修験子栗原茂【其の一一】修験子栗原茂の政治運動

 さて、私二〇歳を終えた日までの、身に帯びた信条をまとめておきたい。

 それは平成三年に出版した憲法論『5・3』の起草が終わっていた事を意味している。

 そして秀孝が選挙ビジネスのターゲットにされ、悲嘆に暮れた母の追悼になるとも考えるのだ。

 テーマは『修験子栗原茂の政治運動』に伴う副読本のようなものでもある。

 前記した時系列としては、①昭和二十六年の全国地方選挙このとき秀孝が選挙ビジネスのプロから狙われ学んだこと、②同三十四年に面談した賀屋興宣と澁澤敬三から学んだこと、③同三十六年には真鍋八千代と初対面その四年後に聞かされた秘話から学んだこと、があり、真鍋の秘話は私二四歳の聞き取りではあるが、私の政治運動に関する事案のみ抜粋して挿入するので許されたい。

 まず①は私一〇歳だったので後年の回顧録であり、秀孝落選のとき、全国最年少で当選した区議会議員(のち都議)佐野善次郎から学ぶことになる、選挙のイロハが主要なテーマになってくる。

 佐野は私の少年期から青年期すべての間を通じて、政治家全員の登竜門「選挙」とは何ぞやを教え導いてくれた最強の恩師であるが、戦後政治に潜むモンスターの長所と短所を見透かしていた。

 佐野が被選挙権を得た時に遭遇したのが全国地方議員統一選挙であった。中学校の英語教員だった佐野は躊躇なく立候補に名乗りをあげた。事前の準備など何も整えていなかった。佐野は美男のうえ容貌スタイルも申し分なく、剣道で鍛えた姿勢はハリウッド・スターに勝るとも劣らなかった。その美声と歯切れのよい理路整然たる話術もまた人を魅了してやまない。

 初の選挙運動に臨んだ状況は当時一〇歳だった私に知る由もなかったが、東京オリンピック招致が決まった同三十四年すなわち私一八歳の直前に学んだ選挙は後年の私がそっくり受け継いでいる。

 後年、私は国政レベルから地方レベルまで、当落線上の候補者を当選させる選挙の勝手連的部隊を率いる参謀を経験することになる。誰の風上にも風下にも立たない無償の応援だから、どんな立場が抵抗勢力になっても苦にする事なくやり過ごしてきた。

 そのエネルギーを培った恩人こそが、フランクの兄貴であり、佐野先生だったのである。フランク永井からプレゼントされた銀座ナイトでは、各界各位の人間観察が功を奏して、紳士を装うジキルとハイドの本性が剖判できるようになり、人の琴線が透けて見えるようになったのである。

 私が佐野の政治姿勢を実感できたのは一六歳の時であった。同三十二年の誕生日が近づくころ私は浅草駒形橋西詰の近所で生じた事件に関与して、自民党の幹事長川島正次郎の秘書が秀孝と私に会うため来宅するという事案を抱えこんだ。川島の事案は事件と直接関係しないが、事件の当事者の親が川島の選挙区の有力後援者であったことから、事件を収拾した私の行為が川島の耳に伝わり、川島と銀座ナイトで会った事のある私が当の本人と判明そして秘書が来宅するというわけだ。

 事件は博奕場に出入りしていた私の友人が賭に負けた分を払えない事から、その取りたてに追われ結果的に私が友人の手助けをする立場になり、その揉め事を私が平穏に鎮めたというものだ。

 私の友人は川島の選挙区における有力後援者の子息でもあった。年齢は二二歳だから私より六年も年上であるが、私は大人の仕事に仲間入りしてから多数の年長者を友人としている。

 私は新聞配達を始めたとき、教えられた事を直ちに実行するように心がけた。どんな結果だろうと確かな手ごたえを得る事が出来たからである。それは自分自身の可能性を知る事にもなる。

 報酬に興味はなかったが、新聞の購読者拡張に成功すると、配達手当に拡張手当が加わり、自分の何が評価されたのかを知る事につながった。その功は省みる習慣を身につけることに通じている。

 つまり、他の人に何がしかのテーマをもって接するとき、常に相手の反応を読み取りながら素早い判断力を養っていけば、曽祖父や父が鍛えた修験の道義に近づくと確信していたのである。

 博奕で自らピンチに陥った友人の挙動に何かを感じ取っていた私は、友人が胴元から逃げきれない状況にある事を白状させたのち、二人で胴元の組事務所に出向くための電話をかけている。

 連絡なしに出向くより、予め仁義をきる事が肝心なのである。

 私は常に出たとこ次第であり、他の人を頼って目的に近づくことはしない。

 胴元の事務所へ足を踏み入れるにしても、それ相当の仁義を弁える必要があるのだ。友人が博奕に負けた原因は自身の思い上がりにあり、他を頼って生きてきたから、この時も自ら処すべきところが分からず、結果的に殴る蹴るの半殺しにされたのである。

 私は瞬時に「それが相当」と判断したのち、機が来るのを待ち逆転の仁義をきることにした。その機は成行きの中で自分がもうける、その際には自分も殴られ蹴られるようにする。つまり、この場を仕切る主役が私と胴元の二人になるよう仕組むのである。私が殴られ蹴られるのは筋が違う事だから私も当事者になりえる、その落とし処は親分でなければ決着つかないように仕向けて、メンドクサイ事を嫌がる親分のメンツが保てる妥協案で一件落着に持ち込むのである。

 結果、友人は自らの非を反省して、両親に対する親不孝を改め家業に精を出したのである。

 友人が博奕で負けた分は父親が代弁済したが、不当な金額ではない、親不孝な息子が真面目に働く親孝行に変身するのであれば、両親には安い授業料であり、非は両親にも責任あるのだ。

 さて、川島の件であるが、当時の川島は岸信介政権で幹事長の任にあたっていた。川島についての情報は簡単に検索可能なので省くとする。当時六七歳の川島が担うべきは、政権の基盤強化と補佐を主としながら、総選挙における全権をフルに発揮することにある。川島が政界の寝業師とも見られる要因は枚挙にいとまないほど伝わっている。

 政界は権謀術策の坩堝であり、昨日の友は今日の敵・今日の敵は明日の仲間に変わるのだ。それを平然と演じられなければ、国際政治の場で国益に活路を拓く事など出来るわけない。国際政治の場に立つ事も出来ない政治家なんて、今や単なる税金ドロボーとしか思われない。

 戦後日本の政界において、総理官邸の主役をキャスティングした政治家の中にあっては、同年齢の大野伴睦(一八九〇~一九六四)と川島正次郎はライバルと見てもおかしくない。

 時代に見合う首相を見究め黒子に徹した政治家としては、戦後の双璧であり、歴代首相の誰よりも現実の適応力に勝れたと見ても過言とはいえまい。その川島は唯一無二の息子が一一歳の時に天国に召されるというナミダを味わっている。

 川島の血を引く後継者が無の状況下において、選挙全体に目配せを効かせる幹事長であれば、その人材発掘は日常的な気掛かりで、ましてや川島のごとき事情を抱えていれば、自分の後継者は自身がゼロから育てたくなるのが人情というもの川島も人の子であるわけだ。

 当時の銀座ナイトは政官業言のリーダー層が集うオピニオン・ステージの役を担っており、ある種ヘッドハンティングのスカウトに目を光らせるハイレベルなクラブも少なくなかった。

 そうしたハイレベルなクラブで私を遊ばせてくれたのがフランクの兄貴であった。

 むろん、人の本能的虚栄心が行き交う場でもあるから、俄かづくりの成り上がり者も少なくないが銀座ナイトを続けるのは容易なことではない。私が三年目を前に卒業した理由の一つである。川島と初めて遭遇したのは銀座ナイトであるが、そのとき、川島は私が高松宮様の使者と接触していたのを記憶に留めており、博奕の事件収拾とのギャップが大きすぎるので興味に惹かれたのだ。

 話を長引かせてしまったが、私が起草能力に欠ける証左と許してほしい。

 佐野が秀孝に、私に、何よりも母に政治の神髄を叩きこむのは、川島の秘書が川島の意向を携えて私の家に来宅したときである。この時がなければ私のような生き方は通用するはずない。

 秀孝四九歳、母四五歳、佐野三二歳、私一六歳になったばかりだ。

 川島の秘書は「詳しい事は川島本人が話すとして、指定の日時に指定の場所へ来てほしい」という趣旨であり、秀孝は応諾する意向を示したが、母は「そんな大物と会う必要はない!」と言い放つや秀孝を押しのけた。その形相と勢いは全員をたじろがせた。佐野は隣室で茶を嗜んでいた。

 私はとりあえず「後刻電話で返事します」と言って、川島の秘書へ丁寧にお引き取りねがった。

 佐野は秀孝が選挙ビジネスのターゲットにされたとき、母(つぎ)が悲嘆に暮れて自殺未遂にまで及んだ事を知っている。母は「死んでやる」と決めたら必ず実行する人でもある。

 佐野は穏やかに母の気持ちをねぎらい、母を含め秀孝と私の三人に訥々と話しはじめた。

 この世には複数の次元と段階が用意されている。それに倣うのが自然の道であるが、人の属性には自然に抗い逆らう気持ちも潜んでいる。これら目に見えない世界を見えるようにするのが、政治家の仕事であり、みんなが求めるモノゴトを姿かたちにするのが政治家の仕事である。…略… ところが現実の中で見える姿かたちに大半の人たちは満足していない。…略… 

 要するに、政治家は誰もが期待するような夢を語っては裏切る現実の世を生きており、裏切る事を嘘と思っておらず、いつしか実現しえると本気で信じ込む日常を生きている。次から次へと舞い込む相談事に追われていると、一般の人たちが使う「モノサシ」と違う自分に気づかなくなる。…略… 

 お母さん(母の事)が言うように、選挙を他人に委ねるオヤジ(秀孝の事)は再び立候補する気を起こさないから心配ないが、この子(私の事)に政治的な組織を与えたら想像を絶するモンスターに化ける心配がある。それゆえに、お母さんは血相を変えて川島の秘書を追い返した。…略… 

 だけどね、この子は絶対に政治家なんかにならないよ。真っすぐすぎるよ。

 この子が常に欲しているのは、憧れているオヤジと大好きなオフクロがいつも仲良くて、家の中に笑いが絶えないこと、だけど現実はそんなに甘くない、他に頼む事でもないから、自分の夢は自分で実現しようと思ってるんだよ。だから、政治家になる暇なんかないんだよ。

 だけど、私(佐野自身の事)はこの子に「政治とは何ぞや」を教える必要があるんだよ。でないとこの子は誰にも想像つかないドデカイ事件を起こす可能性があるからなんだよ。その事件が誰からも支持されれば良いんだけど、他人は手のひらを返してこの子に誹謗中傷を浴びせるんだよ。この子は如何なる誹謗中傷にも怯まないよ、ところが問題は親族全員が堪えられなくなる。

 …略… (のち佐野は都議会史上初のドデカイコトをやってのける。)

 佐野が最後に発した決め台詞は「政治家になるより、政治家を動かす侠になれ!」であった。その奥義こそ選挙のイロハであり、川島の秘書来宅が最も身近なきっかけとなった。

 次の②は私一八歳のときである。

 賀屋興宣も澁澤敬三も個人情報の検索に労苦はいるまい。私が記すべき二人の関係は、澁澤本人に政界救援を申し入れ了解を得られるのは、賀屋以外には不可能ということである。また澁澤は戦後の公職追放(一九四六)により、蔵相辞任その際に自ら創設した財産税のため、港区三田の自邸全部を物納するかたわら、高松宮家の財政顧問を担っている。つまり、私に関与する絆の一つである。

 賀屋興宣は国学者の父藤井稜威(イツ)と教育者の母賀屋鎌子との二男、父は興宣が数え一〇歳の時に死去するが、藤井から賀屋へ改姓したのは四歳時といわれる。広島市出身ながら選挙地盤が東京三区(中選挙区制)になる事情にも通じている。

 少し賀屋鎌子(一八六一~一九一五)に触れる必要がある。鎌子は広島藩の内証分家がある江戸の青山屋敷において、江戸詰め広島藩士賀屋明(嘉仲太)と後妻嘉重子との長女として生まれる。慶応四年八歳のとき家族全員で広島に帰郷すると、一三歳で権令が職業婦女子用に開設した広島最初の女紅場(ジョコウバ=学校)「玉暎舎」へ母嘉重子と共に教師の身分で招かれている。

 玉暎舎は三年後に休校となるが、儒者山口文造の私塾「敬業堂」へ助手として転任、四年後山口が没したので塾生を引きとり、鷹匠町の自邸に松柏館を設け教育指導を続行する。二二歳のとき神宮教皇學を講じた藤井稜威に学ぶ機会があり、翌年、藤井と結婚のちに長男就宣と興宣が生まれる。

 ここで中断のうえ認識を要するのが、鎌子と興宣の個人情報に生じる齟齬であり、この齟齬を何ら省みない墓苑ビジネスを見過ごす現代の歪みと、僧侶と学者に横たわる怠慢のそしりである。

 落合先生と私が連れ合うときは、相互の史観を研ぎ透かすために、散策途中の墓地と墓碑を隈なく識別しながらお参りする。氏姓鑑識を検証するのは歴史を訪ねる登竜門だからである。

 私にとっての賀屋興宣は時間を割いても墓参を要する人であり、鎌子と興宣の個人情報を公開する多磨霊園に足を運ぶ事は少なくない。情報開示には感謝するが誤謬は正してほしい。

 ここでは要点のみとする。鎌子伝においては、藤井姓の鎌子が賀屋姓へ復籍するのは、夫と実父の没年(一八九八)としたためる。ところが、賀屋の家督を継ぐ興宣は四歳(一八九二)とある。

 非合理な点のみ指摘しておきたい。鎌子は父明の弟で心学者の忠恕に神道を学び(一八八三)その翌年には、神宮教会の教導職試補に任じられる。私塾「松柏館」は前年閉鎖しており、神宮教の権中講義(一八九三)、日清戦争を経て、自邸を京極の細川子爵宿舎に提供その接待にあたるという。

 一方、興宣四歳のとき、親族会議を経たのち賀屋家の分家(東京)すなわち明の弟である外一郎の妻ハナ(実家は旧広島藩士の竹内家)の家督を継ぐ事になったという。それは条件付きとされ、興宣成長の暁には竹内家血縁の女子を妻とすること、しかし、成長した興宣は条件に背いて、一般庶民の娘(春子)と相思相愛の結婚をしたという。

 ちなみに、興宣の兄就宣は昭和四年(一九二九)に死去したが、弟興宣の家督は養子で大蔵官僚を務めた正雄が継いだとされる。もう一つは、興宣の父稜威の実弟に靖国神社宮司を務めた賀茂百樹がおり、興宣の叔父ということになる。

 以上から、鎌子の父で興宣の祖父である明には、神宮教会の教導職となる忠恕と、分家して東京に住む外一郎がおり、鎌子は父明家へ復籍して、興宣は分家した叔父外一郎家へ養子入りする。剖判を要するのは、鎌子二八歳の時に興宣が生まれており、鎌子の復籍は三八歳だから興宣は九歳、興宣が藤井姓を賀屋へ改姓する事が決まるのは四歳(一八九二)の時だとある。すなわち、鎌子が神宮教の権中講義(教導職の位階で無給の官吏)に就く前年の事であり、鎌子は試補(一八八四)に任じられ神宮教を説くため広島近隣の各地を駆け巡っていた時のことになる。

 私が興宣の墓参で多磨霊園に出向いてから知る情報であり、私が賀屋と澁澤から薫陶を受けた時は知る由もない情報だったので、剖判できた今は当時の薫陶が一層よみがえってくる。

 その結果かつて私が石原慎太郎を腐れ外道と見透かした事に間違いは生じなかったのである。

 それはまた、山口二矢が石原を大きくしのぐ道義の人と自負する事にも通じている。

 高松宮宜仁親王殿下と澁澤敬三、澁澤敬三と賀屋興宣、そして川島正次郎という連鎖のすえに私の如き端末が通じるように導いてくれた人こそ佐野善次郎その人だったのであるが、この事を起草する段にあっては、再び鎌子の個人情報を続ける必要が免れないのである。

 鎌子は夫と父の死没(一八九八)後に賀屋姓へ復籍とあるため、藤井姓は家督を継いだ長男就宣が戸主になったと考えられる。鎌子が一人っ子だとすれば父の家督を継いだのだろう。当時鎌子の活動エリアは広島を拠点としたようだ。たとえば、広島婦人慈善会を設立(一八九八)して会長に就任と記事にあり、翌年には日赤篤志看護婦人会広島支会相談役となり、三年後には愛国婦人会広島支部の幹事(一九〇二)となって、芸備婦人慈善会評議員(一九〇三)、女中興風会と平和会を設立(一九〇八)のうえ会主に就任するなど、どれも広島に特化しているからである。

 他方、興宣は東京在住で分家の叔父外一郎の妻が戸主の籍へ養子入り(一八九二)して、条件付き家督継承を以て戸主となる事が約束されている。のち選挙地盤が東京三区ということから、在住地に変遷があったとしても、東京三区内と想定する事に大きな違いは生じるまい。

 つまり、鎌子と就宣に興宣の母子三人は戸籍が異なっても、鎌子と興宣は没後多磨霊園の墓の中で永眠する逢瀬に恵まれており、その果報はまた二人の生き方が証明するのである。

 次に鎌子(カネコ)の生涯を通して、日本伝統の大和撫子が快男児をつくり、開国の門扉が世界へ向けられると自ら飛翔した、そんな底力を潜ませた明治時代の女性に焦点をしぼりたい。

 それは私に訓戒をほどこした賀屋と澁澤に関係することであり、二人が一緒という条件のもと私に私自身の使命を伝える必要があったのである。

 現下の社会は男女均等を筆頭に蔑視問答でにぎわうが、お祭り騒ぎを演じる前に鎌子の社会運動を検証すれば、格差の本質に何が潜んでいるのか、それを知るほうが意義ぶかいと思うのでもある。

 それはまた私が石原慎太郎を腐れ外道と呼ぶ道義にも通じるからでもある。

 文久元年すなわち世界中に広がる青年党ファシズムが日本にも上陸せんとするころ、広島藩の江戸屋敷で生まれた鎌子は明治元年(一八六八)八歳のとき広島の地へ帰郷している。

 さて、幕末維新については、落合先生の洞察史観によって、その核心を見事に喝破された合理性に敬服ひとしおであるが、ここでは神仏判然令(一八六八)に焦点を合わせたい。

 判然令は神祇官の再興に同調したとされ、祭政一致の国家運営を目指し、神道宣布の教導職を以て教派神道のきっかけとなり、従来の神社や神道系の講社ほか民間信仰の教会を結集する神道事務局を用意したと解される。それはそれとして、私は瑣末な皇国史観に通じる政策であり、開国の混迷から生じた国家百年の悪計すなわち教育行政だと思っている。ただし、昭和の大戦後に導入された日教組革命とは一線を画しており、これを歴史の相似象と捉えるのは大きな見当はずれである。

 私は独り天皇神道を奉じて、皇祖皇宗の一貫性は競わず・争わずのミタマと自負している。

 鎌子の社会生活は判然令を機にはじまり、大正四年(一九一五)逝去のときまで、判然令を視野に含みながらも、自らの信義に順って明治の時代を駆けぬけた。

 神道を記事にすると、その量が多すぎて私史が遠のいてしまう、而して、ここでは要略にとどめる事を許されたい。判然令に基づく文化庁の仕分けによると、教派神道と神社神道の二つに分けられて在来や新興の集合体が吸収されたという。その手続きを行う受け皿となるのが、大教院の設置(一八七二)に始まり、三年後には解散その代わりに神道事務局を設けたのが教派神道であり、神社神道は伊勢神宮を中心に神宮教会の中枢に神宮教院を設けて再編にとりくんでいった。

 この種の法令が社会に混乱をもたらすのは、恥じるを知らない通史の慣行にもなっている。アメノミナカヌシに始まる全ての神々=神祇を祀る教派神道にあっては、別に宗派神道とも呼ばれ、行政に公認された教派の名を挙げると次のごときとされる。

 黒住派(黒住宗忠)、修成派(新田邦光)、神宮派→奉斎会(田中頼庸)、大社派(千家尊福)、扶桑派(宍野半)、実行派(柴田花守)、大成派(平山省斎)、神習派(芳村正秉)、御嶽派(下山応助)、本局→大教(稲葉正邦)、神理教(佐野経彦)、禊教(井上正鐵)、金光教(金光大神)、天理教(中山みき)などの十五教派であるが、明治九年(一八七六)十月に公認された黒住派および修成派にはじまり、同四十一年(一九〇八)十一月に公認された天理教が最後といわれる。ただし、右の教派も同四十五年(一九一二)には連合会が組織され、占領(一九四五)までの体制は神道十三派と呼ばれて現在に伝わっている。ちなみに、同期の仏教認可は十三宗五十六派と呼ばれた。

 祭政一致に始まり、教部省と教導職そして大教院から神道事務局の設置まで、たかだか八年の間に変更を余儀なくされる制度設計は昔も今も変わらない。何でか?不治の病でもあるまいに…。

 その答えこそ、鎌子の志と同様に生きた明治の母性本能に潜むナミダが物語っている。

 私は思う、女性を侮る男性どもは自ら不幸を引きよせ、断じて功を得られる存在とはならない。

 これぞ神道の神髄であり、養うこと、教えること、禁じること、を実践できない行政が教育を制度設計するなどは、大きな勘違いで天与の資質を政体ごときが司るなどは本末転倒にすぎない。

 真の歴史人は世俗が囃子たてるような人にあらず、ベストセラーのごとき人にあらず、世俗の雄は隠れ官製の中に生まれ、それを文壇とメディアにアウトソーシングした物の怪にすぎないのだ。

(続く)

無料メールマガジン

落合莞爾氏の新コンテンツや講演会の予定に関する情報、
小山内洋子氏をはじめとした新講師陣の新コンテンツや講演会の予定に関する情報を、
いち早くメールでお知らせします。

>無料メルマガのご案内

無料メルマガのご案内

落合莞爾氏の新コンテンツや講演会の予定に関する情報、
小山内洋子氏をはじめとした新しい講師陣の新コンテンツや講演会の予定に関する情報を、
いち早くメールでお知らせします。