修験子栗原茂【其の三十九】天皇機関説排撃の目的

 やっと美濃部達吉(一八七三~一九四八)まで達する事が適えられた。洋右と同世代である。

 甲賀シノビ衆を率いた道真流直系であり、松岡洋右と同じく官製発信の情報を鵜呑みには出来ない英傑の一人である。兵庫県加古郡高砂町の漢方医美濃部秀芳(同秀軒の子)の二男に生まれ、地元の高砂小、小野中(現県立小野高)を卒業、一高を経て法科大政治学科(現東大法学部)に進んで一木喜徳郎(天皇機関説を主唱)に師事したとされる。

 加古郡および加古川の概要について確かめておきたい。

 行政区画上の郡域は加古川の河口左岸とされ、風土記では賀古や鹿児の字が用いられ、景行天皇が印南野(いなみの=播磨平野)氷の(鄙=ひな)丘(日岡山)から四方を臨み、河口の三角州が鹿の背に似ている処から名付けたともされる。さらに、日岡山の地形が鹿の児に似るため、鹿児の郡(かこのこおり)と言い、多数の船が往来した交通要路ゆえ集落が発展して、水夫(かこ)も多く住んだ地域また多数の鹿も棲息したと伝わっている。

 この地は陰陽師や僧兵が拠る場所で、前者に道摩(道満)法師を、後者に武蔵坊弁慶を挙げ、書写山円教寺をはじめ修験道場も活気盛んだったとされる。

 加古川の本流(幹川)は集水域が広く支流数も多くあり、県内に河口を持つ河川水系の中では本流流路延長や流域面積が共に最大である。流域は東播磨全域および丹波南部方面のみならず、神戸市北区や灘区のうち六甲山系北稜に達してから県外大阪能勢町天王峠周辺の地域すなわち篠山川上流域の水無川上流部も含んでいる。

 瀬戸内海の明石海峡や鳴門海峡以西に流れ込む水系としては、高梁川、吉井川、旭川に次ぐ大きな流域面積を有している。また加古川市と高砂市の境にあって、播磨灘に注ぎ込む市川、夢前川、揖保川、千種川とともに加古川は播磨五川の一つともされる。

 現在源流は丹波市北西の栗鹿山(標高九六二メートル)付近に発する一の瀬川であり、この河流は大名草で石風呂川と合流したあと佐治川と名を変え、それは篠山川合流点までを含んでいる。現代の本流名は統一的に呼ぶことが普通になったので、佐治川も加古川とみなされ、この区間の現地河川名表示板には「加古川(佐治川)」と表記されるようになった。

 中流域に当たるのは、佐治川と篠山川の合流点(谷川駅)から美嚢川合流点(三つの市=加古川と三木と小野の市境付近)を指しており、急流の分布として、西脇市上比延町の津万滝(つまたき)や加東市の闘龍灘(とうりゅうなだ)や姫滝と呼ぶ場所が知られている。

 篠山川は加古川水系で有数の規模をもつ支流であり、佐治川との合流点は古から「であい」と呼び上流域(旧丹波)と中流域(旧播磨)の分岐点とされてきた。篠山川源流から加古川河口までの流路延長は現在本流とされる部分の延長よりも長いこと、年間を通じる雨量の多いこと、この流路延長と流量との正比例が常識とみなされる事に比し、双頭の形状で成る加古川は常識外の川である。

 篠山川の河底からティラノサウルス類と推定する恐竜化石が発見され丹波竜と名付けられた。播磨国風土記に印南別嬢(いなみのわきいらつめ)の遺骸が川に沈んだ、という説話があり、その川こそ加古川とされる。日本最古の取水施設(用水路)五ヶ井堰を整備したのは聖徳太子と伝えられる。

 加古川に関する他の情報は省略するが、私が何ゆえ加古川に拘るのかは、日本列島を横断する県が唯一兵庫であり、北端青森と南端山口とでは条件すべてが異なり、大陸から千切れた日本海側と播磨灘→紀伊水道→太平洋側へ抜けること、それが恐竜時代まで遡る歴史的条件を備えていること、その悠久なるロマンが開かれた空間への鳥居になるのではないか、と私は感じている。

 私のフィールドワークは都合つく際に加古川沿いを探索する事にも費やされており、皮膚呼吸から覚る果てしない五感プラス閃きに多くの発見を認識するよろこびを知っている。

 時には修験奉公衆が同行してくれたり、甲賀シノビ衆の後裔が同行してくれたりする。

 達吉の生誕年(一八七三)は癸酉(きゆう=水の弟とり)すなわち干支の十番目に当たり、前年は壬申(じんしん=水の兄さる)、翌年は甲戌(こうじゅつ=木の兄ゐぬ)とされている。

 明治六年(一八七三)は元旦に改暦の布告があり、旧暦五年十二月三日を新暦六年一月一日とするグレゴリオ暦が導入された。徴兵令が施行され現役兵は入営日とされた。東京師範学校附属小(現行筑波大学附属小)すなわち学制初の小学校が設立されている。平民の間にも養子縁組が許可された。復讐厳禁(仇討禁止令)布告など、新風一気の戸惑いが日本中へ広がっていった。こうした際に必ず生じる相似象を知るのが歴史人の真骨頂であり、その申し子として生まれたのが達吉なのである。

 皇居炎上これ五月五日であり、本来なら間髪いれずに天皇の京都遷宮を奏上すること、その自裁に腹を斬っても御帰還たまわるのが議会の仕事ではないのか。すなわち、後の天皇機関(=帰還)説が議会を揺るがす最大の議事となるのであるが、昔も今も議会に歴史人が返り咲く環境はない。

 火葬禁止令(七月十八日)公布、米国恐慌(証券取引所十日間閉鎖)、西郷ら下野、内務省設置と施行など、時のカレンダーに接することも歴史人の仕事と私は教わっている。

 大学を卒業した達吉は内務省に勤務(一八九七)、二年後ドイツ、フランス、イギリスに留学した翌年(一九〇〇)東大助教授となり、二年後に同教授その講座は比較法制史を担任している。大学の同期に立作太郎(国際法)、筧克彦(公法)、憲法学の弟子に清宮四郎、宮沢俊義、鵜飼信成、柳瀬良幹、松岡修太郎、中村哲(政治学)、行政法では田中二郎、宇賀田順三、園部敏らの名が挙がる。東大に先立ち高等商業(のち東京商科大→一橋大)でも教鞭を執り、同校の兼任教授(一九〇三)に就くと渡辺廉吉に代わって憲法と行政法を担当している。その際に助手を務めた弟子に田上穣治(後年の一橋大名誉教授)がおり、一木夫妻の媒酌で大麓の長女多美子と結婚したのも同年だった。

 右は明治三十三年から同三十六年まで三年間の出来事である。

 一木が大学を退いた(一九〇八)後を受けたのが三六歳の時であり、三年後には帝国学士院会員に任命されている。一木の天皇機関説を整えて『憲法講話』に発表したのが大正元年(一九一二)四〇歳のとき、この発表に潜む天命を覚ること出来ないのが、何でも食いつくピラニアと同じ御用学派とメディアの暴走であり、以後、焙り出された曲学阿世の本末転倒が独り歩きをはじめる。

 神仏判然令ほか類似の政令は開国に乗じる覇道一神教が講じた策にすぎない。日清日露の戦は海外交易に混じる侵攻ウイルスの陽性反応であり、達吉の天皇機関説が真骨頂とするのは、そのワクチン接種に当たるカンフル剤であって、戦勝思考を一掃するための免疫強化を目的としたのである。

 天皇機関説を報じる周知の記事は大凡つぎのごときとされる。ドイツのゲオルグ・イェリネックが主唱した「君主は国家における一つの、かつ最高の機関である」とする国家法人説に基づく帝国憲法解釈が天皇機関説であると決めつける説が公開された。それは天皇主権説を唱える穂積八束の後継を自任する上杉慎吉の一派で達吉に論争を仕掛け、その拍車を掛ける格好で騒動が大きくなった。

 論争に参ずる全員が天皇信奉者である事に違いはないが、それが皇祖皇宗に通貫する信奉か否かで全く異なる現象が創出される。すなわち、有職故実と家督継承の実相が明示されてしまうのである。千切り取りや摘み食いから講じた論説は長くて三代ほぼ一代で朽ちるのが通例であり、天皇機関説に異を唱える天皇主権説は多分に覇道一神教の臭いが混じっていた。

 大正天皇と裕仁皇太子の御代が進むにつれ、尊皇正統派とその同系官僚たちは天皇機関説を当然と受け容れるようになり、大正九年(一九二〇)憲法第二講座が増設され、行政法第一講座と兼担する達吉の姿があった。全ては達吉の洞察(ビジョン)から生じた成果と思われる。

 昭和五年(一九三〇)ロンドン海軍軍縮条約の批准に関連して、いわゆる統帥権干犯問題が起きた際の達吉は「兵力量の決定は統帥権の範囲外であるから、内閣の責任で決定するのが当然」と断じて濱口雄幸の内閣方針に支持を言明している。また血盟団事件(一九三二)で井上準之助(蔵相)らの殺傷が生じると、政府と公安委員会(弾正台)の怠慢を非難している。

 政党が利権誘導に過ぎる事を批判する一方において、内務省革新官僚が推進した復活事案すなわち知事や官僚らの身分保障規定(文官任用令)の再興には賛成論を発している。これら政治的な発言が多くなる深謀遠慮としては、長男亮吉の未来を案じた洞察がある事に間違いはあるまい。

 貴族院勅撰議員(一九三二)となった二年後に東大と兼官を辞任するや、翌年には商科大の教授も退任その後継に筧克彦を派遣したとされる。

 時あたかも国体明徴運動が勃発(一九三四)、日本人の無知蒙昧を世界へ知らしめる恥辱に政府の無策は相も変わらなかった。天皇機関説は衆生(迷える人々)の開示とは異なり、達吉ほどの見識が公開されれば、天皇の台覧は必然その際に適正はチェックされる。而して、天皇機関説が非難される謂れなどあるはずないのに、排撃されるという事は他に異なる目的あってのことである。

 国体明徴運動のストレスが天皇機関説に集中した事件とは何だったのか。

 歴史の相似象を認識し得る人々には他愛のない事であろうが、如何なる利権勢力も後ろめたい利を求めんとするケースにあっては、必ず何がしかの生贄を要するのが常套手段となっている。

 昭和十年(一九三五)、貴族院本会議で菊池武夫が天皇機関説を非難これに乗じた軍部や右翼らの群れが説と達吉を排撃せんと激化していった。のち議場で演説した達吉の理路整然を抜き書きする。

 去る二月十九日の本会議におきまして、菊池男爵その他の方が私の著書につきまして、ご発言がありましたにつき、ここに一言一身上の弁明を試むるのやむを得ざるに至りました事は、私の深く遺憾とするところであります。…今会議において、再び私の著書をあげて、明白な叛逆思想であると言われました。また学匪であると断言せられたのであります。日本臣民にとり、叛逆者、叛逆人と言わるるのはこの上なき侮辱であります。学問を専攻している者にとって、学匪と言わるることは堪え難い侮辱であると思います。…いわゆる機関説と申しまするは、国家それ自身を一つの生命あり、それ自身に目的を有する恒久的の団体、即ち法律学上の言葉を以て申せば、一つの法人と観念いたしまして、天皇はこれ法人と観念いたしまして、天皇はこれ法人たる国家の元首たる地位にありまし、国家を代表して国家の一切の権利を総攬し給い、天皇が憲法に遵って行わせられまする行為が、即ち国家の行為たる効力を生ずるということを言い現わすものであります。

 以上の弁明演説に比すると、男爵菊池武夫(予備役陸軍中将)の糾弾演説は達吉のみならず、中島久万吉(商工大臣)の「足利尊氏」評にも食いつくなど、その大向こうを意識する芝居がかった粗い話っぷりは現行テレビ一発芸とも思えてくる。私は公職選挙における応援弁士や右翼団体の街宣車で演説する事が盛んな時期あったが、その際に意識する芝居がかった経験から、菊池の目的が全く違う方面に向けたものである事が透けて見えるのである。

 明徴運動勃発の前年(一九三三)、ドイツではナチスがユダヤ人イェリネックの著書を発禁焚書の対象とした。ドイツへの関心が高まる日本においても、ナチスを真似するかの如き風潮から、イェリネックの何たるかに関係なく達吉に反ファシズムや反ナチズムのレッテルを貼りつけた。弁明演説を行った翌年(一九三六)、暴漢小田十壮が達吉を銃撃した、重傷を負った達吉の体内から除去された弾丸は暴漢小田が撃った弾丸とは異なるものだった。この弾は誰のものか未だ公開されない。

 これら一連の事件により、岡田内閣は二度の国体明徴声明を発し、天皇機関説は異端の学説と決め付け撲滅宣言を発表せねばならなくなった。

 第二次世界大戦後(一九四五)、占領下の改憲作業が行われ、内閣の憲法問題調査会の中で達吉も顧問や枢密顧問官として参画その動向を目の当たりにしたと伝わっている。

 達吉は新憲法の有効性は無に等しいとの見解を示しており、主権在民の原理に基づく改憲は國體の変更と断じて反対を主張している。枢密院における新憲法草案の審議においても、議会提出前の採決現場でただ一人反対の意志を貫いている。その後の議会通過後に行われた採決にも欠席棄権するなど抵抗の限りを尽くしたとされ、その一貫性は今天神を彷彿この言は修験が伝えることである。

 どうあれ、国際政治の場を生き抜くには、道理や道義を腹に含んだうえで、有職故実や家督継承の共時性を洞察できなければ、自らの郷土を護持するなんぞ虚しい夢にすぎないのである。

 達吉の妻多美子(菊池大麓の長女)の妹(同二女)が嫁いだ鳩山秀夫(一八八四~一九四六)にも触れておきたい。兄一郎(一八八三~一九五九)は第五二・五三・五四代の首相となり、その父和夫(一八五六~一九一一)は日本人初の法学博士かつ政治家(衆議院議長)である。祖父鳩山十右衛門博房は美作勝山藩士で出自は小川家から鳩山嘉平治家へ養子入り、その家督を継いでいる。

 勝山藩は江戸中期の譜代大名三浦明次(一七二六~九八)が三河西尾藩から転封されたのち、美作真島郡(現岡山県真庭市)勝山城(旧高田城を改称)を本拠としたものであり、藩主二代目の矩次が同郡新庄村にあった鉄鉱山の経営を奨励して栄えたとされる。

 藩士鳩山家が江戸勝山藩邸(虎ノ門)留守居役だった時(一八六二)、文久の改革で参勤交代制が三年に一度となり、経費節減のため江戸屋敷を閉鎖(和夫七歳)、鳩山家も国元へ戻った。

 和夫一二歳のとき生地の江戸へ戻り、開成学校(東大の前身)卒業時(一八七五)二〇歳、第一次米国留学生として、コロンビア大で法学士を取得したあとイェール大で法学博士号を取得している。帰国後、代言人=弁護士かつ東大講師など歴任するなか、渡辺努(旧信州松本藩士)の娘多賀春子と結婚(一八八一)その三か月後に東京府議会議員の選挙に当選している。翌年一郎、翌々年に秀夫が生まれると、外務省入省(一八八五)へ切り替え、書記官→取締局長→東大教授など歴任、東京専門学校(後の早稲田大学)校長に就任した秋に小石川区(現文京区)音羽町へ転居した。

 第三回衆議院選(一八九四)に当選その二年後に議長就任、のち本会議における採決で二度の可否同数があり、その議長決裁権を二度も行使したのは和夫以外には現れていない。

 鳩山家がライフワークとして携わった北海道開墾の執念は特記以外の何ものでもない。

 栗山町の「共同農場」と称する地には、鳩山川、鳩山池、鳩山神社(旧称は紅葉神社)など、今も現存する名は「鳩山地区」とも呼ばれている。孫の由紀夫が衆院選(一九八六~一九九三)の票田に用いた鳩山地区は当に地盤、看板、カバン以外の何ものでもあるまい。

 さて、鳩山家を知るために必須なのは、和夫の妻春子の系譜を知らなければ、見映えに目を奪われ魂を抜かれた「追っかけ」と何ら変わらなくなる。

 文久元年(一八六一)春子は信濃松本藩(戸田松平家)家臣渡辺幸右衛門の五女として、松本市に生まれたとされる。この渡辺家は明治から多賀と改姓幸右衛門は努と名乗っている。

 松本城の旧称が深志城とは小笠原氏の記事で述べたが、小笠原三代が城を追われて、主君を次々と変えながら、関ヶ原の戦後に秀政が悲願の復帰を果たしたこと、大坂夏の陣で秀政の家督を相続した嫡男忠脩と秀政が戦死したこと、その家督を忠脩の弟忠真が継いだ事などは前述の通りである。

 秀政復帰後の松本藩は故地に残留した多数の旧臣が挙って返り咲くチャンスともなった。深志城を松本城と改称した藩の復興は短期間のうちに成し遂げられた。幕府にとり、地方の繁栄は歓迎と共に脅威を覚える存在のため、藩主小笠原家は加増の手土産を与えられ播磨明石藩へ転封とされた。その際に主君忠真に追従した家臣の多さもまた小笠原氏を語る一つの材料になるだろう。

 忠真転封(一六一七)後の松本藩主は上野高崎藩五万石に二万石加増された松平康長すなわち有力譜代の大名で正室は家康が養妹とした久松俊勝の娘松姫であり、この系は戸田宗家→戸田松平家とも呼ばれている。以後、松本藩主の変遷は結城秀康の三男松平直政→老中堀田正盛(春日局の縁戚)→水野忠清(家康の従弟)系六代目が改易(水野家は存続した)→再び戸田松平家の系九代が世襲して幕末維新に至るが、鳩山春子の生誕三年後に発生したのが天狗党の乱(一八六四)である。

 天狗党の乱が発生したとき、松本藩兵は諏訪藩兵と組んで和田峠(中山道)で交戦、諏訪の軍法に遵い敗北に甘んじた。それは新政府成立に至るまで変わらなかった。

 春子二一歳の時に鳩山和夫と結婚、松本市に生まれ、東京女学校への入学一四歳、この学校は僅か五年間(一八七二ー七七)で閉鎖するも東京女子師範学校が新設され、その附属高等女学校の名称で継承される。現在のお茶の水女子大学附属中・高等学校の源流とも言われる。春子は新設された東京女子師範学校別科英学科へ再入学一年後(一八七八)一八歳で卒業すぐ同校本科へ転入する。

 米国フィラデルフィア府女子師範学校への入学許可(一八七九)は三か月後に政府の都合で留学の中止が決定される。文部省の声掛けでお茶の水東京女子師範学校師範科に復旧して一級昇進その翌年卒業(一八八一)を経て母校へ就職するが、同年十一月の結婚によって辞職したとされる。

 婚姻後十四ヶ月弱で長男一郎その十三ヶ月後に二男秀夫を出産した春子は、その五ヶ月後には東京女子師範学校御用掛を拝命しており、その半年後には新設の文部省直轄東京高等女学校から御用掛を拝命したとされる。もはや何をか況やこれらの情報を鵜呑みにするなら未来など透かせまい。

 結婚二一歳(一八八一)から二六歳まで事実は四年と少しの間しか経ていない。当時の社会事情や二人の生活環境を窺えば到底納得し得ない経歴であり、これら情報が通用する現代を思うと、現世の杜撰たるや唯一の主権在民その選挙投票率の低下が止まらないのも当然といえよう。

 春子二六歳が共立女子職業学校(現共立女子学園)創立に参加して、本務の傍ら教授職も務めたと言う時期でもあり、九年後(一八九五)には学校設備がない地方へ通信教育(大日本女学会)をも開始これらは高等女学校が普及するまで十数年を継続したとされる。

 共立女子職業学校の財団法人化に伴い評議員となり、家庭科を新設(一九一二)、翌年には高等師範学校講師と職員を兼任して、のち共立女子職業校理事(一九一四)、この二年後には副校長に就き校長六代目になるのは大正十一年(一九二二)十二月であった。その約一か月前には学制発布五十年記念式で東京市教育会長から表彰されている。

 翌年九月一日の関東大震災では校舎も寄宿舎も焼失して、その復興に全力を注ぐ五か月後に勲六等瑞宝章を受章四四歳のときである。翌年(一九二五)共立に専門校を併設して初代校長となり、その二年後「女子技芸講習録」を編輯して一年間の通信教育を開設している。

 同年(一九二七)ローマ教皇ピウス一一世から聖年(一九二五)祭記念布教博覧会功労賞を受けた十二月に日本婦人海外協会顧問その約一か月後に大礼記念国産振興東京博覧会評議委員を嘱託される一方において、東京府下中学校博物教育会の賛助員に推挙されたり、御慶記念婦人子供博覧会顧問を嘱託されたりしている。

 昭和三年(一九二八)帝都教育会長から表彰状と功牌を受け三か月が過ぎると、共立女子職業校の校長に続いて同専門校の校長も兼任しており、勲五等瑞宝章を受章その十年後に享年七九歳の生涯を閉じるが、死亡日に叙勲四等瑞宝章がもたらされている。

(つづく)

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