現代における、経済社会概念と民族・國家概念との対立、或は経済組織と國家組織の結合としての帝國主義國家間の抗争、更にキリスト教的世界と唯物的世界、民主々義世界と共産主義世界の対立——これら深刻なる國家的対立、民族的抗争、世界概念の矛盾をいかに解決するか、もしその解決をあやまれば原子爆彈の脅威にさらされるべき世界の末日、絶対の瞬間にあつて、いまこそわれわれは眞の人間の姿を見究めねばならない。
人間とは一体何であるのか? ——人間が永遠に問うてきたこの疑問は、世界の終末的現象の中に重大な意義をもつて提出される。
人間は人間自らを最も科学的に知ることによつて、その運命、その價値を保持しさらにこれを未來に発展させることができるであろう。
人間の人間に対する科学的研究——今日まで社会科学、精神科学をはじめ、人間に関する諸種の研究が進められてきた。しかしなお自然科学の発達に比して極めて遅れており、とくに未來に対する研究は殆んど皆無に等しい。
過去における人間行動の分析としての歴史、現実の研究としての科学に対して、眞に未來の準備となるべき人間の未來創造の見地に立つ新しい綜合的な「人間科学」の確立が必要とされるのである。
自然科学の実験的研究が、数々の科学的進歩と物質的條件の変革をもたらし、それによつて人間の存在の外貌を一変させたように、今や人間科学の研究によつて、人間の外的存在はもとより、眞に人間の原子変換と、新しい地球的人間の出生が祝福されねばならない。
自然科学は精密な実験を基礎とすることによつて確立された。しかもその発達は極く最近のことである。
では、人間は科学的にどう実験するのか? ——その場合人間をモルモット化することの不可能なことによつて、実験も充分になされないと考えられた。しかし、人間の実験は、ある意味で余りにも多く実行され來つたのではないだろうか?
人間の場合、すでに五千年の歴史は貴重な人間科学の実験と云いうる。しかし今日まで、その実験結果を正確に知ることは困難であつた。
われわれは現在、人間の行動を分析し研究しようとする時、あのように多くの記録が書かれ、あのように多くの「事実」が説かれるにもかかわらず、歴史が極めて近い過去をも充分に解明しえないという事実に直面する。記憶、文献、事実の断片——そのわずかな或物が資料として遺されるのみで、生ける歴史の姿は把握しがたい。
過去に対する科学的認識に際して、多くの場合、歴史はその資料文献等にも極めて公正を欠いている。事件はつねに当事者の双方からおのおのの立場において描かれ、しばしばその記録の公正さを決定するものは勝利者であり、その復讐者はそれを書き改め、復讐者の復讐者はそれを湮滅する。
このような歴史を基礎とする場合、人間科学はついに自然科学の発達に追いつけぬのではあるまいか?
フロイドの精神分析は人間の科学に大なる解明を與えたかに見える。しかもそれは巨大なる宇宙の一つの入口を覗かせたにすぎない。その病理学的心理学的研究は、精神の自然主義的深淵の世界を解剖して、そこに住むアブノーマルな怪物を引き出すことに成功した。また今日次第に多くなつて行く病院において、特殊な患者に対する実験が行われている。しかしそれらの研究は、病人、人間の異常状態、特別な畸型的人間の解剖・分析であり、それは人間の一つの深淵であるとしても、人間宇宙のすべてを解明するには甚だ不十分と云わねばならない。
多くの作家達がするように、人間が人間について考察する時、しばしばその精神の沈潜は深刻な自己の精神分析となつて、個人の自我の断片、個人の精神像を描き上げるが、それが直ちに人間の普遍的な精神像を示すものではない。そしてその心理の表現が言葉によつて飜訳されることによつて、分析された心像が歪められ虚像を結ぶことになる。
現在まで、歴史的記録、或は人間に関する研究が、人間の運命に対する考察として過去の保存と未來の準備を行う必要のなかつたことは、人間が宗教的世界に安心立命の境地をもとめたからであつた。
今や人間の自由なる志向として歴史が轉換されつつある時、人間の運命、全体としての人間の問題が人間の前に立たされるに至つて、人間科学による人間の実験を通じて、人間の存在と未來史的進化の方向とを明確にすることが必要とされるのである。
かつて宗教的存在としてあつた人間は、専制と封建的存在を経て國家的存在となり、ここに始めて人間が人間を実験することによつて、よりよき人間の條件と資質を作り上げる二十世紀後半の自由なる文明性の建設に進もうとする。
この人間科学による文明の創造と発展の途は、歴史的世界の終末に際会するわれわれの撰択に委ねられた人間解放の唯一の未來史的手段であることを知らねばならない。
國連、世界政府、世界連邦、無政府主義、数々の平和提案……、現代の時代的苦悩を解放しようとする人間の思索と願望、構想と計画は、歴史の激しい進展の波間に飜弄されつつ、現実の恐るべき軋轢の中に葬られ、実現不可能とされ、或は無邪氣な理想として忽ちに拒否されている。
しかもそれらの計画・構想を実現すべき、或はその可能性を示すべき現実的諸條件が潜在的に顕在的に準備され、生起しながら、なほそれを地上に形成しようとしない人間の驚くべき怠慢を見ないであろうか。
もとよりそれらの様々な企図を直ちに全世界に実現することには多くの困難の存することは明らかである。
しかし今や原子時代に入りつつある人間にとつて、未來を解決するもろもろの計画を、人間自らの歴史創造の方向として確率の中に撰択する叙知と努力は許されるべきではないであろうか?
一定のサークルをもつて、一定の地域に、全人類の公開の下に、それらのもろもろの計画、提案、文明、世界のあるべき條件、形態の実験を行うことによつて、人間は自らの未來を展望することができよう。そして更に現実を変質してこれを人間の夢想に接近させるために、必要なものを産み出すことができるであろう。
科学は、詩は、教育は、勤労は、それが破壊によつて飜轉されないならば、いかなる役割をもつべきであるのか。政治家の企図し財政家の目的とするところは、人間の理想といかなる関係にあるのか。——われわれはかつて絶対平和の世界に住んだこともなく、ユートピアを否定するすべての人々も、それがいかなるものであるかさえも知らない。
人間の夢想し、憧憬し來つたユートピア——見果てぬ夢としてのみ幻想された理想世界を、今や最も精密な科学的研究と計画の許に、地球を実験場として、巨大な機械力・科学技術によつて実現すべく進まねばならない。
その実験地域は、地球の未開発地に!——さながらロス・アラモスの荒地にアトム・シティが燦然と出現し、コーカサスの荒地にアトム・グラードが文明地帯の建設をもたらしたように、多くの未開なる地域は、果しなく飛躍する人間の夢想の実現によつて、非常な開発をみ、最高の文明地帯を現出するでもあろう。
國家的対立、階級的矛盾、民族的抗争をこえて、更に政治、経済、社会、生活、文化全般にわたる人間の理想の実現——この人間科学の実験は、一つの創作、一つの演劇、一つの藝術であり、科学と藝術の最高の結合は、ここに美しく豊かなる結実をもたらし、われわれの予見しえない素晴らしい生存形態、驚異的な文明を発見、発明するかも知れない。
その実験するところは、病人を材料とする人間モルモット化ではなく、高貴な人間性に対する尊敬と信頼と確信とにもとづき、適切なる場所において、その創造的発展を実現せしめんとするのである。
われわれが戰争において破壊を目的として浪費する莫大な戰費と物質と情熱の何千分何百分の一でさへ、人間の科学の創造的実験に用いる叙知があるならば、人間の進化はけだし莫大なものとなり、それらの実験結果は永久に價値を保持するであろう。この科学的実験の豊富な藝術性は全人類の興味と関心の焦点となり、映画、演劇、文献、記録等、ジャーナリスティックに云つても、財政的に困難ではあるまい。
十九世紀におけるオーウェン、フーリエらによる「新しい村」の建設は、理想社会に対する小規模な実験であつた。しかしそれはなお私的な趣味としての色彩が強く、とくに小規模のため、その目的とする理想社会としての共同体を形成するに至らなかつた。
中世紀における嚴肅な修道院、教会は人間以上の普遍的存在を讃仰し、教会は天國を神秘に華麗に形象した。それらの宗教的世界は当時の世俗的現実をこえて地上に神の國を建設しようとする宗教的願望の表現であり、しかもその世界に中世から近代に至る荘嚴なる文化が形成され、傳達されたのである。
今や二十世紀は、人間の理想や憧憬とするものを、始めて人間の社会において計画し、研究し、実現する段階に至つたのである。
このように、人間科学の実験にあつては、当然周密な科学的方法と、それが継続するに足る最小限の大きさと量と拡がりを必要とするのであり、余りに小規模で且つ背景をもたぬ場合、途中で挫折し、実験に大きさも深さももちえぬ結果となる。ここに地球的背景における科学的実験は、現在の物質科学と精神科学の不均衡・不調和を最善の調和にまで高めるものでなければならない。
一方、現在の世界危機を解消するために、対立する二つの世界が、相互に國内を世界に解放し、そこに行われつつある政治的・経済的・社会的実践を互に理解し、主義の主張と事実とを認識することによつて、世界平和を実現する途を開くことが求められている。しかし現実的に鉄のカーテンを開くを望むことが困難であるとすれば、こ〻に別個の特別な管理地域におのおのの主義の目的と理想とするものを徹底的に実践し、それを全人類に解放し、認識させ、その批判に委ねるならば、実験結果にもとづいて、人類は未來に何を求め何をなすべきかを知るのではあるまいか。
近代世界を支配するヨーロッパ文明の建設は、十六世紀以來、ヨーロッパにおけるフランス、ドイツ、イギリス、イタリー等々の近代國家が、それぞれの國家的特質を活溌に伸長・発展させることによつてもたらされたものであり、その多面的要素の和合が全体として驚異的な多様性をもつ一つの最高の文明を形成したのである。
地球を実験場として、人類のさまざまな理想を創作する場所が定められる時、地球を生命的基調として乱れ咲く花々は、夢想の無際限な飛躍を美しく表現しながらその妍を競い、無限の多様性をもつ豊饒な文明の結実をもたらすであろう。
もしそれらの実験のすべてが失敗したとしても、人間はそれ以外の別な方法を発見するのに何ら困難を感じることはないであろう。しかも各地に残るその文化遺産は、なお最も興味あるいかなる名所旧蹟よりも愉悦を與える地域となるであろう。
二十世紀の後半は、人間が無準備と無計画のまま未來に入る非科学性を否定して、人間科学の実験のために、わずかの時間を当てることが許されるべきであろう。
もし人間が人間に関する全くの無知識のまま、愚かにも自分自身の運命と未來を取扱うならば、地球は人間種族が相互に殺戮し合う生物学的実験場と化し、余りにも愚かな実験の確実な成功を永遠に宇宙に記録するであろう。
この地球の実験場としての構想こそ、世界危機克服に対して、われわれに委ねられた唯一の未來史的手段であり、これによつて始めて頽廃と沈黙の支配する憂鬱な現代の散文性をこえて、詩的な科学的藝術創造として、地球と人間の生命的共感・照應をなす文明建設が進展しうるであろう。
更にこの地球の実験は人間の夢の赴くままに、地球的存在から宇宙的存在への飛躍を企図し、他天体への交渉によつて、新しい人間の生存の版図を拡大することも充分に予想しえられるところである。
今や批判と議論の時はわれわれの背後に去り、実験の時がわれわれと共にあることを知らねばならない。
人間に関する科学的研究は十九世紀の陰鬱な時代から進展して、二十世紀の人工太陽の輝き出でた青空の下に、健康な清明な綜合的なものとならねばならない。
現在行われている超心理学の発達をはじめ、幾多の人間科学の研究実験が——とくにその純粋性を保持するためにアカデミーの組織が、地域的に形成される必要がある。
そこには徹底した教育によつて、タゴールの説くような人間と自然、人間と宇宙との一如、梵我一如の偉大な人間が無数に生れることも否定することはできぬであろう。
ギリシャ文化の基盤を形成したアカデミーは、極く小規模なものであつた。地球文明の創造における人間科学のアカデミーは、もとより廣大な地域は不必要であるが、特別の管理地域を理想境とせねばならない。
ニューギニアの大密林に、鬱然たるアマゾンの河域に、アジアの清明なる高地に、濠洲に、北極に、南極に、さまざまな未開地域に人間の科学的実験研究の叙知は、廣大な地球空間を文明創造のために開発・建設する。
そして何よりも人間の因襲的空間に——その荒蕪地こそ最大の難工事であるが——人間の荒野に、創造的知性による新しい開発を必要とする。これはかつてピューリタンが、アメリカ新大陸に移住し、開拓した歴史的事実と比して、果してそれほど驚くべき差異があろうか?
未開地域開発計画は、後進地の開発であるとともに、地球を覆う最も未開発なる地相として残されている知性・精神・人間そのものの内的開発を企図しなければならない。
まことに二十世紀後半こそ後進地域の文明化建設の時代であり、同時に人間の再建設・再創造の世紀であることを知る。
精神の未開地、頽廃の密森、堕落の谷間に、人間の生存に対するいかなる價値の鉱脈をも発掘しえないならば、人間はそこに原子爆彈による破壊を自分自身の唯一の開発計画として採用するに至るのではあるまいか。
絶対の死に直面する人間にとつて、人間は眞に人間であることによつてのみ復活せしめられるのであり、人間の本質的生命の復活は、たゞ最高の理想に生きんとする意志と行動によつてのみ與えられることが信ぜられる。
かくて人間の有するあらゆる理想を現実化する人間科学の実験こそ、現代の生存の途として照明されるのであり、生活を最高の理想に一致させることによつてのみ生存の方途が與えられるであろう。襲來する文明の終末の大洪水的現象にあつて、未來への準備と計画をつみこんだ実験地域が唯一艘の文明のノアの方舟となるかも知れない。
今や二十世紀に、まことに始めて人間の科学の世紀が到來した。
人間の科学的実験地域の建設こそ、地球の平和を照明する最大の光であり、最高の藝術である。
転載元:地球文化研究所著『日本經營計画』(1950年12月発表)