歪められた神道
第二次大戦の遂行を通じて日本政府によつて指導され、強制された神道の姿こそ、あまりにも狭隘な謬見にみちたゆがめる一迷信像以外のなにものでもなかつたことを、今日、われわれは深き反省と、それへの公平なる理解のうちに会得しているものである。
われわれにあたえられた歴史的理性は、宗教がひとつの権力の下に結びつけられ、信仰の自由を忘れ、人間および事物全般に対する曇りなき愛と眞実を破棄したとき、かゝる宗教は、やがて自らをも滅亡の門に至らしめる狂信と迫害の虜囚とならざるを得ない幾つかの実例について、尊い教訓を示すのである。
しかしながら、眞に自然的・人間的な本質を具有せる宗教の永遠なる生命は、あやまれる信仰や歪曲された解釈・理解等によつていさゝかも損われることがないように、日本神道の本來の姿も、いわゆる硬化した独善國家宗教として解さるべきいかなる偏狭な理念にも、決してとらわれていないのである。
しかし近代、日本の一部における閉された國粋的意識にもとずく偏見が神道に強要したものは、神道の本質とまつたく相反する曲解と誤謬にみちた貝殻的世界観へみちびき、ひいては自らの立場を他の世界から孤立せしめ、蒙昧と迷信の中に陥る最大の原因となつたのである。そしてそのあまりにも非科学的見解にもとづく神道観にかんして、古神道の正しい解明・研究を発表しようとすれば、たちまち不敬背信、あるいは國体を混乱せしめるものと非難され、一挙に排除弾圧の憂目をみてきたのであつた。
しかし、いまやわれわれは自由なる民主主義の下に、新たな世界の秩序と人類の福祉を祈念する普遍的な信仰的基盤の上に立ち、これまでの徒らに日本の國体を特殊に限定し、神道をしてまつたく反科学的な殻の中に固執せしめた過誤を根本的に是正して、神道のもつ本質を解明すべきよろこばしい課題を負うのである。
神道の本質
眞の日本神道は、古事記あるいは日本書紀等の文学的な古文献にもみるように、あくまでも自然のゆたかな生成とその発展に対するはてしなき憧憬と讃美とを謳い、かつ深遠なコスモスの機能にみる創造と調和の根本原理を、一の象徴的な敍事詩的展開のうちに把握し、自然と人間との変らざる協調・結合によるシムフォニックな万物照應の世果を織りなす、まことに美わしい諧和の方向を指し示すものであつた。
この意味で神道の本質は、むしろ自然と人間とを結ぶ一つの藝術ともいうべきものであり、それはかのスピノーザやゲーテ、ルソー、エマーソン、ホイットマン等の深い自然観に対比されるものである。
――一切の存在するもの、その生成変轉の宇宙、その根源的な生命の出生には、或る統一的な法則が働いており、すべてはそれによつて発現し、分化し、対立し、矛盾し、融合する。……宇宙、日月、星辰、國土、人民、あらゆる生物、物質はその生ける表象であり、存在の最高の表現である。――
レンズ磨きの哲人スピノーザにみる透徹した自然観察とその汎神的な「自然は神なり」の哲学体系は、創造の父「ファウスト」――偉大なる天才ゲーテを育み、彼はこのつねに生成しゆくものの根源的な原理の探求の中にその精神のゆたかな土壌を形成し、自然から人生と藝術の源泉を汲みとつたのである。
ルソーはまた、「自然にかえれ」の叫びをもつて傾きゆくヨーロッパの享樂的頽廃を新たな自然秩序のうちに救済しようとした。
このゲーテやルソーのゆめみた大いなる自然への憧憬は、新世界アメリカの廣大な展望の中に受けつがれ、エマーソンの瞑想に富む自然哲学が生れ出でた。星々に宿る代表人(魂)としての神々の意識は、アメリカの空と地上にみてる生命の放射と交響し、こゝに「草の葉」の詩人ホイットマンの力強くかぎりない自然と人間との交流の讃歌がひゞくのであつた。
さらに近代神秘主義、象徴派のメーテルリンク、スウェーデンボルタ、マラルメ等における深い宇宙生命への神秘感、存在の深奥を探求する象徴的な感覚霊性は、日本神道の本質ときわめて密接に結び合うのであり、メーソン、ヘルンらはこの日本古神道の中にひめられた深い象徴性に心ひかれたのである。
まことに自然にたいする信仰の美しい表白が偉大な文化創造の礎石となつたように、日本の神道は國土そのものに対する深い自然愛によつてその大らかな宗教的基盤を創成した。
神道はあらゆる山川草木の中にも不滅の霊的信仰を見出し、そこにあつては、自然と人間とは互いに深く内面的に結ばれており、云わば一つの汎神論的方向ともいうべきものであつた。
さらに神道の本質は、これを歴史的にみれば、それはギリシャのヘレニズムに対比されるものである。
ギリシャ神話を多彩にいろどる豊饒な神々の饗宴は、日本の神々における会議や祝祭と同じく、それらはまたいずれも自然神として象徴化されているのみならず、ブルーノ・タウトのすぐれた洞察によつても知られているように、日本の「伊勢神宮」をはじめとする神社神殿は、ギリシャのパルテノンに比せられるべきものなのであつた。
さらにギリシャ神話の内包するゆたかな藝術性が近代ヨーロッパ藝術を開花せしめたように、神道における藝術性は、自然の明るい外光や移りゆく季節、その幽邃なる溪流山谷の中に、日本藝術の調和的な世界を築いたのである。
しかも神道の有する高き藝術的生命は、古代よりの日本國土における絶えざる天災・地質的変動等の苦難の中にも一層自然との交感を深め、「神樂」の中にあらわれる音樂と美――苦悩と悲劇の只中にこそ求める藝術の救いと力、その神々の明るい哄笑――を、最高の信仰的表白たらしめたのであつた。
神道の普遍性
今後、神道が狭義の國家宗教より離れて新しい國土宗教としての本然の姿に立ちかえらんとするとき、なお、われわれはそれが決して單なる民族宗教に固定されず、もつとうち開かれた一つの普遍的信仰形式なることを明かにしておかねばならぬ。
それは古代の華麗な幻影――「太陽信仰」――の傳統を継承するものである。
古代の人類文化が、まつたく孤立的に成立・発展したものではなく、相互に連関し、影響しつつ発達したことについては、今日の考古学が一致してこれを明かならしめている。しかも古代文化の創成に当つて、太陽を崇拝する「太陽信仰」がその文化創造の根源的力をなしており、古代文明の絢爛たる開花は太陽を中心とする人類信仰の偉大な産物であつた。
古代バビロニアにおける最高神は天神アヌ(Anu)であり、太陽神の崇拝はバビロニア建設の根本をなしていた。その太陽女神は、宇宙生命の母なるアマ(Ama)であり、ママ(Mamma)、マニ(Mani)ともよばれる万物の大母性であつた。
エジプトにあつては、日神ラーの讃歌となり、ヘリオポリスのかゞやける出現をみる。
インドの最高神は日神ヴァルナに表象され、モヘンジョ・ダロ、ハラッパの古代インド文化を導いた。
黄河・揚子江両河の間の地帯に展開された古代中國文化の黄金時代を創成したのは日神「天帝」であつた。
さらに南太平洋諸島における古代文化圏には、日神崇拝にみる「陽石」あるいは「巨石」等の文化の遺跡が辿られ、北アメリカにあつても「太陽の子」の神話や古代太陽文化の遺跡を発見することができ、それはのちにメキシコのマヤ文化、ペルーのインカ文化へと発展して行つたのである。
これらの太陽信仰の廣大な地域を遍歴すれば、古代世界は太陽文化圏として結ばれた莊嚴な「一つの世界」であつたと言いえよう。それはまことに、今日の対立し矛盾する封鎖的な國家的分立性を超えた、地球的規模における信仰と文化との交響世界としてわれわれの前に浮び上つてくる。
このことは現代の世界的矛盾に苦悩する人類に、かぎりなく大きな歴史的・文化的示唆をあたえ、現実の戦争か平和かの決定的な採択に迫られている人類に対し、この偉大な過去の栄光を明日の未來によりかゞやかしめるべき新たな信仰の喜びを與えるであろう。
神道と平和創造
神道文化の本源である「太陽信仰」の道がわれわれの歴史と文化とにあたえた大いなる影響は、あらゆる時と処において、すべての存在を一つの調和・交響のうちに発展せしめる愛と結合の原理を大らかに表現することであつた。その悠々たる自然に卽する普遍的な信仰に立つかぎり、そこには、佛教・儒教・キリスト教・ユダヤ教・回教等がなんらの宗教的軋轢なく共存和合せしめられ、さらに宗教・科学・藝術等の文化全般にかんする綜合的結合も積極的に包攝される生命的創造を示すのである。
あらゆるものを調和と発展のうちに位置ずけようとするこの神道の素朴にして眞摯な信仰は、不法な近代権力政治の悪夢によつて利用され呪縛され來つたが、いまやわれわれはこの試煉を克服して、ふたゝび始源の大いなる光りを呼吸し、苦難と混沌に沈む悲劇的な現実に和解と調和を創造する生命的信仰を樹立しようとする。まことに平和を愛する信仰――これが神道文化の永遠なる至上命法である。
われわれはこの平和の象徴としての太陽が、現代の黙示的な夜の世界にあまねく光被し、よろこばしき自由なる人類の未來が、光りの交響のうちに招來されることを祈念する。
そしてもしこのように大胆な比喩が許されるならば、それはあたかも、太陽の根源力を示すH爆彈が、原子的開裂よりも原子力の平和的融合への道を明かにしたごとく、いまや万物をして和解調和せしめる平和の太陽信仰が、地球の莊嚴な夜明けに向つてもあがることを意味するであろう。
神道文化と國土建設
古來より神道は、そのゆたかな自然愛・國土愛をもつて、日本の美わしい自演と文化の調和発展を創造し来つた。
神道文化の本質が、平和なる國土建設として示されるとき、われわれはこの方向が新しい綜合文化の実現に最も大きな貢献をなすものと信ずる。
いま朝鮮事件を契機とする世界的現実の危機的様相が、ひとしく悩める人類の上に一層生ける平和への熱意をもえ上らせているとき、われわれは平和なる信仰の具体的表現を「太平洋のスイス」たるべき日本の國土建設に示さんとするものである。
かつて、太陽を象徴する天照大神が嵐の神須佐之男命によつて岩戸の中に閉された時、太陽の愛を呼びかえす藝術の舞踏により日神はふたゝび復活され、嵐の神は神々の天上より追われた。その嵐の神は罪の償いとして國土建設をなさんとし、その子大國主命がこれを実現した。日本にあつては、まことに罪を犯した嵐の神がその償いのために平和なる國土建設をなしたという、最も象徴的なドラマを自らの生ける過去の中に有しているのである。そしてちようどいま、日本はこの嵐の神なる罪の償いをもつて、平和なる國土建設に生きようとする歴史的象徴的同位性に立つていることを理解するのである。
転載元:地球文化研究所著『日本經營計画』(1950年12月発表)