修験子栗原茂【其の五十八】大学創設ラッシュとイエズス会の創設

 ガリレオ・ガリレイ(1564~1642)の生地イタリア共和国トスカーナ州はフィレンツェを州都としたが、長男の名に「姓」を単数形にしてその名前とする風習があるため、父親ヴィンチェンツォ・ガリレイの第1子すなわち長男はガリレオ・ガリレイと名付けられた。この姓名は当時のヨーロッパ文化を反映したキリスト教的な特色を反映しており、故地はガリラヤの人という意味を伝える言葉とされる。なお、ヘブライ語ガーリール(周辺)に由来するアラビア語パレスティナの地名ガリラヤは、ナザレのイエスが宣教を始めた場所として聖書にも記述されている。

 イタリア特有の1つに「偉大な人物を示す場合はファーストネーム」で呼ぶ習慣があるという。

 イタリア最古の1つピサ大学(他にボローニャ大学など)で医学を専攻したガリレオは、医学より数学や力学に興趣が増し、学費負担などの苦難から中途退学のち独学で頭角を現すと、母校講師からパドヴァ大学(イタリアで2番目に古い学校)教授(数学・天文学)を18年間つとめた。業績等は読者に委ねるが、第1回異端審問所審査の場で、ローマ教皇庁検邪聖省から地動説提唱を注意された時は1616年52歳になっていた。第2回審査で終身刑を言い渡されたのは、1633年69歳に達していた。9年後78歳のガリレオはアルチェトリの地で没する。後世1864年この地に天文台建設が提案されて、その完成を見るのは1872年の事になる。

 1992年ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は「ガリレオ裁判が誤りだったことを認め、ガリレオに謝罪した」と言われるが、本人の死去から実に350年後のことである。また2003年9月ローマ教皇庁教理聖省(旧異端審問所)アンジェロ・アマート大司教の言によると「ウルパヌス8世はガリレオを迫害していない」との主張を繰り返すばかりとも言う。

 2008年1月16日の『毎日新聞』によると、ローマ教皇ベネディクト16世が17日にイタリア国立ローマ・ラ・サピエンツァ大学で記念講演を予定していたが、1990年の枢機卿時代にオーストリア人哲学者の言葉を引用して、ガリレオを有罪にした裁判を「公正だった」と発言したことに学内で批判が高まり、公演が中止になった。その後ベネディクト16世は2008年12月21日の国連やユネスコが定めた「世界天文年2009年」に関連した説教で、ガリレオらの業績を称え、地動説を改めて公式に認めているとのこと。いずれも通史から抜粋した記事である。

 さて、大学の創設ラッシュ時代におけるヨーロッパの政治情勢を検証すると、主要各国は君主制を敷く王権政治とローマ教皇庁との二元性を基礎に運営されており、その象徴は十字軍を統帥権の要に据えた体制にあり、第二次世界大戦後のNATO (北大西洋条約機構)体制に通じるところがある。而して、主要各国の王室もまた、政略結婚で成る門閥すなわち何らかの血縁を結んだうえで、内政は国益優先を演じつつ、外政は親戚外交を免れないため、戦争も和睦も八百長にならざるを得ないのがヨーロッパと解するのが私の自負である。

 大学創設の事情に鑑みると、国王と法王の二元性を神学としたとき、科学は神学の正誤を立証して評価される学だから、立証の成立後は神学も科学も評価の割合に差が生じる事はない。而して、立証前の科学評価に適するモノサシは何か、それは継続に裏打ちされた経験則であり、その経験則で存命実在するモノサシは宗教=神学ゆえ政教一致が政治の本質ではないのか。

 それゆえローマ教皇庁は地動説に誤審を降したのではないのか。ガリレオに終身刑の有罪を科して冤罪と認めるまで350年も要するエビデンスを全人類は何と心得るのだろうか。

 現行の国際政治が認める世界一の教育機関を持つのはローマ教会イエズス会だが、その有職故実が作られる事情と歴史の出現そして現在に至るのかを検証しておきたい。パリ大学(フランス)の起源は1150~1170年までさかのぼるが、オックスブリッジ(イギリス)、ボローニャ大(イタリア)、サラマンカ大(スペイン)、モンペリエ大(仏)、トゥールーズ大(仏)とともに設立されたヨーロッパ最古の大学群の一つで1534年にはイエズス会を創る7人の騎士が卒業している

 歴史上のフランス誕生説は種々あるが、メロヴィング朝フランク王国の成立486年が最も早くて分裂は8世紀に生じている。843年のヴェルダン条約から西フランク王国が成立して、現在のフランスへの歩みが始まると言われる。後世ボナパルト朝では皇帝を名乗ったが、総じて王を名乗る事が通常とされ、中世から1870年までの支配者は君主とされる。

 ルイ7世(1120~80)は、カペー朝6代目に当たるが、初代はパリ伯のユーグ・カペーで西フランク王ロベール1世の孫に当たるため、カロリング朝の断絶後、987年にフランス王に選ばれ即位した。当初はパリ周辺のみを領する弱小基盤にすぎなかったが、ルイ7世の父ルイ6世は俄かに廻り合せる僅かなチャンスを見逃さなかった。父ルイ6世は、広大な領地に加えて多数の有力貴族を臣従させる同族のアキテーヌ公ギヨーム10世から遺言を託されていた。

 1137年に死去したアキテーヌ公の遺言は娘アリエノールの後見をルイ6世に託したのだ。同年ルイ6世の長男もアキテーヌ公の後を追うように急死したのであるが、二男を王太子とするためルイ7世として、アリエノールの婚約者に仕立て上げたのである。実に王太子17歳・アリエノール15歳の結婚であるが、打算と杜撰から生じる王国に平穏など続くはずなし、独り苦難を負わされたのはルイ6世の学友パリ郊外サン=ドニ大聖堂の修道院長シュジェールの身に起こる不幸のみとなる。

 ルイ6世が学友シュジェールに託したのは王太子へ儀礼伝授する事だったが、フランスのみならず北と南で異なる800年前の環境は如何ばかりか、その環境に育まれる生活習慣の異質性以外にも、富裕の格差も広がれば広がるほど、若い男女の間を吹き抜けるのは微風か暴風か、そんな中で大国の経世済民を担う儀礼や作法の伝授これ引き受けられる者など居るまい。

 案の定、若き国王夫妻の行く末は離婚と再婚を繰り返すのみで、領民の生活を軽視した私利私欲の張り合いは戦争へまっしぐら、挙句の果ては英仏百年戦争を招く結婚にすぎなかった。

 そんな迷走の中での大学創設ラッシュである。さて、サン=ドニ大聖堂この地こそフランスの歴代国王を埋葬する御陵であり、それはイエズス会を創る騎士7人の誓いの場となっている。こんなルイ7世の治世下にパリ大の起源があるのだとしたら、それは政治主導ではなくローマ教皇庁の発意から生まれ、百年後にルイ9世の宮廷付司祭ソルボンヌがパリ大に神学部を創るため学寮を建てたとしか思えないのが私の自負でもある。

 つまり、教皇とは「オシエスメラ」と読むタマコトに通じ得ないのかと思ってしまう。

 パリ大の創設期(1150~70)は神学=戸籍・法学=黄金・医学=罌粟の3つが上級学部その下に学芸部(リベラル・アーツ)が設けられたとされる。1211年ローマ教皇インノケンティウス3世により、法的に「大学」として認められた。1257年ソルボンヌ学寮が神学部の学生のために設立される。1259年、教皇アレクサンデル4世の許可を得た事からソルボンヌとは神学部を指し大学の代名詞たる事が確定したと今に伝わる。

 因みに、公立ソルボンヌ大学の卒業生と教授はノーベル賞が33個、フィールズ賞が6名、チューリング賞が1名という多数の受賞者を輩出している。

 以下、右の西暦年にフランス国王となった人にも少し触れておく必要がある。

 ルイ9世(1214~70)はソルボンヌ学寮が神学部の代名詞となり、やがて大学の代名詞にも使われる事が確定された時代の君主であり、聖ルイすなわちセントルイスが米国ミズーリ州の都市の名の由来とされる王でカペー家の王が多数ルイを名乗るのも9世に由来するとも伝わる。

 父王ルイ8世の死去により、12歳で即位その治世は母ブランシュの摂政下で行われた。元来フランスの諸侯は独立志向が強いため、幼君の下にあっては、反攻、陰謀、反乱など珍しくはなかった。幼君2年目の諸侯反乱はルイ9世が幽閉に陥るピンチも生じたが、コミューン(都市)の民が救援に蹶起した事から、これに驚愕した諸侯は撤退せざるを得なくなったとされる。

 ルイ9世15歳のとき、トゥールーズ伯レーモン7世とパリ条約を締結し、アルビジョア十字軍を終結させたあと、サンスでプロヴァンス伯レーモン・ベランジェ4世の長女マルグリットと結婚して親政を始めたとされる。後年マルグリットの妹達はイングランド王ヘンリー3世、ルイ王の弟でシチリア王シャルル・ダンジューらへ嫁いでいった。

 フランス西部ポワチエ(軍事や商業の要衝地)ラ・マルシェ伯ユーグ10世・ド・ジニャンは、父ユーグ9世の元婚約者イングランド王ジョンの未亡人となったイザベル(=フランス名なおイングランド名はイザベラ)・ダングレームと再婚している。イザベラ時代はイングランド王ヘンリー3世の母すなわち王太后の身分であるが、再婚したイザベルはルイ9世の弟ポワチエ伯かつトゥールーズ伯アルフォンスに臣従を誓う単なる臣下の妻として扱われる。これを侮辱と激怒したイザベルは亭主と息子ヘンリー3世をたきつけ、ルイ9世27歳の時ポワチエで反乱を起こさせたと言う。

 ルイ9世が直ちに鎮圧したあと、ユーグ10世の配下の居城は次々と降伏これを見た参戦中だったイングランドの諸侯はヘンリー3世を見捨てて勝手に帰国したとされる。こんな劣悪きわまる情報が飛び交う現行社会ではあるが、それはそれとしながら、以後ルイ9世に反旗を翻したユーグ10世とヘンリー3世は次の条件すなわちイングランド王は直轄地だったフランス南西部ガスコーニュの領有継続の代償にノルマンディーやアンジューを正式に放棄する事で決着したとされる。

 2年後1243年にはアラゴン王ハイメ1世(1208~76)すなわちレコンキスタの際にイスラム教の領土をキリスト教の領有に変え征服王と別称される王が立会ってフランスとイングランドの和平協定が結ばれ、以降ルイ9世の在位中フランスは国内外の平和が保たれたとされる。

 以上から、当時ヨーロッパ列強で十字軍を率いる余裕がある王はルイ9世のみ、1245年6月に第1回リヨン公会議が開催され、ルイ9世も臨席その議題は神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の弾劾審議を軸とし、ラテン系の国家支援ほかモンゴル人の侵入対応などから、第7回十字軍を編成し得る統帥権行使の体制を組み立てる事が最終的な命題とされた。

 即ち、ヨーロッパ統合の統帥権は通史の事情から、ローマ教皇庁に帰依するところとなり、それが明確な形になって現れる時代は十字軍編製が行われた期間と私は自負するのである。

 ルイ9世が第7回十字軍を率いて出発するのは1248年であるが、以後ルイ9世はヨーロッパの調停役として「公正な調停者」すなわち最強最高の手打人たる栄誉を身に帯びるのである。

 パリ大学ソルボンヌ学寮の神学部に教皇庁の期待が集まるのも必然ではないのか。

 もう一つイエズス会の創設期にフランスの君主へ在任したのは、ヴァロワ朝9代目の王フランソワ1世(1494~1547)であり、シャルル5世の曽孫でルイ12世の従兄に当たる。

 フランソワ1世は神聖ローマ皇帝カール5世が最強最大のライバルとなっていた。両者の間に立つイングランド王ヘンリー8世は常に漁夫の利を狙ったとされる。

 キリスト教カトリックの両大国が敵対する支障はヨーロッパの全体に及んでいき、オスマン帝国のウイーン包囲はハンガリー王国の大凡全土を占領させる事態に陥らせた。

 時あたかも神聖ローマ帝国が輩出したマルティン・ルター(1483~1546)の後ろ盾はフランソワ1世の最強ライバルであるカール5世という廻り合わせの渦中でもあった。

 つまり、神話を興したギリシア文明のもと、着実に力を得たフェニキアがライバルとなり、両者が展開する地中海争奪戦の渦中において、漁夫の利を得たローマが覇権を征したように、その歴史的な相似象の再現がよみがえったかの如き相を呈したと思うのである。

 どうあれ、キリスト教カトリックは自らの不始末でプロテスタントを輩出し、カトリックと一線を画する強大なライバルの出現をゆるし、漁夫の利を得たイングランドは1534年ローマ教皇庁から離別そして自らの国教会を造営すべく独立を果たしたのである。

 即ち、地中海ポエニ戦争がキリスト教ローマ戦争へ名称変更しただけの事ではないのか。

 1534年パリ大卒のイグナティウス・デ・ロヨラ(1491~1556)ら7人の騎士団がパリ郊外モンマルトルの丘中腹に建つサン=ドニ大聖堂に集まり、ミサのもと生涯を神託に殉じる覚悟の誓いを交わした。同年8月15日のウケイ(誓約)がイエズス会の創立記念日とされる。

 諸事案ごとの情報は読者に委ねて科学史に戻るが、科学をトガ(科)のマナビ(学)と表した日本科学史については別の機に述べるとしたい。

(つづき)

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