修験子栗原茂【其の三十一】箕作家の系譜と阮甫が属した津山藩

 以上、道真の私案と後醍醐天皇の型示しに念を込めたうえで、前記した箕作家に係る人たちの個人情報に触れるとする。ほとんど通史に紹介される記事のコピーと思うかもしれないが、そこには私の意図する思いが潜んでおり、ここでは脚注程度に留めたいのである。

 箕作省吾(一八二一~四七)、出自は領主水沢伊達氏(=北家道兼流留守氏)の家臣佐々木秀視の二男として生まれる。水沢の蘭医坂野長安(高野長英の師)に蘭学と漢学を学んだあと、江戸そして京都で蘭学の素養に深みを増して、各地遍歴に伴う地勢をロードマップに仕込み、産業や風俗などを探索してまわり、地理学者への足固めを行ったとされる。

 坂野長安に報告のため一旦は水沢へ戻っており、長安の指示に順い箕作阮甫の弟子となり、阮甫の四女しん(=ちま)と結婚婿養子となる。弘化二年(一八四五)日本初とされる世界地図『新製輿地(よち)全図』と、その解説書たる西洋地理書『坤輿図識(こんよずしき)』を著している。

 省吾は山村才助(一七七〇~一八〇七)に並ぶ地理学者とみなされ、その著作は福沢諭吉の「西洋事情」以前における名著といわれ、鍋島斉正(最後の佐賀十代藩主=直正)や井伊直弼(彦根十五代藩主)らが省吾本を外交の指針とする、また吉田松陰や桂太郎が抱いた大志の源流ともされる。

 省吾の享年二七歳、未亡人しんは、姉つね(阮甫三女で秋坪の妻)の死後に秋坪の後妻に、省吾の忘れ形見貞一郎はのち幕臣→官僚→洋学者→法学者→男爵を叙し、麟祥(りんしょう→あきよし)と改名のち貴族院勅選議員、和仏法律学校(現法政大学)初代校長など歴任している。

 箕作秋坪(しゅうへい=一八二六~八六)は、備中(現岡山県)の儒者、曽祖父好直正因(医者)は菊池應輔亮和の婿養子、祖父慎は好直正因の養子、父陶愛は慎の子、秋坪は陶愛の二男、これ全員菊池の姓であるが、曽祖父も祖父も父も旧姓不明で秋坪だけが菊池家に生まれた。秋坪自身も阮甫の箕作家へ養子入りした娘婿であり、妻の阮甫三女が早世すると、妻の妹(阮甫四女で婿が早世のため未亡人)を後妻とするため、私が箕作家を日本のハプスブルグ家と呼ぶ所以これなのである。

 秋坪は初め阮甫に学び、次に緒方洪庵の適塾に学ぶことで、両者から弟子として認められる。嘉永三年(一八五〇)阮甫の三女つねと結婚、二人の子に長男奎吾(夭折)・二男大麓(父秋坪の実家=菊池家の養嗣子となる)・三男佳吉(動物学者)・四男元八(歴史学者)が生まれている。

 幕末期の秋坪は幕府天文方で翻訳に従事しており、東大の前身蕃書調所(一八五九)の教授手伝を経て文久遣欧使節(一八六一)に加わり、福沢諭吉、寺島宗則、福地源一郎らとヨーロッパ視察のち樺太国境交渉の使節としてロシアへ派遣されている。

 維新後の秋坪は新政府に仕える事を好まず、当時の慶應義塾と並び称された三叉学舎(旧津山藩の江戸中屋敷一角に開いた秋坪の私塾)開設ここに学んだ学徒には、東郷平八郎、原敬、平沼騏一郎、大槻文彦などの名がみえる。また専修大の前身開設に際しては、法律経済科の創設者相馬永胤などに教授委任の協力を為したとされる。

 国立科学博物館の前身教育博物館の館長(一八七九)を務め従五位に叙せられ、帝国図書館および国立国会図書館の前身東京図書館の館長(一八八五)や東京師範学校の摂理も務めている。森有礼と明六社(啓蒙学術団体)を創立まもなく社長に就任、東京学士会院創設(一八七九)の一人となる。

 古賀侗庵(古賀精里の三男)に学んだ秋坪は漢学の大家であり、その教育方針については、児童の時期二、三歳から六、七歳までの間が最適と主張しており、その若い父母とくに母親への教育こそが重要であるとの主張を強めている。私の実体験からも全面的な共鳴共振を覚えてやまない。

 それは古希を迎えた私の代わりに死んだ修験三九歳が命を犠牲に教えてくれたことでもある。

 そして、秋坪の旧姓菊池家へ養嗣子に入る秋坪の子大麓(だいろく)、その個人情報は後記するが覚るべきは氏姓鑑識であり、菊池姓の鑑識が出来なければ何ゆえ、菊池秋坪が箕作家へ養子入りして子大麓を再び菊池家の養嗣子に戻したのか、これが解明できなければ、道真や親鸞が透徹した未来を透かすなど無理としか思えない。私が順番を阮甫の末娘からにした事にも関係するのである。

 阮甫の二女(夭折)、長女せき(=さき)の婿は山田(呉)黄石(広島藩医)で阮甫の弟子だった事から結ばれ、その子に呉文聡(あやとし/ふみあき)と呉秀三がおり、日高秩父は二女りきの夫で書家、呉の家系についても手を抜く事は許されない。

 広島藩で名医とされる山田黄石(一七八八~一八二八)の子も黄石(おうせき)を名乗っており、黄石二代目(一八一〇~七九)が姓を呉(くれ)に改めた事も後記とするが、黄石二代目は阮甫から十一年後に生まれて娘婿となる。その事由も軽視は見逃せないはず…。

 文聰(一八五一~一九一八)は黄石二代目の長男、江戸青山藩邸に生まれ、鉄砲洲の慶應義塾卒を経て太政官正院政表課(後の内閣統計局審査官)に入り(一八七五)、欧米流の国勢調査実施を唱え杉亨二(こうじ=一八二八~一九一七)、内藤守三(一八五七~一九四六)と共に実施の日程表まで整えたが、日露戦争で延期のち第一回の調査(一九二〇)は大正時代となるが、それは現在も形のみ続行中にあるが、近頃の何でも継続を嫌うマトにされている。

 文聰は東京統計協会を創設すると、雑誌『経済及統計』の創刊ほか、内務省衛生局、駅逓局、農商務省の各分野で統計整備に指導的な役割を果たし、統計学担当の慶大教授になっている。六男三女の子をもうけ、長男建(一八八三~一九四〇)は医学者、四男文炳(ふみあき)は日大四代目の総長を務め、歌手で俳優の高英男(本姓吉田)は妻やす(高気一の長女)の甥にあたる。

 呉秀三(一八六五~一九三二)は周蔵手記でお馴染みであるが、黄石の四男で文聰の弟、兄と同じ広島藩邸で生まれた。漢籍を学び漢学を愛好その『唐詩選』や『三体詩』は五、六歳で暗記したとも伝わるが、父母の相次ぐ死去で生活苦に追われた時一六歳だったとされる。生活のため東大医科在学以前も以後も医学書を出版するなど、天与の資質を超克した苦労人のように思える。

 大学院で専攻した精神医学は、東京巣鴨病院の助手兼医員(一八九一)として働き、論文「日本の不具者」と「精神病者の書態」がその成果だとされている。以後、心の病に軸足を定めて、精神学と法医学の主要な書籍を著したあと、オーストリア=ハンガリー帝国・ドイツ帝国へ留学(一八九七)ウィーン大学のオーバーシュタイナー教授に神経病理を学んでおり、クラフト・エービング、ハイデルベルク大クレペリンほか、ニッスル、エルプなどの教授陣とも多くを得たとされる。

 職歴としては、母校教授、巣鴨病院の医長や病院長、初代松沢病院(府立→都立)長など歴任その業績は「日本精神医学の草分け」と称されている。また医学の歴史にも造詣すぐれて、シーボルトや華岡青洲、外祖父阮甫などの伝記を著し、私の如き浅学にも理解可能な道を啓いてくれた。

 少し私事を挿入しておきたい。呉秀三に関するからである。

 私二七歳で初の子を授かったとき、秀孝六〇歳が一酸化炭素中毒の後遺症で脳動脈閉塞という予測不能な病状におそわれた。熱い冷たいが判断できずに水風呂につかるとか、満腹も空腹も分からずに食品店で調達した物を食べつくすのである。単なる一例にすぎないのであるが、瞬時も看護を欠かす事できない症状であり、為すべき手を尽くして疲労困憊の日々が続いた折、この時も私達一家に助け舟を与えてくれたのが佐野善次郎その人だったのである。

 私は脳機能が働かないため異常行為に気づかないのだろうと思い込んで、それを前提に限りのない拠り所を探しまくった。佐野が私に手配してくれた先には、松沢病院の医長と院長がおり、しばらく秀孝を診察したあとで私に精神病理を実に解りやすく説いて下さった。その内容こそ呉秀三が遺した精神医学の根本だったのである。愚かな私を呪縛していた病魔は一瞬にして消え去った。

 病に冒されていたのは秀孝より私のほうが重症だったのだ。

 以後一年間は松沢精神病院(都立)が秀孝を預かってくれたが、憲法を都合次第に操る制度設計の霞が関にあっては、いつまでも患者の長期入院を認めようとしないから、秀孝も退院やむなき事態に追いやられ自宅療養を続けるように変わった。この環境変化に対応できないのが心の病であり、今も増え続ける心身不安定な病は、精神医学を軽視する政策に原因が潜むのである。

 これもまた、呉秀三が遺した家督を軽視する社会に責任が潜むのである。

 私は退院した秀孝を車に乗せ奥多摩へ向かった。山間で景色の好い森林に腰を下ろすと、しばらく無言のまま自然の気配に身をまかせた。何と秀孝は石鎚山の事を話し出したのである。私は心の扉を精いっぱい広げて、秀孝の話に大げさな反応を見せていた。そして、笑ったり、泣いたり、手を取り合って、樹々の間を歩いたあと、芝生に寝転んで思いっきり、手足を伸ばしたのである。

 それは幼児期の私が秀孝に連れ出され、森林の中に放たれた体験がよみがえるものでもあった。

 秀孝がポツリと呟いた。「あー石鎚なんだよなぁー」この一言で決まった。

 以後、秀孝は私が探した山間の精神病院で死ぬまでの二十年間を過ごし、その間一度たりとも家に帰りたいとか、退院したいとか、言ったことなく、病院内の誰とも仲良く過ごして、私が子供を連れ月一度の見舞いに行くと、必ず合掌して「家族みんなの事お願いね」と頼み込むのである。

 私が身に帯びた呉秀三の精神病理これが私の自負する解釈の実践なのである。

 本題に戻るとする。少しおさらいをしておきたい。

 阮甫が属した津山藩(現岡山県津山市)は関ヶ原の戦後、小早川秀秋が藩主となり、嗣子ないまま死去のため廃絶(一六〇二)、翌年、川中島(信濃)藩主森忠政の入部となるが、その入部には尋常一様と言えない騒動を巻き起こしている。この森氏は清和系河内源氏流で八幡太郎の四世孫森伊豆守頼定を祖としており、忠政は信長の家臣森可成(よしなり)六男(末子)、周知される蘭丸=長定は兄にあたり、父可成は忠政の生誕年に戦死、嫡男可隆は父より早くに戦死その享年一九歳という。

 津山の築城と藩名そして立藩はこの忠政が創建したものである。藩主四代目長成死去のあと後継の不祥事で幕府に召し上げられ、元禄十一年(一六九八)結城秀康を祖とする越前藩分家の松平宣富が入部のあと、廃藩置県まで松平氏が治めるも、藩主八代目は将軍家斉の十四男斉民を養子とした。

 津山藩は美作(ミマサカ)国の大半を領したが、地名の由来は御坂(三坂=ミサカ)と甘酒(ウマサケ)の産地から生じたとされる。この地は古代に罌粟が植栽され、それが医療と結びついて多くの名医を育てたという修験の口伝が私の耳にのこる。津山藩医は箕作家のほか、宇田川家もあり、開国日本の切り口を拓くかのように、吸収した洋学を近代科学の発展に結びつけたともされる。

 ちなみに、平沼騏一郎(一八六七~一九五二)は、津山藩士の父晋(一八三二~一九一四)二男で司法官僚から第三十五代首相に昇っており、津田真道(一八二九~一九〇三)は脱藩後に蕃書調所に雇用され、新政府では司法省へ出仕のち第一回衆院選で当選そして衆議院副議長になるが、留学中はフリーメーソンリー「ラ・ベルトゥ・ロッジ・ナンバー7」の会員になったという。

 少し美作国を知ってほしい。北東の因幡、北西の伯耆、西の備中、南の備前、東の播磨に隣接する地と言う時代があった。中国山地が瀬戸内海へ落ち込む内陸山間地であり、平地は山々の間に盆地が点在するだけ、主要な盆地は三つとされ、西部の真庭市を流れる旭川沿岸の盆地と、吉井川が流れる津山盆地は東西広域に広がる中央部を有しており、東部の美作市盆地は吉井川に合流する梶並川とか滝川などの水域がある。

 これら三つの盆地を核に西方(真嶋郡、大庭郡)と中央部(苫田郡、久米郡)と東方(英多郡、勝田郡)に区分けするのが一般的とされている。

 西北の蒜山(ひるぜん)山麓に高原あり、中北部の那岐山麓に日本原高原が広がり、広戸風(ひろとかぜ=日本三大局地風の一つ)と呼ぶ山嵐(おろし風)に襲われる。

 旭川と吉井川の上流域に位置した美作国は近代化されるまで高瀬舟を用いたが、周縁部に居住する先人は国内よりも隣国人を装う事を多としたようである。すなわち、交通が不便だったのだ。

 和銅六年(七一三)備前国から前記六郡を分けた備前守は、その初代美作守に備前介を就任させる勅許を得ている。備前守は百済王南典(くだらのこにしきなんてん)で持統天皇五年(六九一)祖父百済王善光(ぜんこう)らと共に天皇から官位叙任の資格証を賜り、同十年従五位相当に叙せられ、和銅元年(七〇八)備前守(従四位下)に任ぜられた。備前介の上毛野堅身(かみつけのかたみ)は慶雲四年(七〇七)従六位下から四階級特進の従五位下に任じられていた。

 当時は飛鳥から奈良にかけての時代であり、縄文の内地人と、羅津の里帰り組が、共に朝廷貴族に任じられ、帰朝組の下に内地組が仕え協働したとは私が聞く修験の口伝である。武内宿禰から生じる蘇我氏や佐伯氏など氏姓鑑識の事例に基づく修験の口伝こそが、万葉集や記紀に基づき御用学が編む文献よりも、私には得心が得られるモノゴトばかり、教えられたら検証するのが誠実というものだと私は自負するのである。

 それはさて、美作の分立は吉備国分解の最終段階であり、資源の鉄を吉備氏から大和政権直轄下へ置き換える時代の要請だったと思われる。その一連に係る目的に美作も加えられていた。

 その証が立つのは平安時代からである。美作は平家全盛期に平氏知行国となり、在地先住の郷士は平家方に与したとされ、鎌倉時代は有力ご家人の梶原景時、次に和田義盛が守護になるが、両者とも政権内部の抗争に敗れ族滅に瀕しており、北条氏の領国に変わると足利氏の荘園が増えていった。

 つまり、美作国が古代から一貫しているのは、永続を保つ安定勢力が実在しないこと、南北朝から戦国時代の終焉まで調べても、周辺の大勢力たる山名氏、赤松氏、尼子氏、浦上氏、毛利氏、宇喜多氏など、これら大身の草刈り場にされるだけ、美作を率いた大身の武家は実在しないのである。また美作を州で呼ぶ場合は、美濃(岐阜県)を濃州と呼ぶように、美作は作州と呼ばれた。

 小早川秀秋も約二年で断絶それ以降は前記の通りである。以下、美作六郡にも触れておきたい。

 英(あいた)郡は東端播磨の国境沿い領域で英(一六七四)と改字、のち北部を吉野郡へ分け再び合併(一九〇〇)その郡名は英田とされる。

 勝田(かつまた)郡は英多郡と苫田および久米郡の間に位置して、勝間田(かつまた)を軸に後年勝南郡と勝北郡に分けるが、再び合併(一九〇〇)その呼び方も勝田(かつた)郡と変える。

 苫田(とまた)郡は中央部の吉井川より北にあり、後に苫西郡と苫東郡、更に苫北郡と苫南郡とに分かれ、その改称として、西西条郡、西北条郡、東南条郡、東北条郡の地名が生まれ、再び合併して苫田郡へむしかえすのは前者と変わらない。

 久米(くめ)郡は中央部吉井川より南にあり、後に久米南条郡、久米北条郡に分かれ、再び同期の合併で元の久米郡となる。

 大庭(おおにわ/おおば)郡は西部の内、蒜山と東半の領域で明治三十三年(一九〇〇)真島郡と合併して真庭郡と改称された。

 真島(ましま)郡は西端備中の国境領域、前者どおり、真庭郡と改称された。

 前記の通り、美作が備中の六郡を以て成立したのは和銅六年、苫田郡が東西分割(八六三)のもと七郡になる記述は和名類聚抄(九三一ー八)に見られる。鎌倉期の拾芥抄(しゅうがいしょう)では郡の数が十一とされ、慶長年間すなわち小早川家の代に東北条、東南条、西北条、西西条、勝南、勝北などの郡名が正式になったという。

 ちなみに、美作守には日野流真夏(八〇七)や土師流大江定経(一〇三五)も任官しており、その在地家名をたどると、英田郡の江見氏(平家全盛期から活動)、勝田郡の有元氏(室町幕府から奉公衆と呼ばれた)、また津山藩主家森忠政に協力した伴氏など旧家の名が少なからずある。江見氏と有元氏は美濃部流菅家すなわち菅原家分流の甲賀シノビ衆(柏木三家)の一であり、伴氏も甲賀シノビ衆(柏木三家)の一であり、その氏姓は当該の地名や村名と深い関わりを有している。

 以下、知る必要ある津山藩の経歴を要略しておきたい。

 森忠政(一五七〇~一六三四)は信長の家臣森可成(よしなり)の六男(末子)、母は濃州豪族の林通安の娘えい(のち妙向禅尼)で、生誕年に父可成が戦死(長兄は父より前に戦死)のため家督は次兄長可(ながよし)が継いだと伝えられる。ちなみに、忠政は美濃金山城で生まれた。

 母=妙向禅尼は一向宗だった。信長と本願寺との石山合戦あったとき、講和の条件に「森家の者は僧籍に入れる」とあったので忠政が出家の身とされた。のち可成の娘婿(関成政)の四男の竹若丸と交代して忠政は還俗することになった。

 信長の小姓で出仕(一五八二)した際に、同僚と揉め相手の頭を扇子で殴打それを信長に見られて母の居る美濃に戻されている。のち母と共に近江安土城に居るとき、本能寺の変、その政情不安から母子を連れ出して、自分の所領に二人を匿ったのは甲賀シノビ伴維安(柏木三家)であった。

 やがて金山城の平定が保たれるようになり、家督を継いだ長可から迎えの使者が出され、引渡しを行う伊勢の地で甲賀シノビ衆に護られた母子は無事に引渡された。城主長可が戦死(一五八四)する小牧・長久手の戦後、その後継につき長可の遺言状があり、主君の羽柴秀吉に届けられた。成人前の忠政より、後継は信頼できる武将に任せたいとの意向であったが、秀吉は家老二人を後見役に忠政に金山城を継がせた。忠政は恩ある甲賀シノビ衆に仕官を打診その多くを召し抱えたとされる。

 忠政の初陣(一五八五)一六歳のときで、翌年は秀吉の関白拝賀に参内、豊臣の姓(一五八七)を賜り侍従(従四位下)に叙任、同時に羽柴姓と桐紋の使用を認められ羽柴右近大夫忠政と称した。

 同年の九州征伐には病の自分に代わり、大将に林為忠、副将に伴惟利の陣代で派兵しており、病が癒えた小田原征伐(一五九〇)では自ら韮山城攻めに参戦している。朝鮮出兵の折には、九州名護屋城普請の奉行として、兵二千人を率いて城下に参陣、伏見城普請や方広寺大佛建造などにかかわる。

 秀吉没(一五九八)後は家康に接近、伏見城下で家康に対立したのは、前田利家と石田三成という事になっている。両陣営の諸侯や軍勢が参集その緊張感みなぎる中にあって、徳川屋敷に駆けつけた忠政は丸三日間を詰め通して家康の賞詞を得たとされる。

 忠政かねてより希望していた川中島(信濃)十三万七千五百石への加増転封の話がまとまる。これ太閤蔵人地九万石を廃止の上の加増転封(一六〇〇)であった。同年二月、川中島四万石の田丸直昌城主と互いに入れ替わる領替えが行われた。このとき、忠政は河尻秀長や妻木頼忠など美濃残留組の手配も済ませていた。この領替えに対する説いくつかあるが的を射たものはない。

 川中島へ入部した忠政は、兄長可を裏切った高坂昌元一門を探し出し磔にするなど、当初から強硬姿勢を印象付けて、居城の海津城を「待城」と改称している。関ヶ原の戦前や戦後に係る駆け引きや軍記は多岐に及ぶも私見かぎりないため省くとする。忠政が信濃四部すべての総検地(一六〇二)を行うと、石高は五万石以上の上乗せとなり、それが増税に跳ね返ったため、圧制と領民の対立は一揆勃発に達したが、忠政ひるむことなく徹底した強硬策を続行した。

 この全領一揆は善光寺に伝わる「千人塚」に示されるが如く凄惨をものがたり、鳥打峠で磔となる犠牲者は数百人の単位と言われ、死者六百人を越えるとも伝えられる。

 小早川秀秋の死(一六〇三)は忠政の転封要因となり、川中島には松平忠輝(家康の六男)が入る事になった。これもまた、尋常一様ではない工作が潜むのであるが、ここでは省く方策しかない。

 忠政の美作入封にいち早く反応した勢力は、元小早川家臣団や元宇喜多家臣団そして在地土豪らで総勢二千六百八十人余に達したという。美作への通行路は直ちに封じられたとされる。

 忠政は一報を受けると、女子供を含む千人くらいで信濃を発ったとされる。一般説は忠政が美作へ入った事由について、調略を以て菅党の有元佐政を寝返らせる事に成功したという。すなわち菅党は菅原家の分流また有元氏は有力な国人と千切り取りたいのであろう。

 私の氏姓鑑識によると、美作に移住した有元氏は、甲賀シノビ衆のうち美濃部家(柏木三家)から抜擢された手練れが、南北朝の時代に美作勝田郡へ入植したのであり、郡内広戸村の廣戸氏、同植月村の植月氏、他に鷹取氏、福光氏、原田氏なども同系であり、英田郡の江見氏も同系ちなみに吉野郡竹山城主新免氏から出た宮本武蔵も道真流美濃部家が輩出したと私は自負している。

 どうあれ、有元氏の案内で美作入国を果たした忠政の相手方においては、忠政を討つべく敢行した夜襲が空振りしたうえ、別動隊との同士討ちなどあって、急こしらえの連携が功を得ないまま、機を見て敏なる有元氏一派の切り崩しで、一揆勢は自ら瓦解へのコースに乗せられた。

 美作入国前の森忠政体制を検証すると、古参家老(各務元正と林為忠)の二頭体制に始まり、若い忠政を支えてきたが、美作入りの際は各務(かがみ)元正没後で嫡男元峯が継いでおり、若い元峯の不足は古参林為忠の担うところが大きかった。そんな折りの美作入りであった。

 美作入りに際しては、新たな築城と検地が最大の課題となった。築城の場を選ぶに際しては、重臣井戸宇右衛門との間に対立感情が高ぶって、結果的に殺害する事になり、その不祥事に筆頭家老の林為忠一門も出奔してしまった。筆頭家老の穴埋めは若い各務元峯のほか居なかった。

 忠政の検地(一六〇四)は伴直次(柏木三家)を総奉行に行われた。前年の事件で築城の場を変え地名を鶴山から津山へ改め城の名も津山城と決している。同時に荒廃していた大聖寺も再建する事に決している。再び藩内抗争(一六〇八)が起こるのは忠政が参勤交代の江戸滞在中であった。

 忠政は家中の抑えとして、江戸幕府の旗本だった叔父(森可政)が必要と幕府に希望これ認められ可政に所領五千石と執政権を贈与している。更に可政の四男可春にも所領三千石を給した。

 大坂冬の陣(一六一四)、同夏の陣(一六一五)を経た翌年に津山城が完成じつに十三年を要した築城であり、領国美濃から呼び込んだ「美濃職人町」はじめ、京や大阪そして尾張から招いた「新職人町」を形成すると、久世牛馬市の創設など経済振興策の徹底にも尽くしている。

 吉井川の堤防工事これに伴う河原町や船頭町の設置、道路網の整備それに沿う宿場の新設、農業用水路の確保など、公共事業を主とした多種多様な政策の設計造営は津山藩の基盤を強化している。

 忠政の子で唯一後継のチャンスを得たのは三男忠広(一六〇四~三三)で、将軍二代目秀忠の養女亀鶴姫(実父は前田利常)と婚姻、姫は子に恵まれず早世(一六三〇)、忠広は家督を継ぐことなく死去してしまった。忠広の代わりは外孫の関家継(のち森長継)との養子縁組を幕府に承認され津山藩主二代目に就かせている。長継の実父は忠政の重臣関成次・母は忠政の三女於郷とされる。

 津山三代目は長継の三男長武であるが、長兄忠継は四歳の子を遺し逝去した。長武は遺児一六歳に達するまでのリリーフで約束どおり長成四代目に譲位したが、長成は子がないまま死去その享年二七歳であった。五代目は長継二代目の十二男衆利(あつとし)で当初は叔父(家老)関衆之へ養子入り出戻りの藩主となったわけだ。森家が継いだ津山藩は五代目を以て改易とされる。

 改易の原因は生類憐みの令であるが事情は省くとする。改易後の津山藩初代は松平宣富(のぶとみ=一六八〇~一七二一)で父直矩(なおのり)の三男とされる。

 宣富生誕のとき父直矩(なおのり)は陸奥白河藩主、直矩は「引越し大名」のニックネーム通りに全国各藩へ国替を命じられている。直矩の父直基は家康の二男結城秀康の五男であり、養祖父の結城晴朝に養育され、結城家の家督を相続したが、外様だった結城氏を親藩・譜代の扱いとする評議から松平に改姓したのである。ただし、家紋は従前の結城巴や太閤桐から変えずに使っている。

 ちなみに、直基(一六〇四~四八)は越前勝山藩主→同大野藩主→出羽山形藩主→播磨姫路藩主を経て直基系の越前松平家初代とされる。直矩(一六四二~九五)生誕のとき父直基は越前大野藩主で次の国替は出羽山形藩主そして姫路の封地へ赴く途上で死去している。

 直基没のとき直矩七歳だったが、家督相続は五歳の時に済ませていた。幕府にとって姫路は西国を抑える要地ゆえ、幼少の直矩には荷が重く越後村上藩へ国替となり、成人後(一六六七)姫路へ転封復帰のち親族の越後騒動に不手際が指摘され、豊後日田藩(一六八二)への国替を命じられた。その最終的な国替は陸奥白河藩(一六九二)で三年後に没している。

 宣富の宣は将軍六代目家宣(一六六二~一七一二)の偏諱、宣富が美作のうち十万石を与えられた元禄十一年(一六九八)は津山藩主森家の改易年である。宣富は同時に津山城も与えられ、幕府から準国主の国持大名として遇された。これが津山藩松平家の始まりである。

 宣富二〇歳(一六九九)は佐近衛権少将に任じられ、二四歳のとき出羽久保田藩主佐竹義処(一六三七~一七〇三)の娘(正室)を津山藩に迎えた。私は思う。宣富と美作を結ぶ絆を…。そこに潜む重大かつ壮大な縁起もやはり、有職故実と家督継承のほかないのである。ここに潜むキーワードこそ家康の嫡男信康と二男秀康であるが、この親子三人に潜むナミダもまた釈恵念の愛なのである。

 ここに家康・信康・秀康のナミダを述べたいがスペースがない。

 吉田松陰の辞世を借りて、この親子三人に対する私の念だけは書き遺しておきたい。

 親思ふ心にまさる親心 今日のをとずれ なんときくらむ

 宣富が有した江戸の資産は二度の火災(一六九八と一七〇五)で完全に焼失してしまった。残った資産は津山城と所領十万石のみ、ところが、宣富にはかけがえのない財産が潜んでいた。それこそが美作へ移住した美濃部を宗家とする甲賀シノビ衆の精鋭集落だったのである。

 秀康の五男直基→直基の長男直矩→宣富と家督を継ぐなか、直基も直矩も引越大名の異名で悲哀を味わったが、親子三人が味わったナミダは天の川に年一度の逢瀬を待つ星の愛にも劣るまい…。

 ともかく津山藩主松平家の初代となった宣富は全国有数の各地から人材を集めている。その中には箕作阮甫の曽祖父も混じっていた。後世に再建した津山藩江戸屋敷には、美作の箕作家と並ぶ名医の系統をもつ宇田川家が藩医に任じている。

 宣富の没後も後継不足の苦難は続いており、通例に従えば改易も免れないが、家康と秀康に潜んだ絆の伝承に支えられ、津山藩松平家の存続は特段の配意に成り立っている。

 宣富の嫡男浅五郎の家督相続は幼少六歳の時で享年一一歳という短命に終わった。通例なら改易も免れないが、幕府は浅五郎の従弟の又三郎(宣富の弟知清の三男)が継ぐ事を認めている。ただし、本来は通用しない末期養子を認める条件として、石高の半減と官位の冷遇を受け容れるように命じた特例が講じられた。ところが、津山藩松平家の家督は一向に安定することがなかった。

 宣富の弟知清(ちかきよ)は陸奥白河新田藩主で又五郎はその三男である。津山藩主の家督相続と同時に長煕(ながひろ)と改名したが、享年一六歳という早世であり、後継四代目もまた養子という綱渡り状態に見舞われている。この養子も享年三八歳ただし嫡男を授かっていた。

 津山藩松平家四代目(長孝)は出雲広瀬藩主三代目(松平近朝)の三男であるが、生まれると直ぐ本家の松江藩主五代目松平宣維(これずみ)の養子にされていた。享年三八歳の間に行った事跡には庄屋制度を廃止その代わりに地方目付を配置したが成果を知る前に逝去してしまった。

 津山藩松平家五代目は長孝の長男康哉(やすちか=一七五二~九四)、父死去の時一一歳で家督を相続しており、父の仕事結果を知る事になるが効果なく失政とみなすほかなかった。康哉は同時代の名君と言われる上杉治憲や細川重賢らの施政を参考として、地位身分に拘らない有能な人材の発掘と登用に重点を定めることにした。

 その成果は目に見える形で上手くいったが、天明三年(一七八三)の大飢饉に遭遇している。享年四三歳は当時でも短命であるが、子は嗣子(二男)康乂(やすはる=一七八六~一八〇五)を除くと数人が平均的な年数を生きたようである。享年二〇歳の康乂六代目を継いだのは、康乂の弟で三男の斉孝(一七八八~一八三八)であり、この斉孝が将軍家斉の子(十五男)銀之助を養子に迎え、幕末維新の美作津山藩から多くの人材を未来へ輩出しているのである。

 諄(くど)いが私の求めるモノゴトは有職故実と家督継承の重大性であり、それは私の命そのもの何よりもかけがえない家族へのナミダ=愛を捧げることに尽きるのだ。

 有職故実と家督継承において、唯一無比の実在は神格天皇家の皇祖皇宗に限られるが、私は神格を得る事が出来なくても、日野流や菅原流に比する神通力は得られると自負している。神通力とは未來透徹の観察力と洞察力を身に帯びる事と信じてやまない。その体現者こそヤマトタケルという日本の底力だと確信するしだいなのである。

 それはさて、将軍家斉の側室四十人、子は十六腹に五十六人とは前記している。美作津山藩の幕末維新を見届けた藩主八代目は家斉の十五男(斉民=なりたみ)であり、斉民(一八一四~九一)から家督を継ぐのは、先代斉孝の四男慶倫(よしとも=一八二七~七一)二九歳である。つまり、安政二年五月に譲る家督であるが、このタイミングもまた絶妙としか思えない。

 文久テロリズムのガス抜きを終えた翌年(一八六三)、幕府は美作に隠居した斉民へ毎年一万俵の隠居料を給しており、斉民が江戸へ出府するのは慶応元年(一八六五)三月となる。津山藩内を勤皇一色に染めると、江戸開城(一八六八)の下こしらえに赴いており、新政府からは将軍家の後を継ぐ田安亀之助(徳川家達)の後見役を頼まれている。

 東京台東区の谷中霊園を墓所とする事からも、斉民の個人情報に手抜きは許されないはず…。

(続く)

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