【文明地政學叢書第三輯】第五章 日野強の人種論(前半)

●日野宗教説を補う人種論の要諦

 素を養い磨かず、素を汚す現行下においては、日野の宗教観を補うものとして、日野の人種に関する所見も示しておく必要がある。皇紀歴を使わず、生誕年も定まらない西暦で千切り取る認知症は、文明のカテゴリーを流行病でくくる理屈の繰り返しとなる。西暦二一世紀のビジョンも透かせないまま、世界最大の商業ビル自爆ショック(通称九・一一事件)に慌てふためき、宗教界のドンを任じる軍政キリスト教徒は軍政イスラム教徒を悪の枢軸と指名のうえ、前世紀の先送り事案に挑んで決着を試みた。ところが宗教界の利権構造は複雑なため、東西対立を政治単位で仕切る冷戦構造の設計と異なり、規則的運動を自爆させる放射性元素のように、信仰の系統経路を解く設計図を描く力量は整わない。
 つまり、昨日の敵は今日の友と思えば、今日の友は明日の敵になり、これまで可能とした隠匿情報が内部から漏れて何も信じられない現実から逃避もできないまま、どうせ死ぬなら道連れにという狂気さえ湧いてくる。
 北京五輪の開催を前に因子が揺らぐ支那大陸は言うに及ばず、五輪開催と同時進行のカフカス騒乱など、際限ない新世紀変動は史家の力量を試すが、日野に匹敵する情報は寡聞にして知らない。すなわち可否は兎も角、宗教と人種を主客で結ぶ眼目を欠くのが現代史家の取材なのである。

●新疆の人種と人口について

 続いて日野は言う。

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 皇紀二五六五年(一九〇五)わが該省の調査によれば、新疆住民一六二万四〇〇余人と発するが、これただ永住の世帯家族だけの算なれば、他の調査漏れ含めると、総計二〇〇万に見積もるも大差なき現実がある。人口は国政その他社会百般の調査上、これが根源なるがゆえ、最も正確を求め仕掛けを大きくするが、邦家いずれも往々正確を欠くものなり。況や戸籍法不完全の清国は調査微細ならずも怪しむに足らざるなり。現に省城たる迪化府(デイホウフ)、迪化(デーホウ)県内にすら、算外者三千余人に達するは推して知るべきのみ。人民これが基幹たり。人民の賢愚強弱は直ちに国家社会の文野優劣を現実に投影し、人はすべて国家の諸制度において、あらゆる社会現象の研究主柱となる。
 苟も国の内治、外交、軍事をはじめ社会の学術、技芸、農工、商業等の万般たる現象を研究せんと欲するなら、必ず第一にその国人(くにびと)の性情分野を知悉せざるべからず。人民の性惰分野の研究は須く人種の起源由来を遡り、それら変遷と現状とを精確にせざるべからず。また人種起源の変化と由来は、宜しく人類学の研究に待つべし。これに待たざれば、精密に調査して得ざるや論なし。現時新疆に住居する人民は、単にその皮膚の色では悉く黄色人種とす。然れどもその先天的性質すなわち生来の容貌、体格、性情とともに、後天的性質いわゆる生後に得る言語、風俗、習慣等について観察するなら、幾多の異人種から成れるを見る。
 今これを類別するとき、先ず六人種いわく、チャントーホイ(纏頭回)に、カザク(哈薩克)、ハンホイ(漢回)、ハン(漢人)、マン(満人)、モンゴル(蒙古)これなり。この総人口およそ二〇〇万人を六人種に配すれば、前記順に大凡一〇〇万人、二五万人、三〇万人、三〇万人、五万人、一〇万人と見るも大差なし。
——–

●日野の人種論概略①

 通説は「纏頭回」をウイグル族とし、当時トルコ系の言語を話すとするも、この地方がトルコ化したのは蒙古高原ウイグル帝国の倒壊(八四〇)後に、トルコ系ウイグル人が移住してからで、それ以前に話す言語はインド・イラン系であり、この原住民とウイグル人の混合を纏頭回と称する。彼らは回教信奉者で、礼拝のとき頭部に白布を纏う習慣から通称に用いられる。
 これ欧人は東トルキスタン人と称して、古くはアリアン人一種のペルシア人なりしが、しばしば東西各人種に征服され混交に混交を重ねて次第に素質を変じ、現今に見るところの如き雑種の民族なりし。口碑伝承によれば、ハミ(哈密)、トルファン(吐魯番)の纏頭回は純然たる蒙古族なりしが、回教に帰依して後に、言語風俗ともに纏頭回が同一に改まりしものたるは、その言語の訛り多きと容貌が蒙古族に酷似する点より宜なるかな。
 つまり、元(支那歴)代からハミ、トルファン地方は前記チンギスハンの第二子チャガタイの子孫の領地が清(支那歴)初に続いているためである。ちなみに記すと、イリに住する纏頭回を称してタランチ(惰蘭痴)という。タランチとは農民を意味しジュンガル王国時代にイリに強制移住させられたウイグルの農民子孫であり、もともと纏頭回の呼称ゆえ別種族の如く記すのは大いなる誤謬というべきである。
 さて、カザクに関する所見において監修者(護と岡田)は純然たるトルコ系として、日野はロシア系コサックと混同していると註を加えるが、ここでは敢えて日野説も紹介しておきたい。
 イリ、タルバガタイ(塔爾巴哈台)間の遊牧民カザクは、トルコマン種にスラブ族が混血せし、後キルギズ(吉爾幾思)族と混同せし伝承から、欧人これを称しキルギズカザクという。キルギズは漢人のブルト(布魯特)またはヘイヘイズ(黒々子)と呼ぶ族で、これを欧人はカラキルギズ(喀喇吉爾幾思)といい、南路のウシ(烏什)、カシガル、ヤルカンド(葉爾)の管内山中に遊牧、これムスルマン(木蘇爾曼)なり。

●日野の人種論概略②

 漢回とは黄河套の地に定着した中央アジアのイラン系ソグド人子孫で、唐(支那歴)代は六州胡で知られ、古くはサマルカンドの住民もソグド人である。つまり漢回(はんはい)は漢人(あやびと)に非ずして、現時は露領トルキスタン・サマルカンド地方の人民なり。支那に帰服せし後に言語、服装一切の形式様相を支那人同様に改めたが、奉ずる回教のみ改宗していない。そのため漢人(ハン)は彼らをして通称回々(ホイホイ)またはシャオチャオ(小教)と称するが、小教とは自ら尊信する儒教を大教(ターチャオ)と呼ぶため、いささか軽侮の意を含む呼称で使われる。漢回は新疆、甘粛に集中するのみならず、清国内にも多少は散在するが、南部ことに雲南地方に住むホイホイは海路アラビアより移住後に、帰化支那人となる別人種といわれる。
 対して漢人は、支那本部の固有人民にて、南北両路いたるところに居り、しこうして彼らの大部は商売と兵丁なり。
 そして満人(マン)は、満洲からイリおよびタルバガタイ管内に移住せし屯田兵にして、単に満人と称するは長白山地方の者に限って、奉天地方より移りしをシボ(錫伯)と名付け、黒竜江岸から来たりしをソロン(索倫)と名付けている。
 さて、監修者は蒙古族を「古の烏孫(いり)国民」とは関係ないというが、日野は次の如く記している。
 トルグート族とは昔のケレイト王国オーロト(ジュンガル、ドルベト)族ウイグル帝国の後裔で、ホショト族は東蒙古移住民と考えられる。トルグート(吐爾扈特)、オーロト(額魯特)、ホショト(和碩特)との族三種に分けられるも、元来は同一種族にして、古の烏孫(いり)国民でも往昔内乱から分離したるものなりという。この種族はユルドス高原ならびにイリ、タルバガタイ地帯を遊牧していた。また別にチャハル(察哈爾)という蒙古一族あり。これ往時張家口(チャンチャカオ)付近の移住民たり、屯田兵にして現時イリ、タルキ(塔勒奇)の山中を遊牧するという、以上六人種たる新疆現存の族は本来が新疆に生殖せしは少なく、多くは多方面から移住したるという。ならば何れの世、何処の地から移住したりか、これ以下の如く伝わるを記したり。

●纏頭回について①

 元来、黄白両種の中間が纏頭回つまりアフガン(阿富汗)人で、ペルシア(波斯)人と同じく祖は「アリアン」人種とす。彼らは遠く太古の世にペルシア湾付近チグリス河辺に蕃植し、ついに大国を興したるペルシア人の一部族とす。
 しからば彼ら祖は如何にして新疆へ来たるか、現地の伝承また次のごとし。西暦七世紀、回教の宗祖マホメット勢アラビアを統一、子弟は遂にペルシアを侵略いわゆるタジック(大食)国を建てし以来、後嗣しきりに領土の拡張につとめて、東北諸汗(ハン)の領土も併呑するのみならず、ツォンリン(葱嶺)を超えて天山南路に侵入すると伝わる。土人は葱嶺をパミール(巴密爾)といい、欧人は地球の屋脊(おくせき)というが、また天山(テンシャン)とは葱嶺キジルヤードのダバン(達坂)から蜿婉(えんえん)東方に走りて、ハミ(哈密)の東方六〇里、塩池山に至り止まる。当時南路には仏教徒たる蒙古族、漢族一部住居が在りしため、宗教戦二〇余年にも及ぶ激烈のもと、勝利ついにアラビア軍に帰する。土人の壮者は多く陣歿して、残るは老幼と女子の大部に限られ、従軍兵士ペルシア人は莎車(さきょ)・亀茲(きょうじ)等に留まり、土人の女と結婚その地に土着したる者が主流となる。
 以後チンギスハン(成吉思汗)蒙古に起こるや、天山南北路を征定一挙のもと、遠くペルシアおよびトルコを屠り、その精良なる人民を撰び属せしめ、東方へ帰る際に従うペルシア人も含めて新疆に入り来たりしとき、既に南路に在りし同胞と相逢い従属させこの地に土着したり。由来、彼らは東西の外国すなわちアラビア、蒙古、ペルシア、満、漢の連綿たる征服にあい、幾多の変乱経歴とともに人種もまた混血に混血を重ねて、かつ人口も削減を常とし、ついに祖先以来の本質を変じて今や清国人と差なきとなり。

●纏頭回について②

 現時の纏頭回その特徴として、祖先ペルシア人の面目を残すは男子に多く見られる鬚髯(しゅぜん)これ美なること、女子に多く見られる深目隆鼻の美なること、古今アリアン人種に酷似したり、また言語においても祖先の遺音を留めたり、北史を論ずる説によれば、高昌(トルファン)以西の人民みな深目隆鼻なり、ただ于闐(うてん)人やや支那人に似たるも、深目隆鼻はアリアン人の顔相にして、今になお同じ顔相を有する種族はヤルカンド地方にも多くいる。ヤルカンドにおいては、往昔ペルシアの言語が用いられ、以西の土民も西トルキスタン人と同じく祖先はみなタジク国民たりしを、後に突厥(トュルク)種族のため西に追われ混合したるという、この説その裏付け近くても、トルファン以西を悉くタジクすなわちペルシア人と断じるは、少しく杜撰を免れず、正確に調査すればタジクは種七分で他三分は混和の種なるらん。
 もう一説これ欧州人の唱えるところ、天山南路すなわち東トルキスタンの人民は、混合せる人種よりなれり。支那の歴史上および地理上から仏教が未だ入らざる以前は、アフガン、ペルシア等と同じくアリアン人種なりしこと疑いなし。現に、東トルキスタン一部はペルシア苗裔にして、峡谷アムガリヤに棲息するガルチャス族一種たるは争うなき事実とす。その容貌はロシア、トルコ、ブハラの人種と均しく、骨格長大にして威厳あり、性質も爽快にして正直なり。よく祖先の慣習を順守して、太陽ならびに火焔を崇めり。また他の種と雑居するにも拘らず、かつて固有の風俗を改めることなし。ヤルカンド河の上流にありては今なおよくペルシア語を説話する部落ありという。
 けだし南路の纏頭回および他の住民らが使う言語は、すべてトルコ語から生じるカシガル語にして、そのうちハミとトルファンは訛り音が多く他と同じからず。これを中央アジア諸汗の国語と比較すれば、ただ物名種々に分かれ、それら用法の異なる点は支那語の混用に通じるが、字体は横書きでアラビア文に同じとす。こうした諸説を含め考察すれば、纏頭回の大部分はペルシア人なること疑いなき如し。

●蒙古族について①

 トルグート人、オーロト人、ホショト人は、いわゆる「モンゴル」種族と同一系統にして、アジアの各人種は大部分が「モンゴリアン」と称される。支那人は宋朝末期から彼らを蒙古と呼び、また明末に至るとタタール(韃靼)と称せり。けだし彼らは周代から、しばしば辺境を侵し、春秋時代以降、秦漢の時代にわたりては、戎狄もしくは匈奴あるいは玁狁(けんいん)と唱えるも、また同種の一つの部族なるべし。彼らは蒙古の大砂漠中にて水草を追い遊牧し氈幕(せんまく)を張り生活したが、性質は剽悍にして武を好み男を愛し、しばしば支那を苦しめ征服に至りしは、中央アジアに大帝国を建てる。これ威勢隆々として欧亜の大陸を震動させては、遠く日本にまで来寇せしこと何人も熟知の歴史と知れり。
 蒙古族の本源地は未だ何処なるか詳らかにあらず、諸説の話題となる塞(さか)、月氏(げっし)、烏孫(いり)の族について、諤々紛々たる議は出るも、日野の伝聞も惨たるは免れず。これ記紀以外に解くものなく後述で明らかにする。
 次第はさておいて、日野本の記述を優先して蒙古を説きたい。彼ら祖は釈尊の出た塞(サカ)族ともいわれ、また月氏国あるいは烏孫国から出た種とも伝えられており、肝終車もサカはイラン系の遊牧民であり、月氏、烏孫もイラン系あるいはトルコ系で、モンゴル族とは関係ないと補足している。日野はサカ国が分散して、月氏そして烏孫の国となったとする露国クルバッキンの著書『カシガル師』の記事を紹介している。その記事に曰く、
「当時月氏破れて西走せし時その一部は天山を北に越えてイリの谷間に入り一部は南を超えてインドの谷間に現れ残は東トルキスタンに留まりてサカおよびヤートの種と混和せり」
 さらに日野は、他の情報も加えて、サカ族、月氏国、烏孫国、蒙古に及ぶ沿革を記しているが、人種の混血は歴史の常である。

●蒙古族について②

 伝教師ユグは「月氏国がイリ谷間に入ったもの、すなわちトルグート」というが、トルグートは一一〜一三世紀まで外蒙古に栄えたケレイト国の後裔であり、イリ渓谷に移住するのは一五〜一六世紀ころゆえ月氏と結ぶ所以はない。
 さて、元(支那歴)が滅びて蒙古族は分離するが、大きな仕分けとしては漠南の内蒙古と漠北の外蒙古がある。外蒙古には、カルカ(哈爾喀)およびオーロト(額魯特)が拠を構えたが、オーロトは明代に西北の地を呑み込む勢いを示し、更なる分離が起きて次の如く総称四オーロトの名で呼ばれる。すなわち、トルグートはタルバガタイを拠に牧し、ジュンガル(準噶爾)はイリ(伊犂)を、ホショト(和碩特)はウルムチ(烏魯木斉)を、ドルベト(都爾伯特)はイルチス(額魯斉斯)を拠に牧した。うちホショトは青海の地に拠を広げると、西藏(チベット)へ侵入し、その東部カム(喀木)をも占有した。
 因みに、カムは現在の四川省西部に含まれ、考古上の実証情報が潜む場であり、黄河文明や長江文明に比肩する歴史を有するが、北京五輪の前に騒動勃発する西藏、新疆に潜む諸問題と、豪雪、洪水、四川省大震災とが重なる共時性を禊祓すれば、未来透徹に苦はあるまい。
 西暦一六〇〇年代ジュンガル族は隣接四諸部を併呑し、西はバルハシ湖周辺から天山南北路まで及び、青海ウェイザン(衛蔵)すなわち西蔵押領を果たすと、大規模な国家建設のもと、東方カルカ蒙古(外蒙古)をも侵略しつつ、清国まで迫るも累年の戦い利を得られず、清兵に剿滅(一七〇〇年代)される命運となる。現時新疆の西北山野に見られる遊牧民オーロト族がこれらの残余といわれる、一方トルグート族はジュンガルハンに与せず、部下二〇万を率いるホーオルルクハン(和顎爾勒克汗)とともに氈張(せんちょう)五万の荷を担いタルバガタイ(塔爾巴哈台)を脱して、ホーウオワ(後窩瓦)の広野を占領、露領アストラハン(亜斯達拉罕)からサラトフ(薩拉土夫)などの地を侵して、西部シベリヤをかすめトボリスク(多波利斯克)に辿り着くが、当時の露国はポーランドと戦時中という事情を抱えていた。

●蒙古族について③

 露国が戦時中という漁夫の利を得たホーオルルクハンであったが、野望に駆られるままの暴走行為は、敢えなく戦場の露と消える。その後継者アユキ(阿玉奇)ハンは対露策として清国に貢いで支援を期待したが、結果は露国に仕えるほかない立場となる。
 以後、露国の厳格なる管理下に敷かれたトルグートは、自ら奉じた宗教までキリスト教に改めさせられる。故地を慕う情が募って限界値に達すると、アユキハン曾孫ウバシ(渥巴錫)は、約一六万の族を率いて脱シベリヤ行を決した。その行く先々においてカザク、カラキルギズ、イリなどに悉く遮られ、生存者七万余りという惨状を呈しては、清国帰服しか選ぶ筋なきとなる。
 清朝の廷臣この議を不可と決するが、高宗衆議を斥けて曰く「前にシェレン(舎楞)逃竄(とうざん)するやこれを露国に求むるも与えず。今、ウバシ露国に背きて来る。露国もし彼を索めば、我またシェレンを以て答うべし。況や我ウバシを拒めば彼また何処にか往かん。生を求むる者を死に致すは不仁なり」と。
 この降で廷議くつがえり、再びトルグートの扱いを巡る議が行われる。つまり、清国がジュンガルを蕩平したとき、トルグート族のシェレンが逃れ来たりて説くに、現今イリの地は空虚となり、帰還これによる好機なるを以てす。加えてオーロト部族の逃竄で来たり投ずる者みな言葉を同じして、帰国の利を説き衆また故地へと還らんことを勧めた経緯から、ウバシが脱シベリヤ行を決した義を高宗は降ろしたのだ。これらの経歴を踏まえて成立するのが清朝の行政単位「旗」である。
 すなわち、ウバシハンの率いる衆生が新トルグートなら、清国領に在留した衆生は旧トルグートに相当するが、この新旧を熱河に召し、カラサル管内ユルドス、北路の西湖、精河とアルタイ河の西方に官営の遊牧を配したのであった。

●蒙古族について④

 ジャサク(札薩克)とは行政単位「旗」の代表者をいい、官牧の牛馬羊一四万、官茶二万封、米麦四万余石を発したほか、羊裘(ようきゅう)五万余襲、布六万余匹、棉六万余斤、氈幕四万余を講ぜしめ、ともに帑金二〇万余を費やせりと記録あり、ウバシをハンとして、弟を王に封じたトルグート行政体制は台吉(タイジ)、貝勒(ペイレ)、貝子(ペイセ)ほか様々な役職名を有した。これらトルグートハンに属したホショトは僅か三〇〇余戸カラサルの山野に遊牧しており、その他の蒙古族も一般に蒙古語を話すが訛りあり、また蒙古字を知る者は少ないといい、ただ西藏言語文字に通じるラマはよく蒙古字を解するとの記が日野の取材である。蒙古は概ね身体強壮なるも長大ならず、顔面は扁平、鼻低く頬骨が秀でて、肌膚赤色を帯びて容貌とする。性質一般に純朴で、勇武の点カザクに比すると大いに劣ると言えり、老若男女とも騎馬に巧みなるもカザクに及ばず、沐浴せず、衣服の洗滌もなく身辺不浄は驚くべし。現時蒙古族の志気はしなく振るわず、往昔チンギスハンに従い、欧亜の大陸蹂躙したる勇武壮心は去りて、念仏のほか何事も解する風なき感あり。

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