仲小路彰の「経済・生産・建設」政策【日本經營計画Ⅲ(解題)】

こんにちは。
戦略思想研究所 中森です。

大変お待たせしました。

本日、【日本經營計画】の記事を更新しました。

”Ⅲ”の主題は、「経済・生産・建設」であり、5つの副題で構成されています。ただし、副題の”2”は、当時の経済指標を旧式の図表にまとめたものであることから閲覧に難あり、今となっては、確認したい1950年当時の経済指標をweb検索した方が楽であるため、割愛しています。

さて、最新記事の本文をお読み頂くにあたり、仲小路彰の「経済・生産・建設」政策の基礎となる思想背景について、ともに触れていきたいと思います。

それは「グローバリズム思想」=「地球主義」=「地球公園社会」を指しますが、頭で考えてわかるものではありません。逆に頭だけで考える人には、何も響かないように書かれています。もっとも、後述するように皮肉めいた内容もありますが、仲小路彰の「経済・生産・建設」政策は、芸術に昇華されるように設計されています。

その一端を共有するにふさわしい書籍として、寺崎太二郎著『原千恵子を旅する』があります。

はじめに引用する”草稿”は、「組曲『音楽の旅』」と題されたものの一部で、山口隆之氏が山中湖畔の仲小路彰邸で発見し、所有しているものです。その内容から、原千恵子の作と考えられています。

同著では、原千恵子について、

「東洋に生まれた者が西洋音楽をどこまで理解し、演奏できるのか、生涯をかけて挑戦したい、と小澤征爾は語ったといわれるが、原千恵子はその一時代前に同じことに挑戦した女性である」

と紹介していることをお伝えしたうえで、”草稿”の一部を引用します。

ふたたびいままたあのポーランドは血ぬられた戦乱の渦巻きの中にあります。その真赤に燃えあがる火の中に、ふと、私の瞳に浮ぶのはあのクラコビア大学の真っ白なコペルニクスの銅像でありました。

地球を抱いて立っている永遠の哲人コペルニクスの姿――その二つに破れようとする地球をしっかりと一つに抱きしめようとでもするかのように・・・・・・

―――けれど、地球はめぐっています。

私たちの地球は、いま戦争か平和かの最后の一瞬にどのような回転をつけるのでせうか?

暗黒のかぎりない宇宙の中に、悲しくも蒼ざめた戦乱の焰の尾を引きながらまはりゆく地球の姿―――

すべては輝やかしい夢も希望も―――人間のうちに失はれた自由な、躍るような、得心した小児のように眩ゆい心情のうつくしさを、いま私たちはどこにみることが出来るのでせう?

――クオ・ヴァディース、クオ・ヴァディース!

と、ポーランドの文豪シェンキィヴィッチが叫んだように、すべての心ある人々の切実な叫びは、大きな嵐のように世界の隅々からひびきわたります。

そうした日夜、私の心はありとあらゆるよろこびやかなしみを此の世ならぬものにまで高めあげる美しい音楽の上にひた馳せます。

出典:寺崎太二郎著『原千恵子を旅する』

仲小路彰のグローバリズム思想もまた、「組曲『音楽の旅』」の如くであり、人間都合の”善”にも”悪”にも分け隔てなく、”時と場”を与えてくれる地球を信仰の対象としています。星辰信仰は、太陽、月、星に分かれるも、人間都合関係なく、すべての生命に明日につなぐ活力を与えてくれることで、地球信仰と同じです。地球も星であることを考えれば、太陽信仰がすべての星辰信仰を包含するものではないかと思われます。

ともかく、分け隔てなく巡る”時と場”、そして”恒久リサイクルシステム”をもって”公(オホヤケ)”とする自負を持つに至ったのはここ最近のことです。”私(ワタクシ)”の世界は理屈でなんとか誤魔化せますが、”公(オホヤケ)”はそうはいきません。

ゆえに仲小路のグローバリズム思想とは、公(オホヤケ)即ち地球に根付いた私(ワタクシ)を主体とした文明論なのです。

画像

ところで、なぜ原千恵子の草稿が山中湖の仲小路彰邸にあったのか。

原千恵子は、1937年ショパン国際ピアノコンクールの日本人初出場者であり、「特別聴衆賞」を受賞したのも原千恵子が最初で最後とされています。

音楽仲間のひとりには、長與善郎の娘、渡辺恵美子があり、長與善郎は、音楽サロン金曜会の主である有島信子の兄原田熊雄の親友であったとされます。

画像
出典:https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=33790528

さらに、修験子より長與善郎について教わるところ次のとおり。

長与専斎の末子(善郎)と長男(稱吉)は年齢差22年と親子ほど違うが父(専斎)29歳のとき稱吉が生まれているから善郎は専斎51歳のときの子になる。即ち善郎14歳のとき父と死別そのあと白樺派作家として晩年に長与一族を書くが意図を読むのは重大である。白樺派の仲間を描く理由とも重なるが善郎は劇作を手掛け自伝的小説で独り立ちすると理想的/人道的な主張で社会運動に生涯を費やした。この長与家の瓢箪から何が飛び出したか答は後記する。

瓢箪から飛び出した某即ちリヒャルト・ゾルゲと長與善郎は年は七つしか変わらずとも、甥と叔父の関係にあたり、原田熊雄は、最後の元老・西園寺公望の晩年の私設秘書、西園寺公望の孫である公一に尾崎秀実が接近し、尾崎が政界中枢の情報にアクセスしたことで、いわゆる「ゾルゲ事件」が発覚します。

画像
画像:https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=40341543

脱線する前に本筋に戻します。

原千恵子は、1938年に川添紫郎と結婚、1940年4月、仲小路彰の研究や創作の成果を世に問うため、旧オーストリア公使館にスメル社が設立されたことにより、紫郎が所長を務めるスメル社音楽研究所の活動にも参画、スメル社ビル1階に建築事務所を設置した坂倉準三や写真家フランシス・ハールと交流を深めていくことになります。

画像
出典:https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=140145536

1944年2月、「決戦非常措置要項」が閣議決定されたことから、仲小路はスメル社の解散を決意、終戦工作に入ります。同年12月、終戦作戦策定のために戦線から戻された富岡定俊少将の強い勧めで、仲小路は山中湖畔へ疎開、原千恵子は信州への疎開を予定していたところ断念、仲小路のつてで山中湖畔に疎開したとされます。

以上の経緯で、原千恵子の草稿が山中湖の仲小路彰邸に遺ることになったのです。

戦後の原千恵子と仲小路の交流について、寺崎太二郎著『原千恵子を旅する』より引用します。やや長文となりますが、知られざる戦後史として貴重なものであり、【日本經營計画】、そして『未来学言論』を理解するためにも、熟読を願います。

光輪閣・光輪会

同じ頃、皇族は、皇室財産凍結・解体というマッカーサーの占領政策によって、その屋敷を手放さなければならない事態に陥っていた。一九四六年八月頃、仲小路は高松宮邸本館を迎賓館(光輪閣)とする構想を立て、それを渋沢敬三を通じて高松宮に具申した。また国際文化活動補佐秘書役として紫郎を推薦した。智恵子も、かねてより高松宮喜久子妃殿下の信頼が厚く、服飾について助言を求められるほど親密であった。
八月十四日、仲小路の提唱で設立された文化建設会が星岡茶寮で晩さん会を開いた。晩さん会には高松宮が妃殿下とともに臨席され、メンバーの紫郎、深尾重光、井上清一、清水宣雄らと歓談され、智恵子のピアノ演奏を楽しまれた。
光輪閣の一件は、その後、管轄の省庁との折衝が行われ、一九四六年十二月から迎賓館として その営業を始めた。紫郎は総務を担当し、高松宮の秘書のような役割も務めることになった。
一九四八年七月、東京の有楽座において光輪会(L’ARC-EN-CIEL SOCIETY)により舞踊詩劇「静物語」 が上演された。中村吉右衛門(演劇)、宮城道雄・原智恵子(音楽)、藤田嗣治(美術)、小夜福子(詩歌)、吾妻徳穂・藤間万三哉(舞踊)、井上清(製作)という陣容であった。そのプログラムに智恵子が「”しづかに”おくるしらべ」と題して次のように書いている。

 おさなごころに、ほのかにも、あたへられた”しづかものがたり”は なにかしら うつくしい ゆめとうたのなかに いつまでも いきゆくひとのすがたを そして かなしいあいを ひとすぢにもとめもとめるピユールなせかいを ただわたくしなりに かすかに ゑがいて まいりました。
 このたび ”しづか”のバレーポエムのことが おたがひのよき ミユーズのあいに むすぼれて クラシックなドラマを あたらしい サンスをもつて あらはすことになりまして またあらためて”しづか”の ひとしれぬうんめいのみちをたどりましたとき わたくしに ふとかんじましたことは、それがなにゆゑか あのショパンとジユオルジュサンドのマヂョルカのしまの あめのメランコリーと そしてそのふたりのあいだにかはされた こひのきびしさ―― そこにうまれる プレリュードの ひかりとよる かくめいと へいわ いの ちとし よろこびとなみだ などのさまざまなイマージが つぎつぎと せまつてくることでありました。
 あるあめのひ”しづか”のおんがくのために、ショパンの二十四きよくのプレリユードをひきゆきましたをり それぞれの「くみきよく」のスタイルは そのままに このバレーポエムのコンポジションと きわめて あいにたニュアンスと てんかいとをしめしていることを しみじみとおもひました。
 さらに こんどは ピアノとおこと――― みやぎ みちをさまの まことにふかい やさしい、デリカな メロディーとのハーモニーのうつくしさを どうしたらば あらはすことができませうか―― とらへがたいサムボリツクなせかいを いかにすれば すべてをそこなはず さらにポエジーのもとめるヴイジョンを なつのそよかぜに にほふはなばなのまぼろしを せめてこころゆくまで かなでることが はたしてできますでせうか どうか・・・・・・。

(原智恵子「しづかにおくるしらべ」 舞踊詩劇静物語プログラム、一九四八)

宮城道雄によれば、終りの方の幻想の場で、ショパンの《前奏曲六番》を筝に編曲し、又ピアノとも合奏するとある。

その後一九四九年十一月に光輪閣が民間の光輪倶楽部に改編された時、紫郎は支配人になった。この頃の事について紫郎の従兄小島威彦は彼から見た紫郎と智恵子を次のように記している。

 「川添の紫郎君が高松家を中心に、光輪閣という新しい国際的料理屋を創る案を練っているそうだが、それもどうやら、お前の創ったクラブ関西を見本にしているようだな」

 [兄の小島秀雄]「いや、そうでもないでしょう。紫郎は生れながらの事業師なんですよ。祖父の後藤象二郎にそっくりで、父親の猛太郎も出鱈目の事業師で、従弟の三菱の岩崎が尻拭いで手を焼いていたでしょうが、あの血が騒ぐんで、どうにもならないんで、深尾の親爺も紫郎の監督にはへこたれていたけど、戦後は止むなく、独立独歩の自由の身になったので、一方じゃ原智恵子を使い、他方じゃ仲小路彰を使って、人の考えつかん事業をやらかしているんで、なかなか面白いんじゃないかな。どうせ川添の叔父さんの財産のうち、五十万は紫郎名義だったのでしょうが、戦後は新円で零になっちゃったので、一部は三菱から引き出しているんだろうが、大部分は高松宮事務官として、国際的に動かせる何かの道を通じているにちがいないと思うな。此度の光輪の計画もその一環だろうが、パリのマキシムを東京へ持ってくる計画も推進しているようだし、銀行や保険会社の社長連も一枚加ってるようだし。」

 「仲小路さんを使って、どんなことをやるのかね」

 「彼が日本の将来を占っているんで、それを高松宮さんの媒介で陛下も愛読者にして、一流の財界人のルートを作っているようだし、他方ではお智恵さんを使って、進駐軍の上層部はもちろん、金融、商社関係の目星しいところを結びつけている活動はなかなかの見物だな。」

(小島威彦『百年目にあけた玉手箱』第六巻、創樹社)

以上、寺崎太二郎著『原千恵子を旅する』より引用を終わります。

ちなみに、舞踊詩劇「静物語」の原作は仲小路彰、二代目中村吉右衛門の古事記朗読音声を毎日浴びる身としては、因縁を感じざるを得ません。

また、下記記事でお伝えしたとおり、【日本經營計画】が”占領軍向け”に書かれているという背景もご理解頂けたかと思います。

戦前、仲小路は、米国経済に隷属させようとする米国の意図即ち”恐怖―――軍政―――破綻―――軍備縮小―――日本の矮小化”というシナリオをすべて見透かし、政府中枢に継承を鳴らしていました。

さて、仲小路彰の「経済・生産・建設」政策の基礎となる思想背景について触れたところで、最新記事をご紹介します。

副題の”2”は、当時の経済指標を旧式の図表にまとめたものであることから閲覧に難あり、今となっては、確認したい1950年当時の経済指標をweb検索した方が楽であるため、割愛しています。

それでは、また。

戦略思想研究所 中森護

無料メールマガジン

落合莞爾氏の新コンテンツや講演会の予定に関する情報、
小山内洋子氏をはじめとした新講師陣の新コンテンツや講演会の予定に関する情報を、
いち早くメールでお知らせします。

>無料メルマガのご案内

無料メルマガのご案内

落合莞爾氏の新コンテンツや講演会の予定に関する情報、
小山内洋子氏をはじめとした新しい講師陣の新コンテンツや講演会の予定に関する情報を、
いち早くメールでお知らせします。