(1)共産主義アジア進出の歴史的意義
いまや世界の危機的波動の最大の原動力たる共産主義は、スターリンの独裁の下に恐るべき破壊と組織を築きあげており、そしていかなる全図を有し、いかなる準備を進めているかは、人類の未來に決定的な影響を與えるものとして、その現実的発展の様相を知らねばならぬ。
その専制政治と権力組織は、まさに「大審問官の自由」の徹底とも見られ、一切の人間の上に君臨する人神の出現とも云うべきものがある。
十九世紀の社会的混乱と時代的苦悩の中に被抑圧階級の解放として出現したマルキシズム――一切の社会発展の様相を唯物史観の下にとらえたマルクスが、その唯物的方法をもつて社会構造の変革を指向し、それを継承したレーニンのプロレタリア独裁の主張を経て、現在スターリンの独裁形式を見るに至つたことは、その発展段階としてむしろ必然的方向と云うべきであろう。
かつて人間史の発展にあつて、強大な権力をもつた専制的君主の系列が、いかに形成され、成長し、継承され爛熟し、沒落して行つたか――その歴史の光に現実を照らしみる時、大地に根強く構築した強大な権力の宮殿裡にあつて、共産主義はそれを支える力、発展するエネルギーの極限にまで達しているかに見える。
その権力のドームの外見は堅固に、永久にその根を大地に張るかに見える。しかし権力の殿堂の堅実さは偉大な偶像の老衰と死に関連し、一個の生命の力はまた極めて脆弱である。
共産主義の東方移動
この偉大なる大地的権力は、今やその大構造を支えるに足る地盤を獲得せんとしている。――共産主義が東へ。アジア的世界に移る時、大陸には新しく驚くべき光景が展開されるであろう。
茫々たる大陸には、大自然が雄大に展望され、歴史の大いなる変遷の中に、その自然そのものの如く生き動く驚異的な生命が横わつている。
クレムリンの宮殿からは、この東方の大自然と悠久なる歴史の変轉の有様が強く凝視されていた。アジアこそその神秘的な権力構造を支えるに最も相應しい所である。
かくてスターリンの東方移動は必然的な途であるかに見える。今やイワンの馬鹿は賢明にもアジアに進み入つたのである。
ヨーロッパなるものはアジア大陸の一つの岬にすぎなかつた。アジアには山岳、森林、平原、沙漠、河川、湖沼、――眞に自然と呼びうる大自然が茫々と連なつて大陸をなしている。そしてそこにはアジア的人間、――否、アジア的人間群、アジア的集團群と云うべき生活階層が棲息している。
ヨーロッパ人がより個人的人間であるのに対して、アジア人はそれとは全く異質的な抑圧された群生する人間である。
マルキシズムはヨーロッパに生れたものであつた。しかし今やヨーロッパの理解をもつてしては漠としていて捉えがたい、世界の深奥に鉄のカーテンがおろされて行く。
共産主義はこのアジア的人間群とアジア的自然を基盤としてその強大な権力機構を築き、アジア的生命の上に大審問官の王國の建設を意図する。自然に隸属し、自然の根源力に対する信仰をもち、深いニヒリズムを思想とする抑圧的階層――その尨大な人間群の上に君臨するアジア的独裁――それはアジアのもつ本質的存在形式の再現である。
アジア的存在形式
アジアにはいま何が起りつつあるのか――例えばモンゴール帝國の建設と発展の様相を想起するならば、われわれは、そこに悠遠な歴史的時間をこえてくりかえされるアジアの運命を知ることができるであろう。
かつてモンゴール帝國が支配した所――中國本土から蒙古、満洲、シベリア、ヨーロッパ東部、南部アジアに至る帝國の版図には、成吉思汗の命令一下、颶風が平原を襲うように、人爲をこえた歴史的生命の躍動、大自然の波動がまき起り、自然そのものの変化のようにさまざまな文明が忽ち滅亡し、忽ち建設された。絶対的な地位に君臨する帝王の意のまゝに、莫大な人間群、尨大な物資、夥だしい動物は、あたかも平野に氾濫する大洪水のように襲撃し、破壊し、建設し、造営したのである。
アジア的國家・アジア的文明が存在した時代と地域には、つねに自然力の支配の如く支配する権威と権力組織があり、その下に完全に服従する人間群が認められた。この人間群はつねに強大な権力の下に抑圧され隸属せしめられた生活階層である。
その大陸に存在し棲息し変轉する自然的存在のすべて、人間的存在のすべてが、大きな自然の力と法則の下に僭伏せしめられ、権力の支配に服従せしめられているように、この階層はいかなる権力形式をも自然現象の如く見なし、敵もなく味方もなく、権力の支配にたゞ隸属し、屈服しつつ生活を営んだのである。自然力の象徴の如く、権力は最大限であり、権威は無制限であつた。自然の如く一切を統率し、君臨し、決定することができた。
かくてこの大陸性の中に棲息する人間は、この絶対的存在としての権力を「天」として意識し、その圧制を維持し、支配下における生活に慣れて了つたのである。
彼らの生活においては現実を支配するものに対する驚くべき無関心が示された。外面的形式がいかなるものであろうと、彼らの内面的形式はいさゝかも変らなかつた。それが漢であろうと、明であろうと、清であろうと、スターリンであろうと、毛沢東であろうと。
いかなる戰争も、いかなる災害も、いかなる殺戮も、いかなる破壊も、彼らにとつては、一朝にしてその生活を破壊し、資財を消散し、人間を殲滅する黄河や揚子江の大洪水に等しいもののように感じられる。激しい自然の變轉がその生活を豊穰にし、再び貧困にし、再び豊穰にするように、國家や文明の勃興も荒廃も、大きな自然現象として感じられた。
彼らには、専制君主の想像を絶した暴虐も抑圧も、一つの天災、一つの異変にすぎない。権力をとつたものが誰であろうと、いかなる異式的なものであろうと、彼らにとつては等しいものであつた。それは一つの運命として諦観されるのである。
アジア的ニヒリズムと権力組織との結合
このアジア的ニヒリズムは今もなほアジア人の一般的精神の主流をなしているのであり、その上にこの迷信的かつ神秘的な権力が君臨し、この権力には自然的思想、宗敎的精神、虚無的精神、軍事的精神がその根源にまで浸透している。それが、支配する諸民族の自然的條件、生活態度、傳統的思想に完全に逆說的に合致し、特有の文明社会形態を形成し秩序づけた。この権力がアジア的ニヒリズムと結合して、アジアのすべての種族と時代に始んど不変とも云うべき永続性のある人間の存在形式をつくり上げたのである。中國の歴史には遠く秦、漢、隋、唐の頃より、宗、元、明、清等、二十世紀の初頭までこのアジア的存在形式が行われていたのである。
アジアはあらゆる人間的領域をこえて廣大であり、その大自然の加く多様にして多變である。この大自然の中に、自然の変動と生命を等しくする悠久な大変轉の歴史のドラマを通じてアジア的世界が創造された。こうした状況の下にアジア的ニヒリズムの茫漠として底知れぬ深淵が掘り下げられ、つくりあげられて行つたのである。
そしてこのアジア的ニヒリズムの深淵の大いさは、いかなる変化、いかなる唐突さ、またいかなる抑圧、いかなる圧制をも呑むに足るであろう。かつての宮殿や、城壁や、運河や、大軍隊の数知れぬ幻影が、この運命の淵に認められる。
今やそこに一つの宮殿、一つの権力、一つの組織が加えられようとしているのである。やがて共産主義の権力も圧制もアジアのもつた運命となり、アジアはその力の下に再び隸属し、再びその存在形式を繰返すかに見える。
われわれは今やヨーロッパ・ニヒリズムとアジア・ニヒリズムとのこの異様なかつ恐るべき結合――歴史の大いなる回帰がアジアの運命として実現されようとする二十世紀の事実に直面している。
そこにはいかなる形式といかなる存在がつくられ、いかなる驚異がもたらされるであろうか。
それはもはや決してイデオロギーから生れるものでもなく、知性の所産でもない。今日まで常にそうであつたように、それはアジアの大地アジアの大自然に営まれる生活が産み出すものである。自然がその永遠の変轉の中に無限の生成活動をなすように、人間の知性の予見を許さぬ何ものか、運命の生産とも云うべきものが行われるかも知れない。
かつてアジアの幾多の帝王たちが、征服慾、警戒心、或は栄誓への野心、またニヒリズム的暴虐、盲目的衝動的行動からいかに偉大な業績を遺したことであろうか!それらの殆んど盲目的に動かされた歴史的エネルギーのかけめぐつた所に生れたものは、帝王たちの意図したものとは本質的に別な何ものかであり、彼らの盲目的行動が驚異的な歴史的行動となつて遺された。一切の軍事的征服、文化的企図が創り上げたものは、彼らの意志、慾望をこえた超越的な大事業となつた。アジアの歴史は、この不可思議な現象で満ちており、幾多の驚くべき建設と超人的な創造を、その眞の母胎たる大地の痕跡に留めているのである。
アジアの解きがたい神秘、アジアの運命が、今や共産主義の支配下にあついかなる創造物を產み出すであろうか――こゝにアジアは自らの直面しつつある現実の深奥に流れる大いなる生命の轉回を、歴史の叡智として、過去と現実と未來の中に波動し交響する運命の愛に感得すべきであろう。
スターリンのアジアへの君臨
かくしてスターリンの東方への途は非常に賢明な方法、デモーニッシュとも云うべきであるかにも見える。
かつてキプチャク汗國が進撃した経路を逆に東方に辿つて、彼がその絶対の権力をアジアに進め、かつてアジアの帝王が君臨した同じ沃野に、再びその王座を築かんとする生物的本能――もろもろの帝王が絶対の権力をもつて支配し統制し組織した土地に、いかなる帝王の権力も神聖視され信仰され恐怖され、完璧な無関心によつて認容された土地に、権力と圧制が生活であり、隸属と服従が存在の本質的形式であり、ニヒリズムの徹底から驚異的な行動と業績を逆說的に創り出す土地に、――スターリンの君臨が行われようとする。この逆說の恐るべき現実化に、最も老猾なる計画、悪魔的意図さへ感じられるのである。
アジアの土地と人間は、共産主義の圧力によつて組織され、隸属せしめられ、こゝに確固たる権力の構造が築かれ、かつてアジアを支配した歴史の運命は今や再びアジアに回帰しようとしている。
層々畳々たる万里の長城が千古の歴史の生命を傳える秦の始皇帝の勢威、ユーラシア全域にあます所なく恐怖と讃美を生ぜしめた成吉思汗の大元帝國の偉業、南アジア・インドにまで及んだティムールの剣の威圧、また東南アジアから更に東方日本をも脅威したフビライの勢力と、その歴史のエネルギーの激動する中に放浪するマルコ・ポーロ。――赫々たるアジアの勢威が輝いた地域に、絶対的権威の下に鎮定され組織された大地に、スターリンが共産主義の大殿堂を建設せんとする歴史的象徴性を、われわれはそもいかに見るべきであろうか?
大自然と尨大な人間群の抑圧の上に、聳えるスターリンの偶像――それは今や古典的表徴、神話的存在たろうとしている。その歴史的象徴に立つ存在は、もはや文明の理解、知性の認識の彼方に聳える如くである。
かくて古代の神話的帝王とその大帝國が最も新しい裝ひをもつて出現せんとする。われわれはこゝに二十世紀の現実が地球を舞台に演じている壮大極まる歴史的ドラマの本質を、眞に地球的生命の躍動として感覚し、正しく注視することが必要であろう。
(2)東西文明の合流と太平洋文明の創造
ヨーロッパに発した現代のニヒリズムは、一つはロシアから東へシベリアをアジアに向い、一つはアメリカを経て更に太平洋に飛躍している。
彼らはヨーロッパを離れた時、心的虚無に沈倫する代りに、さまざまな國土と結合することによつて、その移動と発展の過程に数々の成果を現出した。
人間の絶望から人生への侮蔑の上に立つ行動が、異質的な國土、地盤に結びつくことによつて、その新しい生活からイデオロギーをこえた幾多の驚くべき創造と幾多の人生への貢献をもたらしたのである。
もとより現在までこの國土との結合は全く無意識的に行われていた。
しかも今や人間は、自然科学上の飛躍的発展にともなつて、その生活・社会・文化・イデオロギーの基盤としての國土――地球そのものを、その本質において感覚し認識しうるに至つた。こゝに原子力世紀における新しい自然・新しい地球の構築と創造を、人間と地球との本質的結合をもとめる地球文化の創造を、人間の意識的行動として実現する史的段階に立たんとしている。
太平洋における東西文明の合流
共産主義がアジアの大自然の上に、再びアジアの歴史的運命の方向を発見し、そこに共産主義帝國を建設せんとする一方、資本主義もまたアメリカからアジア、太平洋空間に向つて着々とその未開地域の開発建設を進めている。
こゝに東西から地球をめぐる二つのエネルギーの奔流は、今や太平洋の岸辺に轟然と交流、交錯するに至つた。
二つの世界はそれぞれに自らの理想と願望の達成を目指しつつ、人間自らの計画による文明世界の建設をなさんとし、その相互の対立緊張の中に一つなる二十世紀の地球的世界を現出せしめんとする。
われわれはこの二つのエネルギーの緊張と均衡との状況の中に、人間の地球建設が行われる現代の文明劇の本質を認識せねばならない。そして人間は、この文化の交流・綜合・創造の行われる歴史的瞬間と地球的空間との切点に立つ、人間自らの地球的実存性を明確に自覚すべきである。
こゝにわれわれが地球の現実にたち返り、現実の明白に示している状況を正しく直視するならば、人間の未來創造の歴史の根本的方向を見出すことができるであろう。
太平洋の周辺にはおのおのの理想と願望と世界と文明を実現せんとする二つのエネルギーが到來し、民主々義と共産主義、アジアとヨーロッパの交流として、こゝに世界文化の大綜合が行われようとする歴史の運命的契機を示している。
この岸辺に相会した二つの世界は、互いに優劣を競い、戰闘を交え、それを通じて混り合い、経済的活動、知的活動、政治的活動、宗敎的活動、藝術的活動のすべての最大限が太平洋の周辺に行われ、こゝを最大の人間活動の場所と化するであろう。精神的・物質的なあらゆる事物の交流交換により、もろもろの民族の動員と綜合により、さまざまな科学・藝術・宗敎の競爭によつて、この地域に二十世紀の文明の饗宴、文化の驚くべき祭典が行われるであろう。
日本の運命的任務と未來
しからばこの太平洋の貿易港であり、あらゆる文化、あらゆる資財の集散地であり、その多種多様な文化交流の焦点に位置する日本・日本人は何をなすべきなのであろうか?この激しいエネルギーの合流する時代の潮流・世界文化の交流の只中に置かれた日本は、その地理的運命的偶然によつて、その流の中に自らの使命・自らの未來を見出さねばならない。それは日本の歴史的・運命的な方向であるとともに、更に現代の人類の究極的課題の解決ともなるであろう。
このエネルギーの出会いは極めて激烈でかつ未だ混沌とした合流であり、この世界文化の交流のまき起す混乱した渦の中に、種々雑多な人間の所産が、無秩序・無統一のまゝ恐るべき混沌状態を現出している。現代の知性はこの精神的・物質的混乱状態をいかに処置するかに迷う。
西洋人は西洋的世界・文化・精神を理解し、そこに生存している。東洋人も東洋的世界を理解する。しかし西洋の最高の知的水準に立つものにとつても、東洋の茫漠とした世界の本質を理解することは極めて困難であり、それはいかに精密で堅固な知的な網をもつても汲みとりえぬ「何物」かである。また東洋人の認識方法によつては西洋の正確な構成的交響的世界の本質を完全に理解することは難事である。
地球の他の部分に対するこの理解の甚だしい欠陥、不充分さのために、今日世界を脅かしている存在や形式の差異はますます大きくなり、ついには異質物の混合しうる割合の限度に破綻をひき起し、混乱と無秩序が今や恐るべき危機となつて人類を最後的破局に直面せしめるにいたつた。
世界の危機はかつてない深刻かつ重大な様相を呈している。この時あたかも、人間の死の直前に回想される悪夢のように、人類の前には世界のあらゆる事象が雑然と立並んで、無秩序と混乱の舞踊をもつてその沒落的運命を嘲笑するかの如くである。
人間は今や自分自身の精神的混乱に悩まされ、数多くの発見や発明の多樣さに重しつぶされ、知識の、知性の超現実的なる錯誤によつて纔弄されている。
この混乱と不統一をいかにして再秩序・再創造するか、人間の未來はまさにこゝにかゝつている。乱脈し錯綜した文化の流れを整え、再秩序し再創造するものが次の時代に生存しうるものなのである。人間の生ける未來像はそこに初めて出現することが許されるであろう。
この世界的事象の本質を眺めうるものは、東洋と西洋とを見る眼を有つものでなければならない。
太平洋における日本の地位に立つて文化と人間の運命について考察するならば、日本人はこの混乱と昏冥を綜合しなければならないし、生命化しなければならない。もしこの整理と統一と再創造が出來なければ、日本は二つの世界の激烈な緊張と交流と摩擦によつて分裂解体され、亡滅の悲劇的運命に導かれるであろう。
地中海のギリシャ――太平洋の日本
かつてギリシャは、エジプト、メソポタミア、エーゲ海域等の巨大な文化を攝取し、再統一し、多種多元なるものを調和し体系化した。その地に集中された世界の諸事象が、悲劇の浄化をくぐることによつて、運命として、藝術として、透明となり純化され、本質的生命の攝取と調和を可能にした。そこに人間の一切を創造する根源としての悲劇、彫刻、政治……等の文化形式が最高度に生命化されたのである。
いま三千年の歴史をこえて、アジアとヨーロッパの波濤が太平洋の周辺に渦巻くとき、その両文明の交錯・合流の切線に立つ日本は、地中海ギリシャの運命を自らのものとして、人類文明の新たなる大調和・大綜合を実現すべき使命を、その自らの地球的位相に感得すべきである。
日本の前にはアメリカ文明とソヴェト文明、またアジア的世界とヨーロッパ的世界など、世界諸文化の大いなる激浪が轟々と寄せかえしわかえつて、互いに尖鋭な対立と深刻な交錯を示しつゝ、新しい揚棄と綜合を人間世界の未來に待望している。さまざまな文化の発展とその夥しい結実をいかにとらえ、いかにその本質を正しく定位させるか、或は亡びんとする文化の生命をいかに新たに永遠化するか!――いまや日本はこの困難な大事業を実現すべき運命の自覚を、太平洋の浪間に響く大いなる歴史の歌声に聴かねばならぬ。
幸いに日本人は文化の綜合・調和に対するすぐれた感覚を備えている。日本にあつては、その文化的本性とは、和解と秩序化と融合に対する特有の機能であつた。
かつて日本における文化の綜合を最も正しく実現されたのは聖德太子であつた。
隋、唐、インド等の大陸文化をはじめ、西域、ギリシャ、ローマに及ぶ当時の世界最高の文化が、日本の自然の中に整然綜合され、体系化された。宗敎、藝術の輝かしい開花をはじめ、政治・法律・教育・経済・社会等の各領域に対する世界文化の攝取と再創造の最高の業績が大和文化の絢爛たる結実をもたらし、そこに日本人の文化的能力を最善に発揮したのである。
当時、大陸進出に挫折した日本は、そのエネルギーの内的創造として自らの内部に流れ入るあらゆる信仰・思想・文化を認容し、全く異式な神々や多様な宗敎を和解せしめた。今日なお佛敎・儒敎の本質が日本にだけ残されているように、また例えば親鸞や道元の偉大な業績にみるように、複雑多様なる異質的な文化の本質が最も巧みに把握され、血肉を與えられ、生命化される驚異的な能力が示されたのである。
太平洋文明の創造
現代史の最大の課題として提起されつつあるアジアとヨーロッパの綜合――太平洋の周辺に新たに起らんとするこの輝かしい新世紀の文明の創造は、日本に宿命的に課せられた歴史的行動として、明治以後、近代世界に対する日本の生誕の意義と使命として直ちに行われるべき運命的課題であつたのである。
しかし近代國家として目覚めた日本は、すでに完成期にあつた多くの列強の水準までひたすら追つく必要に迫られていた。何よりもまず異常な速度で前進せねばならず、そのため自らの本來的事業に従事することが不可能であつた。
今や太平洋戰争を経ることによつて、近代的日本の前進の方向が挫折、断絶せしめられた。全般的な苦境と窮状に立つた日本は、こゝに自らの存在の意義と地球における自己の地位をあらためて見究めんとしている。あやまつた方向で外に向つたエネルギーは内的に沈潜し、凝集し、深みへと向い、その究極の状況において、自らの存在と地球との一体的連関、人類世界の運命と自分の運命とを一体化するところ、卽ち本來の地位に立返つて、自らの眞の姿を再び発見するに至つたのである。
日本が地球的位相に自分自身を再発見した時、あたかも太平洋周辺に到來した二つの世界の運命的出会がなされ、この明るい海辺が人間の最大の活動領域、文明の最大の交流地域になろうとする運命的偶合を見るのである。
こゝに日本は自らの歴史的運命を自覚しつつ、新しい世界文化を綜合すべく、あらゆる混乱と対立に融合と秩序と調和をもたらす積極的な創造を全國土の生命の上に展開せねばならない。
現在まで、近代日本における西洋と東洋との融合・綜合の事業は、無計画的に、無秩序に行われ、そのため深刻な混乱の惹起されたこともある。いまこそこの歴史的事業の達成に向つて、意識的・計画的方向に進むべきであり、そこに壮大なる文化意識をもつ全國土の建設計画が、世界文化の綜合・太平洋文明の創造として、自然・社会・生活・科学・藝術・生産・経済・教育・政治等……、文化と自然、人間と國土のグローバルな立場に樹立され、実践さるべきである。
多元的な複雜な諸要素、諸存在、諸條件を巧みに和合させることは一つの創作に比せられるべきものであり、かゝる創造こそ日本人の精神的・物質的能力の最も妙をえた所であろう。
今や分解と解剖の時代は去り、化合と合成の時代が到來している。そして混乱と無秩序による崩壊から免かれるためには、整理と秩序をもたらす内的体系の確立が必須である。
内なる地球としての体系がこの文明創造の生命的形式である。
全世界のもろもろの存在を、その基盤としての地球の上にいかに位置づけるか?――こゝに「地球の平和」創造の根本的命題があり、その建設こそ、様々な文化や生存の諸條件を正しく結合し、調和させ、一つの球体的秩序にまで和合させる藝術創造の本質を有するものである。地球の上にはあらゆる対立も矛盾も並存しながら、一つの地球という根源的存在において綜合が行われている。こゝにあらゆる存在を整理し秩序づける創造的な内的体系としての地球的世界の実存性が把握されねばならない。「地球の平和」は球体的な且つ最も生命的な体系にもとづいて実現されるものであり、世界文化の綜合・階調を全國土の上にもたらす日本の建設計画も、この基本的体系より導かれ、その具体的生命化としての太平洋文明の顯現が行われる地球と日本との本質的連関を認識すべきである。そこに日本全土を地球の平和のモデルとする「平和地域」建設の根本的方向が存するのである。
転載元:地球文化研究所著『日本經營計画』(1950年12月発表)