修験子栗原茂【其の五十三】アメリカンドリームとソ連シンドロームの核心

 つまり「第一次世界大戦(一九一四―一八)は何だったのか」に尽きるのであるが、私が覚るワンワールド史観によるところは、アメリカンドリームとソ連シンドローム(症候群=原因不明の症状に伴う病態の共通群)を明示する事によって、世界的な条約ラッシュのもと、未曽有の次世代型社会をデザインしたのではないか。その主役をアメリカンドリームとし、脇役をソ連シンドロームが固める事で新時代をレイアウトしてみたが、その果報は蜃気楼のシルエットでしかなかった。

 もともと不戦条約は九か国条約(一九二二)とセットゆえ、シントン会議(一九二一)すなわちアメリカが主催する初の国際会議により、史上初の軍縮会議を演出したのである。

 ちなみに、永世中立国スイス(一二九一)が国際条約で承認されたのは一八一五年のこと…。

 その後スイスは分離同盟戦争(一八四七)を経た翌年一八四八年に憲法制定するが、連邦国家たる体制を確立するのは、改正憲法(一八七四)以降のこと、国際連盟(一九二〇)の原加盟国となってスイス西部レマン湖の南西岸に位置するジュネーヴに本部を設置している。

 もう一つバチカンが新たに市国創建(一九二九)した事に対する認識であるが、ラテラノすなわちローマ教皇庁がファシスト政権下のイタリア王国と締結した条約署名の宮殿における出来事から何を案じたかの重要性を理解しなければならない。

 イタリア王国はローマ占領(一八七〇)後に教皇庁がバチカン及びラテラノ宮殿を占有する事への代金請求を行うことにした。それを拒絶する教皇庁との悶着に決め手がないまま、時が過ぎ去る中で王国の政権を掌握(一九二六)したファシストは、政教条約(一九二九)の締結という打開策のもと対外的な永世中立を条件とする市国創建が認められるところとなった。

 また占領時に没収した領有権補償として、九億四千万ドルを教皇庁へ支払ったイタリアは他にバチカン駅の建設と国鉄への路線接続を達成する事も約している。

 而して、バチカンは聖座ローマ教皇の統治国として、カトリック教会と東方典礼カトリック教会の中心地すなわち総本山とみなされ、国籍は聖職在任中に限り与えられるとされた。

 ちなみに、バチカンの由来は「ヴァティカヌスの丘」という地名にあり、この地に教会が建てられ聖ペトロの殉教を伝承する事でカトリックの中心地に定められた。ラテン語を公用公式の文書に使う事に定めつつ、通常一般的な業務はイタリア語、外交関係はフランス語、警護衛兵を担うスイス人はドイツ語、他にスペイン語、ポルトガル語、英語など飛び交う日常はターミナルのごとし。数千人に及ぶ職員の大半はイタリア国内に居住しており、通勤を装う潜入者も疑われるリスクは少ない…。

 ラテラノ条約締結日は一九二九年二月十一日、批准日は同年六月七日、大日本帝国憲法制定(一八八九)の建国記念日は二月十一日、これは神武天皇即位の皇紀元年(紀元前六六〇)一月一日を現行グレゴリオ暦(バチカン教皇が定めた)に合わせると二月十一日にあたる。戦後占領下(一九四八)GHQに廃止されたが、昭和四十一年(一九六六)国民の祝日として復活している。

 日本と市国が正式な外交関係を樹立した昭和十七年(一九四二)は第二次世界大戦中で同じ年内に互いが公使館を設置しており、これも占領軍の意向で互いに引きあげたが、講和発効年(一九五二)再設置、六年後(一九五八)日本は駐バチカン日本公使館を大使館へ格上げしている。その所在地は市国内に場所が取れず隣国イタリア首都ローマに設けており、それを受けたバチカンは八年後(一九六六)駐日ローマ法王庁公使館を大使館へ格上げして良好な関係を維持している。

 さて、九か国条約であるが、日清日露の戦役が意味するところを如実に表しており、締約した九か国はアメリカ、イギリス、オランダ、イタリア、フランス、ベルギー、ポルトガルそして日本と中華民国でソ連邦を含まないのは当然としても、ドイツを除く理由を通説で済ませるなら、虚の世界しか生きられない御用学者と思われても仕方あるまい。

 一九一七年ウラジミール・レーニンが率いるボリシェヴィキは、ロシアの代行たる臨時政府を倒す十月革命を起源に定めているが、国としての標語はインターナショナルだった。

 ソ連の建国(一九二二)は九か国条約と時を同じくしているが、主席レーニンは二年後ヨシフ・スターリン(一九二四―五三)に取って代られている。ソ連の主要都市は首都モスクワのほか、レニングラード(ロシア)、キエフ(ウクライナ)、ミンスク(ベラルーシ)、タシュケント(ウズベクスタン)、アルマアタ(カザフスタン)、ノボシビルスク(ロシア)などの歴史を潜ませている。

 大正十年(一九二一)十一月十二日―翌十一年(一九二二)二月六日の間ワシントンD.C.にて開催された軍縮会議の主役俳優は米大統領29代目ハーディングであるが、その演出脚色は国際的な政策シンジケートによるビジョンがデザイン化されたものだ。

 即ち、戦渦脱出に手詰まりとなったワンワールドは、アメリカンドリームを構築するために、ソ連シンドロームの演出を組み合わせることにした。その保全策として、永世中立国スイスに国際承認の箔を付け名実共に看板通りのモノとし、体裁だけとはいえ、国際連盟を創設その提唱者を米大統領に託したが、幼稚な議会はモンロー主義を建前にアメリカの加盟を認めなかった。

 連盟の主目的は「集団安全保障と軍縮による戦争防止、交渉と仲裁による紛争解決」にあり、ヴェルサイユ条約(一九一九)調印のもと翌年発効というスケジュール、常任理事国はアメリカを除いたフランス、イギリス、イタリア、日本の四か国でスタートするほかなくなった。

 ワシントン会議は連盟のフライング・スタートを補う形になったが、その深層に潜むテーマは中華大陸の清王朝崩落に横たわる諸問題にあるため、米議会の幼稚さなんかは大した問題ではなかった。それより重大な立場とされたのは、日清・日露の戦役を経た日本政府の重責にあり、それが第一次の世界大戦へ参じる事が免れなかった原因でもあり、並大抵では済まされなかった課題を背負わされた責任は日本の御用学者にもあるのだ。

 ともかく、第一次世界大戦後は条約ラッシュの時代であり、係る条約に目を通さない史観は単なる千切り取りのワンシーンにすぎないため、結果ワイドショーのスキャンダルに終始するだけだ。

 条約ラッシュに追われる国際政治が息つく場は中立国が動く時だけであり、スイスを補完するため設けられたバチカン市国はアメリカンドリームのパラサイトすなわちユダヤの牽制も意味しており、ユダヤはユダヤで本来あるべき建国の地へ戻る事を夢みていたのである。即ち、第二次世界大戦後の中東イスラエル建国を夢みる事でパラサイト流ユダヤのクリーニングも案じていたのだ。

 この機にソ連シンドロームに触れたいのはヤマヤマではあるが、それ別記としなければ到底前には進めないのであきらめるとする。

 さて「戦争はしない」と公約して再選された大統領フランクリンであるが、開戦中のイギリス首相チャーチルや中華民国総統蒋介石夫人の宋美齢などの支援要請に対し、施し十分な対策を講じる一方アメリカ国民には「ヨーロッパそしてアジアの戦争がアメリカの海洋権益を侵す事は許されない」と連日ラジオ放送で訴え続けたとされる。

 そこへ大日本帝国海軍のパールハーバー砲撃とくれば、フランクリンが「待ってました!」と手を打つ(もしくは合わせる)事は当たり前ではないか。

 御用学者が何を講じようとも、戦争は平時(休戦状態)の衝動に潜んでいるのだ。

 ヨーロッパ開戦の二年前(一九三七)フランクリンは孤立しており、米議会の間では「棄てられた指導者」との烙印が捺されていた。そんな状況下にあって、中華民国が国際連盟に向け日本は九か国条約および不戦条約に違反すると提訴していた。提訴から一か月と五日後のことフランクリンはアメリカ議会において、日本の侵略行為を非難する「隔離演説」なる論旨を展開したとされる。

 隔離とは「日本を疫病患者になぞらえ隔離すべき」との意味を為しており、その直後から日米共に賛否を問うメディアを中心として、世界中のメディアが大騒動のウズに巻き込まれていった。

 内容は「世界中九割を占める人々の平和と自由、安全が、国際的な秩序と法を破壊する残り一割の人々によって脅かされている。…中略…世界に無秩序という疫病が広がっているようだ。身体を蝕む疫病が広がりだしたら、共同体は、疫病の流行から共同体を護るために、患者の隔離を認めることは当然なのでは…」との論旨とされるが、アメリカンドリームの深層は計りしれないのだ。

 中華民国の提訴が八月三十日、隔離演説が十月五日、翌日には米国務省ハルが「大統領は用意した原稿を日本へ向ける非難に変えた」と証言したが、連盟加盟国ではない米大統領の演説ゆえ、世界のメディアが問うべき本分は「非加盟国トップの発言を如何に認識すべきか」であろう。

 ここに隔離演説の反響をコピーしても無意味は知れており、ただただ愚かなメディアが戦争気運を囃し煽り立てる国際政治の下僕を立証するだけだ。

 過去を学ぶにあたり、個々の人間模様を情報化する事も必要とは思うが、人の差異は五十歩百歩で唯一格の違いを明らかにし得る実在は現人神しかいないのだ。その証しは有職故実を保つ家督継承を以て示すほかなく、個々の人間一代記など大自然の中では粒にもならないのだ。

 誰が何して何とやら、それは単なる冠詞であって、その冠を戴く意味とはなにか、そのモノゴトが未来に遺され役立つとの解釈が成り立つとき、人の論説は初めて評価の対象になるのではないか。

 それゆえ、隔離演説で大騒ぎしたメディアの相は省くほかないが、フランクリンはこれを機に原爆開発を政策推進の緒(一九三九)につけている。世に知られる「マンハッタン計画」であるが、この深層に潜む仕掛けこそアメリカンドリームとソ連シンドロームの核心に位置したのだ。

 時にソ連はヨシフ・スターリン(一八七八~一九五三)が政権トップ、一九三九年八月に締結した独ソ不可侵条約は反共主義を掲げるナチス党ドイツとの協約ゆえソ連の政策転換と思われた。

 ところが、この条約が意味するところは、戦争に伴う戦略戦術上の単なる騙し合いで両者の思惑が合致したにすぎなかったのだ。協約前ポーランド侵攻中だったドイツは優勢を保つも決め手を欠き、その決め手を担ったのがソ連そのための協約にすぎなかった。戦勝したドイツとソ連はポーランドを東西に分割し、西側をドイツが・東側をソ連がそれぞれ自国陣営に組み込んでいる。

 直後スターリンは東部ポーランド人の数十万人を中央アジアなどの辺境地へ強制移住させて本音をカモフラージュしている。移住自体も巨大な利益になったが、スターリンが隠した本音は諜報部隊の補強にあり、警察国家ポーランドは特高人材の宝庫ゆえスターリンの私的な秘密警察を構築するには絶好のチャンスでもあったのだ。以後スターリンの身辺は私的な秘密警察と国家諜報部隊で固められ諸外国に放った潜入スパイは世界有数の情報機関として抜きん出る存在となるのだ。

 独ソ不可侵条約は一人じゃ取れない御宝を二人で取って分ける協約だから、目的が果たせたら直ぐ廃棄が筋のモノだったが、国家たる手前そんな簡単には離縁できない。離縁のチャンスは一年後から燻ぶりだし、一九四一年三月ごろには双方とも開戦オーケーの状況下にあり、六月二十二日ドイツの軍は一斉集合した独ソ国境から奇襲とも思える侵攻開始に踏みきった。

 開戦当初は奇襲攻撃の効果でソ連に大打撃を与えたが、例年より早く到来した冬将軍の利とソ連に与したアメリカの武器供与と支援物資が重なり、甚大な被害が拡大一途のドイツ軍は撤退やむなしの状況下にさらされた。独ソ戦が勝敗の決着を見るのは、一九四五年四月三十日ヒトラーの自殺、五月二日ベルリンの陥落そして五日後に降伏、降伏文書が調印され八日の休戦発効で〆となる。

 第二次世界大戦中のソ連は独ソ戦を除くと、何度も侵略を繰り返しており、イギリスやアメリカは困惑の目で眺めたと言うが本当だろうか。またドイツが目論んだロシアの植民地化は地政学のランドパワーとしての地位確立を意味する事になると伝わっている。

 まずランドパワーとは、国家が支配下に置く陸地を整備のうえ活用する場合の潜在的かつ顕在的な能力の総称を指す言葉だとされる。提唱者ハルフォード・マッキンダーの言い分は読者に委ねるが、島や半島を領有する国家は強大なランドパワーを求める事が出来ないそうである。ランドパワーにはモンゴル帝国、ロシア(帝国、ソ連、連邦)、中国(元、清、一九四九年以前の中華民国、中華人民共和国)、日本(鎌倉幕府、江戸幕府)などあり、歴史上または現在の代表的ランドパワーとしての国家または政権の名称とされている。

 一九三六年二月スペイン第二共和政の政権(人民戦線)には多数の共産主義指導者達が加わる事で数か月後には、右翼の軍事クーデターを発端に内戦(一九三六―三九)が始まっている。ソ連のほか各国の左翼志願兵が政権側に加勢する事により、クーデター側にもナチス党ドイツやファシスト政権イタリアとポルトガルが加わり、この大規模化した抗争は内戦を超え第二次世界大戦へそのまま流れ込む相を明らかにする。

 反共イデオロギーが募るドイツの政権は、一九三六年十一月二十五日に署名の日独防共協定を機に反共政策を正式な国のモノとした。翌一九三七年にはイタリアも加わった。一九三八年ドイツのオーストリア併合とチェコスロバキア解体により、イギリスとフランスが対ドイツを前提にソ連と同盟を結ぶ姿勢を見せた事から、ドイツは棚上げしてきた独ソ不可侵条約の締結を早めることにした。

 一方、日ソ中立条約は昭和十六年(一九四一)四月十三日モスクワで調印された。この経緯もまた複雑怪奇な紆余曲折を孕んでいる。

 当時の日本は日中戦争下にあった事から、日米そして日英の関係悪化が極端な状況下にあり、国交調整を行う政府間での日米交渉も行われていた。当時の駐ソ連大使(東郷茂徳)は日独伊三国同盟の締結に反対しており、反共を除けば国益が近似する日ソ連携により、ドイツ、アメリカ、中華民国を牽制する事による戦争回避の策を企図し、日ソ不可侵条約の締結を模索していた。

 ところが、日本政府は米内光政の内閣が総辞職するところとなる。

 結果、第二次近衛内閣が発足そして外相に就任したのは松岡洋右であった。

 松岡が描いた構想は、日独伊三国同盟を締結してから、日ソ中立条約も締結そのうえでソ連を枢軸国側に引き入れ、最終的には日独伊ソ四か国による同盟結束でユーラシア枢軸を実現し、国力に勝るアメリカと向き合うプログラムのジャパンドリームに基づいていた。

 当初ソ連は松岡案に応じなかったが、ドイツの対ソ侵攻方針を知ると松岡案を受けいれた。

 独ソ不可侵条約の締結は一九三九年八月、日ソ中立条約の締結は一九四一年四月、独ソ間の締結が破棄されるのは同年六月、日本の対米宣戦布告が同年十二月、日ソ中立条約は五年ごとの更新による協約すなわち期限は一九四六年四月であったが、日本が敗色濃厚の一九四五年四月すなわち一年前にソ連政府は日本政府に条約破棄を通達その背景にヤルタの談合ある事は明らかなこと…。

 そして、一九四五年七月十七日から八月二日まで、ソ連占領地域とされたポツダムにおいて、イギリス及びアメリカとソ連の首脳が集まって行われたのがポツダムの談合であった。

 故ルーズベルト大統領の後継33代目ハリー・D・トルーマン(一八八四~一九七二)が就任した年月日は一九四五年四月十二日とされている。前任者フランクリンは一九四四年十一月七日に先例が無い四選を果たしおり、翌年四月十二日の昼食前に脳卒中で死去したとされている。死亡日の血圧は上300下190、一年前から上200超と知られ、高血圧用の薬剤は当時治験中の報告が出始めた頃にあたり、治療法も皆無だったとされている。

(つづく)

 

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