修験子栗原茂【其の三十六】羅津に根差したワンワールドのネットワーク

 小笠原流ここに至るまでの間を顧みると、天皇家の外戚藤原氏に治政が託され、朝廷の律令制から社会一般へ遷って混和したカバネがオピニオンリーダーとなり、上意下達に乱れが表出すると、賜姓降下の下剋上も有り得る事を知らしめた。これ社会統率の第一段階と言えまいか。つまり、聖徳太子までを神格の世とするならば、第一段階は人格が巣立つ場(社会)の環境を整備する事にあり、その間に備蓄された口伝の文章化が行われた。すなわち、神代の監修と稗田阿礼の口伝を文章化したプロジェクトの中に太安万侶が現れると、神代を往来する文字文明にアルゴリズムを採り入れた創始者が菅原道真ではないか。私の自負するところにすぎないが、太安万侶の国語と菅原道真の算数を基軸に正当な日本史の仕組みが動き出したのである。古の六国史が機能停止に陥った要因ではないか。

 国語と算数が正史の古典となれば、六国史の検証も具体的究明が可能となり、それは永遠の継続を保つカバネが必要になってくる。その中枢に位置するための一方に歴代天皇の葬祭を委嘱された土師菅原流が生まれると、もう一方に治政を委嘱された藤原日野流が生まれている。この二流の検証から明らかになったのが縄文の里帰り組であり、羅津に根差したワンワールドのネットワークである。

 そして里帰り組をノミネートしたリーダー格が縄文橘氏ではないのか。

 これ世界無比の実在すなわち神格天皇あればこその文明であり、その神格あればこそ人格の統括的相関図が設計され、そこに公武合体を理想とする平と源の賜姓降下が実施されたのである。

 而して、その設計プロジェクトの中枢を担った土師菅原流と藤原日野流から、有職故実のカバネが生まれ、その姓が絶える事ない家督継承を保つようになるのは必然性以外の何ものでもない。

 それはまた、縄文橘氏と里帰り組のコニキシにも同等のカバネがある事は言うまでもない。

 菅原流と日野流のビジョンから、平と源の統合二流が生まれ、そのバランスを保つために機能する國體の臨機応変ここに橘氏と里帰り組の精鋭が編成し得る家督ある事も必然といえまいか。

 もとより、賜姓は権威の象徴であるが、その勅裁は培われた事績に基づくがゆえ、位階相当の有職故実を積み重ねた家督にかぎられる。而して、有職故実と家督は一対だから、その家格に伴う歴史が家伝となるのは必然であり、その有職故実も権威ある賜姓によって重要性が増してくる。

 多数ある家伝のうち、有職故実の中枢を占める家格として、その地位を日野流や菅原流が占めても謂れなき疑念はもたれまいが、御用学の歴史に埋もれた有職故実が里帰り組の家伝なのである。その中枢を占めるのが小笠原流と私は自負している。

 小笠原流に二人の持長が出現する事情ここに存するわけである。

 たとえば、記紀すなわち古事記と日本書紀は同世代に編纂されており、日野流や菅原流が古事記を重くみてとれば、御用学は富士古伝や武内文書を亜流として、小笠原流には里帰り組の特色を示した記事がふんだんに示されている。それは恰も日本書紀の如きともみてとれる。

 その表記を代表するのが弓馬の術であるが、茶や香などの礼法や作法にも活かされている。

 かつて真贋大江山霊媒衆が出現した事により、御用学の間で一世を風靡した騎馬民族説という脚色演出の仕掛けがあった。日本人が朝鮮半島から来襲した天皇の膝下に跪いたという説であり、政府の全面協力で天皇参賀を根絶やしにしようと企む官製のブームが巻き起こされた。反天皇勢力の走狗を担ったワイドショーも狼少年に似たタレントのリピートに終始していたが、日本列島へ弓馬に優れた技術を持ち帰ったのは縄文の里帰り組しかありえない。

 すなわち、小笠原流の祖は加賀美次郎遠光その素は源氏に編入した里帰り組の各務氏のこと。

 小笠原氏の嫡流六代目宗長の嫡男貞宗七代目が信濃守護を継いだとき、その弟貞長は京都小笠原家創建に当たっており、その実在は確認されているが、生没年不詳ほか情報一切が不明であり、生きた時代は鎌倉後期~南北朝期とされる。ちなみに、兄貞宗(一二九二~一三四七)と父宗長(一二七三~一三三〇)の生没年と照らせば大凡の個人情報を窺い知るのは難しくはない。

 信濃守護をめぐる小笠原氏三つ巴の終息は府中系と松尾系に淘汰され、守護を継ぐのは府中二代目清家(一四一七~七八)が嫡流信濃十三代目となり、松尾二代目家長(生年不詳~一四八〇)の系は大正天皇(一八七九~一九二六)の東宮侍従に任じられた長育(ながなり)も輩出していく。一方の府中系は嫡流三十二代目忠統(ただむね=一九一九~九六)に継がれたとき、門外不出だった「小笠原流礼法」の概略を世に広めており、その後継は両家共に健在で家督も今に伝わっている。

 さて、嫡流貞宗(信濃守護)の五世孫で府中小笠原氏の祖持長の同姓同名の別人であるが、貞宗の弟貞長が京都に住んでからの五世孫で嫡流持長と同世代に当たり、父方の歴代当主は名が判明しても他の情報一切が不明とされている。ところが、別人持長を父に持つ子息二流から生じる情報によると各務系小笠原流であれば、然もありなんとする有職故実が満載されている。

 まず情報の認否はさておき、京都系(別人)持長(一三八四~一四五八)は、民部少補と備前守の官位経歴を有し、将軍六代目義教の御弓師(弓術師範)として、的始の騎手を務めるなど、小笠原流弓馬故実の基礎を築いた人物と紹介される。

 京都系持長の子に持清と元長(?)を記す系図あるが、この元長の孫元続(もとつぐ)の情報から生じる謎は重要なヒントのため、元続の祖父と父(複数の名をもつ)に今は触れないとする。

 持清の子政清は一六歳時に管領主催の犬追物で射方から馬の扱い方まで判定役(検見)を務めるが後の検見は京都系代々の世襲となっている。政清の子尚清(ひさきよ)は将軍九代目義尚の尚一字を拝領し、尚清の妹は伊勢盛時(北条早雲)の正室南陽院殿(法名)となっている。

 尚清(一四六五~一五〇二)は将軍義尚(一四六五~八九)に仕えたが、将軍は享年二五歳、同じ生年の尚清は享年三八歳とされる。管領細川高国(一四八四~一五三一)は幼少時から政清と尚清の父子に故実の指導を受け、尚清の没後に将軍十代目義植(一四六六~一五二三)の命により、小笠原流家伝と政清の日記を預かり、尚清の遺児植盛(情報不詳)を弟子にしたとされる。この植盛(たねもり)の植(=禾ヘンに直)は将軍義植(よしたね)の一字偏諱と言われる。

 元続(生年不詳~一五七三)は政清の孫ともされる。元続が仕えた将軍十一代目義澄(一四八一~一五一一)は享年一四歳この没後に仕えた管領細川高国も後に失脚その後は母方の後北条氏二代目の氏綱(一四八七~一五四一)に仕えたとされる。すなわち、氏綱の父は北条早雲(後北条氏初代)で母が祖父小笠原政清の娘ゆえの絆である。元続は主君氏綱の命で交渉の代理人となり、将軍十二代目義晴(一五一一~五〇)と政所執事伊勢貞孝(生年不詳~一五六二)と面談、後北条氏の関東進出を認める事は幕府の利に適うとの説得に成功したと伝わっている。

 元続の子康広(一五三一~九八)は氏綱の子後北条氏三代目氏康(一五一五~七一)に仕え、当主氏康の娘と婚姻その絆で康の一字偏諱から改名したと伝わる。小田原城主の後北条氏から準一門たる厚遇が承認されると、武家故実に精通した事で武者奉行や城下町奉行など務め、遠江浜松城の家康と対面した時は氏直(一五六二~九一)へ輿入れする督姫の護衛を特に頼まれている。小田原城征伐の秀吉に対しては当主氏直の出家(高野山)に付き添う条件で決着し、氏直没後の康広には三顧の礼で迎える家康の姿があった。ずっと前に述べた督姫の件を含む歴史上の相関にかんがみると、立体的な剖判からクローズアップされるのは各務系スグリにつきるのである。

 尚清の孫秀清(生年不詳~一六〇〇)は享年三〇歳の将軍十三代目義輝(一五三六~六五)に仕え没後は細川藤孝(一五三四~一六一〇)と子忠興(一五六三~一六四六)に仕え、後年に壮絶な死を遂げる細川ガラシャ(一五六三~一六〇〇)の介錯に当たっている。

 永禄八年(一五六五)の変で共に討ち死にした将軍義輝と近習植盛のあと、植盛の子秀清は加賀美小左衛門と名乗って浪人となったが、のち丹後の細川藤孝側近となり、剃髪後藤孝が幽斎を名乗ると秀清も少斎を名乗っている。幽斎の嫡男は明智光秀と共に信長の傘下に与すると、信長の嫡男信忠の忠一字を拝領その名を忠興と改めている。忠興の正室が明智光秀の娘(玉子)その通称ガラシャとはキリスト教徒が呼ぶ洗礼名のこと、ガラシャが覚悟した死にざまは大和撫子そのものであった。

 慶長五年(一六〇〇)六月、忠興の家老秀清は大阪屋敷の留守居役にあった。関ヶ原の前哨戦とも思える石田三成の焦燥はきわまり、会津へ出陣した忠興に代わって、ガラシャを大阪城に連行のうえ人質とする強硬策を起こした。秀清とガラシャの合意はキリスト教が自殺を禁じるため、ガラシャの介錯を秀清が実践したのち屋敷に火を放って秀清も自害の最期を遂げている。

 忠興(一五六三~一六四六)の官位は従五位下(越中守)→従四位下(侍従・左少将)→参議には従三位で昇っており、贈は正三位を賜っている。武家としては豊前中津藩主→同小倉藩主を経て肥後細川氏の祖(初代)となった。出自は河内源氏足利流長岡氏の系譜に連なっている。

 秀清後継の子孫は忠興の近親と縁戚を結んで細川家の重職を歴任する系譜を刻んでいくが、それら系譜については省略を許されたい。

 以下(しも)信濃府中持長系へ戻らなければならない。

 もう一人の持長は信濃十二代目かつ府中小笠原氏の祖とされた。持長の曾孫貞朝(一四六一~一五一五)の長男長高(一四八八~一五四四)は遠江(静岡県西部)小笠原氏の祖とされるが、嫡流信濃十六代目を継ぐのは弟長棟(一四九二~一五四二)とされる。ちなみに、二人は異母兄弟で兄の母は武田氏から嫁いでおり、弟の母は海野氏(賜姓の滋野朝臣系)から嫁いだとされる。

 つまり、この場合も賜姓源氏系と一線を画する賜姓滋野系の編入あるのだが、このケースは女系の混入ゆえ小笠原流の血統を脅かす事にはならない。ところが、貞朝は長男を廃嫡として、弟の長棟を後継者にしており、その事由も噂の範疇ゆえ他に何らかの事由が潜むと思うが、ここに詮索している暇ないことは、後も同じような事象が繰り返されるためである。

 ここに書き添えたいのは、信濃十八代目の貞慶(一五四六~九五)の後継者秀政(一五六九~一六一五)十九代目のことであるが、貞慶の情報を含めて検索から始めるとする。

 秀政の父貞慶(さだよし/さだのり)は父長時(一五一四~八三)の三男、武田晴信=信玄(一五二一~七三)の侵攻が開始されると、その攻略に敗れた長時の親族一党は居城を失うことになった。主君が将軍義栄(よしひで)→同義昭→信長→家康→秀吉→家康へ遷る事からも、その屈辱と苦難は明らかであり、その端緒は塩尻峠の戦(一五四八)に敗れてはじまる。

 甲斐と信濃の境界に位置したのが塩尻峠であった。秀政の父貞慶三歳の時であり、秀政が生まれた時は変遷する主君の膝下にあるとき、幼かった秀政は人質にされたこともある。

 秀政は当初貞政と名付けられており、貞から秀へ改めるのは秀吉の一字偏諱によるもの、信玄との戦に敗れた祖父長時が父貞慶三歳らを伴い主君遍歴を重ねるなか、妻帯した父貞慶も祖父と同じ遍歴道中にあり、貞政は山城(京都府)宇治田原の地に生まれた。貞政一四歳(一五八二)時に起こった本能寺の変が去ると、父は家康の家臣として仕えるために、家康の重役石川数正に貞政を人質として差し出した。のちに数正が秀吉方へ出奔したので父貞慶も秀吉に仕えざるを得なくなった。

 秀吉の配慮で秀政に改名すると、父貞慶は家督を秀政二一歳に譲渡(一五八九)した。秀吉の仲介斡旋で家康の許しを得た秀政は家康の孫娘登久姫(信康の娘)と結ばれる。小田原征伐は軍功を得る最大のチャンスに活かされた。ところが、のち秀吉の勘気で貞慶が改易される事になり、再び家康の家臣となる秀政と父は拝領した下総古河三万石の当該地へ移ったという。

 これら勘気の秀吉や家康の対応に鑑みると、私には小笠原流を重んじる芝居としか思えない。

 文禄四年(一五九五)従五位下(上野介)に任じられた秀政は豊臣姓を与えられる。関ヶ原で功を挙げた秀政は翌年(一六〇一)信濃飯田五万石に加増移封され、秀政が嫡男忠脩への家督譲渡(一六〇七)を済ますと、故地の深志(ふかし)城八万石へ加増移封(一六一三)された。つまり、現在の松本城を指すが深志城を奪われた小笠原三代記の略歴でもある。

 大坂夏の陣(一六一五)に参戦した秀政と忠脩は本多忠朝(一五八二~一六一五)を救援するため天王寺口へ駆けつけたが、大坂方の猛攻で忠脩も忠朝も戦死、深傷を負った秀政は戦線離脱後も傷が癒えず間もなく死去したとされる。さらに軍を率いた榊原康勝も戦後すぐに死んだとされる。

(つづく)

無料メールマガジン

落合莞爾氏の新コンテンツや講演会の予定に関する情報、
小山内洋子氏をはじめとした新講師陣の新コンテンツや講演会の予定に関する情報を、
いち早くメールでお知らせします。

>無料メルマガのご案内

無料メルマガのご案内

落合莞爾氏の新コンテンツや講演会の予定に関する情報、
小山内洋子氏をはじめとした新しい講師陣の新コンテンツや講演会の予定に関する情報を、
いち早くメールでお知らせします。