ブルンナーの言葉
カール・バルトとともに現代における最高の弁証法神学者であるエミール・ブルンナーは、この混迷し懐疑する日本の知識人に対して、日本の有する文化的能力と進歩を賞讚するとともに、日本の未来への希望と方向を次のように語つた。
「キリスト教は、日本の過去の文化のいちばんよいところをとり入れることが出來るようになると思う。私は最近、聖德太子の『十七條憲法』(日本語で発音しながら)を読んで、非常に立派な卓見をもつた本であると感心しました。このような日本のすぐれた文化的要素をすてないで(勿論、そこにはすてられなければならないような要素もあるが)、これとキリスト教文化のうちにある最高のものとをうまく結合したい。これが私の希望であります。」
ブルンナーは、われわれの直面する時代的・思想的・文化的諸問題の示す深い内面的意義を、日本の歴史的傳統のうちに見出し、そこに立つときに、眞に日本の未来の希望に輝く新生への方向が明らかとなることを明示したのである。
しかも、このブルンナーによつて指摘された聖德太子の問題こそ、今日、過去の近代國家より眞の平和國家に進まんと決意しつゝあるわれわれにとつて、忘れることの出來ない本質的問題を提示するものである。
それは、千三百年の歴史的時間をこえて、われわれの進むべき平和文化國家の方向を示す永遠の光としての聖德太子を、新しい日本の最高の導きとして仰がしめるのであり、それとともに、今日佛教の当面する歴史的危機をいかにこえて、その宗教的生命を新たにするかの問題に対しても、明確な解決の方途を示すものに外ならないのである。
聖德太子の歴史的存在
まことに今日の日本の歴史的立場は、千三百年前、当時大陸との交渉によつてもたらされたイデオロギーの対立と相剋の中に、いかに生くべきかを求めつゝあつた日本の運命に甚だ酷似せるものあるを覚えるのである。
当時、中國にあつては、魏晋六朝の内部分裂の時期をへて、隋による一大統一國家の出現となり、朝鮮半島はその勢力下に隷属化せんとし、継体天皇以後の度々の出兵による半島離反の拒否も、大勢を容易に轉換することを得ず、遂に五六二年、半島における最後の拠点任那府をも失い、大陸より全面的に兵を撤するに至つたのであつた。
そして國内的には、多大の勢力をもつて相抗爭する大伴・物部・蘇我等諸豪族の分裂による社会不安を激化し、さらに神・佛・儒三教のイデオロギーの尖鋭なる対立によつて、社会矛盾は國外の困難と関連して最大の危機に直面したのである。
この深刻な歴史的危機に際して、聖德太子は、大陸政策か國内改革かの岐路に立つたこの日本の方向を、神・佛・儒三教のイデオロギーの統一と綜合の上に、眞に平和文化國家として計画され、研究され、自ら実践されたのである。
太子のこの理想は、大化の改新によつて継承され、やがて奈良朝の絢爛たる平和文化の典型となり、さらに平安朝による古典文化の完成として、今日に至る日本文化の偉大なる傳統を確立したのであつた。
太子は大陸文化との積極的交流を志念し、海外思想の消化に最大の関心を示され、大ヒマラヤの如き高遠なるインド哲学と、茫々たる大陸と大河の中國思想とは、碧き空と海とに映える清朗なる日本古典精神の中に調和され、この輝かしい三教の休系化の上に、一切の文化建設を実行されたのである。
平和憲法と「三経義疏」
太子の――人の和をもつて第一とする――「十七條憲法」は、まことにブルンナーも三嘆する平和への不滅の理想の表現として、今日の平和憲法にも対比されるのであり、偉大なる平和建設の礎石をなすものであつた。
この平和憲法の下、大伴・物部・蘇我氏らによつて独占された当時の氏族的専制政治のもたらした対立と分裂は、政治的に刷新され、民主的政治の実現とともに、社会不安と動揺は次第に除去されたのである。
太子の「三経義疏」にみる佛教思想の高度なる把握は、佛教思想の本質を老莊儒教の学理をもつて表現され、内的に統一されたのである。
戦争による勝利を否定し、敗北はむしろ勝利への道であると説く老莊の平和思想は、当時の日本の國際的関係からも最も適合せるものであり、この平和思想の摂取と同化の上に、佛教思想を同化・統一したのである。
一つの時代の終末における信仰としての佛教の本質は、上代氏族制の文化完成期より、その衰退への方向にあつて隆盛をきわめるのであり、太子によつて眞に永遠平和への方向を明確化されるのであつた。
太子の偉大なる卓見は、すでに閥族的鬪爭と対外的敗北にいろどられた上代文化の終末をこえて、次に來るべき奈良・平安の平和文化を望まれるのであり、さらに十三世紀をへだてた今日に不滅の光輝を示されるのである。
太子によつて、釋迦の佛國土建設の理想は、「大乘相應の地」としての日本の新しい國土建設を豊かに展開するのであった。
平和文化國家の國土建設
上代における社会政策の中心として、太子の施薬院・療病院・四天王寺等の建立は、國民の安養・福祉のために実行されたのであり、同時に地方統治の機関としての機能をも果すものであつた。
この宗教的な社会政策の実践によつて、佛教は國民生活の中に根づよく植えつけられたのであり、社会公共事業との一体化によつて國土の中にその生命を伸張せしめたのである。
難波に造営された壮麗雄大な文化施設の威容は、当時すでに高度なる文化を所有していた大陸人をして驚嘆せしめたものであり、この現代の迎賓館・文化社交館にも比せられる大構築の意味する國際文化の交流と展開のうちに、まさに生ける観光文化の具体的表現をみることが出来るのである。
この文化建設・國土建設の発展は、大化改新をへて奈良朝に結実され、当時の世界都市長安に対比すべき平城京の大都市建設が、さながら今日のウルバニズムのより大規模な実現として展開されるのであつた。
藝術文化の創造
太子の夢殿における瞑想と研究は、新しい日本の政治・経済・法律・教育・思想・藝術等の諸領域に対する最高の業績を燦然と建設・創造する根源力として、平和文化の学術体系を國土の自然の中に實踐的に証明されたのであつた。
法隆寺にみる、今日にあつてもなお日本國土の生命の最高の誇りたる藝術文化の創造――それは佛教・儒教文化とともに渡來した絵画・音樂・彫刻・建築等の諸藝術を日本國土の生命の中に消化し、遠く西域・ギリシャ・ローマにも及ぶ当時の世界文化との交流を、多彩なる調和と綜合によつて実現したものに外ならなかつた。
海外文化の積極的攝取とともに行われた國史の発展を根源的に把握すべき「天皇記」「國記」等の歴史編纂事業の企劃は、平和文化國家としての方向を歴史の中に意義づけられるものとして、現代のわれわれにもまた、その実践的方向を暗示するものである。
海外文化との交流
大陸に派遣された高向玄理をはじめとす多くの研究者と帰化人のもたらした大陸技術は、日本の技術に多大の影響を與え、産業生産の劃期的な発展となつて、上代社会の産業革命ともいうべき成果を実現し、大化改新の社会的地盤を準備したのである。
当時、大陸統治の失敗によつて、きわめて困難な状況にあつた全中國を圧した隋の煬帝への――「日出る國の天子、日没する國の天子に書を致す、つゝがなきや」――と冒頭された國書にみる毅然たる態度は、太子は日本の平和文化國家としての明確な態度を表明されたのであり、よく日本の対外的地位を保たれ、國内建設を十全ならしめたのであつた。
今日に意味するもの
いまや、一千三百年後の今日、日本にもたらされた歴史の運命は新しい聖德太子の出現を最も待望するとともに、その平和文化國家への永遠の理想の実現を必須としている。
それは太子の大理想の最も直接的な表現として今日までその姿をとゞめきた「法隆寺」「金堂」の壁画の焼失が深い内的暗示を予徴するように、戦争と平和の根本的対立の中に混乱するあらゆる問題を平和の一線において創建し、新しい大壁画を、原子力文明のもたらす新しい信仰への象徴としてえがくべき大いなる時代の轉機に立つことを、深く認識しなければならない。
転載元:地球文化研究所著『日本經營計画』(1950年12月発表)