國土建設が國土という一つの自然單位を構成・建設するものとして、それが物質的開発計画の方向をとることは当然と云えよう。しかし單に物質的側面にのみ限定されるとき、日本の乏しい資源・物資・経済力の現況は、余りにもみじめな相貌をもつて表現されざるをえないであろう。物質力・経済力をもつてあらわされた日本の姿は、まことに「アッカーマン報告」に集約されているみじめな五等國以外のなにものでもない。
一度破られた國土の自然的均衡が年々の災害――風水害・地震・火山活動・火災・津浪等をますます増大し、國土の荒廃は加速度的に激化し、それを復旧再建しようとする努力も、乏しい経済的制約の中では困難をきわめ、復旧費は災害に追いつけないまゝに、再び災害を重ね、限りなき悪循環がつゞけられる。復旧と災害の不均衡は、すさまじい急上昇のカーブをえがき急激に破局点にまで近ずきつゝある。
日本は八千万の人口を養うに足る國内資源を保有していない。また工業に必要な原料も持つていない。この一つの物質的制約を、單に物質的側面においてのみながめるならば、それは飢餄と貧困の象徴として、たゞ一つの豊富な資源である物質力に換算された労働人口による――ウィリアム・ヴォート(William Vogt)の云う「苦力國家」への途を不可避とせざるをえないであろう。
しかし、この人間が所謂「人的資源」として換算され、すべてが生産力、経済力に支配される計画が、果して眞の國土建設計画と云いうるであろうか?
――このように、人間をもつて、年々増加し、限られた食糧を乏しくする始末の悪い存在として眺め、せめてその労働力を彼の消費する物質に對應するほど高めるための雇用の機会を與えることに苦慮する――物質中心の計画によつて、人間の幸福がもたらされるであろうか?――
この物的世界の機械技術的発展は、人間をして技術社会の奴隷にまで陥し入れ、人間はその歯車の一片として磨滅され、消耗品として棄てられてゆく。しかも、その機械そのものをも自己破壊する原子力の脅威の前に、人間はいまや絶対の「廿五時」(C・V・ゲオルギウ)に直面したのである。主体としての人間を喪失した物質一元化の計画が、物質力の極度に貧困した現実にあつて、望みなき一つのディレンマに当面し、救いなき絶望に陥入らざるをえないことを自覚するとき、われわれは、これらの物質的計画を逆轉させ、新しい人間を主体とした計画の確立が最大の急務であることを痛感するのである。
人間を、たゞ物質を消費する存在としてながめるのでなく、あくまでも創造する存在としてのみみるとき、そこに人間の創造的行為としての國土建設への方向が、全く新たなる相貌をもつて呈示されるであろう。この人間の心の根本的轉換・精神的自覚なくして、國土建設はありえないのであり、國土開発はまず人間の心の開発より開始されると云うも、決して過言ではないとさえ思われる。
國土開発とは、人間の最も正しい精神の確立とともに、そこから自から発せられる創造的行爲として実現されるべきものであり、それはあくまでも人間が自らの國土をいかに最も住みよい場所にするかというとゞめがたい希望と憧憬によつてみちびかれるものでなければならない。そしてそのためには、その國土にあるすべての人間力を、いかに創造的に活用するかゞ最要の問題とされるのであり、國土開発は人間の開発から行われるのである。
この人間の開発とは、究極において正しい人間教育に帰せられるものであり、この眞の人間の育成なくして、心の開発も國土の開発もありえないのである。
近代文明のもたらした人間の技術奴隷への顚落――物を生産するために人間が酷使され、物質がすべてに君臨し、かつて物をつくろうと意志した主体としての人間が、物があつても使うことが出來ない「豊穣の中の貧困」を嘆かなければならない悲劇!文明は一切の自然物を拒否し、自然は一片の文明的所産をも排除しようとする――自然と機械の対立――人間は自然にも機械にも対立し、精神と物質とは限りない相剋をつゞける。すべてに対立した人間は、そのような機械技術に支配された奴隷社会より脱出するか、あるいは自ら人間的なものを放棄し、機械社会に無條件降伏して奴隷となるか、そのいずれかをえらばざるをえない。
しかも、脱出した人間の生きるべき場所はなんら與えられていないばかりか、そこには不毛の荒涼たる光景が人間の物質的生存を拒否すべく待ちかまえているのである。現代の苦悶は、自然と文明の恐るべき対立と相剋の中に、人間がいずこにおもむくかに困惑し、苦悩する姿に表徴されている。
この相対立する存在を同一の次元において調和することは不可能であり、そこにどうしても第三の場の設定を必要とするであろう。――人間と國土の関連が、新しい意味での第三の文化の建設を実現するのである。
この國土と人間との相関々係において、國土の社会的環境が人間を變化させるという、所謂唯物弁証法の公式的見解は、あくまでも人間を主体とした新しい立場への轉換によつて克服されるべきであり、それは、人間こそ環境それ自体をも変えるものであるという明確な自覚の下に揚棄されるべきものである。人間を変えれば國土も自から変えるという方向は、近代の唯物的人間にとつて、環境を変えることによつてはじめて人間も変るという逆轉した形で信じこまされている一つの信條に対する人間の主体的自覚を意味する。これこそ、近代的人間の科学技術的知識の蓄積・機械力の獲得が可能ならしめつゝある方向ではなかろうか?
かつて自然の恐るべき猛威に、力弱き人間は抗すべもなく、それを一つの運命として、運命を愛することをもつて自らの生存の方途と考える東洋的諦観に進むか、あるいは自然に対する憎悪と仇敵視による絶対の対立より、自然を征服せんとする技術の探求に進んだ。しかし、自然の征服と自然そのものの探求のうちに意志した科学技術の発展は、自然よりの解放と自然の支配を求めた人間をして、かえつて技術による人間の拘束・奴隷化をもたらし、人間は自然と機械技術との二重の圧力のもとに立たされるに至つた。大機械生産時代にあつて、人間は機械の断片でありそこに人間的創造力は存在しえないのである。
しかし、にもかゝわらず、機械技術の発展は、人間をして自らその環境を変化させうる唯一の強力なる手段となりつゝある。
科学技術の進歩は不毛の砂漠を綠野と化し、大洋を干拓し、前人未踏の山岳を開発し、人類の最もよき住地たらしめることが出來る。とくに原子力の解放はこれを一層力強く推進するものであるが、その反面、惡意と絶望的精神によつては、地球を全人類の共同墓地とすることをも可能ならしめたのである。
人間が眞に自らの存在を自覚し、その主体的確立の行動を、まず自らの生存の基盤である國土そのものの建設の方向に開始すべき、新しい地球構築の時代に進みつゝあることを、われわれはいまこそ明確に認識しなければならない。
明治以來、日本の進んだ欧米近代文明の積極的摂取の方向が、前近代的生産様式より一挙に世界的な技術文明を実現し、高度な機械生産方式を獲得しえたことは、今日何人も否定しえない歴史的事実となつている。日本はこの近代技術文明の獲得をもつて、自らの國家目的のもとに近代國家的な外的膨脹をひたすらに押進めたのであり、そこに日本人自体の機械に対する明確な自覚は殆ど存在しなかつた。また、日本の國土そのものに対しても、むしろ外的世界の研究・認識に追われて顧みる余暇を持たなかつたのである。
一方、日本における近代文明の発展は、その自然に対してはなんら顧みることなく、所謂近代都市文化の異常な畸型的膨脹をもたらし、自然の中にとり残された日本農村の封建的生産様式と大都市の近代文明生活の対比にみる、まさに数世紀をもへだてるかのような歴史的断層を露呈している。この文明と文明以前との混渚する特殊な社会環境に日本のもつ複雑な問題が示されるとともに、そこに日本の自然そのものが、文明と切断された不具的な機能しか示さなくなつた最大の原因をみることが出來る。
しかも、今日の大部分の日本人は、自らの國土に対して殆んど無知に等しい有様であり、その存在の基本形式を知らない状況にある。また、國家目的を見失つた機械技術をして、いかに自らの國土のうちに新しい建設の目標を見出させるかについてなんら積極的方策をもたず、徒らに困惑をつゞけている状態である。外的膨脹の途を絶たれた日本人は、その深い歴史の断絶を乘りこえて、いかに新しい発展をつゞけるかに苦悩しつゝある。
かつて日本人の自覚とは、國家への忠誠心と、それに対する積極的貢献によつて裏ずけられていた。そして國家目的の志向する外部的膨脹は日本人の目標となり、そこに國家人としての自覚がなされたのである。しかも、今日その途は死滅への道であることが示されており、自らそれを放棄した日本人をして、國家人としての自覚より、新しい人間としての自覚に立つべきことを要請している。
國家的人間として、近代國家とその運命を共にするか、あるいは新しいグローバルな人間として、國家をこえた地球的世界への生存を志向するか、この二者択一に迫られている日本人にとつて、自らの國土に対する新しい認識と自覚は、眞にその進むべき途を明示するであろう。
外に発展するためには、日本の國土は余りにも織細であり、秀麗であつた。また、近代文明の原動力である鉄と石炭に乏しい日本の國土にとつて、十九世紀のイギリス世界征覇に英本國が果した産業革命とそれにつゞく異常なる工業発展――生産力建設の役割を担うには、むしろ最も不適当な条件が先天的に存したことも否定しえない事実であつた。この根本的な悪條件のもとに、所謂近代國家の途を進むことが、挫折と失敗に終つたことは、日本にとつてある意味では最も幸いなことであつたとも云いうるのである。
これによつて、日本人が自らのもつ特殊なあり方、――その國土のもつ複雑微妙なる変化と多様性の中にいかに生きるかの問題に眞に直面し、それを解決して新しい國土の未來を、太平洋の平和なる地域として実現しうるならば、挫折と失敗によるおびたゞしい犠牲と損害も、その最大の不幸を最もよき繁栄と幸福への轉機とすることが出來るであろう。
しかも、この日本の外的膨脹への必然性が、近代國家のもつ物質力経済力の基盤の上に計算された自らの物質的貧困性をカバーするため、外部よりの獲得経済を図ろうとするところに起因することを知るならば、われわれにとつて、当然、今後の國土建設の方向は、再びこの轍をくりかえすことのない新しい立場への轉換を要請するのである。
それは、日本の國土建設が、新しい人間的自覚――人間の心の開発より開始されるという根本命題に帰するのである。
転載元:地球文化研究所著『日本經營計画』(1950年12月発表)