(1)スターリンの内部的危機
マルクスからレーニン――スターリンに至つて、弁証法それ自身の変質を示しはじめたとき、一つの内部的矛盾――スターリンとトロツキーの対立があらわれ、レーニンの政治的遺言が明確な暗示を與えていたにかゝわらず、ついにトロツキー派は追放され、粛清され、スターリン独裁の時代が始まるのであつた。
しかし、このときからスターリンは、内部における「見えざる敵」をもつことになつた。
共産主義が資本主義の影としての存在である他に、この共産主義者自身が、もう一つの影に、トロツキー派いわば國際主義という内部の影におびえざるをえなくなつたのである。國際主義者は國外に追放されはしたが、しかし、それはあの「影を失つた男」のように空しく地下から消え去ることなく、かえつて一國社会主義ソ連の背後にある敵か味方か分らないぶきみな影をつくりはじめたからであつた。コミンテルン――コミンフォルム……これらの世界革命を先導する秘察機関は必しもスターリンに忠実な手先ではなく、そこにはつねに赤色帝國の心臓を狙う反逆の種子がまかれている。その謎にみちた内部構造を最もよく知るものは、スターリン自身に他ならないであろう。
それはさながら、そのかみの偉大なロシア帝王たち……イワン皇帝や、ボリスゴドノフ等の運命にも似たロシアの宿命的ドラマのごとく、スターリンもまたいまや悲劇の主人公として、この暗い翳につきまとわれている。
冷たくかたい鉄のカーテンをめぐるこの奇怪な二重の影――虚無の大地の上に、血みどろな暗影をなげかける影と影との葛藤に、スターリン主義の最大の内部的危機が潜んでいるのをみる。
そしてこの互いに空を切り合う赤黒色のシャム双生兒は、他の世界に向つては、一つの共同戰線をはりめぐらし、この他を意識することによつてのみ、危うくその分裂解体の危機を抑止しているのである。
スターリンの苦悩は深い――強力な独裁の庇護の下に、その最高権職を司るポリト・ビューローの十二人の分身たちすら、相互的な対立を示し、至上権力に対する執拗な謀略が底知れぬ底流となつて絶えずうすまいている。それは、あたかも、一度び抑圧されていた人間が、絶対の権力を握つたとき、絶対の権力は同じように他の人間を抑圧するという深い精神分折学的な現象を必然的に露呈するからであり、云いかえれば、絶対の権力は権力そのものの有する個有な性質よりして、その権力者自身をも抑圧するのである。
この権力の呪術――自由と破滅との怖るべき不均衡な天秤は、つねにかならず矛盾し、分裂し、統一し、破壊する。そしてたえざる力より力への弁証法的運動は、こゝに権力の弁証法を構成しゆくのである。こうした権力の絶対力学について、ジョージ・オーウェルは、あのブルジョア・デカダンスの表象「一九八四年」の中で、また次のように云つている。
――「権力はもはや一つの手段ではなく、それ自体が明確な目標となるものである。革命の成果を保証するために独裁政治を布くのではなく、独裁政治を確立するために革命を起す。迫害の目的は迫害で、拷問の目的は拷問であり、権力の目的は権力なのである。」
――「自由は隷属である。――一人で――自由であれば、人間は必ず敗北する。それはさけられないことなのだ。しかしもし彼が完全に徹底的に自己を棄てて、自分であることから逃がれることができたならば、そして党と合体して彼が党であるということになれば、その時こそ彼は全能で不滅となる。」
――「権力は、あくまで人間の精神をずたずたに引きちぎつて、こつちが新たに決めた形に造り直すことなのだ。それは夢想的な馬鹿々々しいユートピアとは正反対のもので、恐怖と、裏切りと、苦痛の世界、人をふみつけ、人にふみつけられる世界、純化されるにしたがつてますます無慈悲になつてゆく世界なのだ。」
この人間の顔をふみつけている靴――それも永遠にふみつけている巨大な靴の呪われた幻影を内に宿して神は限りない恐怖にみたされる。
彼は外面的には、この権力の表象として、偉大なる信仰的讚美の的となる超人的な背光にかゞやき、一個の偶像と化するのであるが、その内面的世界における意識の闘争は非常なる苦悩の象徴をあらわにするのである。
彼は、萬國の労働者、知識階級、ならびに戰闘的プロレタリアートの中心的存在でありながら、しかも奥深き宮殿のほの暗き一室に自らの運命を語り合う孤独なる帝王のごとく、また暗黒なる空間の彼方に一つの光芒を放つ惑星のごとき單独者であり、そのゆえにまた徹底せるリアリストである。
冷たくとぎすまされた双双の劍のように冷徹無惨な精神は、ニヒリズムとリアリズムのするどい結合体であり、その彈力ある硬質はすべてのものを裁断し、粉砕する。そこでは権力の精妙な陶酔が、人智のすぐれた創造力の頭蓋骨に挑みかかり、反逆的意志と良心とのすさまじい内面的死闘が行われる。
この内面の革命の悲劇――一つの信仰が破壊され、陰気な十字架のあとに血ぬられた新しい信仰が築かれる。しかし、かかる意味において、信仰は巨傲な精神の標(しるし)であり、神にあらざる人間は、自らの十字架にかからねばならない。
これが世の権力者の宿命である。
スターリンは、かゝる古代の幾多の英雄・帝王たちのように、古代的な運命を担う近代人間の最後の一人ですらある。
ヨハネ的な末日的苦悩を最もよく知悉していたドストエフスキー的人間の典型として、あの倒錯的な神と人との間の異端者――「白痴」や「惡霊」や「罪と罰」「カラマーゾフ」における思想犯罪者的性格に結ばれ、その悪夢的色彩にいろどられているのを、われわれはスターリンの内部世界に発見するであろう。
われわれはまず、マルクス主義を克服するものはマルクスであり、スターリン主義を克服するものはスターリンであることを、共産主義克服の唯一の座標軸であるとする。
こうしてスターリンの精神分析を試みることによつて、はじめてスターリンそのものの理解と克服の道にふみ入りうるのである。
――「こゝに一切の疑惧を捨てねばならぬ。こゝに一切の怯懦が死なねばならぬ!」
――ダンテ「地獄の門」より
この有名な絶句を大著「資本論」の冒頭に掲げ、「神曲」的世界より「惡霊の曲」の世界に身を挺したマルクスが――「すべてのものは疑いうる」と云つたとき、自己に対する世界をその内部から崩壊せしめたように、いまやわれわれは、共産主義の内部的矛盾を指摘するに当つて、それとは逆に――「すべてのものは良心の光に照明されうる」との信條の下に、惡霊的世界を光被することによつて、共産主義・スターリン主義を克服しうることを指示しようとするのである。悪魔的手法に対しては、自由と公正と信義とに基く良心の鏡のみがよくこれを消滅せしめうるのであり、單に対立し、対決し、批判すればするほど、彼はますます強化されるのみとなろう。
そして、むしろスターリンこそは、この地上的知識の一切を吸收し、編集し、整理する最高の頭脳の所有者であり、これに匹敵する人間は、現在ほとんど全く存在しないかもしれないのである。
このような偉大な人間であればこそ、その人間的内面的な側面には、いかにももろい人間的悲劇性を内在せしめているのであり、この矛盾のいたましい弁証法こそ、ドストエフスキーが描いた地下的人間の内部解剖の方法に他ならなかつた。
ドストエフスキーは、人間の眞畫の生活や、意識的組織的心霊の光明においてではなく、意識下の闇夜の素質において、人間性情の奥底をあばき、その隅々や限界を探求した。
彼において眞実なのは、経験的外部的存在、世間的構成のような地上的タイプの眞実ではない。彼の眞実は、人間の精神的奥深さであり、人間精神の運命が眞実である。その混沌の状態の彼方、心霊の安居の彼方――そこには予想もできないほどの暴風雨がひそみ、暗黒の深淵が開いている。
もし、人がスターリンに最も人間的な苦痛を與えたいと欲するならば、それは彼のもつあのきわめてさゝいな内部的矛盾一つをとり出して明るみに出すことによつてすら可能なことなのであろう。
秘密警察をもつ戰慄的な権力の中枢に、一人の悲劇的な人間像が、半ばその面を光の中に、半ばを闇の中に閉さして立つている。パブロ・ピカソのシニカルな象徴的絵画さながらに……。そこにあたゝかい春の日のような光はみじんもない。荒涼たるシベリアの凍土帶……凍れる極北の風……革命と粛清と集團奴隷の果しなき連鎖……赤旗ははためき、世界は血ぬられ、クレムリンのドームにぶきみな髑髏がのつている。――なんという皮肉なことであろうか!――
華やかな栄光の蔭、ひびきわたる讚歌の外、どよめく建設と外交の勝利の裏側に――謎のような巨人が深い苦悩のしわを刻んでいる。
これが現代の権力者に共通する帝王の悲劇なのであるか?……
おぼろなあけぼのの彼方に、靜謐と淨福のよこたわる聖なる光――ガリラヤのカナへの道ははるかにとほく、地上には死と腐敗の凱歌が奏でられ、失われた樂園への帰路は絶たれている。
やがて、自からの内部的カタストロフィは、神と惡魔の両極の尖端において交つていた精神の均衡を吹きとばし、暗い地底に埋葬されるに至る。いかに絶大なる権力者・人神といえども……この途は免れることも避けることもできない。そして自からの死のあとに残るものは、混乱と背反と分裂である。
絶対の極に立つて、いまや自己の過去・現在・末來を凝視するとき、そこにキェルケゴールの徹底した実在的人間の相貌があらわれる。それは、善・惡、正・不正、神と惡魔をこえた人間のぎりぎりの最後の姿であり、光と闇の根源にふれる魂の悲劇的な形相である。
この世界悲劇の主人公に、いまは故きバーナード・ショオすら皮肉なしの魅力を語り、嘆声を洩らす。
一つの古代的な相貌をつけるスターリンは、まことにコーカサスの岩山に縛られたプロメトイスさながらの運命を担うものである。
夜の谷間に沈むヨーロッパを背に、たそがれのクレムリンを眼下にふまえて、東方の荒漠たる大地に新たな火をもたらさんとの憧憬にもゆる彼……しかもすでに、革命という火を盗んだがゆえに、灼熱せる鉛――良心の代價を吞み込まされ、プロレタリアなる鷲に自からの肝臓を食わせる偉大なタイタンの悲劇……。それはかのアトラスと同じく、同族が地球の運命とともにした贖罪の表象の現代的表現であり、ギリシャ悲劇の再現ででもあるかのように。――
廿世紀のタイタン族――われわれはこの偉大な巨人たちの二重露出を、廿世紀の深い歴史の深潭に望見する。あの太平洋の波間に浮ぶ旭日に散虔な眼差しを張つて地球を支えつつ膝を折つているアトラス――ダグラス・マッカーサー、あの薄明のコーカサスの断崖に背信の鉄鎖につながれているのはプロメトイス――ジョゼフ・スターリン、彼方、夜の洞窟に打ち伏しているのは、あれはヘラクレス――それともジーグフリード?……アドルフ・ヒトラー――
しかも、古代の同族たちを圧倒せるジュピターにも比すべきヘリウム爆彈の出現が、最後的時代の人々にふさわしい武器として、地球前史の終末を告げる挽歌を世界の末日の光景の中に奏せしめるのであろうか?……
(2)スターリンの人間的照明
マルクスとドストエフスキーにおけるニヒリズムの方向は、同時代的な同位性の中で、「千年王國説」の虚無的な蟻塚への道を、それぞれちがつた方法で示した人間から出でたものであつた。
この道は、究極には死に至る道であり、自殺がその帰結なのである。
こゝに彼らの深い内面的矛盾があり、それを明確に分析することによつて、われわれは現代の、「スターリンの悲劇」を描くことができるであろう。
ドストエフスキーは、滅びゆくヨーロッパの表象を、沼の上の幻想的な都会――ペテルブルクの世界に凝視したが、しかし革命の実践を経た世界は内面的にも未だ充分に経験されているとはいえない。
そこでは、ナポレオンの権力が法となり、秩序となる先例にしたがつて、「罪と罰」や「白痴」の主人公たちが犯した殺人の数も、わずか十指をこえるものではなく、しかもそれすら全く恐怖的な良心との格闘による惡魔の暗黒性を表現したといわれている。
しかし、スターリンこそは徹底したナポレオン的方法をもつて、否それ以上の合法的な殺人を、無慮数十万、数百万という大量をもつてなし去つたのである。それはかの、世界歴史上あまりにも有名な、ジンギス汗の軍隊の通過せるあとの白骨るいたる惨禍よりも一層悲惨をきわめるものであつた。
栄光と讚歌に包まれた人間のたえがたい孤独と憂愁と恐怖の秘密――このおよそ人間的なもつとも人間的なスターリンの内的全貌を示す一つのすぐれた「傳記」を得れば、スターリン自らも感動して、深い反省と思索の糧となすことであろう。
單に、外側からながめてどんなに精細に描写しても、みじろぎもしない巨人の像を、その内側から光をあてて、同じスターリンの像の反映を鉄のカーテンに映出せしめるとき、――自己以外には絶対に知るよしもない内面の全構造が、内面そのものからの照明によつて、スターリン自らと対映せしめられるとき、彼は人間として自己自身を徹底的に客観化しえなかつた己れの全貌をそこに発見し、どんなにか底知れぬ自己の潜在的戰慄の爆発に動搖し、よろめくことか!……偉大な人間にとつて、これ以上の致命的な打撃はないからである。
ゆえにもし、このような傳記が世界の何人かによつてほんとうに描かれたら、――それは最後の人スターリンとともに死すべき運命の伴侶として、赤色帝國の王者との光栄ある心中をえらぶこととなるであろう。……暗黒たれこめるコーカサスの断崖から、波浪逆巻く黒海の海底深く、一つの呪われた歴史の波のもくずとなつて――
これをしも廿世期の運命は求める。悲劇はいつか幕を閉じ、その呪われたカタルシスによつて、新たな時代が良心の希望をもつて展らかれねばならない。
現代のスターリンをめぐるアジア的帝王の群像――毛沢東、パンチェン・ラマ、ホーチミン等……それは古代アジアと現代のそれとの邂逅であり、夢ふかき千一夜物語の幻想的な再現である。
そしてかのシヘラザードが、つきることのない東方の王國の神秘な物語を、冥漠の夜の底深いしづけさの中で語りかけたように……スターリンもいままた自己の内面的遍歴についてあますなく語ることができたら――それは廿世紀が後世に残しうる最大の叙事詩となるであろう。
スターリンもまた、許れるさならば、――自分としては云いたいことがたくさんある。人間の中の人間のひとりとして、自分は全世界の人々にこう訴えたいのだ――と。しかし、現在の彼にはこれができない。それは望むほうが無理である。
もし、スターリンが、眞に自己告白をしたとすれば、それはソ連共産主義の壊滅をもたらすものとなるからである。
歴史に口をとざされた人間――歴史を他にしては、自己の存在を主張することのできない運命の人……これがスターリンの最大の苦悶なのである。
この世界の王者こそは、眞の実存的人間の典型であり、サルトルなどとはおよそ問題にもならない存在である。
東半球の畫と夜に、われひとり立てり――とする孤独なる大地的人間……ユーカサスの山中に、黒海の岸辺に、ベリアのバイカル湖のほとりに、彼の内面の巡礼は、新たな火をいずこに求むべきかにさまよう。
すでに歴史的なアンチ・クリスト者として、またそれ自らが一個の神話的存在として、神と惡魔の両極性の尖端に立つスターリンの内面のプロフィルは、まことにするどい嘲笑と暗い憂愁との混淆せる陰影を宿しているのをみる。
このある何ものかに罰せられたプロメトイスが、そのいましめをとかれ、白日の下に自由となつたとしたら、われわれは、明日の世界で彼とどこでめぐりあうことができるのであろうか?……永遠に見失われた地球の死滅せる廃墟に?――それとも、かゞやける原子力世紀の夜明けに?
この想像の創造は、地球を舞台に、現代の世界劇を演出することのできる唯一の方法ではないだろうか?――
そして、まことにショオの云えるごとく、この世界劇において、彼以上のすぐれた主人公はどこにも見当らないからである。
転載元:地球文化研究所著『日本經營計画』(1950年12月発表)