【文明地政學叢書第三輯】第四章 日野強の宗教観(前半)

●日野少佐の宗教に対する注意

 筆者は共時性に伴う場の歴史を渉猟しているが、日野が紀行を終えて書く宗教観は筆者にも通じるものがある。ここに抜粋して日野説を転載しておく。

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 懇切なる教示と、文字の指示とに依りて、新疆の大体につき知得すべきことは、殆ど遺憾なきに至りしが、独り遺憾なりしは宗教の大体を窺う能わざりし一事とす。その他、教え来たれば、用意のたらざりしがために、あるいは軽々に看過し、あるいは冷淡に付しりて、今日悔恨に堪えざるもの、一にして足らずといえども、宗教の如きは、これがために風俗を成し、これがために習慣を異にし、人事百般ことごとくその支配を受けざるもの無く、ことに未開の蛮族、半開の民種(たみくさ)にて、その関係の著しきを見る。当時すこぶる奇と感じ珍と観ぜし事柄は、期間後、必要に迫られ、その一端をうかがえば、何ぞはからん。全く宗教上より来たれる結果にして、未だ宗教を知らざる人には、すこぶる奇とし、珍とするも、既に宗教を知れる人に在りては、何等の奇も無く珍も無し。むしろ珍とせし以外、奇とせし以外に、真に奇なり珍なる。即ち最もよく観察せざるべからざる事件の存在せるは、かえってこれを逸したるを惜む。寄語す、将来未開の地に旅行せん人は、未開人種の崇奉する宗教の大体を、あらかじめ知得してこうして後、実地の観察につくを要す。よくかくの如くせばその利益や実に鮮少ならざるべし。
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 例えばこれを、現代テレビ文明下の未開探索に置き換えれば、意味不明の井戸端会議を繰り返して、玉虫色的なコメンテーターを揃える粗末は、真に奇なる珍なる現象であり、日野は茶の間に押し入る暴力を見透かしていた。産業革命後といえども、日野の時代は人がマシーンを運転して、メカニズムとキャパシティの熟知体得が必須とされた。だが今や政策は電脳マシーンを法制化しつつ、メカニズムの欠陥欠落に気づかず、人脳を狂わす電脳周波数にも無知のまま、似非教育下の詐術を崇奉する時代である。宗教観において、日野は未開の蛮族、半開の民種という語を使うが、それは何を意味するのか、下巻(地誌之部)に詳しく持論を述べている。本稿のテーマである大江山系シャーマニズムにも通じるので、次に『伊犂紀行』の日野宗教説から本領を引き出すことになる。

●日野の宗教観総説

 「宗教は人性の自然に基き起るものない」とは、日野が書き出しに記した言葉であり、以後は筆者の持論と接合したり、打ち消し合うことも有りうるため、日野説そのものは『伊犂紀行』を読まれたい。
 すなわち、限りある人身は無限の宇宙に立ち、疑惑に出会うと不安の念を生ずるが、心外に全知全能の神を理想し崇拝して、安心立命を求めながら、人生の帰趨を迎える現実は常に同じだ。これは人の精神現象とも言えるが、自然に沸き立つ人の性惰であり、歴史を繙けば、文明人あるいは野蛮人を問わず宗教信奉に多少の差異は生じても、信仰は本能的エネルギーの働きをもつ。信仰が伝染したり、宗教心が遺伝すると踏み込む日野は、信仰も宗教心も、人から人へ系統的経路を通り伝わるを免れないため、その祖先とか人種により、また智識程度の如何により、崇拝する信奉する、宗教の同一ならざるは、自然の勢いなり、と結に達している。
 続けて日野は言う。
 いま新疆人の信仰界をみるに、人種の異なるにより、その奉ずる宗教もまた同一ならず、即ち満人や漢人は儒道に立ちその信教とし、まじゆるに道教仏教を以てするも、概して宗教に冷淡なり、これに反して蒙古人はラマ(喇嘛)教を奉じて、新疆の回部に居住する漢回(ハンホイ)、纏頭回(チャントーホイ)、カザクなど各種族は、みな回回教(「イスラム」教)を奉じて信心堅固(けんご)なり。宗教の人心に及ぼす影響甚大は素よりなれども、その風俗習慣に関係する所も決して尠少(せんしょう)にあらざるなり。ことに未開民族に於てしかり。ゆえに新疆の如き、半開もしくは未開民族の風俗を知らんとするには、彼らの信奉宗教の教務宗規大略を知悉するの必要あり。
 この総説を裏付けるのは、日野が現地踏査から得た命懸けの取材であるが、以下の詳述には現代論との確執も節々に顕われる。

●西蔵喇嘛教の母胎

 ラマ教の発生地は、チベット(土伯特)すなわちシーツアン(西蔵)なり、同教には新旧両派の宗教ありて、旧派の紅教といい、新教を黄教という。
 さて、この日野説は北京で大雑把に図書を渉猟した成果であるが、紅教すなわち紅帽(あかぼう)派は、チベット仏教の四大宗派の一つ、カギュパから出たカルマパに分派二種があり、黒帽(くろぼう)派と紅帽派の後者を指すだけで、他に大衆派のニンマパとかサキャパなどがあり、これらは紅教と呼ぶべきではない。黄教は黄帽派でダライラマが属するゲルクパを指している。
 また日野は衣帽黄色ラマ教のラマと称するのは、西蔵語にして、仏の無上師が意なりと訳したが、チベット語ラマは「上師」と訳せるも「無上」ではない。これら予備知識を整えるため、日野は母胎たる密教がラマ教をいかにして産んだのか、いかにして西蔵に根ざし、新疆に来たりしか、その由来も北京の図書を参考にして以下の如く自らの考え方を示している。
 インド(印度)中部ガンヂス河盂(かう)に興る仏教は釈迦が在世のとき、全国を風靡したが、釈迦没二〇〇年後に大小二乗の分離となり、バラモン(婆羅門)教徒、および蛮人の迫害に遭遇して、難を逃れる仏教徒は四方に散り、ここに初めて、仏教が各国に伝搬していく功を奏して、勢力恢復の兆が顕われる。
 同六〇〇年後の馬鳴(めみょう)(高僧)が大乗仏教を唱道すると、同七〇〇年後の竜樹は専ら大乗教を大成その宣揚に励みつつ、小乗の固執をくだき、無相好仏として世に崇仰せられたり。
 ただ、この大乗を専ら宣揚した竜樹(ナーガールジュナ)と密教を唱道した龍樹とは同名異人とされており、共時性に伴う場の歴史が重大な事例でもある。この竜樹以降に出る龍智は専ら密教を継承して発揚に勉めている。
 これら仏教史から日野は南方仏教を小乗、北方仏教を大乗として、仏教の伝搬を東北南の三方に向けて、拡張路線をとりし系統の分布を示していく。この経路を追わないと、ラマ教とは何ぞに達せられない。

●密教の巣立ちと旅立ち

 東北南三方のうち、東方系は支那、朝鮮、日本に伝わり、北方系はインド北部から西蔵に入り、のち蒙古の諸部落に伝搬した。この東と北に伝搬した系を北方仏教(大乗派)と称する。また南方系はセイロン島、ビルマ(ミャンマー)、シャム(タイ)、後世インド近傍の諸島に入りしもので、これを南方仏教すなわち小乗の一派としている。けだし、西蔵、支那、日本、蒙古の如きは、気候風土や人種に関係あるが、対して、小乗の道は甚だ行われ難きものあるに寄らずんばあらず。識者の説として、日野は龍樹が唱道した密教を、「大乗仏教中で最も深遠なる教理を包含し、深く神秘幽玄の域に馳せたるもの、到底顕教徒の窮知しがたき所あり、仏教全体の究竟(きゅうきょう)する所は実に密教にあり」と紹介して以下に続ける。
 大乗教は、後に無著と世親が出て、認識哲学と、瞑想的宗教の派二流に分かれたり。大乗仏教徒これより二派を継承して、前者は理と唯心論とに力を尽くし、後者はインド・バラモン教を加味して、多くの印度的習慣をとりいれ、ここに秘密仏教の開発が行われる。密教は龍智によりて、大成せられその弟子(金剛智)によりて支那に伝わり、善無畏(ぜんむい)三蔵によりて、大日経、金剛頂経などの経典に訳出せられると、金剛智の弟子(不空)が広めて、日本では空海が真言宗一派を生ぜしめたり。
 さて、密教が西蔵に侵入するのは、世親の弟子サンガダーサによるとされ、先ず印度北方カシミヤに入り、さらにプダバーリタによりて西蔵に伝わりしもの、これ皇紀一〇六七年(四〇七)にて、支那暦では東晋の安帝義熈三年丁未の年に当たる。以下これより喇嘛(ラマ)教について、その巣立ちと成長が述べられる。

●喇嘛(ラマ)教の巣立ち

 西蔵に密教が入り時空を経ると、印度から幾多の僧が招聘されて、数多の経典も訳出されて宣布が領域に広まる。のち高僧の輩出により、西藏風土に鑑み多少の修理が施され、ラマ教の成形として、西藏は古宗教を排斥し尽くすことになる。因みに、古宗教とは支那道士教に似て山川、木石の崇拝教ともいわれる。爾来、幾多の盛衰変遷を経て元(支那歴)にいたり、パクパ(発思巴)と名乗る者この地に生まれ、聡明絶倫七歳にして、経を誦して法を演じる、一五歳にして遍く三蔵に通じて、仏教を究める聖人として敬われる。元の世祖(一二八〇年代)この聖人を深く尊信のうえ、国師として天下の教門を統べしめたり。ただし、パクパ(一二三五〜八〇)はサキャパ派で、教説を創立したのは曽祖父クンガニンポ(一〇九二〜一一五八)ともいわれ、サキャパ派は代々帝師を出したが、元の国教となる事実なしとの説もある。
 しかし、日野が渉猟した地誌伝承は前記であり、発思巴が建立した宗派を喇嘛紅教とし、元の歴代帝王これを信奉するが、元末に至り、流弊百出ついに呑刀吐火の幻術を弄して、その改めを促す時勢に迫られる。
 また日野が現地で得た伝承は、元の帝王が発思巴の文字を国字とするよう詔を発して、これが蒙古学と定まり後世に生きており、喇嘛紅教を国教にしたという話を信じている。
 どうあれ、場の歴史に共時性を整えない状況では、この種の違いは幾らでも出現するし、誰が何して何とやらなど弄べば、単なる枝分かれが派を争うだけの話になる。明(支那暦)の永楽一五年(一四一七)に甘粛の西寧府に生まれたツオンカパ(宗喀巴)は、年一四歳のとき西藏に赴き、サキャ(薩迦)廟で紅教を学び、得度大悟その流弊を看破し、座視するを堪えられず、自ら救世主と任じると、純粋なる仏教真理を開く派を率いて、紅教の外に独立して黄教を開祖となる。
 その要点は、一に衣帽紅色が黄色に換えられたこと、二に咒語が改められたこと、三に教主の衣鉢は子が伝承せず転生児に指定伝授すること、という大凡三点に絞られる。その根底を支えるのは、教主なる者は世々転生のうえ人民を済度すべきとする考え方であり、それは世襲制に辟易する自らの体験に生じたものである。

●黄色ラマ教の転生児とは

 教祖ツオンカパの門弟として二人の偉才あり、ダライラマ(達頼喇嘛)とパンチェンラマ(班禅喇嘛)の二人を指すが、これも日野説に註記が付してあるので、先に日野説を出し、その後に駐を記すことにする。
 大海を意味する蒙古語「ダライ」は智慧大海の如きなるを称える語であり、一方パンチェンは西藏で「パンチェンリンポチェー」とも唱え、知識あるいは文学が宝珠の如きを称えて使われる。ダライ、パンチェンともに法位の名として使われ、世々ホビルガン(呼畢爾罕)すなわち(転生の義)を以て化身し、死のとき自ら往生する所を知る。その弟子その指示する者を迎えてこれを立て、常に輪回の止まらざるものと定めて連続性を保つと日野は理解している。
 註はモンゴル語ホビルガンを単純に化身と訳しており、さらにツオンカパの時代には、ダライラマやパンチェンラマの称号は存せずといい、次の如く日野説を補足している。
 蒙古のアルタン・ハーンが与える称号ダライラマはダライ第三世からで、同じく称号パンチェンラマは第五世の師僧が始まりで、共に法位と称号について誤解しないよう監修に加えている。以後も同じく註を使う箇所あるため、同じ表記法で対応するが、筆者の禊祓と異なる場合は私見も加えていく。
 ダライ第一世の名はゲンドンジュパ(根敦朱巴)といい、西藏の先王ツェンポ(賛普)の後裔で世々王位を継ぐも、ゲンドンジュパは王位を捨て出家している。
 註記は、古代チベット王が使う称号ツェンポの意を「力強い者」と訳すが、ゲンドンジュパが王族という事実はなく国王でもない。またダライ第一世から第四世まではデプン寺院の僧院長にすぎず、ダライラマがチベット政権を握るのは、第五世のとき初めて興ると修理している。
 再び日野説に戻るが、第一世はツォンカパに弟事、その黄教を学んで法を伝えて、衣鉢を継ぐと広く推尊され、西藏の国王また法王も兼ねて、依頼西藏国王の位は子孫に継がせず、法王の転生児に継がせて、さらにテイパ(弟巴)すなわち摂政の官を置いて副王の制度を取り入れた。なおテイパはチベット語デパまたはデシと同じ摂政を意味する。

●支那大陸を席巻する黄色ラマ教

 皇紀二一七一年(一五一一)明の武帝のときダライ第三世らは青海および黄河套(こうがとう)の地に至り、諸蒙古の族を教化する。これより各部族は諸王の如きも黄教に帰依して、改宗が蒙古全体に伝搬すると、ダライラマを生仏と見なすようになる。清朝に至ると世祖使を遣わせ、ダライ第五世を迎え西天大自在仏に封じて、天下の釈迦教を統括せしむる。これ皇紀二三一二年(一六五二)のことで、清朝が黄教を尊信する始まりなり。
 また、パンチェン第一世はその名をケージュブゲレクペルサン(凱珠布格埒克巴勒蔵)と称して、ダライ第一世とともに、ツオンカパを助け大いに黄教を振興せしむ。のちパンチェン第四世にいたり、国事に勤務その威望が大いに顕われ、清の太宗これを厚く遇して金剛大師の号を贈る。
 西藏全部を統治するダライラマと、ダライラマに従属して事を行うパンチェンラマは、西欧ローマ法王の如しと受け止められ、この世に出現した仏蛇の権化と尊崇の念を高めていく。
 ここに註がある。仏陀は既に涅槃に在るため、権化は観音菩薩に例えるべきと註される。世々各地ラマ教徒の家に転生すると確信せり、ダライラマの教化は転生児を求め後継者を選ぶと、いつの間にか清廷の勅を請うて定まるようになる。さらに副王パンチェンの転生児もダライラマが指定し、同じく朝廷の勅許を請う慣習が根付いてしまう。
 この経路も大江山系シャーマニズムに取り憑く性癖であり、現行ラマ教徒の迫害問題に通ずるが、筆者の禊祓は後述とし、ここでは日野の宗教観を優先して記述を進める。
 ところで、この時代にはすでにダライラマまたパンチェンラマに次ぐ、「タラナツ」ラマおよび「チャンゲー」ラマという新たな位が設けられている。この時代における日野説も重大ゆえ以下に続ける。

●喇嘛タラナツと喇嘛チャンゲー

 皇紀ジェブツンダンパに対する日野の註として、『仏教史』の著者チベット僧ターラナータ(一五七五年の生まれ)がタラナツラマであり、菩薩の転生と仰がれて、外蒙古クーロン(庫倫)に常駐するが配下一万の僧を率いる。その布教は蒙古全土に及び強大な勢力を形成していた。一方のチャンゲーラマつまりアキヤ・ホトクトとチャンキ・ホトクトとは別人であるが、共に北京と内蒙古で代々が活動している。
 すなわち、チャンゲーラマは北京のドロンノール(多倫諾爾)へと往来、また駐錫宗務に働き布教の督励に尽くしている。黄教の布教活動はまず教僧の督励に意を注ぎ、ラマ教僧が民に臨むときは、独り僧侶として伝道に服するのみならず、技師ともなり、医師、教師の仕事あるいは労力者ともなり、布教の傍ら民を助けた。
 例えばブリヤート(布哩雅特)族が露国帰属したのち、西藏ラマ教僧一二名を招いて、布教こいねがうとき、教僧らは不具および病弱の者に医術や算術など授けて、熟達に至らしめたり。露国政府は嫌忌するも、民は族をあげ黄教信徒となる。また清廷も在来の支那仏教を顧みず黄教に帰依した。この勢い及ぶところ、深く蒙古各種族の頭脳に入り、遠く東方満洲に侵入し、露領ブリヤート族から中央アジアの地域を風靡する。清廷これを尊信しつつも、政略一種の併用芽生えて、北京ドロンノールに広大かつ荘厳の寺院を建立すると、チャンゲーラマを優待のうえ、清廷とダライの連鎖となし、蒙古各種族における民心の収​攬に利用していく。つまり、ダライ転生を選挙制に仕立て上げ、万般の手段を尽くし蒙古および西藏の僧侶中より清廷に忠実を誓う者と結んで、外藩を統治する政策面に深く注意を払うことになる。
 次に新疆トルグート族の黄色ラマ教にも触れておく。

●オーム・マニ・パドメー・フーム

 観音菩薩の真言つまりオーム・マニ・パドメー・フームは、字義通りなら女神マニパドマに向けて呼び掛ける語であり、起源は不明とされるのだが、日野は「冀う所他なし、蓮華上の寶座」と釈している。
 この語はラマおよび信徒が最も尊重する語で、日本の『南無阿弥陀仏』と同じように唱えるのみならず、岩頭樹梢や墻壁(しょうへき)や石碑その他の什器にまでこの語は悉く刻まれ、甚だしきは人骨にも刻む者ありと述べる。
 これ実にラマ教では骨髄に当たり、経典の根本にして、ひとたび唱えれば、万言の経典を通誦せし御利益あり、災厄を免れ、成仏を祈る道と信ずるなり。黄教は深く見性度生を重んじ、声聞の小乗まら幻術の下乗を斥けて、純粋な大乗仏教の真理をくみ、深遠なる教理一種を組織したる風情のもと、ほとんど日本の真言密教を彷彿させたり、と日野は洞察している。
 さて、新疆トルグート族が奉ずるのも黄教で、黄教が新疆(ウイグル)に入るのは明末で、廟内に安置する仏像は西藏ラサ府で製作されたものであり、彫刻精巧を極め、装飾に金銀珠玉を鏤(ちりば)め美観は眩さを呈する。また仏画の軸物も古賀精妙のもの多くあり。ラマの服装は袍子袈裟を着して、僧帽を冠するが、老僧は黄色また年少は紅色を用いて、廟内は昼夜とも夥多(かた)の油灯(あぶらひ)が揺らめき、左右十数人のラマが羅列して鼓を打ち鳴らし、読経回向する様は、あたかも日本の寺院と大同小異なり、とも視察する。
 西藏(チベット)人や蒙古族のラマ信奉は極めて厚く、子弟の出家する者は在家を上回り、西藏ラサ府の廟宇は幾多もあり、すべて壮麗を極めるが、喜捨金は一に蒙古が賄うという。その金額は年々を重ねて数十万両にもふくれ、熱心な信者は千里も通しとせず、旅行に一年余を費やしながら宮殿に達すると長く跪いてダライの出座を待ち、ダライを見れば生涯の光栄と見なして千百金を献じ、甚だしきは家財を売却その金額を喜捨する。まさか創価学会最盛期と同じ狂信なのか。

●蒙古族ラマ教の狂信事由

 日野史観による蒙古史をひもとけば、蒙古人の猛悍凶暴は殺伐残忍なる民族なりし、元朝の始祖チンギスハンが、この種族を率いて西方を侵略するや、向かうところ、悉く屍は山の如く血は河の如き惨状を極めて、実に言語を絶するなり。この残忍凶暴の気風を消麿して殺伐を去りしは、その気風がゆえ当年一旦ラマ教に帰依していくこと、柔順無気力の性に化了するも宜なるかな。
  註あり、「これ不正確な俗説なり、ラマ教に帰依してからも、モンゴル人が行う軍事活動は少しも衰えておらず、清朝に征服されてモンゴル人が柔順になるのは、宗教と関係なくロシア人に後背地を奪われる恐れのため、清朝がモンゴル人の生活を保証して安定させたが所以」と説いている。
 再び日野説に立ち返る。
 往昔は旅客を発見すると、それ直ちに殺戮して貨物の掠奪を働く種族なりしも、ラマ教を信奉してからは、飢渇者に進んで飲食を与え慈善を施す民となれり。またラマ教は中央アジアの各種族を教化して、交通平和の媒介に貢献しうる道を説き、古来干伐のみ相見ゆる地に交易をもたらした。これにより、蒙古や西藏の各種族は同一の救主をいただき、常に相交わりて有無共通の民族となれり。戦を知りて平和を知らざる蒙古に対して、かかる感化を与えたるは、実に大乗仏教一派たるラマ教の力と言えり。
 共時性に伴う場の歴史一端であり、家財売却の金銀を衣裡(ころもうら)に逢着して、行く先々を乞食で補いながらラサに参詣、その金銀を喜捨して家に帰る様は、チョーシャン(朝山)またはチョーホワフー(朝活仏)と称えて、親近みな口を極めて賛美したと伝わるが、筆者の禊祓によればこれは正確ではない。
 日野も付記するが、ダライや高僧を見る信徒が地に匍匐して、欣喜の落涙で敬服を表わしても、家財売却の金銀を喜捨して、盛んに冥福を祈る信徒の如きは稀なり。その実態は、露天賭博のサクラと同じであり、今昔に変わらず、詐欺師が演じる行為に欺される者は単なる莫迦としか言いようがない。
 

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