修験子栗原茂【其の五十九】人生は短く、術のみちは長い

 17世紀を科学革命期と呼ぶヨーロッパは後半に至ると、パパンが大気圧機関の原理を考案それが蒸気機関の製作実施に移るのは次の世紀になるが、更なる改良がワットらの手で進められると、18世紀の後半にはフル回転する動力を各方面で用いるところとなる。

 エドモンド・カートライト設計による蒸気が動力源の織機は、同時期に発展した紡績機と共にイギリスの繊維業界を大いに発展させた。製鉄技術の進展は各種の工作機械を生みだし、銃火器の生産は新大陸アメリカの南北戦争などに使われ、のち広域化する戦争拡大の担い手に転じていった。

 硫酸と塩素を使う織物の漂白に化学晒しが広まると、化学薬品の研究開発が盛んになり、ドイツのヴェーラーは無機化合物から有機化合物の尿素を合成ここに有機化学も盛んとなる。化学がもたらす知識はアルコールの蒸留や砂糖の精製にも活かされるが、その知識が地球生命を脅かす元凶になった事を看過する今を思うと、今更ながら悍ましい人間のサガを思い知らされるばかりである。

 力学を形式的にまとめたラグランジュの説は自然法則と認められ、気体の研究を行ったイギリスのブラックやキャヴェンディシュらは酸素や水素の発見者とされ、フランスではラヴォアジェ、アヴォガドロ、ドルトンらを経て原子の考え方に行きつくのは19世紀だとしている。

 フランスが理工科の専門校を設けると、フーリェ、ラブラス、ラグランジュ、アンペール、ゲイ=リュサック、カルノーらのオービーが様々な分野で活躍し、刺激されたドイツのベルリン実業学校も多数の技術者や企業家を世に送りだし、啓蒙主義を代表するフランス人ヴォルテールがニュートンの思想を啓発すると、同じフランス人ディドロは同志ダランベールと共に多数の執筆者を集めて『百科全書』の編纂を完成させる。これがフランス革命への始まりと言う説も少なくはない。

 科学史が学問の細分化を決めるのは、18世紀後半から19世紀にかけてを指すようである。その裏付けとしては、ボルタやエルステッドまたファラデーらによる電気学、カルノーやクラウジウスとケルヴィン卿による熱力学、リンネやウォルフらによる生物学、これら分化した専科のより具体的な発見から、ヴェーラーやリービッヒの有機化学が生まれ、染料や薬品の合成さらに栄養学へと連なる結果を有効と見た事から判断したようである。因みに、生物学に立つラマルクやダーウィンらの言う進化論であるが、これもまたシュライデンらが提起した細胞説へ連なっていくのである。

 以下、科学史は随時挿入するとして、医学史へ目を転じるが薬学史とは一体のため、医学史の中で薬学史を述べる場合もあれば、薬学史のみを述べる場合もあること予め表明しておくとする。

 医学は命と向き合う生活の源に関わっている。原初は薬草や毒草を如何なる判断のもとに見究める生活があったのだろうか。小動物や小鳥の食生活を観察してクスリとドクを見分ける場合もあれば、気候的寒暖に伴う昆虫や野草の生態に着目して医術に触れた事もあったろうが、どれもこれも生命の周期性を認識しなければ全ては単なる「その場しのぎ」にしかならない。

 生命の周期性とは、たとえば、血液や粘液(唾液)また体温や脈拍などのことである。

 歴史家ヘロドトスは「私が知る限りの中でリビア人の次に健康なのはエジプト人」と言い、それは乾燥した気候と、優れた公衆衛生がシステム化されていたからだと言う。また「一人の医者が一つの病気を治療するほどに徹底している」とも伝えたそうである。

 ホメロスは『オデュッセイア』の中で「エジプトは実り豊かな地球の薬を最も多く貯蔵する」地で「全ての人が医者」だと述べたそうである。

 エジプトを代表する文献の一つにエドウィン・スミス・パピルスがあり、第3王朝のイムホテプが原典の編纂者とされるが、古代エジプトの医学知識を5000年前ころまでさかのぼり、宰相在任の時4672年前に行われた外科手術の療法や慢性病また解剖学の所見など遺したと言われる。これを復元したのは3620年前ころとされ、魔術的な思考が排除され、数種に及ぶ慢性病の検診と診断に処置と予後を含む診療が詳述されているとのこと。

 更にカフン・パピルス(3820年前)では妊娠に伴う諸問題と共に婦人病を扱い、断片的なメモ書きも含むが診断と処置については症例34件の詳述が現存すると言う。医療施設は第1王朝(5120年前―4910年前)に「ペル・アンク=生命の家」が造営されていたとも言う。医療保険ほか疾病休暇や年金などの労働者向け厚生事業は第19王朝(3315年前―3207年前)までに制定施行されており、記録上に見られる最古の医者も古代エジプト人とされ、第3王朝のジェセル王付のヘシレは「歯科医かつ医者の長」と呼ばれたそうである。

 同じく最古の女医としては、第4王朝(4633年前―4520年前)期のペセジェトが「女医の女性監督者」とされ、古代エジプトの町サイス(現サ・エル=ハガルはナイル川の河口付近の三角州西側の地で2804年前―2547年前は下エジプトの首都)の医学校助産科を卒業したと言う。

 一方、バビロン第1王朝(3852年前―3552年前)は同時代のエジプト医学に並立するかの如く診断・予後・診療・処方の概念を取り入れていたと言う。

 またアダド・アプラ・イディナ王の治世(3091年前―3068年前)では、シュメールの都市ボルシッパ出身のエサギル・キン・アプリ医師の著『診断手引書』が編まれ、治療計画や原因療法、経験則の活用、論理学、診断・予後・治療などに合理的な所見が示され、医学分野で高い評価を得る症候リストも記載されている。たとえば、患者の体に表れる症候と診察・予後などの記入と、照合に役立つ理論的ルールと共に詳しい観察記録も網羅していると言う。

 この『診断手引書』は現行社会にも広く知られており、基本は原則と推測の理論的な組み合わせで構成され、患者の兆候に対しては、検査と視診を行ったあと、患者の疾患や病因その見通しを立てた後に回復の機会を特定する事など含め現代版にも通じる事が分かっている。

 3000年前を過ぎると、『旧約聖書』のモーセ5書によるヘブライ医学が出現する。この書には感染者の隔離(レビ記13章45―46節)、死体を扱った後の洗浄(民数記19章11―19節)糞便を野営地外に埋める(申命記23章12―13節)など、様々な健康に関する法や儀式の法則が示されると言う。マック・ノイベルガーの著書には次のごとき事が述べられると言う。

 「要求の内容は、伝染病の予防と抑制、性病と売春の抑制、皮膚の手入れ、入浴、食物、住居と被服、労働規定、性生活、人々の規律などであった。これらの要求の多くは、安息日、割礼、食物についての法(血と豚肉の禁止)、月経中、妊娠中、淋病に罹患している女性についての規定、ハンセン病患者の隔離、野営地の衛生、など気候環境から見ると、驚くほど理性的である」と自画自賛…。

 古代ギリシアの医学は、エジプトやバビロニアの医学の伝統に大きな影響を受けたとされる。特に重視されたのは体液病理説とされ、体内に数種類ある体液バランスが均衡する場合は健康を保ちバランスを失えば病気になるとの考え方(=四体液説)が用いられ、治療も体液のバランスを整える処方措置が試みられたそうである。たとえば、赤ちゃんの「よだれ」のごときとも思える。

 古代ギリシア医学で有名なのは、エーゲ海の南東部ドデカネス諸島にあるギリシア領コス島出身のヒポクラテス(2482年前~2392年前)が「医学の父」として広く知られる。没後100年が経ってから出る『ヒポクラテス全集』は現在も重宝とされ、70編あまりの論文を収録その中には、コス派のライバル・クニドス派の著作やヒポクラテス没後の著作も多く含まれ、偏向していない事に高い評価が得られている。因みに、コス派とヒポクラテス派との違いはよく分からない…。

 要するにヒポクラテスとコス派(ヒポクラテス派とも)の重要な功績の一つには、医学を原始的な迷信や呪術から切り離し、臨床と観察を重んじる経験科学へと発展させた事が挙げられている。

 なお、体液病理説=四(よん)体液説とは、血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の4種類を肉体上の基本体液とする事から、アーユルヴェーダにも通じる生活医学の原始とも考えられる…。

 医学の父、医聖、疫学の祖などの別称でも知られるヒポクラテスは、医師の倫理性と客観性に『誓い』と題した文章を遺し、それも『全集』に収められ、現在も継承されると伝わる。中でも知られる名言は「人生は短く、術のみちは長い」と訳される四体液説をキモとし、人の生活は自然環境と共に政治的環境から受ける影響が健康に及ぶと指摘した。私も深く感銘するタマコト=霊言である。

 タマコトを史実か否かで争う現行社会の愚かさには慈悲の念を禁じ得ないが、たとい全体の1%に満たない活用であっても、その自覚を自負する家庭では食生活こそが医学ではないのか。

 ヒポクラテスの伝記を初めて著したのは、2世紀の医者で小アジアの古代都市エフェソス(トルコ西部の現イズミル県セルチュク近郊で旧アレクサンドリアの地)出身者ソラノスとされる。現在でも最も重要な情報源として扱われる伝記は、ローマ時代の臨床医ガレノス(イスラムまたヨーロッパの医学を導きルネサンスまで1500年以上に及ぶ体系的医学の確立者)も最重要としている。

 プラトンと同世代のヒポクラテスは、著書『戦史』の歴史家トゥキディデスと同い年、哲学者ソクラテスより10歳年少とされる。書けばキリのないヒポクラテスの伝記は読者に委ねるとして、私が気になった記事は各地遍歴の中に「地中海と黒海の間にある内海マルマラ海」の辺りまで出かけたと記され、最後はテッサリア地方の都市ラリサで死去したと伝わることにある。

 まず四周を山に囲まれ盆地状の平原が広がるテッサリアであるが、北東部マケドニアとの境界にはギリシアの最高峰オリンポス山2917メートルが聳え、山麓にはいくつかの盆地や渓谷が広がってピンドス山脈の支脈である事を窺わせる。西北から東南方向へエーゲ海沿いに向かうと海へ落ち込む地形をしている。ピンドス山脈が連なる西方はイピロスとの境界に2000メートル級の山々が聳えイオニア海に注ぐギリシア第2の大河アヘロオス川はラクモス山の麓に源流を為している。ピンドス山脈に源流を有するテッサリア平原の中央部にはピネオス川が東へと流れており、多くの支流をもつ流域ごとにラリサやカランバカそしてトリカラなどの都市を発展させている。人の営みは4500年前の遺跡が発見され、紀元前4世紀にはフェライのイアソンが軍事的に強化のうえ、ペルシア戦争でアケメネス朝ペルシアに与して戦ったが、紀元前330年(2352年前)アレクサンドロス大王に服属のちローマ帝国に征服されると、テッサリアはマケドニア属州の一部に組み込まれた。

 さて、現トルコのアジア側とヨーロッパ側の間にある内海マルマラ海であるが、北の黒海とはボスポラス海峡、南のエーゲ海(地中海)とはダーダネルス海峡を通じてつながっている。東西が280キロメートルと南北が80キロメートルの大きさで、最大水深は1370メートルとされる。塩分の濃度は2.2%で黒海より少し濃いくらい、ところが海底近くになると3.8%もあり、その原因は表層水が黒海からエーゲ海(地中海)方向へ流れ、底層水になると逆流に変わるためとされる。

 北岸のボスポラス海峡その入り口はイスタンブール、東部の陸地に深く入り込んだイズミット湾の入り口はオスマン・ガーズィー橋が架かっており、他に島嶼群が2つあり、現在1つはリゾート地で更なる1つは大理石の産地とされている。

 言うまでもなく今や黒海に突き出るクリミア半島を含むウクライナが難問を抱えている。ゾンビが煽り合う現行社会にあっては、多数派を形成しようと争う遺伝子組み換え族が1代かぎりの価値観に囚われ、ただただ目先の難問を取り除こうと荒れ狂うが安らぎは別のところにある。

 ウクライナ問題が何であれ、「人生は短く、術のみちは長い」のである。ウクライナを語るのなら少なくともアケメネス朝ペルシア期ころからの学習が必要であり、特にアレクサンドロス3世ころの地の利を知らなければ、何ゆえにヒポクラテスが遍歴の足をのばしたのか、クリミア半島からエーゲ海に抜けるルートに立たなければ、ウクライナ問題に潜む本質など透けてくるはずあるまい。

 ここにヒポクラテスの伝記に通じる日本の対応から一つのヒントを抜き書きしよう。日本における江戸後期は開国を迫る海外列強の来訪により、大きく揺れる日本列島であるが、その予兆を医学史に向けてみると、蘭方医学の日本上陸は「神農を本草学の祖」とする漢方医学にも影響した。

 蘭方医は神農を牽制するかのように、西洋医学の父「ヒポクラテス」を掲げることにした。当時の日本でヒポクラテス像を描いた人物の中で知られるのは、渡辺崋山(かざん)また宇田川榕菴(ようあん)などいるが、今も多数の作品が残される現状に鑑みれば、当時の武士道もヒポクラテス医学に通じる能力は現行社会以上とも思えるのだ。

 当時、薬屋が集まる京都市二条通に位置する薬祖神祠では、日本神話の大国主(大己貴)神(オホクニヌシのミコト)や少彦名神(スクナビコのミコト)さらに中国の神農に加えてヒポクラテスをも薬祖神として祀る事を厭わなかった。つまり、人生一代限りに囚われず、如何なる時代にも通用する臨機応変を備えて、事案の本質を見失うなという事ではないのか。

 皇統譜そして戸籍が担う重みとは何か、黄金と罌粟に依存する文明とは何か、風猷縄学とは何かを再認識する好期かもしれない。

(つづく)

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