(1)純粋なる人間への憧憬
現代における二つの相対立するもの――ブルジョア・デモクラシーとブロレタリヤ・デモクラシーの世界は、いまやそれぞれが両極的存在にまで到達した。そのゆえにこそ、この両端を交互媒介せしめなければならぬ決定的時機に遭遇しているのである。しかも、あらゆる存在の一致をその根源的力において想定せしめるに至つた現代の尖端において、すべてを一に統一する至上命法は、トルーマン大統領の明言せる――「平和こそ地球を支配する法たらねばならぬ」との、まさに「絶対平和」の道としてあるのであり、そこにのみ人間は新たな希望と創造を語ることができるのである。
しかし、相対立する地平的次元の閉ざされた世界にあつて、単独者的孤立の個人生活を営むか実は集國自然の中に一つの量的物的單位として存在する多くの現実的人間にとつて、かかる生存の志向は殆んど明確な思考の対象とはなりえないもののようにみうけられる。
彼らはいわゆる現実なるものに嵐の海に浮ぶ木の葉のごとく翻弄され、眩惑され、恐るべき混濁の中に浮き沈みしつつあえいでいる。その世界は暗澹として果しなく、ニヒリズムに対する感傷的な惑溺にひたされている。その心に、誰か明るい外 光をもたらし救済の手をさしのべても、それは余計なお節介であり、恥辱的な行為であるとされる。実存とは単独・孤立無援の存在であり、明けることのない夜の運命を生きるもののことである。光や、美しい色彩、希望や幸福、自由や繁栄、愛や夢などは時にとつては愚かな幻想であり、忌々しき敵である。あらゆる存在の外に投げ出されてあろもとのして、自分をこの世からの追放者・亡命者とみなし、地上的なものの一切を否定せんとする彼らは、あやまれる狂熱――憎悪と復讐の中に身を焼かんとする。彼らはどこから來り、どこへ行くのかもしらないあわれ無常なるもの、虜囚である。減びに至る門だけが大きく彼らの行く手にそびえ立つている。
すでに打ち開かれた原子力世紀のかがやかしい未来像が投げかけるまばゆい希望と歓喜の光の下にあつてさえ、彼らは冷たい灰色の壁の中で実人生の残骸にむさぼりつく盲目者なのだ。しかも彼らは、その虚構の生の暗い深淵に痛く脅えながら、すくいなき平安と絶望にうちのめされているのである。
廿世紀の夜明けには、まだおぼろなる希望と期待が燃えていたが、いまや歴史的終末観は世界を絶望的に塗りつぶしてしまった。
ぬぐいがたい近代の罪責は、多くの知識人をして、無の夜の底に沈倫せしめ、物質と権力は、すべての非力なる在存を圧殺する。
現実と呼ばれるものは、もはや今日においては、不安と汚濁と混沌とさらに一層奇怪な「理想を叩き潰す巨大な手」をもつ一個の偶像である。――そこでは、本能のうち最も低劣なるものが文明の仮面を被って地上を徘徊し、醜惡きわまりない罪悪の嘔吐が飽くことなき執拗さをもつて、最もリアルに表現される――新聞・雑誌・廣告等はしれらの表現の忠実な使徒である。
この破廉恥な堕落――しかも彼らはそれらの歪曲された事象を、ことごとく日常の茶飯事にすりかえてしまった。逆倒した錯乱せる道徳は、かくてついにいかなる創造の目的や手段も学び得ることなしに、自らの死滅の墓標を築かんとするのであろうか?
このように混迷した現実こそは、惜しみなく沒落せしめなければならない。それは破壊と滅亡の途だからである。
怖るべき人心の類廃はかくて故なきことではない。破滅の戦慄的な予感が、ますます彼らを駆って狂操的な世界へとみちびく。――惡は惡の上に重なり、夥しい偽善と良心なき者の黒い影がまことしやかに地上を横行する。それは喧騒きわまりなき百鬼晝行の一大絵図である。
この痛ましき生の呻き!――不安と恐怖と絶望は無限に増大し、わずかに忘却の彼方に曽つてありしものの断片を採集する無数の精神的亡命者。――過去と未來の間に断絶した現在の谷間から峻嶮なる断崖をいかにして攀じ登ることができるか?――この運命の最大の試練に直面して人々は限りない労苦の重圧に圧倒されている。そして安樂に対する限りない憧憬の果て、むしろ死を……。すでに心身とも病み疲れた現現人の死への共感――。それは大いなる時代の嵐の不吉な前兆でもあろうか?まことに現代人こそは、かのヘブライの予言者たちが指し示した世の終りの到來を想わせる。
まことに現代人は生れながらの絶望者ではなかつただろうか?彼らはすでに、父母の有する矛盾的社会環境の中に生い立ち、慌しく過ぎ去るわずかに自由で意志的な幼年期を終えるや、たゞちに荒々しい人生の暴風圏に投げ込まれ、沙漠のような社会的現実に直面しなければならなかつた。そして、それを理解し克服する何らの思考や行動の訓練を與えられないのみならず、かえつて、そのような社会に始めから忍耐の美徳の名において、惨澹たる常識教育を社会への畏怖観念のうちに與えられてゆくのである。彼らはそうして、あたかもよく飼いならされた家畜のように、始めから終りまで與えられた現実に甘んじて生きてゆくのである。
誇り高きヒューマニズムの幾多栄光の記録がしるされながらも、いまだ地球には眞の人間的自由が解放されてはいないのではないか?
廿世紀前半にみる大きな歴史的事象――恐慌の革命、植民地解放と戰争など、たゞ徒らにわれわれを困惑させ混乱せしめるものでしかなかつた。そこにはすぐれて偉大な創造的人間すら血にまみれて斃れ伏したのである。廿世紀五十年は、あらゆるものが裏切られ、うちのめされ、無残にもねじ伏せられた悲痛な嵐の連続であつた。人間性はすべての生命的なものから剝奪され、弱らされ、地下深く埋められた。人間はかくて技術奴隷となり、イデオロギーの奴隷となり、物質そのものに置き代えられようとするに至る。世界の「二十五時」が來たのである。人間にとつて、人間としての最後の反省――それもすでに手おくれになろうとしている――その時が、いまわれわれの前にある。生きるべきか、死すべきか―― to be or not to be……これはすでにしてハムレットの独白(モノローグ)ではない、人類全体の問題なのだ。
人間は生きるとこに何を求めるのか?もし、これに対する何らの解答もないとすれば、すでにわれわれの賽は投げられたのである。しかし、人間はいまや自らの究極の底に立つて語り出でねばならない。過去・現在・未來のすべてに対し、その底に流れている生命の基盤に立ちかえり、いまひとたび生の由つて來るところ、永遠なるものと死滅しゆくものとについての明確なる裁断を……そしてつねに人間は、惡の悲しみを越えて何を希い、絶望の果てに何にあこがれたかを、いまこそしつかりと見定めなければならない。
人間にとつて普遍的な希望と夢――それはどんなリアリズムの中にも存在する。どんな冷酷な現実の底にも流れているものである。怖ろしい良心への反逆的行爲の中にも、それはたゞ歪められた形で内在しているにすぎない。――それらの希望・夢・憧憬等は、本質的にはまことに素朴なものであり、純粋であり、限りなく美しいものである。
それはまず、愛と祈りによつて云い現わされ、ついに明るく透明な花園の光りにも似た豊かな人間生活の幸福な姿として浮び上つてくるであろう。
そこでは、無邪氣な信頼がすべてのものの中に復活してよろこばしい秩序をつくり、いかなる過誤も相互の深き愛によつて赦され、希望と勇氣を育くむ協力の一致した明朗性、たぐいなく甘美な憩い、快き仕事と音樂、清新なリクレェーションの展開――かくてすべては、意のままにならぬ冷たいリアリズムの世界から、より健康で颯爽とした創造的なロマンティシズムの新しい樂園的世界へとみちびかれ、一の純美なる生命の高揚にまで高められた人間の多様性に富んだ表現は、ふくいくとした藝術の光の中にあふれる。それは神と人間との美わしき諧調であり、人間が他の一切の生命的な存在とともに奏であげる壮大な交響樂(シンフォニィ)となるであろう。ここに人間の最大のよろこび、生存への至上の憧憬がある。誰でも人はそうありたいとのぞみ、自由に語ることを願つている。過去幾千年のあいだ、人類はこの希望と夢の実現を求めてさまよい、歴史の断層に苦悩の歴程を刻みつけてきた。ルネサンスの開花から生れた〝ユートピア〟の理想も、時代がさらにそれに應ずる態勢を整えるまでにはなお数世紀を必要としたのである。しかし、太陽力の一部を解放するに至つた現代において、われわれはもはや「空しいユートピア」の幻想と格闘する徒労をくりかえす必要はなく、また沙漠的な現実に足をすくわれることを怖れる必要もない。少しく未來を望見しうる人間ならば、未來的世界がどのようにかゞやかしいものであるかを明確にみることができるのである。
そのゆたかな想像力の解放による全く新たなヴィジョンの変革は、すでに原子力を発見したほどの偉大な人間的精神においては、いささかも不可能ではないのである。その未來は自らの現実となり、新しく拓かれる運命となる。この内面世界の未來像を実現させようと努力する者こそ、今日の人類の歴史的課題を担う眞の創造的人間であろう。
現実はわれわれに迫り來るものではなく、逆に自らの精神の行爲の投影として作られつつゆくべきものである――これが現実の眞実の相でなければならない。
われわれはいまや偉大な世紀の分水嶺に立つている。われわれのみはるかす未來は、それを見る者の心の明暗によつて決定的な光と影をつくりなす。
何が眞実であるか?――との問いに対し、現代人は次のような自覚を持たなければならない。
――つねにうたかたのように流轉し生滅する現象の底に、永遠に変らざる眞実としてあるもの、――それは限りなき生命の源泉をたゝえる大地そのものであり、そこに芽生え、花を咲かせ、実を結ぶ不断の創造をして、より豊かに発展せしめるところの生命の愛!それは倦むことなくこの地上を装い整え、命あるもの命なきものを問わず、すべてを調和し相互扶助にみちびき、存在の多様な豊饒をもたらす。あらゆる現象の混乱の深奥にひそむこの実在は、存在の最も純粋な結晶であり、エネルギーであり、神である。それは人間を支えている唯一のものである。そこにある物質と精神とは分ちがたく渾然と一体化しており、「神の國」の平和を創造する母胎として、美しい輪舞をなしつつ無限に展開しゆく――生命・國土・海洋・人間……それらはすべて地球の実存的表象であり、これを分解する何らの排他的な力は存在しない。あらゆるものは地球の秩序の中に一であり、その規範を越えるものではない。その眞実は人間の存在を決定的にする良心の規範によつて映されるものであり、生命・國土・海洋その他の一切のものに通う。良心は大地であり、生命であり、はるかに宇宙的な存在秩序の波動に照應するものである。この生命の最も純粋なる波動に振幅する人間こそ、眞実そのものであり、生命の始源に対する人間のやみがたき願望・夢想・憧憬等は、すべて人類史の底に流れてきた唯一の現実であつたということがきるであろう。
われわれはいまや、よろこばしい新半世紀の夜明けに立ち、この純粋なる人間の夢に、生きた藝術的表現を與えなければならない。
生命をより高揚させ、國土を一層調整され再創造(リクリエート)された樂園となし、文化の香氣ある構成、空間に対する多元的な開発、そして人間そのものにおける永遠性の開発、平和なる人間像の形成――これこそがわれわれの生ける未來の姿であり「平和なる地球(ピースフル・グローブ)」を実現する唯一の方向なのである。
(2)悲劇を克服する人間
いまやまつたくめざましい新半世紀が人類五千年の苦悩と放徨の歩みののちに、かゞやける歴史の分水嶺として立ち、偉大なる平和と創造的人類愛にみちたバラ色のあけぼのを迎えようとしている。
それはかつて十九世紀の初め、ゆたかな晩年の光に浴したあの綜合的人間としての典型――ゲーテが……パナマ運河やスエズ運河の開通をみることができたとしたら、なお五十年は生きのびるだけの甲斐がある、と語つたより以上の、想像を絶する飛躍的な進歩と幸福の光彩に富む絢爛たる新時代の開幕を告げるものである。
しかし、それにもかかわらず、そのゲーテにおいてすら、現代の悲惨を深く想えば世界が次第に終りに近づきつつあるとの終末観的悲嘆にとらえられざるをえなかつた時代矛盾の深刻なる相剋――その偉大な死に際して――もつと光りを!と叫ばねばならなかつた近代の象徴的悲劇こそは一体何を物語るものであろうか!
今日の現実は、明かに人類前史の自然的人間的自由への欲求が、戰争に次ぐ戰争をもつてする果しなき暗黒の深淵と、眞の平和の名には價しない砂を噛む平板な日常の重苦しい惨怠と疲労の中に完全に埋没し去り、そこからのいかなる脱却をも不可能にするかのごときあらゆる制約にかこまれた封鎖的地平が、嚴しく「開かれた世界」への途を阻む状況にある。
それは單に、政治的経済的諸條件が律する外的諸困難にとゞまらず、人間それ自身の内面世界の問題に及ぶものである。驚異的な物質文明の発達に伴い、人間の生活感覚は、むしろ精神文化と機械技術とのあまりに遠き距離感を有し、むしろ意識的に人間的なるものの複雑性を峻拒し、ファンクショナルな秩序の形成に急であつたため、近代の生産様式それ自体が甚しく畸型的な一方的発展を辿り、ついには人類を新しき技術文明の奴隷集團と化すあやまれるメカニズムの出現を示しさえした。
まことに現代世界を支配する物質と精神、神と人間、自然と歴史、個人と社会等の越えがたい乖離(かいり)は、文明そのものの終末的段階を招來し、徒らな混迷と惑乱する懐疑との矛盾的様相の中に、統一と秩序を見失つてさまよえる現代人は、この深い断層にひびわれた鋭い摩擦の現実から、たゞ無責任な逃避による安全地帯への通路を窺う虚無的頽廃的方向に赴かんとする。これに対し、最大の暴力をもつて、一切を破壊と強圧の下に粉砕し、すべてを唯物的に画一化する「目的の王國」を実現せんとする社会的変革の實践の氣運は、ますます人類をして凍るような戰慄の極北的世界の形成に駆り立てんとする。――「冷たい戰争」より「冷たい平和」――そして一時的な「熱い戰争」からやがて「冷たい氷原の墓標」への途を……。そして最も怖ろしいのは、噴出する熔岩の流れのような火の憎惡と復讐の憤りが、実は最も冷酷な表情の下にひそんでいることである。
しらしらと冷たいかゞやきにひたされて、白夜のオーロラに永遠の生の凍結を夢みるあわれな魂こそ、現代が辿り着いた絶望からの逃走の表象なのである。禍にみちた混乱、遠ざかりゆくものへの哀惜、愛するものへの共感がもたらす苦悩、旧きものと新しきものとの交替、貧困と富との不均衡によつて傾く現代のバビロンの風景に、痛ましい悔恨がみちみち、生くるに耐えがたい絶望が地表の終点へと追い立てる。世紀末人チェホフがその遺作の中にしるさんとしたオーロラの冷たい微笑に慟哭せんがために……。
この大いなる幻影――いま過ぎ去らんとする歴史の終末が投影する最後の悲願にもゆるオーロラへの憧憬――しかも、この謎めける光はまた実に、かの太陽の光の美しいスペクトルに他ならないのである。
閉ざされた地平の彼方に、かくてわれらの凍れる深潭の上に懸る最後の希望の象徴も、まさに生ける生命の創造的根源力から発するものなのであつて、すべてはそこに帰一する時と空間との絶対者――いわゞ永遠の相の下における原歴史の天光を神なる太陽に仰ぎみるのである。
そのとき、人は初めて、暗黒の地の涯を超え、太陽の光が及ぼすうるはしき宇宙的遠近法の中に、さらに新しき天、新しき地を遍歴して、ふた〻び健康なよろこびにみちた明るさ、輝かしい地球の解放を思念するであろう。
かくて凍れる極北に氷結する絶望の精神をも氷解せしめるあたたかい愛の力――このゆたかなる創造者のプリズムに映る未來的分光こそは、すぐれた生命の價値とそのあらゆる高貴な表現とを生む知的愛の反照なのである。――未來は惜みなくわれわれの前に開かれている……それは限りない創造的平和の途である。
すでに第二の火としての原子力は、その半神的性格を具有することによつて從來の封鎖的社会の一切を廃棄更新せしめ、新しき人間の出生としての精神的物質的革命を必然化し、眞の人類の福祉を、地球の平和の実存形態たらしめようとしている。
死は、あやまれる死は、償いえぬ人間の悲劇である。滅亡への支度を急いではならないのだ。とりかえしのつかないことが起つたときは、もはやわれわれはどうすることもできない。
けれども未來を信ずる者は、神の愛にみてる魂をもつて、すべての世界が「一つなる地球」として人間的に形成せらるる新しき自然を創造する神聖な地球愛的信念の永遠に記憶さるべき先駆者となるであろう。
眞に創造的な平和は、新しい未來像の生誕とともに初まる。豊潤なる詩的幻想と、宇宙的宗教感情にまで高められた科学的精神との交響的諧調――それは閉せる地上の重き霧を拂い、死せるリアリズムの現実を超えて、悦ばしきロマンティシズムと端正明快な古典主義の綜合による生成と秩序の世界――荘麗なる地球樂園を建設せしめるものである。
いまこそ、われわれは、万人の胸の中に、神と未來とに対する美しき信仰による「地球の平和」への祝祭を誼わしめ、一つの大いなる愛の福音を、悩める人類の前に告げしらすべき偉大な鐘を鳴りひびかせねばならない。
このいと高き純粋にして清新なる理想の栄光を担うものこそ、新たな原子力世紀における眞の地球的人間として立つのである。
その地球的人間は、平和なる國土においてはじめて生長することができるであろう。
転載元:地球文化研究所著『日本經營計画』(1950年12月発表)