労働問題が、労働者の生活権擁護のための運動として出発したにもかゝわらず、それが政治的イデオロギー的傾向を帯び、むしろ最も非人間性を発揮しつゝあるところに、今日の重大問題がある。
それは労働者の一方的な自利追求の手段として、会社経営・能力の限度以上に賃金引上を要求し、経営困難による会社の倒壊によつて、反つて自らをも困窮に陥入れる矛盾に直面しつゝ、しかもそれによる失業者の増大と社会不安を革命への契機としようとする政治的考慮のもとに計画されるのである。また、これに対して経営者も、自利追求を徹底し、労賃の低減と労働時間の延長、人員整理をのみ強行しようとし、ますます労働者との対立を深め、共産主義進出の絶好の対象となる無自覚状態を完全に脱しえない状態にある。
この互に自利を追求しつゞけることによつてもたらされる労資対立も、相互に利他=自利の眞の経済関係を自覚することによつて必ずや解決されうるものであり、すでに國家そのものが利他を考えなければ成立しえない状況にあるとき、これが人間関係においても全く同様の結論を得るものであることは云うまでもないところである。
フォードが労働者に前例のない高賃金を與えることによつて、労働者自身の生活水準を高め、自己の自動車製品の需要を増大させる、所謂フォード・システムをもつて、まず必要な社会的需要をつくり、それに対應する供給を與えようとする方向に進み、金融資本主義の経済的必然を克服しようとしたことは、今日新しい意味において再考されるべき多くの問題を残している。あくまでも需要があつてその供給が行われるべきであり、他の利益があつてこそ、はじめて自らにも利益が與えられるのである。
経営者は廣い世界的視野に立つて、まず自己の製品の購買力の中心である労働階級そのものを豊かにすることによつて、その無限の販路を確保すべきであり、そのためには目先きの賃金引下げ、労働時間延長などという小策にとらわれることなく、出來うる限り労働者に利益を與えることを考えるべきであろう。
また、労働者も偏狭な経営者との対立意識をすて、自らの労働の大きな地球的連関を想起すべきであり、その生産の眞の意義を自覚し、生産者としての良心に忠実でなければならない。
労働者は工場と分つべからざるものであり、工場は経営者によつて社会的生産手段としての機能を発揮している。また労働者は單に労働者として存在しているのではなく、同時に消費者であり、さらに資本家でさえある。彼の生産する製品は遠く全世界と交流し、人類生活に福祉と繁栄をもたらすものであり、それは彼の生産者としての良心にゆだねられている。
労働者とは生産する良心であり、つねによいものをつくるという生産のよろこびと誇りによつて激励されるものである。しかし、この労働者の良心が奴隷の根性とされ、階級意識こそ労働者の良心であるとされたときに、労働者の悲劇が開始された。労働者は自から生産者であることを否定し、創造のよろこびを奴隷の労苦として自らふみにじつたのである。
この恐るべき錯誤の所産は労働者の自己否定と自己破滅を必然化する。自ら奴隷の境地に陥入つた労働者の運命は、たとえ自らの主張する社会革命の成就によつてさえも、ジョージ・オーウェルの「一九八四年」の恐るべき世界像にみる無限の労苦をつゞけざるをえないであろう。
いまこそ労働者が眞に生産者としての自覚に立つべきときである。それはつねに他に対する最もよろこばしい自由な創造力としての生産の意義を、自らの立つ地球的存在のうちに自覚し、他に対する最善の努力こそ、自己をも富ますものであることを知ることである。
かくて、労働問題はあくまでも人間問題として解決されなければならない。人間であることを忘れた経営者・労働者の非人間的対決が、今日の危機の最大の要因となつていることを知るならば、この労資間を支配する非人間的怪物に対して、いまこそ眞の人間としての自覚による克服の途がとられるべきである。
唯物弁証法は、人間の全條件ではなく、物質的一條件のみによつてすべてを律しようとしたところに問題を残している。そこでは人間の具体性が、かえつて階級的一側面においてのみ抽象化されていることを否定しえない。「資本論」における人間の物質化とその政治性に幻惑されて、労働者を一個の政治的人間、物質の存在として、イデオロギー的側面においてのみとらえるとき、そのイデオロギーの絶対性は、無限の闘争を強制し、とゞまるところを知らないのである。この唯物的な余りにも唯物的な、また余りにも政治的な労働者のゆがめられた人間像より、眞に生産し、創造するグローバルな人間としての自覚に立ちかえるとき、労資問題はその本來の方向を取りもどすに至るであろう。
労働者は單に労働組合と会社との関係においてのみ存在するものではなく、彼自らの生産する生産品を通じて、より廣汎な社会的関連において発展的に存在するものである。この社会的連関を忘却して、單に会社との雇傭関係にのみ労働者を限定し、抽象化しようとすることは、その社会的人間としての本質を誤まるものと云わなければならない。しかし、労働組合が労働者を物質的賃金に換算する畸型的人間観を固執し、政治的・イデオロギー的側面に限定される行動をつゞけるとき、その政治性が、より強力な政治力によつて強圧されるに至ることは、まことに当然と云うべきである。
労働組合が人間生活の擁護と維持の機関として出発し、相互扶助の機関として成立したにもかゝわらず、それが一つのイデオロギーの支配によつて政治的闘争組織に利用され、マルクス主義による社会矛盾の揚棄手段として現実の破壊工作に逆用されるに至つたこと――こゝに最大の問題とその方向に対する誤謬がある。この一切の破壊への途は、革命への道に通するものであり、惨憺たる破壊――人間・社会の一切の否定を通じてプロレタリア独裁を実現しようとする。そこでは、およそ人間的なるものはことごとく抹殺され、全人的なるものの否定を必然化するのである。
マルクスは商品の生産過程における余剰價値の分析を行い、それを奪いかえすための闘争を主張する。そこでは労働者は余剰價値をつくるための一個の物質的存在に過ぎないのである。
しかし、にもかゝわらず組合運動における人間の地位は、スターリンによつて、
「歴史をつくるものが人間であるように、組合内における人間の活動は重要である。スタハノフ主義はその最も偉大なる成果である。平等的共産主義は誤まりである。」
として、はつきりと労働者の人間としての偉大さが、労働組合の方向を、さらに歴史そのものの方向をも決定することを明かにしている。
共産主義自体においてさえも、人間としての労働者の位置をこのように高く評價していることは、今日、日本の労働組合における人間的存在に根本的反省を促がすものである。その集團的組織化によつて個が見失われ、人間的存在が不明ならしめられている現状に対して、眞に新しい人間としての労働者の自覚がとくに要望される所以である。
スターリンの労働者に対する人間的存在としての評價は、弁証法的発展の抽象性より具体性へと展開する方向をそのまゝあらわしているとも考えられる。それはマルクスの抽象性よりレーニン・スターリンの具体化への方向として、労働者自身のもつ具体的人間性のスタハノフ主義的英雄としての把握を意味するとともに、唯物弁証法自体がその発展によつて、かえつて具体化され、新しい問題を提起しつゝあることを示するものである。しかも、マルクスの高度資本主義の爛熟した社会について考えられたものであるが、事実的にはロシア資本主義社会における弁証法的発展の契機を秘めながら幾多の問題を提起するのである。
かつてブルジョア社会における最も進歩的なインテリゲンチャの方向としてのマルクス主義が、封建的未開地域にそのイデオロギー的方向を與えつゝあることは、まことに皮肉なる現象と云うべく、何が進歩であるかとの命題に対する、歴史のパラドックスを示しつゝあるものと云わざるをえないのである。
これらの一面的な抽象化された政治経済理論より、眞にグローバルな人間性を回復することとこそ、労資問題に対する根本的態度でなければならない。
転載元:地球文化研究所著『日本經營計画』(1950年12月発表)