が見られ、生年は明治二四年(二五五一)と記され、貝島太助の姪寿子と婚姻している。これを根拠に堀川辰吉郎を仮想して、謎の情報解明を仕掛ける出版物あるが、衆生が驚嘆する故人の事績に遭遇して何かを企むのは、善し悪し問わず、慎まなければいけない振る舞いである。井上薫五六歳の時その兄五男の辰吉郎は行方が知れず、筑豊一の炭鉱王貝島の姪も消息が知れない何ぞありえず、ありえないがゆえに、堀川辰吉郎にこじつけ、「誰が何して何とやら」の物語に時間と費用をかければ、そのコストを回収しようとするため、歴史の千切り取り作用が起こり、もっとも大事な統一場を遠ざけてしまうのだ。
 辰吉郎の降誕年を巡る憶測は他にも大正天皇と同じく明治一二年とする説から伊達順之助と同じく明治二五年とする説まで実に一三年の差異がある。すなわち、これらは時空の冒涜に他ならず、商業ジャーナリズムの無知蒙昧を自ら立証するものである。付記した個人に関しても多くの出版物があるが、彼らは彼らなりにその使命を果たす上で辰吉郎の存在は無視できないようだ。ところが、付記人物伝に辰吉郎の情報は出てこない。

●堀川辰吉郎のエピソード

 明治四〇年(二五六七)伊犂紀行を終えた日野は東京へ戻る前に京の大谷光瑞を訪ねたと岡田は知らべており、日野本復刻の謹厳実直さに敬意を表する。本稿も冒頭で講社大本へ入信した軍人名一部を記しており、王仁三郎の入蒙に強い影響力を及ぼす陸軍の代表格が日野であれば、海軍の代表格は矢野祐太郎と記した。すでに両者は予備役の身分であり、王仁三郎の入蒙(二五八四)は日野没(二五八〇)後ゆえに、少し矢野の個人情報に触れておく必要がある。
 「いのちの会」と称する宗教法人が昭和三七年(二六二二)に設立認可され、本部は日本最大の古墳がある応神天皇陵(大阪府羽曳野氏誉田)に隣接の誉田八幡宮の敷地内にある。初代名誉会長は堀川辰吉郎であり、最高顧問に山形県出身の塩谷信男(一九〇二〜二〇〇八)が就き、提唱者森蔭彬韶(もりかげおとつぐ)の子尊宗(たかむね)が運営責任者となっている。因みに塩谷は開業医で香淳皇太后の覚え厚き霊媒衆である。そこに保管される神盤は孫文が辰吉郎に渡した秦の始皇帝ゆかりのもの。他に矢野が設計・製作した神界剖判図も備えられている。
 筆者は東宝ニューフェース第二期生で映画俳優の中丸忠雄ファンであるが、彼が筆者の郷土で同級生の三遊亭円楽(本名吉河寛海)らと小学校を過ごし、俳優になると名優三船敏郎に殊のほか可愛がられて多くの大作に出演、その素性に興味を抱いていつの日か出会うべく予感を温めていたからだ。
 夫人の薫と出会うのは彼が芸能活動を減らし趣味の陶芸に勤しんでからであるが、その薫に頼んで温めていた筆者の予感が適えられた。中丸薫は多くの著作と講演活動で広く知られるため子細は省くが、自ら堀川辰吉郎の娘として育てられて成長したという自叙伝も著わし、自身の奇で珍なる体験により、自ら霊媒衆の如く振る舞う性癖を隠さない。
 筆者は忽ち中丸忠雄と親しくなり、彼から中丸夫妻の婚姻を慶ぶ辰吉郎が結婚披露宴の前に逝去したこと、その人物像について自分のような凡人にはまったく理解に及ばず知ろうとも思わないという話を聞いた。そして、忠雄は筆者との出会いだけを喜んでくれた。もちろん筆者は薫の著書を読んでいないし、彼が感じたままの辰吉郎像だけを聞くだけで、むしろ自分が何者かを知る旅の面白さを彼と話したにすぎない。
 個人情報を得たいのであれば、対象が存命の場合その本人が知らない本人の情報を蓄えて取材に臨み、故人なら取材対象と情報交換し得る準備が必要である。その備えがないままに相手と接しても意味はなく、知りたい情報など得られない。
 中丸薫と同じく、本人も確証を得られないまま辰吉郎の子の如く育まれるエピソードは数多あり、筆者の知合いの中では浮谷東次郎と話したことが偲ばれる。浮谷東次郎は昭和四〇年に、鈴鹿サーキット建造中にレーシング・ドライバーとして練習していた最中に事故死している。浮谷家は千葉県市川市で約三〇〇年を継ぐ旧家で、ここに嫁ぐのが辰吉郎の娘という和栄であり、東次郎の生母にあたる。若いころ自分探しの旅をしていた筆者は、東次郎に限定されず特に旧家の知友と話し合う場を多く有していたが、東次郎からは逆に、堀川辰吉郎とは何者かを聞かれて調べたことがある。東次郎は筆者の一年下であったが、その死後も伝説が朽ち果てない。

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