【文明地政學叢書第三輯】第一五章 克己自立の奉公へ向けて

●大江山系霊媒衆の真贋透徹

 さて、これまでは本題の核心を透徹するため、共時性を伴う場の歴史から主要な位相を写し出してきたが、そろそろ本稿の締め括りに歩を進めていきたい。
 通説の文明史を認識する前に必要な心がまえは、新しい考古発掘の都度、常に焼き直しを免れない文献図書ではあるが、それを渉猟することにある。日本の古事記・日本書紀がなにゆえに後発であるのか、その所以を解けば史観の基礎も透けて見える。何処の場であれ、史書の出発点は神話に始まり、そこに登場する神々は何時しか一定の場の領域を定めるようになる。やがて場の主人は神から人に置き換えられるが、むろん神話の作者もまた人であるゆえに、神の正体を証さないかぎり、場の領域を奪い合う歴史に落とし処は定まらないのである。
 考古発掘と図書渉猟の経験則に基づく歴史認識もあるが、両者を単に重ね合わせただけの論は、現時の実証現場では通用せず、照合の解き方さえ多くの問題を含むのが現状である。
 それもこれも、結合体の分解と復元を成しえない剖判軽視に原因があり、剖判の義を究めれば、記紀が描く神々の名前は本来は音すなわち波動であるが、同時にその神名を文字で表記するとき、その文字は粒子であって、両者は対発生の関係にあることが分かる。この関係を極めれば、大江山系霊媒衆の真贋も透けてくるのである。つまり、大江山系は記紀が描く世界共通の性癖を意味するが、日本の大江山に巣立つ霊媒衆は例証となりえる。
 結論を簡単に示しておこう。本稿にいう真贋の真とは大先駆者たる役行者(皇統奉公衆)および大江山系奉公衆を指しており、贋は大江山系スサノオ信仰衆およびマルチ宗教教団衆のことである。真(本義)と贋(虚偽)との分かれ目は「奉公」か「奉私(ほうし)」かで定まるが、前者と後者の違いは立身出世欲に端的に顕われる。 
 いかなる事象にもポテンシャルを含む質量があり、その事象を起こす場に潜むエネルギーが弱まれば、その場の歴史は地層に沈むほかなく埋もれる。これを掘り起こすのがジャーナリズムの本務であるが、現時ジャーナリズムの実態は奉私であるため、過去と未来の連続性は透けてこない。潜在力とは氷山のごとしで、核心に及ぶほど、不純物と同じ紛い物に欺されるのは氷山の一角だけを見るお粗末の結果ゆえ、瞬く間にポテンシャルも尽きてしまうのである。
 昭和元年の若槻政権から戦争終結の鈴木政権までの組閣一八回と同じく、平成元年から竹下登政権一年七ヶ月弱、宇野宗佑政権二ヶ月七日、第一次と第二次の海部俊樹政権は二年三ヶ月弱、宮沢喜一政権は一年九ヶ月と四日、細川護熙政権一〇ヶ月二〇日、羽田孜政権二ヶ月二日、村山富市政権は一年六ヶ月余り、第一次および第二次橋本龍太郎政権は二年六ヶ月二〇日、二次にわたる小渕恵三政権一年五ヶ月七日、第一次および第二次の森喜朗政権一年二一日、第一次〜第三次小泉純一郎政権は五年五ヶ月一日、安倍晋三政権一年一日、福田康夫政権一年弱、麻生太郎政権(平成二〇年九月二四日〜)と継がれている。
 この間いわゆる五五年体制の罅(ひび)割れ現象が起き、自民党の下野という異例の事態を迎えて自民党と社会党の残滓による合従連衡などあり、いま最終局面たる教団と陣笠代議員とが組む政権によって私利私欲に塗れた社会は終末を迎えている。ポテンシャルを使い果たし途方に暮れる社会の未来を透かすと、鮮明に浮かび上がるのは歴史の連続性であり、その原型は皇紀暦のほかなく、そこに活路を見出す役割は史家以外に誰が果たしえようか。
 歴史は繰り返されるとよくいうが、それは何ゆえであろうか。按ずるに、過去と未来の連続性がなければ、生命メカニズムの場は保持できず、場に根ざす遺伝情報、すなわち歴史なくして人は生きられないからであろう。その歴史を読む能力の如何によって未来は透けてくるが、それには場の共時性を潜在力さらには天変地異までをも総合設計する能力が問われてくる。連続性を保つ仕組みとして皇紀暦に優る現実はなく、皇紀暦に貫かれた万世一系の源流もまた、同じ聖地に巣立つのである。
 いま満洲建国の義に立ち返るとき、かつての建国の地はいま何処に当たり、日本政府を動かす原動力と駆動力との今昔の違いは何か、また関東軍などに比すべき現時の存在とは何か、などを見極める必要がある。だが、その要素とすべき因子を手繰り出して当時の原風景を写し出せば、現下に展開される世界情勢の相似性は歴然と顕れるではないか。
 たかが一二〇年に満たない立憲議会制のもと、組閣九二回も施す呪縛とは何かも問わなければならない。施政に民意を汲み取るべきは、政に一貫する今昔の常道であり、公を頼りにして私の生活を築く方便も今昔の常道である。したがって、社会が頽落していく原因は「公の在り方」という一点に収斂されるだろう。人が他の動物と違うのは、不自然な二足歩行を成長の証と見なす点であり、不自然を克服して自ら身に帯びる必然性こそは、人のみが養う力の偉大さではないか。

●克己自立の公とはなにか

 黄道(太陽系軌道)を公転しながら、白道(衛星系軌道)に沿って自転する惑星すなわち月と地球の関係は、公と自=私(わたくし)で成り立つ生命の起源であり、ひたすら与えるのみで見返りを求めない陽光と月光に生命は生かされている。
 したがって、人は陽光と月光に順(したが)うのが道義であり、人が都合勝手に振る舞えば、相応の天誅が降されるのも宜なるかなである。これが公の義であり、この義に順うとき人は自らを養う力の体認のうえ、教える処また禁じる処を身に帯びて、克己自立の洋々たる道が啓けるのである。これがすなわち教育の淵源であり、この体認を経ないまま子を養えば、養われる子は養う力を知らず、教わる力また禁じられる力をも覚らず、ただ利己に埋没するほかない。この頑是ない幼子を似非教育下に追いやり、子の情緒を損なう境遇で遊ばせれば、もともと凶暴性を兼ね備える純真は早熟の知力を以て奸計をめぐらし、早熟の体力を消耗して暴走するのみ。競い争う闘争の風潮に翻弄されてゆくのも当たり前である。
 現時の教育環境は結果を伝えるだけで、結果を丸呑みすれば学位を与える学校制度は、対症療法と何ら変わらず、抗生物質と耐性菌が「イタチごっこ」を繰り返すだけ。結果を生み出す原因も知らないまま、単なる従僕連絡係を教職員と偽れば、鶏が先か卵が先かのゲームに親しむ子は仮想空間へ容易に身を潜ませる。
 而して、子は知りたきを知らされず、不信が募るばかりの世間から脱するため電子バーチャル空間の虜になるのも必然であり、奸計と暴走の狭間に周章狼狽して本能的属性三種の命じるまま現実空間を破壊しようとする衝動に駆られるのも自然である。
 他方すでに似非教育下で学歴社会を謳歌した生ける屍らは互いに絡み合いも縺れ合い圧し合う様相を続けるうち、結び目も綻び目も判らなくなる社会を出現させており、千切り取るほかない思考認知症のもと、何でもチェンジの大合唱に我を忘れている。
 かかる事態は単に政策や政局のことなどの問題ではなく、凡ては似非教育の学校制度に収束するほかない現実があり、公を知らない生ける屍がいくら教育の荒廃を嘆いても詮ない話である。克己自立を促すにはまず第一に、養う力の偉大さが何処に存するかを体認させることが先決であって、子を教えるには自らが実践するほかないのである。
 今年皇紀二六六九年(二〇〇九)、すなわち平成二一年は大江山系霊媒衆の真贋を見極めるにはもっとも適した好機であり、それは同時に史家の力量が厳しく問われる年となる。
 時空を今から二〇年前に巻きもどし場の歴史を振りかえれば、労使共闘の東西冷戦構造が弾けた時期に相当し、このとき第三極の支那も天安門事件に見舞われ、市場開放のロードマップはふたたび支那大陸にターミナルを敷き終えていた。日本も労使共闘すなわち自民党と社会党による談合政治が弾き飛んで、官僚統制も様変わりを免れず、従来の労使共闘政権に第三局の教団(公明党)を取り込む化け方をした。
 かかる洋の如何を問わない共時性は何ゆえに起こりうるのか。その実態は単なる成り行き任せと言うほかないが、これを設計図法に置き換えれば、国王と法王の両頭政治が先例にあり、所詮人は五十歩百歩の証ともなるが、このダブル・スタンダードに霊操を加えたのが似非教育の源流であり、「あれもいいが、これもいい」という蓋然性を伴う科学万能主義が巣立つと、宗教を装う教条主義が政治の第三極となって登場するのである。つまり、立憲政治にとって中華思想や仏教思想とはとどのつまり第三局にすぎないため、玉虫色政治が行き詰まるとき生贄になる運命は免れないのである。
 陽光も月光も現時は電光を以て代行する時代であるが、通称九・一一事件は終日その電光で成り立つ文明の脆さを象徴する出来事であった。つまり、光(こう)は公(こう)そのものであり、電光もまた公(こう)でなければならない。だが、世界貿易センタービルを照らす光(こう)と公(こう)の関係を省みれば、克己自立の公(おおやけ)で運営されたという痕跡は毫も見当たらない。
 更なる不様は後始末にあり、いかなる理屈を用いようとも、公転と自転の運動メカニズムは何一つ見当たらない。そこにはもはや千切り取りようのない私が明らかになるだけであり、従来は隠しおおせた私利私欲が見るも無残に表面化している。その連続性の一端が現在進行形の金融恐慌であるが、単なる結果に慌てふためいても、その原因が判らなければ未来は透かせない。
 通称九・一一事件を昭和維新運動、すなわち海軍青年将校五・一五事件や陸軍青年将校二・二六事件に照らせば、現下の金融恐慌を百年に一度の嘯く暖気な洒落で済ます何ぞ論外である。教皇〔=恐慌〕の冠には金融が憑き物だとしても、金融はポテンシャルなくして成り立たず、教皇がモスクを訪問礼拝した含意を解きほぐすなら、これも既に潜在力が乏しい顕れであり、キリスト教・イスラム教両建てダブル・スタンダードに惑わされていれば、日本の貯蓄性向も軍票同様に瞬く間に廃棄処分される運命は免れまい。
 
●御用史観の隠謀と謀略

 通説の盤双六はインドに始まり支那大陸を経由、日本に渡来したといい、その所見は奈良時代以前とされ、古くから賭け事に用いられたという。このゲームは賭け事に興じる戯れではあるが、盤上に棋士(駒石)を並べておき、采(サイコロ)二個を木か竹の筒に入れて振り出し、出た目の数だけ棋士を進め、相手の陣営に早く入る方が勝というもの。江戸前期に絵双六が出ると民の間に瞬く間に広まるが、盤双六がこの種のゲームの原型かどうかはさておき、過去と未来の連続性にとり、囲碁、将棋、麻雀、歌留多、はたまたイリュージョン・マジックの類まで、数え上げればキリのない類似ゲームが続出しており、現在の電子化社会では老若男女を問わず、仮想空間に身を晒して現実と確執する姿が見られる。いずれの遊戯も流行り廃りはあるが、その変遷は遺伝情報に基づいており、遊戯は人の本能的属性でもあるので、場の歴史に伴う共時性で見れば、その養分の多くは陰謀や謀略に費消される次第となる。
 本能的属性の利己欲を満たすには、現実と未来図の錯綜空間を彷徨いつつ、その不安定要因を取り除くため、自他の隠謀や謀略にエネルギーを費消して、自らの仮想空間を作る場合もあれば、疲労困憊して利己欲を投げ出す場合もある。
 ところが、行政機構は個人と異なり、職能を投げ出すことは許されないため、公私の分別を前提として様々な隠謀や謀略を想定のうえ、改変やまない御用史観に基づき未来図の設計に取り組んでいる。似非教育下の最大過失ここに存する。すなわち、公は私を率いる要素ゆえ唯一付加価値を持つエネルギー源であり、労働の成果の過ぎない技芸の分別を前提とする何ぞは以ての外であり、同時に隠謀や謀略に乏しい御用史観で未来図を描けば、現下の利己欲に応じた政策などできようはずもなく、未来ビジョン何ぞは文字通りの幻覚にすぎない。これら盤双六以下の能力しか発揮し得ないのが似非教育の特質である。前記の通り、奉公は現象成果を生み出す潜在力こそが資源であり氷山の一角しか見ない御用史観では現実は疎か未来まで負の遺産を先送りする。
 現下の金融恐慌という千切取り思想のもと、政府紙幣の発行はどうかという莫迦げた議論がある。本誌安西稿の足下にも及ばない史観であり、すでにポテンシャル枯渇の時代に亡骸を曝して何とする。流通経路を促す通貨の信用力は本位財に伴う潜在力に依存するほかなく、その根幹を成すのは共時性を伴う場の歴史であり、付加価値を生み出す要素すなわちポテンシャルが決め手となる。
 昔年の埋蔵金とか、近年のM資金に斉(ひと)しき呆け話のように、宗教的信奉やあるいは軍事力崇拝により隠謀や謀略を以て一過性の通貨を捻り出せば、その果てが戦争へと通じるのは古今の教えではないか。つまり、宗教的信奉の銀行不倒神話はすでに宴の彼方に葬られ、軍事力崇拝の軍票が戦場に消える事例など遑(いとま)なくあり、しかも、預金封鎖や軍票廃棄など政府は平然と御破算するのだ。
 最近の教皇託宣に「我々は科学を認めるが、我々を救うのは神である」と言って相も変わらず神の存在を唱えるが、科学の生みの親たる神は旧態依然のまま済ませている。だが、記紀では科学第一世代を蛭子(霊流子)と述べ、未熟も極まると断を下す。現時の実証科学の現場を知れば、すでにして三柱貴子(みはしらのうづみこ)すなわちアマテラス、ツクヨミ、スサノオの正体を明確に論じる段階に進んでおり、あとは真の霊媒衆にとる論証を俟つだけである。
 因みにここで通説の蛭子説にふれておく必要がある。記紀神話イザナギ・イザナミ男女二柱の間に産まれた最初の子供ヒルコは、三年を過ごすも脚が立たず、流し捨てられたといわれる。この「日る子」はアマテラスの別名である「大日孁尊(おおひるめのみこと)」に比する意を含んでおり、アマテラスを女、ヒルコを男に喩えるが、これ中世以後エビスの尊称となり、海上や漁業の神あるいは商売繁盛の神とされ、七福神の一つで鯛を釣り上げる姿に風折烏帽子を被ることで知られる。エビスも三歳まで脚が立たないと伝わり、歪んだ形や不正常な様相の形容に使い福の神に肖る願いも込める。エビスの漢字表記には蛭子、蝦夷、恵比寿、恵比須、戎、夷、胡などあり、恵比須網端(あば)とか恵比寿台また戎金とか戎紙など枕にエビスを載せる熟語も多くある。
 すなわち、仮想空間であれ御用史観であれ、盤双六系の隠謀や謀略は想定の範囲内に限られるがゆえ、その限界値は公を保つ潜在的エネルギー量を基準にすれば、通貨の信用力は簡単に測れるが、似非教育下の位相に潜在力は存在していない。生ける屍の常套句は「じゃあ、どうする」であるが、これぞ似非教育下の総白痴化告白の言で、自らの無知蒙昧を恬(てん)として恥じないまま養い教え禁じる公の原義を知らず、ただ跳梁跋扈する現代ジャーナリズムに翻弄される身となる。

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