修験子栗原茂【其の六十三】罌粟の姓(カバネ)

 さて、中医と日医の関係性であるが、漢方医学(和漢方・和方)とは、日本で発達した中国の伝統医学を指している。古来、伝統的な日本医学には、大陸が既に失った技術すなわち鍼灸や生薬などが根付いており、中医とは趣を異にするモノとして発展している。たとえば、大陸で廃れた腹診は今も和漢方では重視されており、逆に大陸で重視される脈診を日本では重んじられない。

 生薬にしても、輸入に頼る日本では大陸の3分の1ぐらいしか処方せず、医学上の文献や理論など異なるところ必ずしも少なくないとされる。日本で漢方医学の呼称が広まったのは、江戸期に伝わる蘭方医が注目を浴びた事から、その対比として用いられたとされる。かつては鍼灸を含め漢方医学と称していたが、現在の和漢方は医師と薬剤師が、鍼灸は医師と鍼灸師が行う分業制にある。そこには伝統医に国家資格を与えないまま、専門教育も施さない政治に問題があるとされる。

 命あるところ医は食と共に有るため、その一端を述べたにすぎないが、以下は薬学史に移行のうえ歴史的推移を確認しておきたい。

 私の自負するところ、人命とは心身その働きから成るため、クスリを解する時も心理面と身体面に内在する経験則が重要性を帯びてくる。即ち、呪術や魔術など含む信仰的なクスリ、食中毒や外傷の処方など含む身体的なクスリ、これら経験則に伴う合理的措置が薬学史ではないかと考える。

 而して、心や食に伴うクスリは医の根源とも思っている。既に述べたパピルス文書には700種に及ぶ薬品が記載され、シナ大陸には伝説上の王「神農」が薬草を判別したとされる。また夏末期から殷初期には料理人伊尹(いいん)が作った湯液(煎じ薬)を王が政策に盛り、それを助けるため伊尹本人も補佐役参与の政治家になったとされる。

 紀元前31年、シナに本草待詔(ほんぞうじしょう)と言う官職が設置されると、後漢の時代には本草学最古の著『神農本草経』を編纂これが後の基礎に用いられている。

 一方、砒素や水銀の如く毒と薬を兼ねる天然物質は、古代の呪術や魔術の詐欺に用いられ、それは錬金術や錬丹術(不老長寿の霊薬)の製造を企む一派まで産みだし、東晋(317~420)の代に至ると水銀利尿薬が発明されている。

 明代16世紀の医師で本草学者の李時珍(りじちん)が著した『本草綱目』は、漢方薬や方剤学の最高峰とされ、周辺諸国はもとより、日本やヨーロッパでも翻訳本が出回ったとされる。

 ヒポクラテス医学では400種のクスリを使用したとされ、紀元前300年頃の哲学者で博物学者テオフラストスの著『植物誌』第9巻に記載の薬草も後世の大いなる参考書にされている。

 イスラム世界で花開くアラビア医学は10~12世紀が全盛期とされ、イブン・ジュルジュルほかアル=ガフィキ、イブン・アル=バイタール、アル=ビールーニーらが知られている。ヨーロッパに伝わるアラビアの薬学知識はルネサンス期にあたり、レオンハート・フックスはじめパラケルススやヤン・ファン・ヘルモントのような博物学者・錬金術師に受容される。それはまた、近代化学の基を為すロバート・ボイルのもと、薬学の分類法を確立したカール・フォン・リンネを輩出し、連綿たる後続の薬草研究に大きな影響を与えたとされる。

 産業革命期18世紀後半のヨーロッパは、都市部への人口集中が伝染病の危険性を増大させ、繊維産業の漂白や染色が新たな化学技術を求めるところから、薬学もまた、天然物質のエキスを抽出して人為的な合成を企てる方法の確立に突っ走った。

 1776年ウィリアム・ウィザリングがジギタリス(被子植物キク類シソ目オオバコ科)から強心剤開発に成功し、1798年エドワード・ジェンナーが牛痘による天然痘の治療法を開発している。1805年フレードリッヒ・ゼルチュルナーがアヘンからモルヒネを取り出す事に成功し、1887年には阿波徳島藩主家(蜂須賀氏)初代から歴代典医を受け継ぐ長井家の後裔長井長義(日本薬学会初代会頭)がマオウ(麻黄)からエフェドリンを抽出している。

 麻薬エフェドリン(アルカロイド)に因み、罌粟栽培の姓(カバネ)のうち1つに触れたい。

 まず長井氏のカバネには大きく三つの流れがあり、本流は大江朝臣長井氏であるが、分流には藤原北家利仁流斎藤氏族長井氏と桓武平氏良文流三浦氏族長井氏ある事を記憶しておく必要がある。

 次に蜂須賀氏のカバネであるが、清和源氏斯波氏支流の蜂須賀景成を家祖とし、称は尾張国海東郡蜂須賀郷から家名としている。阿波徳島に入封(1585)した初代藩主家政は羽柴秀吉に仕え後に大名となった蜂須賀正勝(小六)の嫡男として宮後城(尾張国丹羽郡宮後村)に生まれた。

 大江朝臣の出自が土師氏であること、斯波氏の出自が鎌倉幕府の執権北条氏御家人に始まり、室町幕府の三管領(他は細川氏と畠山氏)の1つに昇る事は本稿シリーズに述べている。

 長井氏は鎌倉幕府の別当大江広元二男時広を祖とし、所領の出羽国置賜(おきたま)郡北西に在る長井荘(山形県長井市)から長井(永井)の家名を建てた。因みに、斯波氏とは鎌倉期の足利家氏が陸奥国斯波郡(後の紫波郡)を所領その嫡系子孫が地名を家名とした事に始まっている。

 また、蜂須賀郷を含む海東郡とは平安後期に海部(あま)郡が東西に分割された一方のこと、初代領主には大江広元の五男忠成(ただしげ)が充てられた。忠成の兄弟は多く長兄大江親広・次兄長井時広・三兄那波政広・四兄毛利季光らのほか弟二人に妹三人がいて、大江姓海東氏の祖となる忠成は熱田神宮大宮司の職12年間を務めている。辞職1年後(1221)幕府の影響力を以て嫡男忠茂が大宮司に選任されたが、海東氏の末裔は女系が占めるところとなり、後裔には三河国松平氏に仕えた酒井氏の祖を輩出しており、後に出る酒井忠次や酒井正親が広く知られている。

 さて、罌粟の姓(カバネ)と阿波・淡路の関係に触れていきたい。粟の生産地だった徳島県北部は神武東征に参じた忌部(いんべ)氏の集落地だったが、その肥沃な土地を開拓した天富命(あめのとみのみこと)は奈良盆地南に位置する畝傍(うねび)山の麓に橿原宮を造営した神とされる。

 畝傍山は天香久山(あめのかぐやま)、耳成山(みみなしやま)と共に大和三山と言われ、標高は三山の中で最も高い198・8メートルで国の名勝に指定(2005年)されている。

 神武東征に諸説ある事は承知するが、ここでは罌粟のカバネに焦点を合わせるとしたい。天富命の神祇は天津神(アマツカミ)、父祖は天太玉命(フトダマ)別称に天櫛玉命(クシタマ)あり、関連氏族として忌部氏のち斎部(いんべ)氏の祖の1柱とされる。

 忌部氏に3つの祖流あり、フトタマ、ヒワシ、天道根命(ミチネ)関連は紀伊と讃岐である。

 神武東征のとき、紀伊忌部と讃岐忌部を率いた天富命は木(紀伊)国の材木を採取、橿原の宮殿を造ったあと、斎部(忌部)の諸氏を率いて種々の神宝・鏡・玉・矛・楯・木綿・麻など作らせ、クシタマの孫出雲玉造氏には御祈玉を作らせたという。さらに天日鷲命(ヒワシ)の孫阿波忌部を率いて肥沃な土地に殻=梶と麻のタネを植え、この地を麻植(おえ)郡と称することにした。

 更に続くこと、阿波忌部を率いた天富命は東国にまで出向き、同じ肥沃の地に殻と麻のタネを播き植えたのち、落葉広葉樹の高木に生育した殻の木(梶の木=クワ科コウゾ属)の地を結城郡と称し、良い麻(アサ科アサ属オオヌサ)が生育した地を総国(フサのくに)と称したという。そして、阿波忌部が移住した地を安房(アワ)郡と名付け、祖のフトタマを祀る社(ヤシロ=現在の安房神社)を建て神戸(ウジコ=氏子)に斎部を名乗るよう命じたという。

 因みに、殻(梶)の木は古墳時代に樹(たくのき)と呼ばれ、樹皮から木綿が作られ、繁茂した豊国(現大分県)は地名を柚富(ゆふ=由布)と称した。諏訪神社の神紋は梶で神聖な樹木の1つと崇める神道は境内に梶の木を多く植え葉を供物の敷物に用いる。他の用途は読者に委ねる。

 麻は今や大麻取締法の制度下で多くの曲解を含んだまま暗闇に取り込まれている。麻を神聖な場に副える文明からすれば、麻を扱う政治的な無知蒙昧から生じる乱行は枚挙にいとまもない。伝統的な日本文明は麻、藍、木綿あるいは麻、藍、紅花を「三草」と称し、本位財の稲と並び主要作物として盛んに栽培した時代もあった。大麻(オオヌサ)は伊勢神宮の神札(おふだ)に使われたが、大戦後GHQの指令で意味不明の強制が定着し、繊維用の麻まで規制強化され、解放後ところどころの法律改変は目先を躱すだけに終始その無知蒙昧が暴走に拍車を駆ける事はなはだしい。

 薬用大麻の国際的条約は20世紀半ばに始まるが、21世紀初頭に表面化した混沌は、医療大麻も例外ではなく、違法か合法かの見わけもつかない法制に変化があらわれ、嗜好大麻の合法化など米国首都の例外も例外とは言えない混沌を巻き起こしている。

 考古学的調査の集成2019年版によると、大麻の起源はチベット高原の青海湖周辺と推定それが欧州から中国東部へ広まったとされる。2021年には110種の大麻のゲノムから、最初の栽培は新石器時代初期に東アジアから始まったとし、現在使用中の麻のタネは、中国産のタネから分岐した種が全部と結論付けられている。即ち、人類が始めた植物栽培は早期から人類と共存しており、今や真の野生種は絶滅したと決着されたのである。

 縄文時代の早期から前期すなわち1万500年前~9500年前の日本では、複数の貝塚から麻の果実が発見され、それは食への利用栽培だった事を裏付けるエビデンスとされている。

 以下、罌粟栽培のカバネに戻るとする。

 忌部氏の祖にフトタマ(クシタマ)、ヒワシ(オエ)、ミチネ(紀伊)の3系あり、フトタマ系の諸流派は忌部(斎部)首(おびと)・穴師(あなし)神主・日置(ひき・ひおき)部氏など、ヒワシ系は阿波忌部・安房斎部・神麻績(ませき)連(むらじ)・田辺(たなべ)宿禰(すくね)・粟国造(あわのくにのみやつこ)・秋月(あきつき)直(あたい)・県犬養(あがたいぬかい)連など流派最多なり、古代豪族のミチネ系は紀(き)国造を初代に滋野(しげの)宿禰・大阪直・紀直・大村直田連・川瀬造・伊蘇氏・楢原氏などの後裔を輩出している。

 ヤマト王権が成ると首(おびと)→連(むらじ)→宿禰(すくね)のカバネを賜り、中臣氏と共に祭司を担った。本貫(本籍地)は1に大和国高市郡忌部(現奈良県橿原市忌部町)、2に阿波国麻植郡忌部郷(現徳島県吉野川市)、3に紀伊国名草郡忌部郷(和歌山県和歌山市)が下賜された。

 ナニゴトも競い争う事を由とする通史では、壬申の乱で抬頭した中臣鎌足の出現により、中央氏族忌部氏の衰退が始まるとされる。合否は問わないが、史観の重大性は当時の世界史を俯瞰する大きな視野をもつことにあり、当時日本に流れ込む海外の文明を知らなければ忌部氏の動向など透けない。朝廷の祭司を司る『延喜式』の祝詞には「御殿(おほとの)御門(みかど)等における祭の祝詞には斎部氏の仕儀を用いるべし、以外の諸々には中臣氏の仕儀を用いるべし」と述べられている。

 鎌足が藤原姓を賜り、以後朝廷(政体)が藤原姓一色に染まること、中臣氏を祖とする大中臣氏が朝廷祭司を司る貴族に昇る事は言うまでもあるまい。即ち、忌部氏が斎部氏に祭司を委ね、原初から集落地だった麻植郡をテコ入れしたことは、増大する麻の海外流入量を防ぐため、その国産化を補う対策強化に真の目的があった事を知らないと正解とは言えない。

 それもこれも、古代から修験はケシ栽培の義を見究めており、その一種である大麻を栽培してきた忌部氏のノーハウを理解していたので、麻に適した豊富な粟の生産地とマッチングさせたのである。通史は、斎戒すなわちケガレを忌むカバネゆえ忌部氏と解するがゆえ、それはまた、日本全体に分布拡散を必要とした大麻の栽培にも好都合だった。

 また忌部氏に限られた事ではないが、品部(ともべ)=公務員としての忌部と、部曲(かきべ)=私有民としての忌部という2種が存在すること、これこそが戸籍を重大視する私の自負するところで戸籍が本位財たる所以でもあるのだ。

 つまり、カバネすなわち家職や身分に対するプライドの自意識を意味するが、家督継承を自覚した戸主と構成員の公と私を徹底させる政治制度を指しており、その基盤を支えるのが戸籍であり、その証を立てる経歴を有職故実と言うのである。

 政治とは国土の保全および国民の安寧を護持せんがため、やむにやまれぬ強制権を与えられた公益機関であるがゆえに、具体的には①軍事と治安、②保健と衛生、③信書と流通、この3つを以て文化文明の基準値を測る規格が存在するのだ。

 而して、文明の本位財である戸籍、黄金、罌粟を司るカバネが厳格たる事は必然ゆえ、ケシ栽培のカバネもまた公私分別きわめるところの家職一体性が求められるのだ。

 かつて、ユーチューブ「むすび大学チャンネル」で配信された中森様の『世界を裏で動かしてきた麻薬の正体(前編)』と『世界を裏で動かす麻薬の正体とは(後編)』がある事を知り、その動画を視聴した結果として、本シリーズには動画以上の事を述べないと決した。その仔細は風猷縄学稽古の皆様に開示する事を約して、再び中医と日医そして本草の薬学史に戻るとしたい。

(つづく)

 

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