われわれは近世以來の実証的人間が、歴史を地平の果てに遠くながめ、無思慮にもこれを化石化して、一つの概念の鋳型に押しこめたにも拘わらず、かつての時代に、人間が歴史を創造の詩として謳つたことを知つている。――感覚されうるかぎりでの最も大きな可動性に富む歴史を生みなす生命的なもののまばゆい表現は、物質と精神がすぐれた調和の中に無限の交響をかなでつゝ、永遠に新しい自己を創造してゆく導きであつた。そこにあつては一回的な時間も、自己の死と同時に新たな生に轉生する永遠なる時の象徴として大地や星辰の間にゆらめき拡つた。
しかしわれわれは死の断絶をこの地上にもたらした幾つかの歴史の例を地球の断層のうちにながめることができる。そのとき、一つの文明はあたかも一個の生命のように脆くも地下深い冥宮の底に沈み去つた。ミューやアトランティスのはるかな傳説よりエラム・ミネヴェ・バビロン・ギリシャ・ローマをへて、中世と近世の隔絶にかゝるぶきみなペストの暗黒が現代の西欧文明の「死に至る病」として再発するに至るまで、……………そしていまやわれわれはそれよりもさらに大きな地球史の化石的悲劇――前世紀の大爬虫類の死滅の運命にみるごとき、原子力と超大機械とによる「人類最後の日」を第三次大戦の戦慄的な運命として迎えようとしている。
時間はもともと死することを愛し、空間は飽和によつてつねに原初の混沌にかえることを欲するのであろうか?――
二十世紀暗黒史
廿世紀前半五十年が、いま瀕死の末路に直面して、死灰と泥土に化そうとしている混乱にみちた人間的システム――それはあまりにも深く償いがたい過誤と愚昧に冒された文明の大暗室であつた。
この廿世紀の五十年こそは、もはやいくたびかくりかえされたところへの兆し――やみがたき破壊の憧憬として呪咀された、歴史の・文明の・社会の・その他あらゆる人間的なものの一切を否定する滅亡への道なのであつた。
かつて廿世紀の夜明けに帝國主義戦争が世界を制圧して一時的な休息に入つたとき、思想と科学は十九世紀の因果律と決定論を克服して現代の可能性の展望を確率的な運動の中にとらえようとした――廿世紀が約束しうる平和と進歩のかゞやかしい希望に支えられながら。けれどもその後に來る矛盾的なエネルギーは廿世紀前半を戦争と革命の時代としたのである。資本主義の恐慌の激化、帝國主義世界戦争、革命、植民地解放……それらはいずれも世紀末以來の文明のデカダンスを一層決定的にし、人間と自然を解体した。
いまや現代の心ある魂は、世紀の分水嶺に立つて生存か死滅かの絶対的な二者択一に迫られながらいささかも眞にこれを自覚することなく、愚かにも死の谷へ駈け降りてゆこうとする人類の姿をながめつつ、かつてニイチェが世界のたそがれへ向つてよびかけた「神は死んだ」との予言を思いかえし、「そしてもはや人間も死ぬ!」との言葉に暗然とし、明くることのない世紀の夜の前にたゝずむのである。
かくて廿世紀は夜の実存と果しない絶望の悲歌を伴う共同墓地の中に文明の終焉の幕を下そうとする。
廿世紀前半五十年の歴史はその当初に望みえたプロバビリティの唯一の針路を曲げて、史的必然の悲劇的な狂暴な「死の崇拝」に拝跪する歴史であつた。われわれはこゝに全人類とわれわれ自身とに問う。廿世紀においてわれわれは何をなしたのであるか?と。――
廿世紀の政治――文明がその末期的症状を示しはじめるとき、政治は権力の奴隷と化す。すでにニイチェは「権力への意志」において現代の病根を指摘しつつ、権力がついに世界破壊の最高手段となることを予言した。かくて政治はそれ自らの有する機能を全く喪失し、文化と生活の上に孤立して徒らに自己破壊への道を急ぐのみとなる。
廿世紀の経済――政治と並んで権力の下に不具化した経済はその生命的な基盤を失い、恐慌と戰爭との悪循環の中に、あたかもレヴァイアサンのごとく彷徨する。経済は現代人にとつて一つの惡夢である。富と貧困とは和解し合うことなく、金銭に対する呪咀と隸属は経済を破算させた。
廿世紀の思想――偉大な体系は十九世紀の彼方に眠り、不安と病いに対する感情的な断片的ノートが白紙を汚すのみであつた。イデオロギーの跳梁は思想の自由と生命を奪い、頭脳を均一化した。思想的機械――われわれは巨大なこの目にみえぬメカニックな機構の中で空轉するあやつり人形にすぎない。
廿世紀の藝術――廿世紀はついにいかなる藝術をも未だ創造しえなかつた。機械と藝術、自然と藝術、人間と藝術――これらの間に起つた対立と相剋は藝術の泉を涸渇せしめ、文明の悪の華の中に醜くデフォルメされるのみとなる。
廿世紀の宗教――文明の終末の危機に対して宗教は現世の否定と神の國の救いを求めながら、人間の罪惡感をいよいよ強調し、かえつて現代人を閉された壁の中に追いつめた。現代宗教は信仰を喪失し、默示の彼方に幻想の王國――死の恐怖の蟻塚を指し示しつつ人類の最終的戦争を周到な言葉で肯定する。
廿世紀の人間――個性的人間としての確立をめざして新たな世界圏に立つた廿世紀人は現代文明の混沌の中に分裂しつつ、すべての存在に対する有機的連関性を喪失した。現代人は生れながらの絶望者であり、滅びゆく文明とともに自らの運命の終りを告げようとする。
廿世紀の社会――近代ブルジョア社会の内藏する矛盾の激化はプロレタリア社会の興隆を生み、いまやこの二つの階級の対立が現代社会の終局的形態として相互に反目激突し合うに至つた。廿世紀社会は一つの巨大な城塞であり、こゝに革命と戦争とが史的必然の名を借りて人類を破壊と殺戮のるつぼに投げ込む最も凄まじい専制社会ピラミッドを形成する。
廿世紀の科学――現代科学はあわれなイカルスの翼であつた。ユートピア的理想世界への探求と飛翔は科学文化の黄金時代を予想せしめるかにみえながら、科学に対する人間の無智はこの美しい翼を業火の中に燃え上らせるに至る。
廿世紀の女性――ノラの解放以後社会の市場的競争地帯にさまよつた女性は著しくその女性的本質を磨滅し、失われた美と秩序を求めて書かれざる歴史の底に沈む。そして戰争なる最大の暴力の前に空しくその愛を拒まれる女性の抑圧感は、子の中に先天的な憎惡と劣等感を潜せしめる怖るべき現象を生起させた。
われわれはこの他あらゆる文明と文化の諸領域の中に廿世紀前半が辿つた沒落的危機の実相に出合うであろう。
破局的戰争によつて歴史が凍結し化石となるその絶頂に立つて、われわれは贋金の洪水にあふれたこの廿世紀の悲劇的な五十年を俯瞰する。
そしていまや、この生成の大地に侮蔑の手をさしのべる人類の上に怒りの原子力が開裂しようとする悲壮な末日の光景は、さながら默示録の十字架の幻想と照應するものである。
この終末の十字架の幻影が、人類の死を予兆するものとなるか、それとも神の愛の復活として最後の平和への道を開くものとなるかは、ひとえに現代人類の歴史に対する深い反省と未來への生存の意志とによつて決定されるであろう。
選択の一瞬に立つ人類
文明における魂の喪失は、生命空間を高さとして深めることを不可能にし、平面的な無制限の領域拡大による帝國主義的ひろがりを権力意志の欲求として追求する呪われた死滅への方向を辿るのである。
この時、深い歴史の反省に立つて人類は己が前進を凝視しなければならぬ。刻々と迫り來る破滅の危機――戰争か平和か?文明一切の價値はいまやこの二者択一によつて決定されようとしている。
あらゆる平和への努力も計画も犠牲も、もし戰争が撰択されゝば、ことごとく戰争への必然性の前に抹殺される。また、いかなる戰争挑発的計画も、軍備拡張も、水素爆彈の大量生産も、平和への撰択の前には、最大の劇的効果と平和建設のための潜在力と化するのである。
この歴史の二重性は、決定者としての人類をその歴史的なる決定の一瞬に立たしめている。
現在はまさに未決定の一瞬にある。
未來は可能性において存在し、歴史はこゝにその自由なる展開を開始すべく待機している。
しかし、一度び歴史が実現の形態をもち、未決定の未來を過去とするとき、すべてはその実現への過去的因果性によつて規定され、一挙にその相貌を変ずるのである。
歴史とは、つねに未決定性において存在するものであり、しかも、その不断の決定によつて発展する未決定の決定性に立つものである。
われわれは、歴史の未決定の決定性に対して、未來における平和を想定し、その未來より現実を逆に決定することによつて、歴史の方向を變換しなければならぬ。いま、その決定的なる一瞬に立つことを知る。
たしかに危機はあまりにも破局的な相をあらわし、世界の現実はまさに絶望以外のなにものでもないかにみえる。もし人類が、この恐るべき絶望のまゝ死への途を選んだとするならば、われわれは、人類の許しがたい愚昧と迷蒙を歴史の名において徹底的に糾彈し、わずかに生残るであろうことを希望するわれわれの子孫に対して、その眞の姿を傳えることをもつて、われわれの神に対する最大の義務を果すより外に、なすべきことはないであろう。
しかし、歴史の本質を眞に認識し、さらに日本の現実的存在が、いわば不可能性の可能性にあることを自覚するとき、なお平和への途の残されていることを発見しなければならない。
道はいまだとざされてはいない。
希望の光はかすかではあるが存在している。それは歴史の決定に対して、人間の介在する余地が、いまだわずかに残されているものと考えられるからであり、決定の前の不確定な一瞬に、方向を逆轉することも可能ではないかと思われるからである。
われわれは、アジアの叡智への自覚が、平和の過程に実現されるならば、未だその將來に期待するものの多いことを認識している。また、米ソの尨大なエネルギーも、その創造的回轉を行いうる場所に位置ずけを得れば、必ずや廿世紀後半の文明の最大の創造力たりうることに大きな期待をもつている。
これらが、もし戰争に進むとすれば、それは一瞬のうちに絶望の破局を見るが、現在の危機を回避しうれば、より大きなプロバビリティをもつて、平和的展開を可能ならしめるものである。
われわれは、現在われわれのおかれている立場が、まさに平和への最後の努力を行うべき場所にあることを自覚し、二十世紀後半史への光明をかゝげなければならぬ。
転載元:地球文化研究所著『日本經營計画』(1950年12月発表)