修験子栗原茂【其の二十二】満鮮経略と南東経略の近代版

 さて、お東さんの件である。

 私の盟友石川恵一(釈恵念)は岩手県に生を発するが、遠祖は蘇我氏石川の系にあり、母方は源氏義経に仕えた軍神佐藤氏の系を踏まえている。幼き頃から神童ぶり常として、その噂は県境を越えて広まっていき、文武に優れた資質はもとよりのこと、その法力は加齢に伴い鋭く研ぎ澄まされる。

 とにかく自分を語ることよしとしないがため、来世で語り合うほかないが、僧籍に身を置きながらも視点の位置するところは天空に在り、大悲のナミダこそ浄化のエネルギーと心得る御仁である。

 その石川が京都入りするのは十代の頃と思われるが、私の類推にすぎないこと、日本侵略を企んだ勢力はGHQだけにしぼりきれまい。国際的なシンジケートが日本をターゲットにミッションを編み出すきっかけは、日清・日露の戦後であるが、大戦後は東本願寺もターゲットの一つであり、石川の京都入りが必然でないとしても、偶然とは思えない出来事の連鎖が広がっていくのだ。

 神仏判然令を機に日本の仏教界は十三宗五十六派の寄り合いとされるが、抑も、比叡山と高野山に整えられたのちは、比叡山を母校とする宗祖が圧倒的に多くなる。家格が重んじられた時代にあって曹洞宗の道元(村上源氏久我家)が最上位とされ、傘松峰大佛寺(のち吉祥山永平寺と改称)を開創しており、浄土真宗の親鸞(名家日野流)はもっとも異質(謎が多い)とされている。

 日野流は院政期の極官が中納言であったが、伏見天皇(持明院統)に重用された俊光が権大納言に昇り、俊光の子資朝は後醍醐天皇(大覚寺統)に仕え勘当され、庶流俊基は倒幕計画に参じており、三宝院賢俊(俊光の子)は光厳院(持明院統)から後醍醐追討の院宣を下す仲介をするなど、当時の分家創立が低調な時代にあって、日野流は裏松・烏丸・日野西など多数の分家創立を成している。

 すなわち、鎌倉末期から室町後期まで日野流は男女ともに時代の中枢を担っているが、その行為に観られる不審の謎は現時点においても解明に至ってはいない。

 私は私のヤマトタケルを思わせる歴史人を探求するのが大好きであり、その一人に親鸞も含まれる事から親鸞に関する伝承には相応の努力をしているつもりである。私の思うところ、政体の勃興から頽落までの繰返しは歴史の相似象であり、そうしたリスクヘッジとして試料を重ねたすえに、継続的強化策を講じているのが國體の在り方ではないのかと注視している。結果、この政体と國體の二元性創案に親鸞も取り組んでいたのではないか、今まで一切口外した事ない秘め事にすぎないが…。

 親鸞は臨終(一二六二)後、京都東山の鳥部野北辺「大谷」に納められた。十年後、吉水(京都東山区)の北辺(現知恩院塔頭崇泰院)に改葬され、覚信尼(親鸞の末娘)の長男覚恵が留守職として管理に当たった。覚恵は日野広綱の子で親鸞の男系子孫とされる。

 大谷姓の由来は地名を充てたが、豅(ロウ)の字を用いた西本願寺は谷(ヘン)と龍(ツクリ)に分解して「りゅうこくざん本願寺」と号したり、龍谷大学の校名由来としたりしている。

 大谷派八代目の門首にして、本願寺派八世宗主の蓮如(一四一五~九九)と同時代にオルレアンの乙女ジャンヌ・ダルク(一四一二~三一)が出現しており、蓮如が中興の祖であれば、ジャンヌには国民的ヒロインの称号が付され、前者は上人と称され慧燈大師の諡号も追贈され、後者はカトリック教会の聖人とされている。この何気ない釈恵念(石川恵一)の指摘が真宗の特質を表している。

 以下すこし近代以降の皇室および公卿と大谷家との通婚に触れておきたい。

 (本願寺派)第二十二世鏡如(光瑞)と貞明皇后の姉(九条道孝三女の籌子)、第二十一世明如の長女(武子)と九条良致(道孝五男)、光瑞弟の光明(父は光照)と紝子(道孝七女)、第二十三世勝如(光照)と嬉子(徳大寺実厚長女)、正子(光明長女)と近衛文隆(文麿長男)

 (大谷派)第二十一代嚴如(光勝)と和子(伏見宮邦家親王四女)、恵子(第二十二代現如二女)と九条道実(道孝長男)、第二十三代彰如(光演)と章子(三条実美三女)、第二十四代闡如(光暢)と香淳皇后の妹(久邇宮邦彦王三女の智子)

 (東本願寺派)第二十五世(光紹)と貴代子(真宗誠照寺派二十八世二條秀淳長女)

 つまり、私の見立てにすぎないが、聖徳太子を尊崇する事は他の宗祖も同様であるが、親鸞の信仰次元は別格であり、他の宗祖も味わう法難でも親鸞の味わう理不尽は異質であり、その宗教活動から生じる抗争はともかくとして、門徒(信徒)衆に潜む日野流系譜の氏姓鑑識を究めてゆくと、皮相の識別しか弁えない人たちには深層構造が見えるはずないのである。

 以下こうした私の見立ても加えたうえで、東本願寺の分裂騒動に思いを転じていただきたい。

 大戦後の日本を侵略しようと企むシンジケートも種々(さまざま)なら、そのミッションも種々な事は日本文化の多様性に鑑みれば当たり前のことではないか。私の記事とインターネット上に掲載の情報が重なる部分もあるとは思うが、皮相な噂に妄想をめぐらす情報との違いを読み取るのも一興と思うので、私の暴走型フィールドワークをトクとご覧あれのしだいである。

 ちなみに、大戦後の深層を探るなら大徳寺に触れておかねばならない。赤松円心の家臣に由来する創建の経緯は他の史料に委ねるとして、近世の(臨済宗)大徳寺は塔頭二十四、准塔頭五十九宇また六十五宇ともいわれ、末寺二十五か国・二百八十余寺(その塔頭百三十余院)の総本山で朱印の地は二千十一石余を有したとされる。その多くを費消した上知令は明治政府を救わんがため、塔頭合併と糊塗した虚言は事実上の廃絶を意味しており、結果的には二十院の永続塔頭に縮小してその他四院の切縮を行うと、その後は大徳寺の寺運に託す新開の策が講じられた。

 すなわち、参観用アリバイ四院を設ける一方、國體用の枢密院別所に模様替えしたのである。

 大戦後、大徳寺内の庵主となる立花大亀は、堀川辰吉郎の存命中國體司令の重役として、卓抜した職能を発揮したが、辰吉郎薨去のあとは徐々に政体側へと転じていった。

 さて、お東さんであるが、第二十四代法主の光暢は昭和四十年(一九六五)が六二歳になる年ゆえ高松宮様の降誕に照らすと約一年三か月前に生まれたことになる。東本願寺お裏さまは法主より二年十一か月あとの生まれ、宮様より一年八か月あとの生まれというわけである。私は二四歳の年回りに当たるから、秀孝五七歳は法主と約五年の差、私には総じて親年齢に当たるということ。

 同様に法主と裏方の子らをみてみると、長男光紹四〇歳、長女美都子、二男暢順三六歳、三男暢顕三五歳、二女須美子、四男暢道二〇歳、が家族六人による男子四人・女子二人の当年齢である。

 光暢二一歳と智子王女一八歳の婚姻は大正十三年(一九二四)五月であるが、同年一月には延期が続いた摂政宮裕仁親王と久邇宮良子女王との御成婚が済まされていた。翌年の光暢家は三月に長男の誕生があり、九月には父二十三代目の退任を継承して、光暢が第二十四代目に就任している。

 長男光紹は生誕後すぐ新門(後継者)として育まれる。昭和二十一年(一九四六)すなわち大戦の終息翌年に京大を卒業するや、米国ハーバード大やコロンビア大に留学したあと、同二十四年(一九四九)新嘗祭の日に、昭和天皇の第三皇女で従妹に当たる孝宮和子内親王との婚約情報が新聞辞令で広められた。しかも破談の追っかけ記事さえ用意されていた。ちなみに、和子内親王は鷹司平道との御成婚が整っていたのである。

 つまり、有職(ゆうそく)故実を知らない下衆の勘繰りであるが、今やテレビ界に育てられた詐称有識(ゆうしき)タレントが跋扈する時代ゆえに、反天皇勢力の煽り屋の仕掛けにジャーナリズムが乗せられるのも詮ない事かもしれない。もはやネットの時代ゆえ熱狂はこれからかも…。

 どうあれ、皇室ゆかりの出まかせが茶の間を席巻しだすのは、テレビの普及と歩調を合わせるかの如く浸透していったのである。そんな詮ない小瓶の泡に蓋をしてもキリがあるまい。

 ともかく、GHQはじめ日本侵略の国際勢力がしのぎを削る渦中にあって、なにゆえ光紹二一歳がアメリカ留学しなければならいのか、しかも新門という責任を負う立場にありながら、終戦の間際に天皇家ゆかりの情報をもつ神社仏閣から収奪された財産を誰が護ったのか、日本政府はもとより治安当局の惨状は語るに落ちることばかり、侵略集団に抗ったのは荒くれたちに限られたのである。今は味噌も屎も一緒の暴力団構成員に組み込まれ、人権などはツメの垢ほども残されていない。

 東西の本願寺はもとより、浄土真宗の門徒が一体とならなければならない同二十四年の重大事こそ第八代目蓮如上人の四百五十回御遠忌法要を厳修する事にあったのだ。そんな重大年に新門の光紹がアメリカ留学中なんぞの理屈が通じるはずあるまい。当時アメリカ社会にあって、日本人が如何なる状況下に置かれていたか、歴史の一端をかじらなくても想像し得ることではなかろうか。

 光紹を貶める情報は東本願寺を貶めることになり、お東さんを貶める情報は浄土真宗のみならず、最終的には天皇家の存続さえ危うくしようと企む底意が見え見えの愚かさを隠しきれない。そのため國體の案ずるところ、愚劣を逆手にとって、光暢ご一家の意思疎通を図ることにし、まずは闇に潜む侵略勢力の正体を炙り出すため、世界中に分布の精鋭を以て情報の収集に着手したのである。

 ちなみに、親鸞聖人の七百回御遠忌法要は同三十六年(一九六一)に厳修されている。蓮如上人の法要を厳修した翌年(一九五〇)光紹二五歳は再びアメリカ留学とされ、四年後(一九五四)帰国と伝わり、翌三十年三十歳のとき、今度は元伯爵令嬢との婚約そして解消と報じられる。

 新門光紹の結婚は東京オリ・パラ大会年(一九六四)で満三九歳そのお嫁さんは、真宗誠照寺派の第二十八世法主・二条秀淳の長女貴代子であり、二年後(一九六六)に光紹は大谷派東京別院本願寺住職へ就任することになる。

 巷間に伝わるところ、お東の騒動は同四十四年(一九六九)法主二十四代目の光暢が「管長職のみ新門光紹に譲る」と内事局に宣した事から表面化したとされている。

 当時のお東の組織と機能については後記するが、『法主』は当主であり、兼任の『管長』は事案の最終裁可を認証する最高位を指す言葉であり、『内事局』は法主直属の最高機関を指す名称である。内事局に並立するのが、各部門の長で成る『内局』でそのトップは『宗務総長』と呼ばれる。他には『参務』、『宗議会』、『門徒評議会』、『宗憲』、『査問院』などの名称が用いられ、それぞれの権限統括を為す最高位の役割は次の三つを独りで担うとされている。

 一つは親鸞の血統を継ぐ生き仏としての『法主』、二つに本山東本願寺での宗教活動に勤しむ『住職』、三つに宗教法人の代表たる『管長』という三位一体の職掌が定められている。

 すなわち、「管長のみ新門に譲る」との意を解釈しようと思えば種々な考えが生じてくる、外野の有識タレントが安易に絞り込めるような問答とはならないのである。

 案の定、光暢家をターゲットにした侵略勢力の目論見は錯綜の坩堝に渦巻くところとなった。

 ここで何ゆえ、東本願寺が侵略のターゲットにされたのかを検証しておきたい。検証を行う際には欠く事の出来ない前提条件を認識しなければならない。本事案のように、禁裏護衛の役を担う比叡山延暦寺に戒を下知され、天台の一派を担う宗祖の後裔が絶えない系譜については、有職故実の旧辞を知らなければ、その筆舌は自分自身の世迷言にしかなるまい。

 親鸞(見真大師)とは「何ものなのか?」これ私の年来の謎解きの一つであり、結果的に認識した答は「知りたければ、自分が何ものか?を覚ってからにしろ」ということ、以後の難行苦行は未だに解消しないが、信じるところは「伝統の継続すなわち家督継承」に尽きるのである。

 つまり、日野流なくして親鸞なし、親鸞なくして親鸞教なし、親鸞教なくして大谷家なし、そして大谷家なくして真宗なし、その大谷家とは日野流ということである。

 古来、浄土真宗の呼称を嫌う浄土宗との争いは、始まっては消える、消えては始まる、の断続性を繰り返したようであるが、西本願寺二十一世の大谷光尊(一八五〇~一九〇三)が時代に見合う維新改革のもと、明治五年(一八七三)三月、太政官公布を以て真宗を公称のものとし、俗称の一向宗も宗門として正式に廃止するとの断を決している。

 入寂五三歳の光尊を継ぐ長男光瑞(一八七六~一九四八)二十二世が國體の仕事で探検隊の編成に当たり、渡欧したのは明治三十三年(一九〇〇)十二月とされ、法主継承(一九〇三)のために一旦帰国するが、探検をアリバイに使う特務は大正三年(一九一四)まで計三回の渡航も含んでいる。

 光瑞が孫文の率いる中華民国の政府最高顧問に就任(一九一三)したことは、國體として本格的な特務を担ってきた証しでもあるが、同様の痕跡は同じ日野流として、満鮮経略に不可欠の日露戦争で重要な工作を施した日野強(つとむ一八六六~一九二〇)との協働にも刻まれている。

 日野については、黒龍会の葛生能久著『東亜先覚志士記伝・下巻』に簡単な記事があり、防衛庁の研修所戦史室が調べた履歴から『伊犁紀行』を書いた岡田英弘の本も出版されている。私に日野強を口伝したのは秀孝であるが、秀孝は祖父常吉から教わったと言っていた。常吉は秀孝九歳の時に石鎚山で永眠したから、常吉の日野強ブシは幼かった秀孝に強烈な印象を与えたのであろう。ちなみに、日野強の永眠は常吉の没後三年目に当たっている。

 秀孝の祖父常吉が二七歳の時に生まれたのが日野強であるが、強の父も名は常吉その廻り合わせは共に石鎚山の修験道に励む仲間だったとも聞いている。二男強の出生地は石鎚山に近い愛媛県周桑郡小松町であり、同県上浮穴(かみうけな)郡小田町の地名に日野があり、秀孝の話では日野流の集落由来が地名に転じたのだろうと言っていた。

 日野強二四歳が士官学校を卒業して、陸軍歩兵少尉に任官するのは、明治二十二年(一八八九)で以後三年間の消息については全く不明とされている。すなわち、同じ日野流大谷光瑞の学習院在学と退学、英学校への転入と退学、そして京都に戻るという破天荒な期間と重なっている。

 ちなみに、巷間に伝わる日野と光瑞の情報を照らすと、年月日にズレが生じているのは落合先生が常に指摘するところで、読者の読解能力が試される特務工作員の証ともいえるのである。

 明治三十九年(一九〇六)七月一日附で日野は参謀本部附となり、その筋より「新疆視察の内命を受けたり」と踏査報告書『伊犁紀行』に記しており、この記録は同四十二年(一九〇九)五月二十九日に東京博文館が『伊犁紀行』上下二巻に分け刊行している。ちなみに、岡田本『伊犁紀行』の復刻刊行は昭和四十八年(一九七三)であり、岡田は「その筋」を参謀本部と解したが、むろん、当時の國體トップの命を受けたものである。この用語も落合本が指摘する「御父不詳」や「寄兵隊天皇」と同じ意味を有しており、有職故実に秘められる謎の暗号サインなのである。

 日野が東京を発つのは同三十九年九月七日、東京へ戻るのは翌四十年十二月二十五日、その期間は実に一年三か月余に及んでおり、その間には光瑞との合流、そして協力を得るなど、日野流が構築した世界的ネットワークも國體の重要な一部門を担っている。

 つまり、上古から國體分野の人的資源を養成してきた日野流は、親鸞の出現を以て政体にも登壇のポストを得るようになり、鎌倉後期から室町中期まで参謀の中枢を占めながら、人類が大航海時代に突入するころ、蓮如上人(大谷家八代目)を軸に新開の道を拓いていった。その後の大きなうねりが国際政治の波しぶきを直に浴びる政体の大変革期であり、その表層にまで浮上した事象が日清および日露の戦役であるが、これこそが満鮮経略と南東経略の近代版そのものなのである。

 そうした渦中にあって、日本政府が担った最大の課題こそ満洲問題であり、その中でも特筆すべき事案を抱えていたのが満蒙を含む伊犁(現イリ・カザフ自治州)五族に潜んでいたのである。

 石原莞爾作「五族協和」論の解読は落合先生の指導を仰ぐとして、ここでは大谷家をターゲットに侵略を企んだ勢力の深層構造に焦点をしぼっていくとする。

 日野流大谷家の系譜は次の如き過程から生じたと伝えられる。まず親鸞入寂まで身辺看護したのは末娘の覚信尼(一二二四~八三)とされ、同族日野流の広綱との間に覚恵(一二三九~一三〇七)が生まれる。覚恵が母の覚信尼から大谷廟堂(親鸞の墓所)の留守職を譲り受けるのは弘安六年(一二八三)とされ、周防権守中原某の娘との間に覚如(一二七一~一三五一)をもうける。

 覚如は大谷廟堂の寺院化(本願寺の成立)に尽力して、本願寺を軸とする教団の基礎を築いた事で真宗本願寺の開祖かつ本願寺三世とされている。通史に言われるところ、開祖は親鸞であるが、親鸞自身は開宗に固執しておらず、本願寺の成立後に親鸞を開祖と定めたのは覚如ともいう。

 ちなみに、真宗には十派あるとされ、高田派、佛光寺派、興正派、山元派、誠照寺派、三門徒派に出雲路派の六派は覚如を歴代法主(門主また門首とも)の中に含めないとされる。その事由は様々な語り種(ぐさ)あるが、私の所見は持明院統と大覚寺統を擁立した南北朝政争の渦中で日野流が担う役割に原因があったのではないかと思っている。

 つまり、日野流親鸞が担った國體としての仕事は宗教の枠を超克しているのではないか、私なりの持論は開示できない事案を多く含むため、作文に不適だから墓場に持ち込むしかない。

 親鸞入寂を機に創建された大谷家を襲う第二の法難は、蓮如(一四一五~九九)の超克で仏教界に根を張る他宗との確執を粉砕していくが、それは閉鎖的な武力政権に敵方と見なされる。その潮目を変えたのは大政奉還であるが、それは第三の法難すなわち覇道一神教が求める人身御供に指定される苦難に襲われる事を意味していたのである。

 而して、ここでは大政奉還後の日野流大谷家に焦点を当てるが、その前に大谷家が何ゆえ本願寺と東本願寺の二つに分流したのかを知っておきたい。織田信長と石山本願寺の対立は、正親町天皇から勅命を得た信長の暴政が引き金となり、天皇信奉者の日野流顕如(第十一世)が矛をおさめる。

 國體の神髄は天皇にあり、天皇に暴政を迫った信長に天誅が降るのは必然のこと、日野流の顕如は勅命に恭順したが信長に屈したわけではない。時に天正八年(一五八〇)三月だったが、信長は二年後六月二日の本能寺で焼け死んだ天正十年は壬午(干支)の年で壬は陽の水・午は陽の火すなわち相剋の年回りに当たり、創建来五度の火災に遭う本能寺の因縁が気になるところでもある。

 顕如生誕の時に信長一〇歳その生涯は信長の没後十年目に顕如も入寂するが、当時の大谷家本拠は石山(摂津国=大阪)本願寺と称しており、正親町天皇の勅使・近衛前久の仲介で紀伊国(和歌山県鷺森)へ移るのが前記(天正八年三月)の時期である。この時をもって、大谷家の本願寺は継承者の二分化という事案に取り組むのであるが、その経歴は豊臣秀吉と徳川家康の政権運営に準じることで形成されていった。以後その経歴についても知っておかなければならない。

 顕如が石山本願寺から紀伊鷺森へ移るとき、信長との徹底交戦に擁立されたのが、顕如の後継長男教如で石山籠城のまま抗戦をつづけた。この表層面に生じた事実から通史を組み立てるのが御用学の常套手段であり、それを歴史として後世へ伝えるのが時の権力というものである。

 顕如が鷺森へ移った五か月後に、籠城組も近衛の説得に応じるところとなり、石山本願寺は信長へ明け渡されたが直後に炎上して灰燼に帰したとされる。また籠城中の教如については、教如が勝手に第十一代を称したとし、咎めた顕如が教如を義絶のち教如は東海や北陸を転々したと伝えられる。

 天正十年六月二日の本能寺で信長に天誅が降ると、同月二十三日に後陽成天皇が教如赦免の勅使を顕如へ遣わし、以後、赦免された教如は顕如の寺務を補佐することになる。顕如の示寂(一五九二)後に本願寺を継承した教如は葬儀の執行とともに、京都七条河原での荼毘をも執り行っている。時に同年十二月十日であるが、秀吉も二日後に本願寺継承の認証朱印状を発行したとする。

 ところが、通史の伝える「本願寺が二つに割れる本番は」このあとから生じるのである。

 まず始まりは、法主継承の指名に「譲り状」の作成は通常の慣例であるが、その手続きがないまま教如は後継宗主を称しており、身辺は籠城組がかため、鷺森へ退去した穏健派は重用されない、その偏向人事が教団内に対立を招いたという。また顕如示寂の翌年(一九五三)閏九月、顕如の正室たる如春尼が秀吉を訪ねたとして、天正十五年十二月六日(約六年前)付の「譲り状」が発見され「法主継承の件は教如の弟准如に指名する」との内容が読み取れるともいう。

 秀吉は同月十二日、直ちに教如を大阪へ呼び寄せ十一か条に及ぶ手打ち案を示したとし、そこには揉め事の争点八か条と弟准如へ十年後の譲位を約すという案を施したとされる。教如はこの秀吉案を吞もうとしたが、取り巻きの坊官たちが教如の頭越しに秀吉へ異議を申し立てたとし、秀吉は烈火の怒りで教如へ「今すぐ退隠せよ」との命令を下したとする。

 結局この内訌に仕立てる妄想が今に伝わるのは、通史を編む有識者から生じるものであり、憶測に登場させられる役者連は、秀吉に絡む筆頭格に千利休や石田三成らがおり、収拾つかない挙句の果て秀吉を凌駕した家康を頼みに帳尻を掴む暴虐無尽が罷りとおっている。

 落合本『南北朝こそ日本の機密』の読者であれば、直ちに歴史の相似象が浮かぶであろうが、その南北朝に重きを為す日野流はまた戦国時代にも重きを為しており、今また世界の隅々まで行きわたる新ウイルス禍のさなかにあって、今親鸞に宿るエネルギーの働きが気になるところではある。

 どうあれ、慶長三年(一五九八)八月十八日に秀吉は没している。関ヶ原の変は二年後その六月に教如は大津御坊を完成させ遷仏法要を済ませたあと、下野(栃木県)小山に居る家康を訪ねるための旅に出ており、合戦後の九月二十日には家康を大津に迎えている。

 同七年(一六〇二)後陽成天皇の勅許で家康の命が発せられ、京都七条烏丸に四町四方もの寺領を得た教如は、堀川本願寺の一角にある堂舎を移し、翌八年は上野厩橋(群馬県前橋市)の妙安寺から親鸞聖人木像を迎え「東本願寺」と定める分立を決している。この事により、以前の本願寺は対応的呼称で「西本願寺」と通称されるようになった。

 つまり、准如が継承した堀川本願寺の東に位置したのが、教如を擁した東本願寺であるが、西東を付すのは通称であり、昭和六十二年(一九八九)まで正式名称は本願寺を用いている。こうした経緯略歴から日野流大谷家の歴代にも変則的な数え方が生じたのであり、准如は浄土真宗本願寺派第十二世宗主を名乗り、教如は東本願寺第十二代法主を名乗るようになったのである。

(続く)

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