●舎人学校の発足
本稿を終えるに当たって、ぜひとも記しておきたいことがある。それは舎人学校(とねりがっこう)とその仲間たちのことである。本稿起稿の責任はすべて筆者にあるが、天童の監修なしに文章は仕上がらず、また舎人学校という勉強会の同志たちとの意見交換なくして本稿が陽の目を見ることはなかった。舎人学校の巣立ちは後述するが、起稿のたび仲間たちで見出し項目ごとに輪読して評議、また趣旨説明など加えた後に、『みち』に連載され本稿が完成するという手順を経ている。つまり、知力文才に乏しい筆者に推敲の労苦はなく、文明地政学協会に集う仲間たちと共に作り上げたのが本稿である。そこには個々の潜在力が活かされ、共同の場の運動量が働いているのである。有志共同の基礎を築く場の歴史こそは日本精神の真髄であり、共時性を伴う結合法によって一即多=多即一の原義に貫かれる。
その共同の場は文明地政学協会である。それは皇紀二六五六年(平成八)に創刊された世界戦略情報『みち』の発行所たる歴史修正学会を母胎として、当初より『みち』発行人藤原源太郎と編集人天童竺丸によって一貫して変わらず運営されてきた。本誌『みち』は本年三月一五日号で通巻第二九〇号に達し、来たる九月一日号で第三〇〇号の節目を刻むことになる。その節目に記念会の開催を発起する読者の声も増えつつあり、過去と未来の連続性に意が強まるばかりである。
さて、舎人学校の「舎人」とは近時聞き慣れない言葉かも知れないが、通説をまとめてみると、
①大化前代の天皇や皇族の近習をいう。
古事記(下)に「舎人、名は烏山と謂ふ人を使はして」とある。
②律令制における下級官人。内舎人、大舎人、中宮舎人、東宮舎人などの称。
万葉集(2)に「ゆくへを知らに舎人は迷(まと)ふ」とある。
③貴人に従う雑人。牛車(ぎっしゃ)の牛飼または乗馬と口取(くつとり)をいう。
源氏物語(宿木)には「召使〜などの中には乱りがはしきまでいかめしうなんありける」とある。
④旧宮内省式部職の判任名誉官、また式典に関する雑務に従った者の称。
などの解釈が述べられている。また舎人(しゃじん)という呼び方もあれば、舎人男(とねりおとこ)、舎人子(とねりこ)、舎人監(とねりのつかさ)の呼び名もあり、召使や家人と粗く解釈する向きもある。
これらの故事来歴を承知しつつも、我ら仲間の含意とするのは奉公の義であり、特に上古の不飽和を保つ悠久の時空に意を馳せれば、いかなる天変地異に際会しようとも舎人は消えず、その志は超克の型示しに範を仰いで、個々の意が共振を交わし学び合う場である故に学校と命名したものである。
本誌『みち』は創刊来一三年、その発起人たる藤原と天童の両人に揺るぎなく、創刊以来の購読支援も少なからず、奉公に徹すればこそ、貧すれども貪せず、その初心を貫くところ筆者も客員として迎えられた。恩義に感じるには専ら奉公のほかない始末にある。この間に月一回「まほろばの会」に集い、同志神官の柿添の大祓祝詞に始まり、維新後の教育勅諭を読み上げ、同志林の国偲び歌(倭詩(わか))朗詠が続き、時々の出席者より時局の情報を織り込み、主宰藤原源太郎の時事講和が約一時間ほど披瀝される。いずれも時宜を捉えた戦略情報分析ゆえメモは少なからず、筆者も少し持論の時間を許され、夕刻に至れば直会の儀と変じて楽々の酒食を進めつつ情報交換の場にと転ずる。この公を踏まえた場あればこそ、舎人学校の巣立ちも許されたのである。
●舎人学校のモデル
天童竺丸、中島祥江(なかじまよしえ)、大田原進(おおたわらすすむ)、飯田孝一(いいだこういち)、林廣(はやしひろし)、芹山素一(せりやまもといち)、栗原茂、この仲間の系譜は本誌『みち』にあり、発行人たる藤原源太郎の公心に惹かれ、月一回の「まほろば」に集う同志たち、本誌創刊来の同志読者が加わると舎人学校の場は物理的に満員御免となるが、その公の波動は広域に及ぶと念じる。
ここでは、冒頭七人を紹介して、その全体像と本稿との関係を明らかにしておきたい。本稿『真贋大江山霊媒衆』を起こすに当たっては前段があり、先に『みち』誌に連載を終えた『歴史の闇を禊払う』と『超克の型示し』とに通じる連続性を貫くために、天童が筆者に書けと命じて始まったものである。だが、そもそもの出会いは、藤原が筆者取材の覚書を審神(さにわ)するよう天童に勧めたのが契機となった。
もとより筆者は不器用甚だしい身でありながら、少年期から「物造り」の家業を背負うため、技芸に器用な者に屈辱やまない劣等感を潜ませてきた。恵まれた資質は骨組みが強いだけだが、この資質運用の本義に目覚める時機が遅かったため、何事にも肌が合わず、頑なに時勢の風潮に背を向けつつ在野に徹し、ただ悠久のロマンの旅をつづけた。
転機は還暦初夢の未明に産声を発した初孫に与えられた。当時の筆者が担うべき課題は克己自立の旅は続行することだった。通常の恩愛(おんない)を絶つ意を実践してもしがらみ多き日常生活を保てるかどうか、筆者には難儀この上ない苦痛が続いていた。恩愛を絶つとは、惠み慈しむ関係、例えば親子や夫婦の関係を絶つ意でもあるが、筆者の旅は妻の庇護なくして続かず子あるゆえに克己自立を目指すのであり、その両者の絆を絶たれたら、独り気力を保つなど有りえない。そんなピンチを初孫に救われたのだ。新しい命が三年の間に放つエネルギーは純真の生琉里(ふるさと)を再考させる力があり、改めて筆者の内心に潜む思い込みを解きほぐす養分を十分に備えていた。わが子を育む責務を負うときはまったく気づかぬまま過ごした迂闊についても初孫の対応は筆者の内心を見透かし、その所作には無辜の奔放自在さが満ちて、その峻烈鮮明なること、まさにシャーマンそのものと接した時空を甦らせた。これを初孫生誕後五時間の対面で感得したが、以後その継続を保つうち再会した藤原源太郎の慧眼がまた筆者を見透かし、迷いを脱した筆者に救いの手を差し伸べたのだった。
人は所詮五十歩百歩ながら潜在力が効能に切り替わるとき、そこには遊行の出会いが肝心(かんしん)に響く導きあり、外面は変わらなくとも藤原は筆者の微妙な変化を見抜いていたのだ。それは本誌『みち』の陣屋を訪ねたとき、陣屋の主たる天童の応じ方に顕れており、その同志直参たちも個性に充ちており、その個性がまた統一場を形成している。つまり、個々の放つ波動が互いの性質を千切り取ることなく、物心一元化の恒久リサイクル・システムに則りつつ自在性を喪わない集団なのだ。自家撞着は人の本能的属性に潜む病変ゆえに閉じられた空間を脱しなければ体細胞が過剰に増殖して腫物となり、限局性の結節は良性または悪性のガンとなるのが常であるが、文明地政学協会には開かれた空間ゆえに人が集まるのだ。ここはそれぞれの史観を禊払う共時性の場であり、最小公倍数と最大公約数を生み出す歴史の場も同時に兼ねる。集う全員に担うべき仕事とてはないが、全員が自らに課し関心を誘う自発行為を見出すのである。まさに藤原と天童の絶妙なコンビネーションの賜であり、その奉公は初孫に恵まれて目覚めつつある筆者にすれば砂漠のオアシスにも等しく、場の歴史に伴う共時性を覚る無二のチャンスゆえ、唯々救われたと感謝するほかない。
舎人開校前すでに人材は足るところ、その場に所蔵される教材も豊富ゆえ、今さら浅学菲才の筆者を裸にしても、時空の無駄遣いにすぎないと思うが、天童は無駄を活かす妙法を有するため、ここには俎上の鯉として料理されようと決した。筆者の覚書は未来に負の先送りをして辞さない社会の実相を取材し、その原因が実証現場と論証現場の統一場不在にあり、その遠因は似非教育に根ざすと踏まえている。
とはいえ、「それが何たるかの義は現下の社会に役立つはずもない」となれば、詮議はともかく、せめて孫への遺言にと密かに独自の図解伝達法を開発すべく取り組んでいた。これに着目したのが藤原および天童であり、それが舎人学校勉強会となり、冒頭に記した仲間たちと月二回ほど座談的情報交換の場を設けて、次第に独特の勉強法を見出す傾向が強まりつつある。個人情報の記述には辟易やまない筆者が何故に舎人らの紹介を試みるのか、それはここが通常の仲良し倶楽部ではないからで、そのわけをまず述べておく必要がある。
●舎人学校の仲間たち
筆者が永年に書きためた覚書はもとより他見に値しないが、それは藤原が天童に審神するよう勧めて本誌連載が始まった以上、筆者も稚拙とはいえ、文章の書き方に取り組む必要に迫られた。その結果として、互いの意が共振するようになり、自然発生的に舎人の集いが勉強会の方向性に向かいつつある今を迎えている。意の共振とはもとより開かれた空間を行き交う直流回路に生じるため、そこに圧力が働かずとも、情報化に励めば圧を生じる交流回路が主体となるのも当たり前なのである。このとき最も重大なのは、閉じられた空間を作らない用心だが、その位相は藤原と天童がすでにモデル化しており、筆者は単なる俎板の上で自身を正直に晒すだけで済む。その模様はDVDに記録されるため、最も大事な結合法に強制作用あるやなしや直ちに検証可能となり、「奉公に徹す」という舎人の本義を護り得る筋道も分かり、本稿に付記する理由とも通じるのである。
さて年齢に長じるのみの筆者はさておき、少しく舎人の個人情報に触れる必要がある。
藤原源太郎を抜かして舎人の集いもありえない。ただし、藤原は何かと多事多用のため主に週日に開かれる舎人学校に参加する時間は割けない。長野県上田市の旧家に生まれ、早稲田大学第一政経学部経済学科を卒業している藤原の真価は似非教育を克己自立のバネとした点にあり、東南アジア、ヨーロッパ、アメリカなどに出向の海外貿易に従事しつつ、神霊、宗教の義また大本教の研究を行い、またライフワークとして言靈(ことたま)に焦点を合わせており、現在フリーランサーに立脚するが、その歩幅が特に雄々しい。早くに国際外交を実体験のうえ、日本精神に根ざす史観醸成とともに、世界情報分析の特訓を自らに課した藤原は壮年期を迎えると、同じ志ながら個性異なる天童と出会い、やがて二人三脚による歴史修正学会の設立を敢行する。結果四ヶ月後に本誌『みち』を創刊、その血気盛んなるを偲ばせるが、筆者が敬服してやまないのはその刊行継続の志であり、断固たる紙面構成により自ら奉公の意を貫く姿勢が崩れない点にある。
天童竺丸は岡山県笠岡市の貧農に生まれ、東京大学文学部印度哲学梵文学科を卒業し、幼少の記憶と当時の気風が重なり大学院進学を選ぶが間もなく結婚、その命運の赴くまま克己自立していく様は、性質がまったく異なるとはいえ、筆者と共通するのも宜なるかなである。それを藤原が見透かして引き合わせたと思うが、むろん話の種は必要にあらず、天童の持味も妻子に恵まれずば現状を維持することすら適うまいと、筆者の勝手な言訳に使う相手は天童であり、筆者が藤原に救われたという所以にも通じるのである。
中島祥江は奉公の女神であり、その存在感たるや一言二言で簡単に言い尽くせない。つまり、幾ら無粋の筆者といえども、異性を論ずる資質なきは明らかで、まして個人情報を記す何ぞ許されず、ただ慎みを以て敬意を表すだけである。
大田原進は若手のホープとしてその存在感は日々に強く、どこまで及ぶか本人すら気づかないだろうが、ここに参考となるよう、少し氏姓鑑識に触れておこう。家紋に「丸に釘抜」または「朧月」を用いる大田原氏は武蔵七党のうち丹(丹治)党安保氏の分かれで祖は忠清とされる。武蔵国阿保郷に住んだ忠清は南北朝時代の人と伝わるが、丹治氏は多治比(たちひ)や丹治比(たんじひ)などと同族で、第二八代宣化天皇の上殖葉親王(あげはにはのみこ)を遠祖とする。宣化天皇は継体天皇第二皇子で在位中に大伴狭手彦を遣わし任那と百済を救済した。その曾孫多治比古王(たぢひこのきみ)に始まる丹治氏氏の丹治氏とは虎杖(いたどり)の古名である。さて問題は虎杖にあり、蓼科の多年草虎杖は高さ一メートル内外、その茎は中空で節を持つが、若い茎には紅紫色の斑点が浮上がり、葉は五〜一五センチメートルの広卵形または卵状楕円形で先は尖る。その株は雌と雄で異なり、夏に白または淡赤色の小さい花が葉腋(はわき)に総状に咲き、翼を付けた果実が見られる。若い茎はやや酸味をおびて食用となり、根茎は利尿、健胃剤などに用いる。京都貴船神社で陰暦四月一日に行われる神事を虎杖競(くらべ)というが、当日は上賀茂(かみがも)の氏人が騎馬で参詣の後、帰途に市原野で虎杖を採取し、その大小や多少を競ったという。つまり氏姓鑑識は身勝手な歴史認識にあらず。その氏姓に纏わる家紋と家祖の出生地や本人の資質など見極めたうえ、その接し方を決しているのが筆者の流儀であるが、大田原が自分自身の生琉里を知ればやがて舎人監に昇るのは必然だろう。
飯田孝一は開業医の子として生まれ慶應義塾大学法学部政治学科を卒業後、日本を代表する総合商社に就職、いま流行りの環境事業を手がけた草分けだが、商社マン三三年の生活に見切りをつけ克己自立を果たしている。筆者に言わせれば当然と思うが、その慣習的職能体質は温和そのものたるも、内在エネルギーはスサノオのごとく、早くアマテラスの義を呑み込んでほしいとは筆者の切なる願いであり、舎人重役を務めるよう促したい。本稿の終了を以て天童が命ずるのは、「家紋講座」を開けとのこと。これ飯田には幸いする裏付けあり、今後の栄達にも通じるので楽しみにしている。
林廣は板橋区に生まれ江戸情緒が残る浅草に育つ。還暦いまだ童子の純真無垢を失わずその求道は時代の流行り廃りに惑わされない。すなわち猛速度で移り変わる都会の浅ましさを瞬時に見透かし、日本文化古層に根ざす本質を探るため、その理解者たる母の支援に応えて奉公を貫いているのだ。その考古探索に独自の法をひらき、何事にも揺らがない有様には、筆者も憬れを禁じ得ない風情を感じさせる。まさに戦後復興を成し得た日本精神の申し子のようであり、いまや乏しい下町人情も保ち続けており、日本の匠が伝える文化的記録に大金を費やし、その寄贈先を本誌『みち』に定めるのも、林の真骨頂たる心意気を示している。
芹山素一は成田空港隣接の旧家に生まれ空港建設闘争の真っ只中を歩いたが、その純真は何らの揺らぎもなく、古来の日本精神を保持し続けている。すなわち、時勢に惑わされず先祖伝来の遺訓を受け継いで安岡正篤直伝による農士の風格を帯びており、不動産神話に躍ることなく、自らの矜恃を保つ奉公の義を弁える舎人なのだ。世に著名の人士が無責任な伝記情報により事跡を冒涜される例は限りなくあるが、芹山は安岡以外にも著名の人士に手ほどきを受けており、大言壮語を見抜く素養が身に沁みている。それらは柔和な表情からは窺い知れないが、読み取らせないのも素養であり、その真価は大器晩成に隠れており、飯田と共に舎人学校を担う人材と期待したい。
●真贋大江山系霊媒衆の結び
古来連綿するシャーマニズムは現代ジャーナリズムへと引き継がれたが、その発祥はアマテラスが真、スサノオが贋に留まり、その贋を真に浄めるのはツクヨミである。現代を惑わす虚構テレビ文明が自壊するのは必然であり、そのデジタル化も現代ジャーナリズムが引き継ぐからには、通信回路を司る経絡部の構造不全を免れることなく、総じて知らぬの集まりは結局アナログとデジタルの間を彷徨うだけとなる。
畢竟、人の生琉里は大地にあって、空と海の滋養に恵まれる大地、気流と潮流とが行き交う聖地こそ核心である。聖地への求心力は遠心力へと連動するのが本来の在り方であり、それゆえに伝統的日本文明が担うべき役割は重大となる。そこに舎人の存在は不可欠であって、この使命に備えるため奉公を旨とする舎人は常に禊祓が必要なのだ。恒久化を保つ結合法に則ると、真贋大江山霊媒衆の次の課題として歴史の総仕上げは免れまい。