修験子栗原茂【其の三十四】小笠原流の有職故実

 以下、源氏箕作流の大筋にしぼるが、その前に一方の平氏を要略しておきたい。

 平氏(たいらうじ/へいし)すなわちタイラのカバネ(平姓)は皇孫三代目の賜姓であり、四つの流派が出現して、家紋はアゲハチョウ(揚羽蝶)を基本としている。四流とは、桓武天皇(七三七~八〇六)、仁明天皇(八一〇~五〇)、文徳天皇(八二七~五八)、光孝天皇(八三〇~八七)が勅許した賜姓降下に始まるが、もっとも歴史に名高い事績を刻んだ流派は葛原(かずらわら)親王系に集約されており、いわゆる桓武平氏と呼ばれるうちの高望王系の坂東平氏が知られている。

 常陸平氏や伊勢平氏も同系で、北条氏や坂東八平氏など含めるケースもみられる。とはいえ、有職故実は真贋これ入り乱れる風習が史家の常であり、その原因は文献渉猟に偏向した御用学を強制的に刷り込ませるため生じるのである。表現が異なる弱肉強食もまた同じ原因から生じている。

 ともかく、平朝臣の賜姓を最初に上奏して勅許を得たのは桓武天皇の皇子葛原親王に始まる。

 葛原親王は異母兄弟の大伴皇子(のち淳和天皇)と共に元服へ臨んでおり、薬子の変(八一〇)に前後して式部卿その間に大宰帥(八一二)を兼ね、淳和天皇即位(八二三)後に弾正尹へ遷り、息子三人(長男高棟王・二男善棟王・三男高望王)の賜姓(平朝臣)降下を勅許される。再び式部卿(八三〇)へ復すと、翌年には天武天皇の託基皇女(たきのひめみこ)以来の一品に叙せられている。

 平姓の由来も諸説あるが、桓武天皇に因む平安京から、平の和訓タイラ(多比良)に通じるという捉え方が一般的な周知とされている。俗説「東国の源氏に西国の平氏」は嘘っぱち、当然ながら東国盤踞は高望系武家の坂東平氏が平安京朝廷勢力を移入した事から根付いていったのである。

 平将門を倒した常陸の平貞盛、貞盛の四男維衡の子孫が伊勢へ移住これ伊勢平氏の祖、のち伊勢の棟梁忠盛の嫡男(白河院落胤説などある)清盛(一一一八~八一)が平氏政権の樹立を成すが、政権崩落を壇ノ浦の戦(一一八五)と決めつけるのは正しいのか。

 なぜか、伊勢平氏を倒した源氏頼朝を支えたのは、鎌倉幕府の執権北条氏や坂東八平氏でいずれも高望系坂東平氏を基軸に編成されている。高望王を高見王(未詳皇族)の子としたり、高望王の生没年月日が定まらないのは、有力多数の坂東平氏が有職故実を軽視した事に原因が潜むのである。

 有職故実の軽視は権力抗争に原因が潜んでおり、私が如何なる戦記も信じない所以に通じている。

 私の自負する有職故実は、修験が信託する口伝に由来するが、その裏付けにふさわしいのは、日野流柳原家と土師流菅原家に一貫する家伝があって、その双方とも修験の口伝に合致するからである。上意下達や下剋上は戦記の常であるが、公家社会と武家社会に共通し得ない有職故実は、真贋それら騙るに落ちる不信の塊であり、その実証は身近な日常生活にも同居するのである。

 しからば、その実証は決して坂東平氏に限られず、歴史的な文明全体に潜んでいることになる。

 賜与された平朝臣と高望王を名乗るのは、宇多天皇の勅命(八八九)を受けての事であり、上総介任官(八九八)後の高望王は長男国香、二男良兼、三男良将を伴って上総へ赴いている。この四人は任期が過ぎても帰朝する事なく、国香は前常陸大掾源護の娘と婚姻、良将は下総相馬郡の犬養春枝の娘と婚姻するなど、在地勢力の中枢を占める利権の拡大にエネルギーを注いでいった。後に高望王は西海道の国司として大宰府に居住(九〇二)、大宰府へ赴任した道真と時を同じくしている。道真が薨去(九〇三)する八年後(九一一)が高望王の薨去年とされている。

 高望王が側室に産ませた子良文(八八八~九五二)が坂東八平氏の祖とされている。良文の兄達に連なる系譜としては、国香の長男貞盛が常陸平氏の祖となり、貞盛の四男維衡の系が伊勢平氏の祖となり、貞盛の弟繁盛の系が常陸平氏を強化して、貞盛の二男維将の孫直方は居館を鎌倉に構え実際は在京軍事貴族として活動している。のち直方は娘婿で同じ軍事貴族の源頼義に鎌倉領を与えている。直方の子孫を自称する中には執権北条氏や熊谷直実などいたとされる。外孫としては、八幡太郎(源義家)ほか賀茂次郎(源義綱)や新羅三郎(源義光)、藤原棟綱(北家長良流)や同朝憲(北家勸修寺流)などの名も挙げられている。

 国香の弟良兼の長男公雅(きんまさ)は将門に敵対した身内と一線を画し、拉致された将門の妻子逃亡を手伝うなど、貞盛らとは中立的な距離を置いたとされる。将門の乱では坂東八か国の東国掾の一人として、鎮圧(九四〇)後は安房守に任じられ、秀郷の後任(九四二)武蔵守に転じると荒廃が著しい金龍山浅草寺の再建に尽くしている。

 良兼の弟良将の三男が将門である事は新たに触れる必要もあるまい。

 以下、高望王には未詳の良孫(よしのり)、良広(土佐宇賀氏の祖と伝わる)、良持(良将と同一視されるが未詳)、良茂(未詳)、良正(良将の子の説もあるが未詳)、もう一人が坂東八平氏の祖良文で以上の子供たちの存在が認められるという。

 良文は高望王と三人の兄が東国下向(八九八)したとき、四人の中に含まれていなかった。良文が醍醐天皇(八八五~九三〇)の勅命で相模平定を達した時三六歳(九二三)とされ、そのために得た所領は武蔵熊谷郷村岡(現埼玉県熊谷市)とも相模鎌倉郡村岡(現神奈川県藤沢市)とも下総結城郡村岡(現茨城県下妻市)とも言われ、村岡五郎を名乗ったとされる。その居館は前記のほかに現在の千葉県東庄(とのしょう)町の大友城や同香取市にも建てられたとされる。

 良文は謎の多い人物とされ、陸奥守(九三九)のとき、出羽(現山形県)で俘囚と秋田城司の軍が衝突ただちに鎮守府将軍に任じられ、鎮圧後しばらく胆沢城に留まるが、翌年には坂東に戻ったとも伝わり、晩期は下総海上郡から阿玉郡へ移り、天暦六年(九五二)十二月十八日が命日とされる。

 良文の長男忠輔は早世、将門の娘春姫を正室とした三男忠頼の系に千葉氏、上総氏、秩父氏、川越氏、江戸氏、渋谷氏(後裔が佐々木秀義を庇護下に置いた事は前述の通り)など生まれ、五男忠光の系に三浦氏、梶原氏、長江氏、鎌倉氏など生まれ、その子孫から更に多数の氏族が生まれ、鎌倉幕府創設では多数の御家人を輩出したとされる。

 坂東(関東地方)八平氏とは良文を祖に八つの氏族に大別される文字通りのこと、この事は武蔵を軸心として、有力な武士団が自らの所領拡大に邁進した時代と認識すれば良いのではないか。

 私が壮年期のとき、有識者と言われる多数の学歴信奉者と言葉を交わすケースに恵まれたが、義務教育も満たしていない私よりも、有識者が歴史に無知あるいは蒙昧な事に唖然として、その非常識が通用して臆面もなく公開される時代に生まれた事を嘆いたことがある。

 しかし、今は嘆いた当時の自分を嘆くようになれた事に感謝している。それはそれとして、平氏に遅れをとりながら、平氏が刻んだ試金石を源氏が如何程に磨き上げたかに触れたい。

 源氏(みなもとうじ/げんじ)すなわちゲンジのカバネ(源姓)は皇孫二代目の賜姓で、平朝臣の皇孫三代目よりも一代前に源朝臣を称している。家紋はササリンドウ(笹竜胆)を最古の紋として、後世は時流に沿った工夫を凝らし、源氏に限る事なく各種の紋章が加えられていった。

 源氏は桓武天皇の第二皇子嵯峨天皇(七八六~八四二)系に始まるが、嵯峨天皇の皇子二十三人の中から十七人の皇子が臣籍降下して源姓を称している。そのうち、もっとも歴史に名高い事績を刻む流派は第十二皇子源融(とおる)の後裔で地方に土着武家を創建した渡辺氏、松浦氏、蒲池氏などの派生を構築している。嵯峨源氏の特色は一字名で二字名を用いないが、融の二男昇は二人の子を光孝天皇とその皇子に養子入りさせるため特に二字名(是茂と衆望)の命名を行っている。

 源氏は嵯峨源氏に始まるが、正親町天皇(一五一七~九三)の皇子すなわち江戸時代に至るまで、約八百年の間・歴代五十四天皇の即位を経る間に二十二流を輩出しており、そのうち、朝廷や幕府の中枢で重鎮としての命脈を保った系のほか、全国各地の豪族としての家督継承を維持した後裔たちは私たちの身の回りに、日本の潜在的エネルギーとして今も息づいているのである。

 ここでは小笠原氏が生まれるまでの大筋に焦点を絞っていきたい。

 清和天皇(八五〇~八一)の第六皇子貞純親王は上総や常陸の太守に任じられ、中務卿や兵部卿を歴任したが位階は四品に留まっている。二人の王子(経基と経生)が源姓賜与で臣籍となるが、うち経基(?~九六一?)王を清和源氏の祖とする説に異論が生じている。清和源氏は貞純親王の兄陽成天皇の血筋と唱えるもので決着する筋ではないため「閉じられた空」には構っていられない。

 経基(つねもと)王は武蔵介として現地に赴任(九三八)、検注の実施を拒否する在地の豪族武蔵武芝(足立郡司で判代官)と抗争になり、武芝支援のため下総から私兵を率いた将門が駆けつける。武装を固めた経基も比企郡の狭服山に陣を敷いた。以後、時局は将門や純友の乱に至るが、経基王も時勢の波に呑まれる一人であり、救いは満仲(九一二?~九七)など子だくさんだった事である。

 満仲は経基の嫡男で多田源氏の祖とされる。史料上の初見は将門の子が入京したと噂(九六〇)が広がったとき、検非違使や大蔵春実(妻が小野篁の孫好古の娘)らと共に捜査した中に記載される。のち摂関家に仕えた満仲は摂津、越後、越前、伊予、陸奥などの受領(現地赴任先の行政責任者)を歴任して、佐馬権頭(うまのつかさ)→治部大輔(おさめるつかさ)を経て鎮守府将軍となる。この経歴は莫大な財を成すことになり、摂津住吉大社の神託に従い多田盆地の開拓に尽くし、その所領に郎党多数を養い武士団を形成その統率を坂上党棟梁に託すると、荘司と掛け合い西政所つぎ南政所と東政所まで、全て満仲の武士団で警護する事になった。これ多田満仲の名が伝わる所以である。

 時代は花山(かざん)天皇(九六八~一〇〇八)の御代で、朝廷を牛耳る外戚藤原氏の権力闘争が三つ巴の様相を示していた。花山天皇は結果的に一条天皇(九八〇~一〇一一)へ譲位(九八六)を為すが宮中脱出のとき、さらに一条天皇の即位に際するとき、その身辺きわめて危険な状況下で無事警護の役を果たしたのは満仲の武士団とされる。

 これらから、満仲が具体的に何で財を成したのか、ヒントは坂上党にあり、坂上田村麻呂の後裔を棟梁とする武士団に秘められ、全国各地の薬師寺と連動する歴史に培われているのである。

 満仲の子も多数おり、長男頼光(九四八~一〇二一)は摂津源氏の祖、二男頼親は大和源氏の祖、三男頼信(九六八~一〇四八)は河内源氏の祖(この系から加賀美氏が出る)、他に見逃せない情報多数あるが、ここでは省略とさせていただく。

 頼信は頼光と同じ藤原道兼(関白)に仕え、死後は道長に仕え諸国受領(ずりょう)や鎮守府将軍など歴任している。河内に土着して石川郡(現羽曳野市)に壷井荘を拓き香炉峰の館を創建、優れた武勇は平維衡、平致頼、藤原保昌らと共に関白道長の四天王と称された。甲斐守在任時には平忠常の乱(一〇三一)を平定この成果は、河内源氏が東国進出する際の地歩を固める事に活かされた。

 時に忠常の抗争相手が前記の平直方(なおかた)だった事から、直方系坂東平氏は河内源氏を主と定め追従したため、東国進出も頼信系源氏が主導権を握る先駆けの礎を築いたことになる。

 頼信の子は長男頼義(九八八~一〇七五)はじめ、二男頼清(九九五~一〇七三)が信濃村上氏の祖、三男頼季が源氏井上氏の祖、四男頼任が信濃河内氏の祖、五男義政が常盤五郎として、それぞれ分家を創建その分派が信濃を埋め尽くしていった。

 嫡男頼義は香炉峰の館に生まれ、若年から弓の達人として、武勇の誉れ限りなし、父頼信の推挙で関白頼道の武者となり、蔵人に推挙された弟頼清と共に仕える側近だった。忠常の乱でも父と一緒に大活躍して、その名を天下に知らしめたとされる。頼義が桓武平氏の嫡流直方の懇願で娘婿になった時期は諸説あるが、直方と共に在京の軍事貴族として仕えながら、直方の所領である鎌倉の財を一切譲渡された事は後の幕府創設に大きな地の利となっている。

 前九年の役が勃発(一〇五一)、陸奥守の藤原登任(なりとう)が安倍氏(奥六郡を統治)と戦い敗戦の結果更迭された。その引き継ぎに任じられたのが頼義であった。この奥州史に関しては私にも持論があること、要略で済まないため述べる気にはなれない。このとき歴史に華々しくデビューした勇者が頼義の嫡男義家で父に勝るとも劣らない弓の達人とされている。

 ともかく、戦後(一〇六三)の頼義は正四位下伊予守に任じられている。当時の経済大国は伊予と播磨が抜きん出ており、その受領は公卿一歩手前の恩賞と称されたほどの価値を示していた。

 頼義の子は長男義家、二男義綱、三男義光、四男親清など、義家は岩清水八幡宮で元服した事から八幡太郎(一〇三九~一一〇六)と、義綱は賀茂神社で元服した事から賀茂次郎(一〇四二?~一一三二)と、義光は近江の大津三井寺新羅善神堂(新羅明神)で元服した事から新羅三郎(一〇四五~一一二七)と称される。親清は三島四郎を名乗ったとされる。他の子女は省略を許されたい。

 生没年は異説あるが目安で表記している。生地は三人とも香炉峰の館とされるが、義家は母の実家京都平直方邸との説もある。活動の時局は摂関政治が院政に移るころ、生前の極位は父と同じ、父が没した後に私戦と解された後三年の役(一〇八三)が始まり、以後ぎくしゃくした公私の感情は義家没後の一族郎党にまで尾を引くことになる。

 寛治五年(一〇九一)義家の郎党と義綱の郎党が河内の領有権を争って兵を構えた。これは義家が陸奥守のとき、公戦でない私戦に官兵を動かし、兄弟が助勢に駆けつけたのに苦杯を喫した結果から生じた一連とされている。また兄義家に代わって弟義綱の台頭が著しかったことも加わる。

 義綱は陸奥守就任(一〇九三)の翌年に出羽守襲撃事件を解決して、官位が兄の従四位上に並ぶと翌年(一〇九五)正月の除目で当時陸奥守より格上の美濃守に就任している。しかし、好事魔多しの常は比叡山との争いで奈落へ突き落される。一方、義家は十年後(一〇九八)に正四位下に昇進する事で院昇殿を許されている。後三年の役で費消した官物の借りを完済したからである。

 長治元年(一一〇四)義家と義綱の兄弟は延暦寺の悪僧追補で面目躍如の一端を示した。二年後に義家の四男義国(子息が足利氏と新田氏の祖)が、叔父義光らと常陸で開戦、朝廷は直ちに父義家へ義国を召し進ぜよと命令する一方、義光らにも捕縛命令を下した。義家この最中に没している。

 義家(河内源氏二代目)を継いだのは三男義忠であった。家督相続の三年後(一一〇九)何者かに斬られた義忠は二日後に死んでしまった。後の真犯人義光説も藪の中である。当初の美濃源氏重実の犯人容疑は無実が証明され、次の嫌疑は義綱と義明(義綱の三男)の親子にかけられた。犯行現場で発見された義明の刀が決め手とされたが、義綱は息子五人と共に近江甲賀の鹿深(かふか)山に籠り徹底抗戦を講じたが、息子五人が自害その父のみ死にきれず佐渡へ流された。

 冤罪は義光没の二十三年後(一一三二)に義光を真犯人に扱う事で成立したとされる。

 さて、桓武天皇が賜姓平氏を世におくり、その第二皇子嵯峨天皇が賜姓源氏を世におくり、平氏と平氏の切磋琢磨から本流とされる直方が生まれると、次に生まれた源氏と混和したあと、源氏もまた平氏が歩んだ道を踏襲しながら、律令制が編み出した封建制を深化させるために、公家と武家による公武合体を目指したが、これ容易ではない渦中の一端を示すにすぎなかった。

 甲賀の地で自害したと伝わる義綱の息子五人は本当に死んだのか、私は今も謎を抱えている。

 それはさて、義光が長兄義家の助勢で官を辞してまで奥州へ駆けつけるのは、義光四三歳のときで官職は佐兵衛尉に任じられていた。義綱が助勢に参じなかった事を憶測しても意味はない。弓馬術に秀でた義光が戦略性に勝れた兄義綱を朝廷に残すのは当然のことではないか。

 京に戻った義光は刑部丞で復職し、のち常陸介、甲斐守を経て刑部少輔(従五位上)となり、妻を常陸平氏吉田一族から迎えたと伝えている。この事は義光の長男義業(一〇六七~一一三三)や三男義清(一〇七五~一一四九)の生没年に照らすと、常陸平氏吉田一族との婚姻は後三年の役以後ゆえ後妻としか思えない。義光が常陸平氏の娘を妻にしたとき息子達はすでに成人していた。

 義光に欠かせない情報は、大東流合気柔術の開祖であり、流鏑馬に代表される弓馬軍礼の故実では小笠原流や武田流などの元祖であり、南部氏が今に伝える菊一文字の鎧なども義光流とされる。また豊原時忠から学ぶ笙は秘曲の名器とされる交丸を得たとされており、後三年の役で京を後にする際に紛失を恐れて時忠へ返した事が知られている。

 宗家河内源氏については、河内源氏流足利氏の台頭あるまで、義光系の甲斐源氏が分裂する事なく頼朝軍に合流したため、宗家を引き継ぐ形で源氏本流の役割を果たしたことになる。

 義光の嫡男義業(よしなり)は母の実家である常陸平氏吉田家の娘婿になった事から、同久慈郡の佐竹郷に本拠を構えて、嫡男昌義を佐竹氏の祖としている。ちなみに、義業の妻の兄すなわち義兄が河内源氏二代目の義忠を斬ったという真犯人説もあるが常陸源氏佐竹氏と共に省略したい。

 甲斐源氏の祖(武田冠者)とされる義光の三男(二男とも)義清(一〇七五~一一四九)、義清の嫡男清光(一一一〇~六八)の息子たちには、武田信義(一一二八~八六)、逸見光長(一一二八~没年不明)、安田義定(一一三四~九四)、加賀美遠光=次郎(一一四三~一二三〇)、さらに浅利義遠(一一四九~一二二一)のほか生没年不明の子も多く輩出されている。

 さて、小笠原氏の祖長清(一一六二~一二四二)の父加賀美次郎の実父は祖父義清で父清光は養父ともされる。母は義清の長兄(佐竹)義業の末娘だから平氏国香流大掾鹿島氏=吉田成幹の妹ゆえに河内源氏二代目義忠を斬った説の犯人成幹(=鹿島三郎)は義兄に当たる。私の仮説では加賀美氏が美濃各務(かがみ)郡に勅命で入植した里帰り組の勝(すぐり)の後裔と自負している。

 それは私の遠祖である美濃不破郡栗原郷に勅命で入植した里帰り組の勝の後裔が各務氏と同じ如く武田氏十一代目信成の子武続として、甲斐東郡栗原郷(現山梨市下栗原)を本拠に栗原氏の祖となる歴史を刻んでいるため、私なりのフィールドワークでそれ相応の鑑識を済ませてあるからだ。

 ちなみに、武田信成(生年不明~一三九四)は室町時代の甲斐守護であり、嫡男信春(生年不明~一四一三)は武田氏十二代目、栗原武続(たけひで)は末子とされる。

 なお、加賀美次郎の同世代が八幡太郎義家の曾孫頼朝(一一四七~九九)であり、頼朝の父為義は河内源氏の棟梁を称したが保元の乱で長兄義朝に処刑されており、頼朝の祖父義親は官吏殺害で隠岐配流のち再び官吏殺害の果て平正盛に誅殺(のち義親を名乗る者が数次出現の説あり)される。

 つまり、鎌倉幕府は義家系義親(二男)流が開府しており、室町幕府は義家系義国(四男)流から出る足利源氏の高氏(尊氏)が開府しており、頼朝は義家の四世孫・高氏は同八世孫にあたり、この系統は清和源氏を称した貞純親王の王子経基王に始まっている。

 そして、清和源氏経基を継ぐ満仲の嫡男頼光が摂津源氏、二男頼親が大和源氏、三男頼信が河内源氏の祖となり、頼信の嫡男頼義が平氏本流となった直方家と婚姻して、東国進出も果たしたが、逸る思いが奥州進出に失態を来してしまった。それを補ったのが義家の弟義光(新羅三郎)で甲斐源氏の祖となり、父頼義の弟で叔父の頼清や頼季(よりすえ)とも近接したとされる。

 叔父頼清の極位は従四位下、安芸・肥後・陸奥の守護をしたあと、信濃北部で村上氏の祖となって波多氏らの同族と長く繁栄したとされる。叔父頼季は従五位下で当初は近江に本拠を置いたが、すぐ信濃井上郷に移住して、信濃源氏井上氏の祖となり、その勢力も長く維持し続けている。

 私は心酔するヤマトタケルにかんがみて、八幡太郎、賀茂次郎、新羅三郎の三兄弟が事あるたびに想い浮かぶこと少なくない。特に気になるのは義家の嫡男義忠が斬り付けられ、その真犯人説が犯人死後の二十三年後その間に次兄義綱家が崩落抹消に陥っており、以後、義家系によって、鎌倉幕府や室町幕府が創設され、義光系の分流分派が今も國體の中枢を担っているからだ。

 すべての謎は有職故実と家督継承に潜んでいるのであり、そこに欠かせない直伝が小笠原流の有職故実にも刻まれており、その足跡をたどる事の興趣は日本人の多くに関わると思うのである。

(つづく)

無料メールマガジン

落合莞爾氏の新コンテンツや講演会の予定に関する情報、
小山内洋子氏をはじめとした新講師陣の新コンテンツや講演会の予定に関する情報を、
いち早くメールでお知らせします。

>無料メルマガのご案内

無料メルマガのご案内

落合莞爾氏の新コンテンツや講演会の予定に関する情報、
小山内洋子氏をはじめとした新しい講師陣の新コンテンツや講演会の予定に関する情報を、
いち早くメールでお知らせします。