人間――この未知なるもの――こそは、まことに文明の危機における現代の最大の問題となつた。
人間とは一体何んであるか?――また、人間そのものをいかに捉えるか?――は、ひとしく人間自身の根本的な問題であるにもかかわらず、われわれはこの自己自身ならびに同類として人類についてわずかに断片的に窺い知るのみであつた。そして、このことは、われわれに、人間についてのなんらの具体性を附與しなかつた。ひとたび人間について語るとき、われわれはこのものがまつたく万華鏡のように変轉きわまりないものであることを痛感するのみであり、何が〝人間の本質〟なのか少しも理解することができないで來た。
われわれは依然として――
思い迷う、人間は神か獣かと、
……万物の偉大な主か、それともその餌食かと、
眞実の唯一の裁判官が、涯しなき誤謬の中にあるものかと、
世界の光栄なのか、戯れと謎なのかと、……
――かく自らに問い、問いつつひどく困惑しないではいられない。
人間の研究は、人類の創世以來この世に存在したのであるが、しかもいまだに人間は、或る捉えがたいなにものかであるにすぎない。
十九世紀以後――自然科学、社会科学の両面から人間研究がなされたが、それらの結果は、動物的人間、分解された人間、階級的人間等、いずれも甚だ畸型的な人間像であつて、必ずしも生きた人間そのものを把捉することはできなかつた。
バルザックの「人間喜劇」は、一つの人間研究における全体性をドラマティックに展開する先駆をなしたが、それ以後この試みは継承されることがなかつた。エミール・ゾラは、クロフォード・ベルナールの「実験医学序説」に刺戟され、数世代にわたる人間の研究を「ルゴン・マッカアル叢書」として注目すきべ実験小説の分野を開拓したが、人間の遺傳性に囚われすぎたため、大成するに至らなかつた。
しかも文学は、ことごとく人間を主題としながら、いまなお人間についての究明はほとんど未知数でさえある。
近代に至つて人間という概念は、無数に分類され、区分され、いずこにその焦点を求めるかに限りない困難を感ぜしめる。廿世紀藝術は完全に解体された人間の悲劇を痛切に訴えている。
しかし、これらの無数の研究を、今日、いかに綜合調和せしめることができるであろうか?
ヒューマニズムは、神と人間との対立より出で、現代の人道主義へと発展した。しかし、この倫理的側面に強調される傾向は、人間の中にある一要素にすぎず、これのみで人間をとらえることは不可能である。
また他方、十九世紀的に分析・分類された人間像の範疇においては、あまり函数的概念の乱用があり、現在いかにしても解決できない問題が幾多残されているのである。
そして、現代の最も深刻な問題――ジュリアン・ハックスレイ等の主張における進化的人間と、危機神学や実存主義における終末的人間、さらにコンミュニズムの世界から迫り來る階級的人間とのこえがたい対立――これらのおよそ隔絶した矛盾の相剋は、きわめて悲劇的であり、人間の危機を出現せしめるものである。
かゝるすくいがたい自己分裂に立たされた人間――明日の未來に滅びの運命を託するものなのか、それともかゞやかしい進化の栄光を担いうるものなのか、さらには時代的必然としてのプロレタリア独裁に帰結するのであろうか?彼らは一体いずこに行くのであるか――
この決定的な十字路において、いまや全く新たに人間は、全面的な自由なる研究の照明をあびなければならない。
この人間そのものを眞に解明しないかぎり、期待すべき文明の未來はもはやまつたくありえぬこととなるであろう。
人間はいまこそ「人間」を自覚し、研究しなければならない。自らの未來の平和なる世界像を樹立するために……。
偉大なフロイドも、人間を精神病理学的な像の中に歪曲化し、人間における藝術や文化の創造に共鳴することはできなかつた。
H・G・ウェルズもまた、「生命の科学」から人間の科学に入る前に、人類に絶望的な遺言を残して生涯を終つた。
この人間の研究に最大の努力を示し、人間の科学の重要性を主張したアレキシス・カレルも、その偉大な目的を果さずして死んだ。
しかし、カレルによつて示された人間研究の方向は、われわれにきわめてゆたかな示唆をあたえる。そこでは、――歴史的に集積された無数の尨大な資料の整理と編集をいかにして行い、かつまた人間を生きた全体としてとらえるためにはどのような方法が考えられるかについて、暗示に富む適切な方途が指し示されている。
われわれは今日、このような限りない人間探求の断片を集大成し、人類永遠の課題である「人間」について、眞にその本質を明かにしなければならない。
この人間に対する根本的な反省と自覚的照明が行われないかぎり、將來平和が「緑の地球」を実現するとしても、そこに退化した劣悪下等な人間が存在するのであつたならば、平和はもはやのぞましいものではないであろう。
ここに廿世紀後半の最大の問題として、人間の研究という課題が全面的に提起されてくる理由がある。
いまや、人間について完全な実験をする時代が始まらねばならない。
これまでの人間にかんするあらゆる報告が、われわれの知識の発達に反して、おどろくほど貧弱なのは、廣い観察とその研究の具体化をわれわれが試みたことがないからであつた。
実際、人間が、ある時代や、ある條件の下に示す外観ばかりでなく、そのすべての行動――普通の行動もいつまでも記念される行動も、すべてを同時に体系化することが必要である。
そして人間は、分析・分解すべからざる一つの「全体」であることを常に忘却してはならない。
科学の世界においては何ら特別なものはない。しかし、われわれの茫漠として涯知らぬ内面世界の中にあるものは、すべて意味深くかつ複雑である。
人間についての眞の研究には、物理学や化学や力学より以上に、また政治・経済・社会の動態的研究に先んじて、その綜合的な究明と実験の試みがなされねばならない。
ここにわれわれは、來るべき人間の科学的研究の実験時代に最もふさわしい場所として、國連による平和地域の設定――アジア太平洋圏の諸島嶼――地区を志向するものであり、日本もまたその実験研究所の一大基盤となることを想定するものである。
転載元:地球文化研究所著『日本經營計画』(1950年12月発表)