修験子栗原茂【其の一五】聖地・鈴鹿サーキット

 さて、再び昭和三十七年の本題に戻るとする。

 わが栗原工業所においては兄弟三人すべてが自動車運転免許証を持つことになった。私の不器用に進歩は見られないが、弟二人が極めつけの器用であることに驚かされた。それは工作技術に止まらずモノづくり全般に及んでおり、一を知れば十の技法に通じる天与の才に恵まれていた。

 つまり、部品加工に始まった家内工業は兄弟三人の専従が定まることで、取引先依存の受注体制を脱するために技法のオリジナル化を推進していった。不器用な私は情報収集に徹して、利益率が高い事業所への潜入策を講じては、その要因を為すノーハウを自らのものとした。器用な弟二人は鉄則の基礎的技法に突飛なアイディアを加えることで、汎用機を万能機として使いこなしていった。

 当時の休日は第一と第三の日曜日のみ、通常の就業時間は八時から二十時まで、時には徹夜という事もあったが、他方、先端技術を競う展示会などへ兄弟全員で出向いている。ストレス発散の時間は種々さまざまな職人が集う大衆酒場にあり、交遊を通じた人脈形成と情報収集を兼ねた一石二鳥とも三鳥ともなる夜の遊びにあった。

 兄弟それぞれ灰汁の強い個性に違いあるが、互いに共通するのは人の風上にも風下にも立つ事ない矜持の保ちかたである。暇を見つけては格闘技ごっこ・重量挙げ・キャッチボールなど、もてあます体力に汗をほとばしらせるのは、昼休みや残業なしのナイト・ライフでもあった。

 私は幼い頃から常識を素直に受け入れるタイプではなかった。糸川博士の著『逆転の発想』は好く売れた本であるが、私は小学生時代すでに生の博士から教わっていた。長所が短所に転じたり、その逆も有りえる現実に気づくようになれば、逆境こそ最大のチャンスであると言われた。秀孝の借金を引き継いだ私たち家族全員にとって、実感こもる救いの言葉でもあるが、独りよがりでは絶対に為し得ない難事業でもある。つまり、何らかの条件を要するため決して甘い言葉ではないのだ。

 秀孝五四歳の働き盛りであったが、相変わらず営利追及に精を出そうとしない。税務申告の事務も担う私は秀孝が行う資金繰りを知る必要から、その内容を質したが不明点も少なくない。つき詰めて聞けば角が立つため、つじつま合わせの工作も必要になってくる。

 母は私に「秀孝と離婚させてくれ」の一点張り、私たち兄弟は無給で働く専従者、仕事以外の負を弟たちへ及ぼしたくないため、私のフラストレーションは内在の一途をたどる。母の鬱を取り除くと同時に弟たちが手にする小遣い銭を上乗せするための環境づくり、そんな独りよがりが通用するほど現実は甘くない。母も弟たちも私に勝る深情けの人みんなで助け合うことにした。

 結果、家族の絆は日に日に増していった。まさに逆転の発想であり、出来もしない独りよがりから脱却すること、自分を信じる事よりも、他を信じること、信じた結果が不都合の場合は自分が気づく事なかった欠陥を知ったと思え、見える現実より見えない現実を捉える心が養われていく。

 どこの社会であれ、政治的アナウンスほど独りよがりの最たるものはない。たとえば、パニックを惹起する虞あるので情報の統制管理はやむをえないと言う独りよがり、この類の情報は必ず漏洩して広がっていく傾向にあり、発信源の驕り高ぶりが枚挙にイトマないのは過去が教えてくれる。

 人は好むと好まざるに拘わらず、隠し事を抱えるのが普通であり、その原因の多くは独りよがりに生じている。逆境を乗り越える絶対的な必要条件は独りよがりを廃することにある。

 さて、選挙権を得た私の身近な政治運動は二一歳からスタートした。翌三十八年(一九六三)には全国統一地方選挙が控えており、私の恩人佐野善次郎は区議から都議への転出を図って、その体制を整えるため、区議三期で培った選挙対策のノーハウに一層の厚みを加えていった。

 秀孝は選対本部の参謀として、終日のスケジュールを選挙一色に染めており、私は家業専従の任を果たしながら、夜間の選対会議に参じるようになった。会議を通じて知った大凡の選挙運動から私は自分に見合った役割を提案のうえ了承を得ると、夜道を縫うように自転車を走らせた。つまり、新聞配達のように路地から路地へと抜ける自らのロードマップを作ったのである。

 変遷いちじるしい公職選挙法の実態から、当時の運動を具体的に記しても役立たないので、今でも役立つ事に限定すると、その基本的原則は土地柄・家柄・人柄の「三ガラ」に集約され、それぞれに見合うロードマップの作成が選対の測量図と成りえるのではないか。

 どんなに優れた設計を考案しても測量図に見合わなければ絵に描いた餅でしかない。

 選挙に限った事ではなく「三ガラ」の呼称が国柄や族柄あるいは続柄のように転じても、測量図を仕切る基本原則としての重要なピースは「三ガラ」に集約されるものだ。かくして、私二一歳の年は家業の体制が整ったこと、本格的な政治運動が始まったこと、その記念すべき年でもあった。

 昭和三十八年(一九六三)四月十七日、議席数一二〇名の都議会議員が報じられた。佐野善次郎の都議会デビューと東龍太郎の知事二期目が確定した年月日である。東京オリンピックを翌年に控えた年でもあるが、一月元旦には韓国の行政区画が再編され、ソウル特別市の拡張と釜山直轄市の設置が確定されたニュースも伝わっている。

 福岡県に各市合併の北九州市が成立している。世界的ニュースの一つに気温低下が話題となった。

 日本初の報道協定を結ぶ誘拐殺人事件が発生している。吉展ちゃん(四歳)事件とも言い、事件の解明に二年三か月を要しているが、テレビやラジオのメディアから犯人の声を公開した初のケースで今も語り継がれる。プライバシーを問題化した先駆けも、改善策は未だに効能が見られない。

 東海道新幹線(綾瀬―鴨宮の間)で世界初の時速二五六キロメートルを達成した。

 大阪駅前に日本初の横断歩道橋が設置される。

 酒田(山形県)海上保安庁の停船命令を無視・逃亡した不審船の公開情報が初めて報じられる。

 日本初の名神高速道路(栗東―尼崎の間)が開通している。

 政府主催による全国戦没者追悼式(八月十五日)が挙行された年でもあった。

 衆議院解散(十月二十三日)にムード解散・所得倍増解散・予告解散などの別名が付される。

 南ベトナムで軍事クーデター(指導者ズオン・バン・ミン)その実は米ソ二極の暗躍にはじまる。

 米国ケネディ大統領の明殺事件(十一月二十二日)がテキサス州ダラスで起こった。

 当年は私の夢想を秘かに広げる年となった。その動機は自分が憧れる人たちとの出会いが連鎖する事から広がっていった。最初の出会いはホンダのバイク部品を加工した孫請けにはじまり、最終的な出会いとしては浮谷東次郎(堀川辰吉郎の孫)と語り合った事が思いだされる。

 本田宗一郎(一九〇六~九一)を問うと、藤澤武夫(一九一〇~八八)と答える、事が正鵠という通念は両者の関係を象徴するものとして私の心に突き刺さっている。その認識は高松宮様の動向から私の主観が自負するものである。

 浮谷東次郎(一九四二~六五)を偲ぶと、堀川辰吉郎(一八八〇~一九七一)の面影がよみがえる事は私の主観が自負するところである。

 本田宗一郎の長男博俊は浮谷東次郎より約四か月まえに生まれている。私が浮谷と出会うのは当年トヨタの契約ドライバーになった時、そして博俊と出会うのは鈴鹿サーキットで後年(一九八一)の事になる。浮谷は私と出会うより前に博俊と交友関係にあった。

 鈴鹿サーキットの完成(一九六二)は前年九月その二か月後には、第一回の全日本選手権と銘うつオープニングレースが開催された。

 佐藤全弘は私のご近所さんで八年先輩にあたるが、鈴鹿サーキットでパドック長と進行長を担った事のあるオフィシャルとして知られる。私も大変お世話になっている。高松宮様が鈴鹿サーキットに召された際の案内役を担った佐藤の姿がよみがえってくる。

 佐藤は私を参謀役に迎えて、区議選に臨む最中の急死で人生の幕を閉じるが、宮様や宗一郎はじめ多くの人たちに好かれた生涯を過ごしている。私がモータリゼーションの深層構造を認識するうえで様々な便宜を図ってくれた先輩であり、その生涯はモータースポーツ一色に染められていた。

 ちなみに、佐藤の父は三味線や尺八の演奏における大家であり、更なる遠祖は源氏義経の四天王を輩出した佐藤氏すなわち甚兵衛ネットワークの分流とされ、全弘の葬儀に際しては、導師の読経後に佐藤流の門下十人ほどの尺八による鎮魂が奏でられ、棺を覆った布は鈴鹿サーキットのゴールインで使われたチェッカーフラッグ、通夜参列には多くの一流レーシング・ドライバーが臨席していた。

 私が今親鸞と信じて疑わない白蓮寺開山釈恵念師との出会いも全弘先輩の引き合わせである。

 さて、伊勢鈴鹿は私にとって聖地であり、いにしえにはヤマトタケル、さきごろには私の妻の父が生まれたさとである。本田は藤澤の四歳年長であり、二人を引き合わせたのは通産省技官だった竹島弘とされている。時は昭和二十四年(一九四九)八月とされ、藤澤が自営業を閉じてホンダの常務に就任したのは二か月後だったとされる。二人に関する情報には多くの人がたずさわり、出版物の類も多岐にわたるが、サーキット用地を鈴鹿と定めた経緯を知る者はいるのだろうか。

 欧州系モータリゼーションを受け容れる第一歩は現場の測量にはじまり、次に何度も書き換えては改めるロードマップを仕上げなければならない。サーキット場を造るために要するのは、その現場へ出入りするインフラの整備も含めたマーケティングとマネージメントが第一歩の仕事になってくる。

 日本のモータリゼーションをリードしたニッサンすら考えないサーキットの開発事業に手堅い事で世界一とされる銀行が融資決行する経緯を誰が講じられるのか。

 私は生活廃棄物や産業廃棄物を扱う業務の法整備とともに、その事業に対応する資金捻出の実態を取材するなど、多くの経験則も身に帯びたが何度も殺されそうになっている。

 荘園制度は日本列島に根強く遺る生活経済の礎であり、通常のマネージメントでは図れない難問が幾つも用意されており、どんな辺鄙な土地と言われようが地上げは簡単に済まされない。

 鈴鹿サーキットは本田と藤澤の合意に始まるとされ、丘陵地帯の松林に大凡五〇万坪(約一六五万平方メートル)の用地を確保したのち、コースのレイアウトは同三十五年(一九六〇)八月に原案が提示されたと言われる。コース完了は前述のとおり二年後の九月とされている。

 これ以上バカげた記事を拾う気はないが、ここに私が指摘したい本旨は次のことである。

 私は本田宗一郎に憧れてホンダバイクの部品加工に精を出したが、ホンダと直接取引した会社から回された孫請けの立場にあった。量産品を加工するのは辟易以外の何ものでもないが、宗一郎に会うチャンスを得るためには辛抱も必要になってくる。チャンスは意外に早く訪れる事になった。

 私が宗一郎に発した一言は「宮様はサーキットにお見えになりましたか」であった。宗一郎は私の顔を覗き込むように見たあと無言で通りすぎた。返事はなかったが、ホンダ社員が私の名刺をもらい受けたいと言ってきたので、私も無言で名刺を差し出した事が今さらのように思いだされる。

 以後、宗一郎と出会うチャンスは数回あったが、その都度ウインクしてくれた顔が忘れられない。

 私は藤澤と出会うチャンスに恵まれなかったが、澁澤が藤澤について語ったコトガラを考えたとき意図的な出会いは失礼にあたるとあきらめた。とはいえ、心に秘める情報に不足はない。

 私は自分が取材のターゲットに定めた場合は直撃に遠慮はしないが、そうした場合には取材相手が知り得なかった取材相手の情報を手土産にたずさえている。

 浮谷との出会いに作為はなかった。博俊との出会いにも作為はなかった。

 私が浮谷から聞いた話題で身の毛がよだつ思いをしたのは堀川辰吉郎の存在そのものにあった。

 浮谷のエンジン好きは中学三年一四歳のときドイツ製クライドラー(五〇㏄バイク)を乗り回した事からも頷けるが、むろん無免許ではなく当時の運転許可証は一四歳で取得できたのである。

 千葉県市川市の旧家(庄屋)浮谷家は大地主であり、東次郎の母和栄(明治四十五年の生まれ)は堀川辰吉郎の娘で九州福岡に生まれている。東次郎は私の一歳下であるが、中学卒業した頃から堀川辰吉郎に会うため大阪までバイクを走らせており、小型四輪自動車の免許を取得したのは私の一年後(一九五八)一六歳になってからである。

 東山魁夷(一九〇八~一九九九)の生年は秀孝と同じ、熊本県人吉への入営も同じ釜の飯を食べた仲にあり、戦時中に父浩介が急死すると、病気療養中の母(くに)も戦後すぐに死んだ。母の葬儀を済ませた東山は、千葉県市川市で事業を営む馬主中村勝五郎の援助で同地に移住その地を本拠として矢継ぎ早に名画を描き出していった。現在も同地に記念館が設けられている。

 秀孝は東山と入営先での縁から、市川へ移住後の東山から何枚かの絵を買っており、それは生活の支援が目的のため、絵心のない秀孝は友人にプレゼントしてしまった。現在では私の長男が結婚した妻の実家が記念館の近くにあるため、私は人の縁というものに感慨を深くするばかりである。

 東次郎の生家である浮谷家の現状は判らないが、享年二四歳の若さで事故死したレジェンド東次郎ブームは今も盛況と聞くから、その情報検索に労苦は要さないはずと思っている。

 つまり、私の記事の目的は落合本にあるため、ここでは堀川辰吉郎を正しく認識しているのは落合先生に優る者ない事を強調したいのだ。

 本田宗一郎と藤澤武夫の合意による鈴鹿サーキットの開発、鈴鹿サーキットの走行中に自分が死ぬ事で他の人を護った浮谷東次郎、東次郎が現人神と仰いだ堀川辰吉郎、私と鈴鹿サーキットを結んだ佐藤全弘、鈴鹿サーキットで出会った本田博俊、私の聖地である鈴鹿にサーキットが設けられる事の由縁を確実なものとするには、絶対に欠かせないキーワードを知る必要がある。

 そのキーワードこそ、高松宮様その人その事績がなければ歴史は成立しないのである。

 落合本の読者がキーワードを用いたとき、どんなストーリーが生まれるか、少なくとも既読されている様々なストーリーより、遥かに説得力ある歴史本が生まれるのではないかと思っている。

 鈴鹿サーキットは日本に少ない現代の国際的超級レベルを内在しており、そのストーリーが正史の資格をもつものであれば、ハリーポッターに優るとも劣らない評価が約束されよう。読者の皆さまに期待するが、もう一つホンダ本社ビルのみが赤坂御所を臨む窓がある事を付記しておきたい。

(続く)

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