修験子栗原茂【其の一〇】難関を突破した末弟の痛快

 昭和三十六年(一九六一)二月一日、メディアが「嶋中事件あるいは風流夢譚事件」と報じる殺傷事件が発生している。私に家督継承の責務がなくて、高松宮様に「お目通り」していなければ、私は風流夢譚の作家(深沢七郎)と発刊人(中央公論社長の嶋中鵬二)を拉致したうえで、私流の制裁を科すこと間違いなく実行したことであろう。むろん、私は生き永らえようとは思いもしない。

 本件のメディア情報は簡単に入手できるため、関心あれば参照することも一興と言えよう。

 不敬きわまりない小説『風流夢譚』の内容を簡略すると、天皇陛下および天皇ご一家の皇族を愚弄嘲笑するのみならず、路傍の石ころを蹴り転がすような扱いで書き連ねた夢物語にすぎないが、その描写が意図するところは愛国心を根こそぎ底なし沼へ投げ棄てるようなつくりである。

 愚弄本は文壇や論壇が風評を吹き散らすところとなり、腐れ外道の石原慎太郎のごときは賞賛これ火に油をそそぎ、石原とは質を異にする三島由紀夫のごときは愛国心を逆手にとられ、自ら火消しに躍起とならざるを得なくなる。三島は十年後に自衛隊市ヶ谷庁舎で自刃するが、この事件が無関係と断じるのは三島フアンならではの見識であり、今ここに私の所見を述べるのは時宜にかなわない。

 事件を起こした小森一孝一七歳は赤尾敏が率いる大日本愛国党で山口二矢と籍を同じくする。父は長崎地検諫早支部の副検事を職掌としていた。事件は小森が嶋中宅に押し入って始まるが、あいにく嶋中は留守で帰宅する情報も得られない状況下で家事手伝いの女性を殺してしまい、嶋中夫人には腿を突き刺してケガを負わせている。小森は逃走した翌朝に自ら職質を受け逮捕されることになる。

 深沢は事件後五年間の潜伏放浪を自らの生活に科すところとなり、余生は自らを呪う事で悲嘆から開放されなかったようであるが、時局の計らいは皇太子殿下ご成婚と重なっている。その翌年が烈士山口二矢の事件となり、その翌々年に小森一孝の事件へ通じるが、これらを一つ一つ千切り取るしか能がないため、未来おぼつかないマス・メディアが消えては産まれるのだ。

 同年一月にはジョン・F・ケネディ(一九一七―六三)が第三十五代の大統領に就任した。身近な出来事に触れると、東京二十三区の路上からゴミ箱の撤去と、家庭廃棄物を都清掃局の車が定期的に回収する事案が議会で決せられた。ゴミの埋立地は夢のシマと呼ばれるようになり、足立区の廃棄物焼却場も試行錯誤を繰り返しつつ設計施工が進められていった。

 五月には韓国で朴正熙(中将)が率いる軍事革命委員会によるクーデター(5・16事件)が成立して政権移譲が行われたあと、秘密諜報機関・韓国中央情報部(KCIA)が発足している。

 秀孝五三歳、私二〇歳に達する同年の家庭状況としては、末弟一五歳が地元中学を卒業して、わが栗原工業所は家内事業の陣容が完全に出そろった。秀孝が作業現場にいる時間は短縮され、代わりに母が女だてらにプレス加工に従事しては、自分が出産した男三人を従える日常となり、その味わいを楽しんでは喜悦に満ちた明るい態度へ一変するようになった。

 すでに結婚して男児二人を出産していた異母姉は近所のアパートに住んでいた。婿殿は秀孝の友人親族から迎えており、仕事は秀孝も籍を置いた事がある都バスの運転手として働いていた。惜しいが男盛りの壮年期に天命を全うしており、このとき、導師を引き受けてくれた僧こそが大慈悲山白蓮寺開山の釈恵念(石川恵一)であり、私とは前世も来世も表裏一体の由縁で結ばれている。

 私事は読者に失礼と認識しているが、本稿に必要不可欠な事の挿入は容赦を願うしかない。それは末弟に関する事であり、秀孝が入営先から帰宅後の年末に受胎した命であるが、出生時から元気よく健康優良児のごとく順調に生育するも、満三歳すなわち私が小学二年のとき半死半生が繰り返される苦しみにおそわれた。秀孝が修験として八法の手を尽くした事は想像に難くない。

 当時最先端の西洋医療にはことごとく裏切られ、東洋医療の粋を尽くしても、日々の一喜一憂から解放されることはなかった。母は初産の子を一か月で失った過去があり、その看護は私が近づく事を怖れるほど、家中に緊迫した雰囲気を醸し出していた。異母姉も私も次弟すらも自分の事が出来ても出来なくても自分で賄うように努めており、多くの支援者に救われる事も少なくなかった。

 そんな日常が一年にも達するころ、庭先に独り合掌で念佛を唱える女性が現われる。私は気ままに導かれて女性に近づくと、「おばちゃん助けてください」と手を引いて末弟の寝床に向かった。その際に女性の掌から放たれた痺れるような感覚は、今でも時々よみがえる、どうあれ、末弟を見舞った女性は「この子は大きな代償と引き換えに、元気な子に生まれ変わりますよ」とつぶやいた。女性の手を握ったままの私は、両親に対して「おばちゃんに泊まってもらって」とうったえた。

 両親も懸命に宿泊を願ったが、女性は「再び訪れる日が来ます」と言って立ち去った。

 大変な出来事は当日の深夜に発生した。疲労困憊している母は連夜の決まり事になった湯たんぽを末弟の足もと近くに添えると、連日のごとく母自身も末弟の呼吸に合わせて添い寝をしていた。私が寝ぼけ眼をこすった時すでに末弟を抱えた母は風呂場の水道蛇口でずぶ濡れになっていた。

 湯たんぽの煮え湯で末弟のアキレス腱ちかくは骨まで見えるのではないかと恐怖にふるえた。母は末弟の火傷を冷やすことと、自分の体温で末弟を温めんとする事に集中しており、秀孝は家に医者を連れて戻るために脱兎のごとくとびだし、あれよと思うがうちに薬箱を抱えて家にとびこむや、自ら手に盛った薬を末弟の火傷一帯へ包み込むように手当てしている。秀孝に遅れて駆けつけた医師らの治療で末弟は命をとりとめたが、成長に合わせて広がるケロイド状は見るにしのびない。

 翌日「件のおばちゃん」が火傷の薬を持参のうえ来宅してくれた。薬以外に懐から取り出したのは干し草のように見える葉や細い枝にも茎にも見えるもの、直ちに湯を沸かすように促すと、干し草と思しき葉や茎の煎じ方を教え導いてくれた。何で末弟が火傷した事を知っているのか?不思議としか言いようのない現実を前にして、両親は素直に「おばちゃん」の言いなりに従っていた。

 その夜が明けると、末弟は本当に三歳の子かと思うほど黒ずんだ便を大量に排泄しだした。必死に引き留めた両親の願いを受け入れてくれた「おばちゃん」は、秀孝が手配した近所の旅館に宿泊して末弟の様子を何日か見舞ってくれた。

 末弟の病状が快方へ向かうたび家の中にも明るさが増していった。

 いま私は直腸がんの摘出手術を受けて五年目を迎えたが、毎日の排便で日に合計六時間は便座から離れられず、便座に在る時は休みなくウオッシュ用のシャワー(極大の強さ)を使用している。その心身服役は自業自得の結果だから、自ら辛抱を逞しくするよう努めているけれど、健康維持に関する消化と呼吸の循環作用には、つくづく排泄機能が大事と認識する今日このころである。

 末弟の病歴は序章で「件のおばちゃん」にも触れたいが省くとする。なぜなら、『天縄文理論』が本質を導いてくれるからである。難関を突破した末弟の痛快は以後の人生すべてに及んでおり、その生き様は私に多くの示唆を与えながら、自らに課した身分相応を見事に守りとおしている。何事にも身分の枠を越えてしまう私には出来ない不可能なことである。

 小学生になった末弟は学校教育に対して、アレルギー反応を示すように変質していった。

 この症状を無視する政治の未熟さを憂うのは私一人でなく、現在の学制が義務化されるまで日本の文明は痕跡すら刻んでいない。養い・教え・禁じる難問は行政に出来る仕事ではないのだ。

 学校教育が義務化される事によって、日本は劣化のコースをまっしぐらに歩んでいる。

 それはそれとして、私は小学生になった末弟の家庭教師になるよう秀孝から命じられた。そもそも予習や復習は自発的な事情に生じるものであり、学校や教師が自らの不明を恥じないどころか生徒に宿題を与えるなど自らのサボタージュは、いかなる理屈を講じようとも理に適うものではない。

 とりあえず、私は末弟が学校から持ち帰った課題を手伝う事から取り掛かったが、末弟は教科書やノートを目の前にしたとたん、蕁麻疹に襲われたかのように体中をボリボリ搔きむしりだした。

 医師が何と言おうとアレルギーの発症と何ら変わるものではない。

 末弟一五歳は中学卒業と同時に秀孝の命で工業系夜間高校(無試験)へ入学したが、一年一学期で退学しており、その手引きを手伝った私には当然責任も付きまとってくる。私自身は両親に逆らって問題を生じること少ないが、弟二人を護るためなら両親の言いつけも受け入れなかった。

 次弟がイジメに出会った時は相手が誰であろうと駆逐か自死かの覚悟で臨み今に至っている。

 末弟は中学生の時に、高校生を相手にケンカして、約二メートル幅の用水路に落ちたが、家に戻り木刀を握りしめ仕返しに出向いた事があり、その報せを聞いた私は突き止めた相手の家まで押しかけ納得するまで退かなかった。恥ずかしい暴走でも、この生き様は変わらない。

 ともかく、昭和三十五年は未来の我が家を透かす大きな節目になったが、その最大転機が私自身の未来図を加速させる妻との再会であった。私の未来図に欠かせない一番は家督継承であり、いつ死ぬ覚悟も辞さない生き方から矛盾すると思われるかもしれないが、そこにはそれ相当の修行を欠かさず積み重ねるポテンシャルを有しており、その事柄は筆舌に表さなくても現実が証明するものだ。

 末弟が家内事業に加わった事で予想を遥かに上回る戦略が講じられるようになった。

 つまり、難病と火傷を克服して生まれ変わった末弟は天与の資質を得てよみがえったのである。

 一方、中学二年(当時一学年ごとに組替えがあった)のとき、同級になった妻との再会については意図しない廻り合わせが現在ただいまも繰り返されている。それは生死を決めるタイトロープの上を歩く私を救うものであり、その出会いからして、意図そのものが不可能なことなのである。

 私の宿命は家督継承にあり、それが達成できなければ自身の全否定であり、妻は三人の姉と二人の兄がいる末娘であり、栗原家のごとき癖の強い家族構成になじむ要素など一ミリもないのだ。

 妻は生母四一歳の時に生まれ、八歳の時に病の父と死に別れるが、長姉との年齢差二一歳、次姉は一八歳、三番目の姉は一五歳、長兄が一〇歳、次兄が二歳うえの姉と兄に恵まれている。

 その家庭環境は教科書のごとき、真面目で温和もの静かな人たちで構成される。ただし、母の血脈系譜には江戸っ子の気風が強いことから、女だてらに男まさりの親分肌が顔をのぞかせたりする。

 妻は父の存命中に日本舞踊や習い事などの裕福を味わったが、次第に先細りとなる家計に合わせて足立区へ都落ちしたかのようだった。私は悲運の母を思う情に操られていたので、異性を思う特別な感情は淡白この上なし、誰からも極端な硬派と認識されていた。父と死別後の妻も母オンリーの生活環境へ変化して、男まさりの遺伝子が働くのか異性に関心を示す様子は見られなかった。

 中学一年の時は互いにクラスが異なり、同級になるのは二年生の時であるが、私は学校生活よりも就業労務に偏向していたので、互いに接近する気持ちもなければチャンスも作ろうとしなかった。

 とはいえ、妻は利発で運動神経も勝れたゆえ、ソロバンの競技で代表となり、短距離走ほか卓球やバレーボールなどの競技は学校選抜の選手だったので、目立ってしまうのは仕方なかった。そのため何かと問題を起こす悪ガキのターゲットにされ、助けが必要と私に告げる級友も少なくなかった。

 私は納豆を売るアルバイトをしたとき、妻の母親に可愛がられ常連客になってもらった。その事は当時の妻に言えなかったが、恩人の娘となれば誰であろうと助けよう、そんな単純な気持ちで悪ガキ封じを厭わなかった。こうした事情を他に知られず行うのは簡単なことではない。

 令和三年いま互いに満八〇歳を迎えようとするなか、共にボケ封じのため想い出を語り合う機会を増やしているが、妻は当時を振りかえり「悪ガキに待ち伏せされた事が確かにあった。友達は何度も嫌がらせにあったそうだけど、私は一度だけ、お父さん(私の事)が裏で動いていたのね」と茶飲み話を楽しみ、時には三時間に及ぶ暇つぶしを大事にしている。

 中学卒業後の再会は郵政省に勤務した同級生がもたらしている。その同級生は中学二年の同級会を思いついて、自ら幹事役を買って出たそうであるが、中学二年が何とも気になったので、私は級友に対して「幹事役は何か狙いがあるはず調べてくれ」と頼むことにした。

 狙いはすぐに判明した。幹事役は当時の妻をナンパしようとして、わざわざ中学二年に狙いをつけ同級会を企画したというわけだ。メンドクサイ事をと思うだろうが時代の為せるところ、私は本人が納得するなら勝手にどうぞという立場だったが、当時の妻には迷惑だったとの報を受けていた。

 誰も嫌な思いをしないまま、同級会を盛会で終わらせ、幹事役も目的をスッキリ諦める、そうした結果を導くために私は何をすれば良いのか、私は仕事の合間を繕いながら、同級会への出席が増える工作に一役かって、出る気がなかった同級会へ参加することにした。

 当時すでに政治家の選挙参謀としてのイロハを身に帯びていた私にとっては、同級会のごとき遊び目的で集う会を工作するなんぞは造作もなかった。ただし、当時の妻に再会した私は「こんな純真が穢されてたまるか」との念に取りつかれ、私自身が付きまとうストーカーになってしまった。

 私と妻ともに二〇歳になった中秋の出来事であった。

 (続く)

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