修験子栗原茂【其の二十五】大谷探検隊第一次探検の特記事項

 黒い霧に巻き込まれたので、少し枳殻邸(きこくてい=カラタチ)に触れておきたい。嵯峨天皇が在位の九世紀末に源融(第十二子)が奥州塩釜の風景を模して作庭した六条河原院の故地で、付近に現存する塩竈町や塩小路などの地名は渉成園に因むとされる。以後、近世・近代を通じて門主の引退所や外賓の接遇所として用いるなど、東本願寺の飛地境内における重要な機能を果たしている。昭和十一年(一九三六)十二月に国の名勝指定地とされている。

 大谷光勝(一八一七~九四)は達如二男であるが、長兄で法嗣(法主継承者)の寳如が死去(一八四一)したので、法嗣代替した五年後に法主委譲を受けたことになる。法主三年目(一八四九)満三二歳(数え三四歳)のとき、伏見宮邦家親王の四女嘉枝宮和子王女が光勝のもとに降嫁されている。化粧料(持参財)は六条山(現東山浄苑)であった。この六条山も黒い霧に巻き込まれたので、その財産すなわち附加価値が増大していく経歴にも注意していただきたい。

 光勝二十一代を継ぐのは四男光瑩(こうえい)であり、光瑩二十二代を継ぐのは二男光演であり、光演二十三代のとき、本願寺の維持すなわち『勧学布教・学事振興』を目的に財団法人の創設を内務大臣宛に認可申請しており、設立者と総裁を光演として御親示発布したのが大正二年である。

 同九年(一九二〇)大谷伯爵家名義の京都駅前土地七千坪に及ぶ資産を基軸として、六条山ほかの寺領を含む全国の財産は法人格たる本願寺維持財団が管理するところとなった。これらファンドから生じるキャピタルゲインの費消先が勧学布教や学事振興になる事は当たり前であるが、國體に属する真宗忍者の奉公に費消される額も決して少なくはなかった。

 日本は護良親王のワンワールド体制が構築された事により、戦国三種の将軍政治を乗りこえ、国是二元性の象徴たる閑院宮家の創設を可能としている。その結果として、黒船来航(一八五三)→大政奉還(一八六七)→明治元年(一八六八)への加速的な流れにも耐えられたのではないか。

 前述の通り、西の大谷家宗主は勤皇僧月性を重役に据えて、海外への雄飛強化策へ特化して東との連携にも万全の対策を講じていた。明治元年の当代は西が広如七一歳であるが、四年後に入寂しかも後継者の相次ぐ早世から、予定外の五男(大谷光尊)一九歳に宗主の任が委ねられた。

 ちなみに、月性(げっしょう一八一七~一八五八)とは、周防(山口県)大島郡の本願寺派妙円寺住職のことであり、諸国遊学のもと「西の松下村塾に並ぶ東の清狂草堂」と呼ばれた私塾を開設して久坂玄瑞らを輩出するなど、吉田松陰(一三歳年下)との仲は特に親しかったという。ただし、四二歳の死は病気だったとされている。後世の若き毛沢東が学んだ書物は月性のものとも伝わっている。

 比して、東は光勝五二歳を法主としており、新政府との距離間を保つ事に配慮したとされる。

 西の光尊の親年齢(三三歳上)に当たる光勝は禁門の変において、西の広如と連携して長州藩士の逃亡に荷担した事から仮堂宇の消失に見舞われる。四年後の明治元年を機に新政府との距離間を保つ事を決した光勝は、軍事費一万両と米四千俵の献上を手始めとしている。

 海外開拓に特化した西に比して、国内に特化した東は北海道開拓事業を請け負う(一八六九)事も新政府との距離間を保つ選択肢の一つとして、第五子四男の法嗣光瑩(こうえい)を派遣している。開国の重要課題に北海道の開拓はその一つであったが新政府は財政難にあえいでいた。古来アイヌが開拓したロードマップは重要な道しるべとなり、徳川政権も大いに援けられ新政府にとっても大きな恵みになっている。アイヌと東本願寺の関係を緊密に深めるチャンスともなった。

 本府の設置を決めた政府は蝦夷地を北海道に改称(一八六九)すると、札幌と箱館(これも函館と改める)間を結ぶ道路が必要になっていた。光瑩一八歳を擁した東本願寺は土木の測量設計に長じた精鋭のもと、尾去別(現伊達市長和)と平岸(現札幌市豊平区)間の約一〇三キロメートルの道路を開削すべく工事に取り掛かった。従事したのは僧侶とアイヌのほか、失業と雇用の対策も取り入れた体制を敷き士族を含む平民移住者とともに、中山峠越えの道路開通を二年内に完工している。

 当時は本願寺道路と呼ばれており、のち苫小牧経由で室蘭に達する札幌本道の完成(一八七三)で山間道の敬遠時期あるが、北海道庁の改修工事で再生(一八八六)、昭和二十五年(一九五〇)には国道二三〇号線として利用されている。

 明治五年(一八七二)九月、名字必称の政令で「大谷」姓を使うようになり、焼失した両堂宇の再建発願と工事着工を表明(一八七九)した二年後、公式の宗派名を「真宗大谷派」と定めている。

 同二十二年(一八八九)光勝七三歳が退隠その在職期間は大凡四十三年間、後継光瑩三八歳のとき法主二十二代目となり、光勝入寂は五年後で享年七八歳とされる。

 大谷光瑩(一八五二~一九二三)一九歳が北海道へ向かう時の随員は百数十名に及んでおり、その道中は布教と開拓事業費の布施を募りつつ、移住勧誘なども行ったとされ、函館の地へ到着した際は息つく間も惜しんだという。数日後には朝廷から下賜された札幌の地も視察して、その地に東本願寺管刹(寺のこと)を建立のち(一八七六)札幌別院と改称することになる。

 光瑩が渡欧するのは同五年九月から翌年七月にかけてのこと、随行したのは成島柳北(一八三七~八四)とあるが、少しその人物像に触れておきたい。

 その出自は浅草御厩河岸(現台東区蔵前二丁目)松本家三男の甲子麿(こしまろ)であるが、すぐ上の兄(泰次郎)は森家に養子入り幕府大目付となり、泰次郎二男の達吉は菅沼家へ養子入り、その達吉三男に俳優となる森繁久彌が生まれている。甲子麿は歴代が奥儒者の成島家へ養子入り、養父を継いで奥儒者八代目柳北を名乗り、将軍家定と家茂に侍講しているが、献策が採用されない腹いせに狂歌をもって批判した事から解職されている。

 光瑩に随行中の欧州で岩倉具視や木戸孝允の知遇を得たとき、柳北は特に木戸から好かれた、その欧州で知った共済制度を日本に持ち帰ると、安田善次郎と共に生命保険会社を設立した、大隈重信が設立した東京専門学校(早稲田大学の源流)では初代議員(理事)に就いている。

 東本願寺両堂の竣工(一八九五)は光瑩法主六年目の時であり、翌年には北海道開拓事業の功績で伯爵に叙されている。光瑩の遊蕩を風刺(一九〇一)した「滑稽新聞」の宮武外骨が憧れていたのは同じく「朝野新聞」を創刊していた成島柳北だから私の見立ては「やらせ」と自負している。

 翌年(一九〇二)末に負債三百万円超の借財整理を井上馨に依頼しているため、経理上の債務超過にウソはないのであるが、管財人が井上だから「やらせ」の追い打ちとも思えるのである。光瑩(現如)は二男光演(彰如)に法主委譲(一九〇八)して退隠したのち、東京霞が関の別邸にて示寂するのは大正十二年(一九二三)享年七二歳の時とされる。

 大谷光演(一八七五~一九四三)は二男で明治八年の生まれ、父光瑩は一九歳で北海道入り、その目的を達した時二〇歳そして欧州へ向け出国した時二一歳で帰国時二二歳(一八七三)の七月というスケジュールであり、光演の生誕(二月二十七日)時は数え二四歳になったばかりである。つまり、欧州視察後の七月を期首に二男光演が生まれるまでの期間は十九か月、その間に長男と二男の二人を妊娠・出産するのは難義なこと、光瑩の妻すなわち光演の母については情報が開示されていない。

 余計な難義であるが、光演の妻は前記した三条実美の三女章子であり、当時の実美は岩倉具視にも勝る権力者であり、この余計な難義を払拭しないと、日野流大谷家の当主に課せられた過酷な特務は透けるはずもないことゆえ、東西本願寺の偉業この上ない事績など解りえないのである。

 有職故実の心得ない有識タレントには、伯爵も「団栗の背比べ」にしか映らないだろうが、皇統と尋常ならざる関係にある日野流大谷家の情報を「千切り取って」みたところで、そこに映り出される動画はゾンビがうごめくホラーにしかならないであろう。

 それはさて、光演二六歳の時(一九〇〇)佛骨奉迎正使としてタイを訪問している。翌年すなわち昭和天皇ご降誕の年には、大谷派副管長に就任しており、札幌で学校用地の検閲と購入を決した時は光演二五歳とされ、その七年後(一九〇六)に開校した私立北海女学校へ入学した生徒は七十名余と伝えられる。四年後(一九一〇)に高等女学校へ昇格その後の沿革は省略するが、現在は東区北一六条東九丁目で学校法人札幌大谷学園が運営に当たっている。

 第二十三代の継承は前記したが、三年後(一九一一)には親鸞聖人六百五十回御縁起法要の厳修を行っている。第二十四代への法主委譲(一九二五)は光演五一歳の時であるが、退隠から示寂(一九四三)までの十八年間についての詳しい消息も開示されてはいない。

 ただし、退隠の理由としては、朝鮮半島での鉱山事業に失敗それが財政の混乱を招いた、こうした矛盾と非合理に満ちた引責事由を臆面もなく開示するのは、分かりやすい痕跡を刻む事で後世の人に伝える國體伝承法の一つであり、落合本の「御父不詳」や「寄兵隊天皇」に通じるのである。

 さて、東の光演に一年おくれて生まれたのが西の大谷光瑞(一八七六~一九四八)であり、光瑞の特務は日野強とリンクするので、どちらがどうと言う狭い視野では深層構造など見えるはずもない。私の作文能力が他の執筆者に後れをとるため、読者に面倒をかけるが以下は前記した西の宗主を継ぐ続編に戻ったと認識してほしい。

 光瑞(一八七六~一九四八)の最終学歴は前田慧雲(のち東洋大学長・龍谷大学長)に学んだ。

 渡航歴の最初は光瑞二四歳(一八九九)説と二五歳(一九〇〇)説あるが、明治三十五年(一九〇二)八月十五日のロンドン発で西域探検のためインドに渡り、佛蹟の発掘調査に当たった事は正確な記録を裏付けとする。それは、翌年(一九〇三)一月十四日の朝ビハール州ラージギル郊外で旭日に照らされた、釈迦ゆかりの霊鷲山(りょうじゅせん)の発見を指している。

 時に父光尊の示寂年でもあり、宗主二十二世に就くため三月十二日に帰国と記している。

 宗主二八歳の光瑞が率いる「大谷探検隊」として、巷間に伝わるところは、第一次(一九〇二―〇四)、第二次(一九〇八―〇九)、第三次(一九一〇―一四)と区分した記録が残されている。その内容を要略するが、時に日露戦争や第一次世界大戦の渦中である事を認識してほしい。

 第一次はロンドン留学中だった光瑞を筆頭に、本多恵隆、井上円弘、渡辺哲信、堀賢雄で成る特務工作の精鋭でカシュガル経由のインド入りを果たした。個々人の情報は省くが、全員光瑞と同世代の真宗巧者であり、先代光尊二十一世の時に準備された海外ネットワークで鍛えられていた。

 第一次探検の特記として欠かせないのは、霊鷲山の発見とマガダ(摩訶陀)国の首都王舎城(おうしゃじょう)を特定したことにある。

 ここで重要な点は発見も特定も既に済ませていたが、その仕上げを大谷探検隊すなわち光瑞の手で行う事により、西や東どころか十三宗五十六派の寄り合い仏教に楔を打ち込むことにあった。それが成就し得なかった最大の出来事こそ第二次世界大戦だったのである。

 私は思う。現世の虚実に利己欲を封じる事は出来ないが、虚実の原種を司る宗教や哲学の理が何で統一場を生む事に不向きなのかと。アブラハムも釈迦もキリストも、科学の源流たる哲学にしても、その原種は一つなのに、ヒトガラやコトガラの本質性向を護持しないまま、何ゆえ変質性向を好んで偏ろうとするのか、それは家督の本質を覚らないからではないのかと。

 金融制度下にあって、貯蓄性向は日本が抜きん出るところで、他の大国は消費性向を好んで品種の改良や遺伝子の組み替えを盛んとし、中身を浄める事より装飾を重んじる傾向がみられる。

 以下マガダ国すなわち「お釈迦さま」に触れるが、私の妄想によると、西郷隆盛こそ佛陀の末裔に相応しい「マガダ」と映るのである。以下は周知の情報として伝わっているものである。

 マガダ国は紀元前四一三年―同三九五年わずか十八年の間インドに実在した大国十六の内の一つでガンジス川流域の諸国を平定して、マウリヤ朝のもとインド初の統一帝国を築いたとされる。当時は鉄器時代の初期でインド最大の鉄鉱石の産地とされ、水運と森林は在来の資源である事から大いなる発展地域と考えられている。ちなみに、アーリア系の浸透は同八〇〇年ころと伝えられる。

 伝統的なバラモン=婆羅門(司祭階級のこと)教はガンジス川の上流域に根差し、そこへ諸民族の信仰や風俗が加えられ、再構成されたのがヒンドゥー教と伝えられる。このバラモン系の文献に載るキーカタ(=マガダ)には強い蔑視の念が込められており、その理由はバラモン教の伝統に基づいた習慣や権威が乱れているからだという。そして、マガダ国の起源については、伝承的説話として次の如く紹介している。(神話上の)クル族の大王ヴァスから五人の息子へ領土が分割され、長男ブリハドラタがマガダ国の統治者となり、その王朝に付した名称も長男の名と伝えられる。

 そして、ブリハドラタ王朝の歴代に記されるジャラーサンダやサハデーヴァは、インドの二大叙事詩の一つとされる『マハーバーラタ』の主要な登場人物と伝えられる。

 説話マガダ王の中でもビンビサーラやアジャータシャトルは、釈迦にまつわる伝承の中に登場する著名な王と知られている。隣国アンガの征服などマガダ国の勢力が拡大したことで、首都をラージャグリハ(王舎城)に定めると、そこには竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)や霊鷲山があった。

 王舎城は釈迦教団の発祥地としても知られるが、伝承では佛の出世また転輪聖王(てんりんじょうおう)が出世した時だけ城下になり、その他はすべて空虚で夜叉が支配する地だったという。そして釈迦の在世時はマガダ国の最大都市として栄えたとされ、釈迦の生涯でもっとも長く滞在した地とも伝えられる。霊鷲山は『法華経』を説くステージ、竹林精舎は仏教初の寺院、さらに釈迦涅槃の後に仏典の結集(けつじゅ=編集会議)を行った七葉窟なども知られる。

 法相宗(ほっそうしゅう)の開祖・玄奘(げんじょう)三蔵すなわち陳氏(=サエキ氏)の出現は七世紀とされるが、インド紀行『大唐西域記』における留学先はナーランダ大学と伝えられる。この大学は世界最古の一つであり、北部インド仏教の最重要拠点とされ、ナランダの意味は蓮のある場と解するが、蓮はナラン・ダは与える、玄奘は蓮=知恵を惜しみなく与える処と解釈している。

 私には仏教を語る知識も能力もないため、これ以上の情報は読者の興趣に委ねるとし、ここに付け加えておきたいのは、マガダ種族に受け継がれる口伝一端を記すことにある。

 マガダ国マウリヤ朝の初代王チャンドラグプタは前三世紀の前後に在位したとされ、ギリシア伝にサンドロクプトスの名であらわれ、インド北西部へ侵入したアレクサンドロス大王の道先案内をした説話があるという。それはチャンドラがナンダ朝を滅ぼすための布石とも考えられている。

 チャンドラの孫アショーカ(阿育)王の代はインド亜大陸のほぼ全域を支配しており、以後の王朝運営は将軍そして臣下による引継ぎへ変じていったという。紀元前のマガダ国を滅ぼしたのはデカン高原を拠点とするサータヴァーハナ朝であるが、紀元後三二〇年(グプタ暦)かつての首都パータリプトラにチャンドラグプタ一世のグプタ朝を再興させている。ちなみに、パータリプトラは王舎城の次の遷都先でウダーイン王のもとに行われたが、現ビハールの州都パトナの地を指している。

 さて、霊鷲山の発見と王舎城の特定が何ゆえ歴史的大発見なのかに触れておきたい。そのためには釈迦如来を知らなければならない。正確な生没年は定かでないが、その生涯は大凡八十年ほど、紀元前七世紀の人とも、六世紀また五世紀の人とも伝えられる。

 王家からの出家を決意した釈迦二十九歳の志は次のごとく伝えられる。「なぜ私は、みずから生の法(ダルマ)を有する者でありながら生まれるものを求め、みずから老の法を有する者でありながら老いるものを求め、みずから病の法を有する者でありながら病めるものを求め、みずから死の法を有する者でありながら死ぬものを求め、みずから憂の法を有する者でありながら憂いを求め、みずから煩悩の法を有する者でありながら煩悩を求めているのだろうかと。」

 王城を後にした釈迦が当時の大国マガダの首都ラージャグリハ(王舎城)を訪れると、国王ビンビサーラは出家を思いとどまるよう試みたが釈迦の志に揺らぎは生じなかった。

 釈迦はマガダの地で多くの仙人に接したが、いずれの師も釈迦の得心するところに達しないがため彼らのもとを去った。釈迦の父シュッドーダナ王は警護も兼ね沙門(修行者)五人を釈迦の同行者として、再び修行に旅立つ釈迦を見送ったとされる。以後六年に及ぶ苦行を続けるうち、釈迦が行った断食は身体を骨と皮のみにしたが、得心するものは得られず、乳粥供養の施しを受け入れて、覚った事は「過度の快楽が不適切なら極端な苦行も不適切」という結果から断食をやめた。

 五人の沙門は釈迦を「堕落者」と誹って釈迦のもとを去っていった。のち釈迦三十五歳から始まる修業は先ず体力を回復することにあり、村娘が作る乳ひ(乳のような粥)で元気になると、ピッパラ樹の下に坐して悟りに達するまで瞑想の日々を送ったとされる。

 結果、真理は世間の常識に逆行するもの、「法を説いても世間の人々は悟りの境地を知り得ないであろうから、語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に達したが、そこへ現れた梵天から勧請された事は衆生に説くようにとの託宣とされる。「世の中には煩悩の汚れ少ない人がおり、その人々に説く教えなら理解に達するであろう」との決意で釈迦の開教が始まるとされる。

 釈迦が説いた最初の相手は釈迦を誹り去った五人の沙門であった。当初五人は聞く気も薄かったが次第に虜となって比丘(五比丘)に転じたとされ、法を説き終えた釈迦は「世に六人の阿羅漢あって自分はそのうちの一人である」と言い、共に同じ悟りを得た認識を分かち合ったという。

 釈迦に帰依した改宗者には、数百人で成る教団を率いる教祖が複数いたので、釈迦仏教に帰依した信徒は瞬く間に千人を超える教団に膨れ上がっていった。

 マガダ国ラージャグリハに向かう途中で釈迦はガヤー山頂から都の町並みを見下ろし、「町一切が燃えている。煩悩の炎により、汝自身も汝らの世界も燃えさかっている」と言い、煩悩を吹き消した状態としての涅槃を求めるように教える事も決したと伝えられる。

 すでに仏教は釈迦の代名詞になったともされる。マガダ国王ビンビサーラも仏教に帰依して、その首都王舎城に竹林精舎の寄進が決せられた。後年ナーランダ大学に学ぶ玄奘三蔵は竹林精舎を含めて天竺五精舎(伽藍・寺院)の呼称を世に広めるところとなる。そこにはまた、霊鷲山に設けた精舎も含まれており、その厳粛な威容は往時の姿を、現代に留める世界遺産として伝わっている。

 仏教への改宗や帰依の続出はマガダ国の群臣や村長・家長に止まる事なく、バラモンやジャイナの教団信者にまで浸透していった。

 釈迦いわく「アーナンダ(釈迦の父方の従兄弟)よ。わたしはもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢は八十となった。たとえば古ぼけた荷車が革紐の助けによってやっと動いて行くように、恐らくわたしの身体も革紐の助けによってもっているのだ。」

 弟子が聞く『人間は死んだ後に一体どうなるのですか』釈迦が応じる「死後の世界を志向するな。現世の今を大切に生きよ。比丘(涅槃行者)は私に何を期待するのか。私はすでに内外の区別もなくことごとく法を説いた。アーナンダよ、如来の教法には、教師の握り拳(隠し事)はない。」

 そして「アーナンダよ、汝らは、自らを燈明とし、自らを拠り所として、他のものを拠り所とせず法を燈明とし、法を拠り所として、他のものを拠り所とする事のないように」など訓戒している。

 釈迦の最後は、歩みをマッラ国クシナガラに向け、その近くのヒランニャバッティ河のほとりに行き、サーラの林に横たわり、そこで入滅(八〇歳)すなわち仏滅したという。「悲しむなかれ。嘆くなかれ。アーナンダよ、私は説いていたではないか。最愛で、いとしいすべてのものたちは、別れ離ればなれになり、別々になる存在ではないかと。アーナンダよ、あなた方のため私によって示し定めたー法と律ーが、私の死後は、あなた方の師である」と。

 マガダ国に伝わる斑足(まだらあし)王の伝説にも触れておきたい。

 昔マガダの国王は千の小国を征服して統一していた。ある日、群臣を連れて山中に分け入ったとき獅子に出会った。家臣たちは逃げ出し、独り残った王は獅子と仮の契りを結び、獅子は妊娠した。生まれた子は足に斑点があったことから斑足と名付けられた。やがて成長し、父の跡を継いで王に即位した。斑足王は人肉が好物で、それを得るため非道残虐を繰り返したため、反発した千の小国の王たちにより山に追放された。山の鬼たちは斑足王を歓迎し、大王と敬った。斑足王は鬼を使って千の小国を攻め、捕らえた。最後に残った須陀須王は自ら王に会いに行き、「四無常の偈(無常、苦、空、無我を説いた仏教の詩)」を説いて聞かせた。斑足王は長い無明の夢から覚め、王たちを解放した。

 この伝説を紹介する日本の出版物には『曾我物語、太平記、玉藻前物語』などあり、絵本や歌舞伎芝居などの分野でも人気を得たようでもある。

 王舎城(現ビハール州ラージギル)は釈迦教団の発祥地とされ、外輪山(五山)に囲まれた盆地の中にある都市遺跡であるが、考古学的な解明はあまり進んでいないと言われる。北インドでは珍しく温泉湧出の地とされ、現在は州都パトナから約九十六キロメートルに位置しているという。

 外輪山は次の五山を指すという。ギッジャクータ=霊鷲山、ヴェーバーラ=負重山、イシギリ=仙人掘山、ヴェープッラ=廣普山、パンダヴァ=白善山の通称で知られる。

 マガダ国の王城は七度の失火で遷都が繰り返されたという。当初はギリヴラジャ=旧王舎城の名を付されたが、宮殿の炎上でラージャグリハ=新王舎城へ遷都したとき、釈迦の入都があって、仏教の発祥地になったわけである。七葉窟すなわち仏典編纂の場=結集(けつじゅ)は外輪山の中にあった洞窟とされるが、炎上七度の数字と関連するのかは定かではない。

 ギッジャクータは梵でグリドラクータと表わすが、ギッジャもグリドラも「はげわし」の事を言い山の形が空へ斜めに突き出すように見え、山頂部が少し平らなため、ハゲワシの名が由来したという説が有力とされ、和語「わしのみ山」の由来は「鷲の深山=御山」など定かではない。

 仏典『法華経』も『阿含経』その他も発祥の地は霊鷲山だと言われ、日蓮宗では霊山浄土(りょうぜんじょうど)の変相図を描写しており、真宗本願寺派は江戸時代から毎年五月に霊山会(りょうぜんえ)に集い詩歌を詠んでいる。

 大谷探検隊の発見と特定は数年後インド考古局三代目の長官ジョン・マーシャルの調査団により国際的な承認が成立したとされている。

 初期仏教の精舎(伽藍・寺院)五つを天竺五精舎あるいは天竺五山と呼称している。それは南宋の支那五山や支那十刹そして日本の鎌倉五山や京都五山また日本十刹の先鞭にもなったとされる。

 ちなみに、竹林精舎は仏教初の精舎でカランダ(迦蘭陀)長者の所有林園を最初はジャイナ教への貸与として利用されたが、長者が釈迦佛に帰依した事で仏教徒が学ぶ僧園となり、王の寄進によって伽藍の完成を見る事になったとされる。

 祇園(ぎおん)精舎は祇樹給孤独園(ぎじゅぎつこどくおん)精舎の略称と言われ、身寄りのない者に施しを行っていたスダッタ(須達多)長者がジェータ(祇陀)太子所有の森を譲り受けたうえでコーサラ国の舎衛城近郊に建立した精舎の事で現在はサヘート遺跡と呼ばれている。

 菴羅樹園(あんらじゅおん)精舎は中央インドのヴェーサリー(毘舎離)のアンババ―リー(菴摩羅女=あんまらにょ=マンゴーのこと)所有のマンゴー樹園を寄進して建てた精舎とされる。

 大林精舎(重閣=じゅうかく講堂また彌猴池=みこうち精舎とも)はヴェーサリーの彌猴池(池の近くに多数いた大きな猿に因んだ場のこと)付近の大森林中にあった講堂を説法の場とした。

 霊鷲(りょうじゅ)精舎は王舎城ラージャガハ霊鷲山グリドラクータにあった精舎のことである。

 以上が五精舎あるいは五山と呼ばれる場であるが、名称には差異があり、菴羅樹園と霊鷲に代わり誓多林(せいたりん)精舎と那蘭陀(ナーランダ)寺を入れ替えるとも言われる。ただし、那蘭陀は釈迦入滅後に建てられた寺院で玄奘三蔵が留学した場でもある。

 さて、以下(しも)玄奘三蔵から日野流大谷家までの歴史を知らなければ、大谷探検隊が発見また特定した事の史観成立は有りえないのである。それはまた、現在そして未来を生きる人たちに必須の要件であり、宗教や哲学あるいは科学に関する虚と実を知る事にはならないのである。

 言うまでもないが、それで好ければそれはそれで由とするのが私の自負するところでもある。

 陳(チン=サエキ)禕(イ)すなわち玄奘(六〇二~六四)は戒名、尊称を法師や三蔵など、鳩摩羅什(くまらじゅう)と共に二大訳聖、真諦と不空金剛を加えて四大訳経家と知られる。

 玄奘は洛陽に近い洛州(現河南省洛陽市偃師区緱氏鎮)を出自として、陳恵と宋欽(洛州長吏)の娘との四男に生まれる。祖は後漢の陳寔(ショク)であるが、この人こそ陳氏に入ったサエキとする口伝が私の自負として心に沁みている。以下その流れをフォローしていきたい。

 玄奘一〇歳で父と死別、玄奘が浄土寺に学ぶきっかけは、次兄長捷が出家して洛陽の浄土寺に住み着いたことにある。一年後には『維摩経』や『法華経』を誦したという。隋の大理卿が何ゆえ出家を望むのかを尋ねたところ、「遠くは如来を紹し、近くは遺法を光らせたいから」と答えたので、その風骨たるや得がたいとの判断から、次兄と共に浄土寺での生活を許されたと伝えられる。

 時代が隋から唐へ移る貞観三年(六二九)仏跡巡礼を志した玄奘は、出国申請をしたが、成立して間もない不安定な新王朝には許可する余裕はなかった。それでも諦めきれない玄奘は国禁を犯すこと承知しながらも、西域インドへの逃亡経路すべてを受け入れる苦難の旅路をたどった。

 西域商人に混じり、天山(てんしゃん)南路の途中から峠を越え天山北路へと渡るルートは、後の日野強や大谷探検隊も辿るところとなるが、中央アジアを抜けヒンドゥークシュ山脈を越えインドへ至るのは容易ならざることである。

 玄奘が留学したナーランダ大学は前記しているが、西域南道を経る帰国までの間には、各地の仏跡巡拝から得た貴重な情報が含まれており、その期間は出国から十七年という長きに達していた。持ち帰った経典六五七部の翻訳は帰国後の大仕事になるが、玄奘以外では為し得ない事であり、この際に何ゆえ大部の経典や仏像などを土産にできたのか、この機に解き明かす事も重要とは思うが私ごとき者では適さないので控えることにする。

 帰国に際しては、時の太宗が玄奘を高く評価のうえ、密出国十七年に不問の断を決している。のち太宗は玄奘を側近に置き国政への参画を促したが、玄奘は経典翻訳を第一義としたい、その代わりに西域で見聞した情報提供で償うとして、太宗もこれを了承したとされている。

 その報告書が『大唐西域記』である事は言うまでもないが、のち現在に至るも中華思想が国際的な評価を得て、世界有数の地位を得るのは『もう一つの大唐西域記』あればこそと断じておきたい。

 帰国後の玄奘が本拠としたのは大慈恩寺とされ、持ち帰った経典や仏像などの安置は、太宗の後継高宗が大雁塔を建立したとされる。また玄奘の住居も新たに玉華宮が設けられた。

 玄奘の翻訳は帰国(六四五)後に始まり、入滅(六六四)後も続いたが、その間には日本から来た遣唐使が入唐(六五三)と帰還(六六〇)までの約七年間に多くの痕跡を刻んでいる。その痕跡こそ学者の財産であるが、政体御用達の学者には解けるはずもあるまい。

 時に遣唐使の一員である道昭は玄奘が特定した要人であり、帰国までの間、玄奘と共に生活の糧を得ながら玄奘直伝の後継者として育成されたのである。この道昭から後継に選ばれるのが行基という事になるが、そうした事跡は後述の中で明らかにしていきたい。

 玄奘入滅の百日前に完成したのが『大般若経』とされ、それは『般若心経』として、現行社会にも写経という形式で活用されている。玄奘自身は宗派を特定していないが、後世が意図的に伝えるのは法相宗(ほっそうしゅう)で実質的な創始者と見られるのは、弟子の基という説とか、玄奘が学んだナーランダの師「戒賢」を含む宗祖三人説もあり、脚色を弄ぶのが御用学の習性になっている。

 昭和十七年(一九四二)当時の日本軍が南京中華門外の雨花台で玄奘の墓を発見、その後の騒動をフォローアップすると、もう一つ勃発した日中抗争の主役は声高に平和を訴える者たちとわかる。

 石槨(せっかく)の中には石棺(せきかん)が納められ、石棺の内部には北宋代(一〇二七)と明代(一三八六)の葬誌が彫られており、頭骨や多数の副葬品も見つかったとされている。

 この霊骨の扱いに関して、日中間に生じた応酬の決着は分骨という他愛のない結論であった。片や安置に選んだ場は北平の法源寺・大遍覚堂とされた。それはさらに、南京(霊谷寺)ほか浄慈寺(成都)など数カ寺に分骨あげくは南京博物館にも置かれている。片や日本では、現さいたま市岩槻区の慈恩寺に奉安され、のち奈良市の薬師寺「玄奘三蔵院」にも一部を分骨している。ただし、慈恩寺に奉安された分骨の一部はまた、第二次大戦後の台湾「玄奘寺」へ分骨されたと伝えられている。 

 周恩来が総理の時(一九五七)、インドのネルー首相に提案した玄奘の舎利分骨は、ネルー首相がナーランダ大学へ安置した事で現在に至っている。ちなみに、三蔵法師とは経と律と論の三つを兼ね備えた僧への敬称であり、玄奘のほか鳩摩羅什や真諦、不空金剛、霊仙なども同等の評価とされる。

(続く)

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