修験子栗原茂【其の三十二】弾正=公安の理念

 さて、再び箕作阮甫へ戻るとする。

 宇多源氏佐々木流六角定頼(一四九五~一五五二)が近江箕作城に住み弾正を称したことが、箕作姓の始まりというが、この姓を最初に名乗った人物は明らかにされていない。

 六角氏の本拠は観音寺城(現近江八幡市安土町)であり、築城は氏頼(一三二六~七〇)で六角氏四代目と六代目の当主と知られる。氏頼(うじより)の父時信(一三〇六~四六)は、後醍醐天皇の第一皇子一品中務卿(いっぽんなかつかさきょう)尊良(たかなが)親王が土佐配流の際に警護役を担った要人であり、南北朝騒乱の渦中に浮沈した近江守護の家督を氏頼に託して、氏頼もまた家督の近江守護を死守せんと超克の働きを為した歴史人である。

 定頼は六角氏十四代目当主であり、箕作城(現東近江市五箇荘山本町箕作山)の築城は(一四六七~八七)政堯で定頼の改修と転居(一五五〇)は死去二年前とされる。観音寺城のほか周囲の支城も六角氏の築城は全部が山城であり、本拠は日本五代山城の一つと言われていた。それら全体が廃棄の運命に曝されるのは、織田信長との「観音寺城の戦」に大敗した事が始まりと伝えられる。

 鈎の陣は六角氏十二代目当主の行高=高頼(生年不明~一五二〇)が当該者であり、高頼の嫡男は享年二七歳すなわち定頼の兄氏綱(一四九二~一五一八)、兄が一五歳で家督相続と当主十三代目を継いだとき、二男定頼は僧籍にあり、弟たち全員の処遇は奉公衆(家臣の佐々木一族)へ養子入り、他に出家が一人いたともいう。氏綱二五歳のとき戦傷が原因で病臥のため、定頼は僧籍のまま陣代で政務を代行したとされ、父高頼没の二年前に死ぬ氏綱の家督は定頼が還俗して継いでいる。

 定頼は楽市楽座の創始者であり、本拠を核に一大商業都市を形成しており、後の世に出現する一国一城令の礎を講じたとされ、信長の楽市楽座は定頼の模倣に過ぎないと聞いている。

 ちなみに、信長に大敗した観音寺城の戦(一五六八)は定頼没の十六年後にあたる。

 六角定頼が生きた時代は、南北朝統合の象徴となる後花園天皇(一四一九~七一)から譲位された後土御門天皇(一四四二~一五〇〇)の御代に始まり、後柏原天皇(一四六四~一五二六)と後奈良天皇(一四九七~一五五七)の御代ゆえに、足利八代目政権から同終末期すなわち戦国大乱の鳴動が盛んになる頃で、一方の六角氏は本拠を甲賀シノビ衆の本丸へ潜ませる頃にあたる。

 時を同じくして始まるのが、甲賀シノビ衆の広範な地域への進出であり、その穴場として最適地の条件に見合ったのが美作だったのである。シノビは潜むからシノビなのであり、甲斐武田氏の家臣で知られる三弾正すなわち高坂昌信(逃げ弾正)、真田幸隆(攻め弾正)、保科正俊(槍弾正)などは目立つ事を特命とした異例のシノビ衆とも教えられた。

 もう少し六角氏に触れなければならない。

 定頼の嫡男(一五二一~九八)は、定頼二七歳の時すなわち管領家の細川宗家十四代目澄元と同十五代目高国との間に生じた両細川の乱を終結に導いた頃に生まれている。元服一三歳、家督相続三二歳(定頼没による相続)、嫡男義治へ家督譲渡した後の剃髪三七歳、元服の際に義賢(よしかた)と改名、剃髪時に承禎(じょうてい)の名をもらうが、ここでは承禎の名を用いることにする。承禎の個人情報に接すると、私は承禎こそが箕作家の創建者だったと思っている。

 永禄十一年(一五六八)足利義明を奉じた信長が上洛を始めると、承禎は三好三人衆と共に信長と戦ったが、観音寺城の大敗で本拠を南部甲賀郡へ移した。以後、元亀三年(一五七二)までの展開は権力志向の常道「昨日の敵も今日は友」であり、手打ち(仲直り)も策略と恥じることなし。最大の掟破りは寺院に放つ火付けだろうが、信長には菩薩も先祖も敵としか映らないのだろう。

 湖東に出陣(一五七三)した承禎は鯰江(なまずえ)城に留まった。信長は百済寺に陣を構えたが六角支援の寺と知るや、寺を焼き払って岐阜へ帰還している。他の情報は読者に委ねるとして、その後の承禎は甲賀南部の信楽(しがらき)へ逃れたと伝えられるが、信長が畿内のほぼ全域を制圧した時は四一歳とされ、本能寺の火炎に焼け死ぬのは八年後(一五八二)とされる。

 長いこと消息不明となる承禎が再び確認されたのは、秀吉の御伽衆一覧に名が見えるという記事の事を指し、秀吉没の一年前(一五九八)だったと伝えられる。さらに、承禎の嫡男義治が没したのは十四年後(一六一二)で、二男義定の没年(一六二〇)は更なる八年後とも伝えられる。

 以後、宇多源氏佐々木氏の嫡流六角氏は政体での存在感を薄めていき、受けて代わるのが京極氏の役目となるが、その京極流も多数の分家を創建している。これ日野流との共時性と言えまいか。

 天地(アメツチ)のはじめ、高天原に成りませる神の名(ミナ)は、ミナカヌシ、タカミムスビ、カミムスビ、このミハシラの神ミナ独り神ナリマシテ、身(ミミ)を隠しタマイキ。…略…。

 神武(初代)朝から崇神(第十代)朝までの歴代八天皇、崇神朝から応神(第十五代)朝までの歴代四天皇、応神朝から継体(第二十六代)朝までの歴代十天皇、そして畿内の律令制を整えるまでのカバネの世に一区切りがつくと、ツカサの管理下における家伝創建の時代が始まり、天皇家の外戚に昇った藤原氏が四流の家柄を創建することになる。

 つまり、日本の政体構造は神格天皇の負託を受けて始まり、その初期段階から現在まで続く系譜は藤原氏の北家流に代表され、そのうち今も家督継承の家格を保つのは日野流ではなかろうか。

 次に長い歴史を保つと言えるのは、佐々木氏の四家にあり、それは土師氏の三家に通じる太い絆を有しており、佐々木流は六角氏(近江)と京極氏(鎌倉)の地政学があり、これらの有職故実を構造設計したのが菅原氏と言えまいか。そして、その時局に見合った歴史人が道真ということ…。

 すなわち、日本の政体はカバネの世を受け継ぐことから、律令制を整えるツカサの世を形成すると同時に家伝創建を為しつつ、家柄を強化する封建制に基づくミョウの世を国力として、開国に備えた意識改革としてのオホヤケを社会に根付かせようとした。

 それを裏付けるのが壬申戸籍と国勢調査であるが、日本人の最大ネックは戦争にあり、専守防衛の覚えは似合うとしても、戦国武将でもない官軍ごときが戦争などすべきではない。幕末維新の戦争は幕府が退いたから小さく済ますこと出来たが、西南の役は一神教の軍略軍術そのもの、新政府が招き寄せた英仏軍の試金石にしかならない。同様に仕込んだ教育行政も一神教の似非教育であった。

 その代表的事例が皇国史観で日本人これ天皇の赤子とマインドコントロールしている。歴代天皇の諡号を強制的に暗記させるだけの教育は、中身が真逆でも現在と変わらない、それが日清日露を経て世界大戦へなだれ込む遠因ともなる。これも有職故実と家督継承を軽視するからである。

 ここで弾正台に触れておきたい。

 弾正台は律令制下の太政官制に伴い設置された八省の一つであり、職掌は監察や治安維持など公安機関に任じるため、行政や立法を掌握する太政官の影響外に置く独立機能を理想とする。とはいえ、形を整えても魂が宿らない法の綻びは歴史の常であり、権力分配の理屈に生きる役人根性の公平感は先例に倣うだけのこと、すなわち「太政官(長いモノ)には巻かれろ」の一辺倒にすぎない。

 弾正尹(だんじょうのいん/だんじょうのかみ)は長官(従三位相当)を指し、機能喪失ある際に時の親王が担う例も多くあり、幕末期には中川宮朝彦親王(二品弾正尹)の例がみられる。

 尹の下に働く地位を順に記すと、弼(ひつ/すけ)に大弼と少弼あり、忠(ちゅう/じょう)に大忠と少忠あり、疏(そ/さかん)に大疏と少疏あり、更なる下に台掌や巡察弾正なども置かれた。

 弾正を称した戦国大名で知られるのは、上杉謙信の弾正少弼(一五六一ー七八)この官職は養子の景勝が受け継ぎ、その嗣子定勝は弾正大弼に叙任され、江戸期では米沢上杉家当主が代々その家督を名乗っている。松永久秀への叙任(一五六〇)も弾正少弼であり、代々「弾正忠」を自称した織田家伝承には「織田弾正忠 平信長」とする朝廷公認の記録が所蔵されるという。

 改修(一五五〇)なった箕作城へ転居した定頼は、天文二十一年(一五五二)一月二日が死亡日と記録され、その官位は従四位下(弾正少弼)で幕府の管領代そして近江守護大名と知られる。

 上杉謙信(一五三〇~七八)は、長尾為景(関東管領上杉家に仕える越後守護代の三条長尾家)の四男(二男また三男とも)に生まれた。長尾虎千代→同景虎→上杉政虎→同輝虎→不識庵謙信の改名経緯があり、虎千代七歳のとき為景が隠居その家督を継いだ兄晴景を養父とするが、特段に勝れ群を抜く虎千代の才覚は元服(一五四三)景虎と改名するや、その真価は周囲の耳目を見張らせている。

 ここに要する脚注は上杉氏の成り立ちであるが、この氏姓も佐々木氏と並び立つところあり、その祖を突き詰めていくと、奥州藤原京へ達するため別に機会を設けるほかない。そもそも何ゆえ鎌倉が新都造営の地と定まったのか、そのキーワードもまたヤマトタケルと私は自負するのである。

 それはさて、定頼と謙信の齢の差は三十五年、地政学上の相違があっても、弾正台の理念と本質に言語道断はゆるされない。要は弾正台に対する認識の問題であり、弾正すなわち公安を第一義と覚る私にしてみれば、飽和と不飽和を見極める境地が弾正台の心構えではないかと思うのである。

 現人神の型示しと振る舞いを第一義と覚る私の実践としては、その身の丈ギリギリに生きるがゆえ時々刻々たる変容もみのがせない。見逃したら命を失う事だってありえる。つまり、時々刻々に伴う必然性としての即断即決「待ったなし」の心構えが必須となるため、曖昧模糊たる善悪に取って代るモノサシに私は「飽和と不飽和の許容範囲すなわちニュートラル」を基準にしているのだ。

 十人十色あるかぎり、モノゴトの善し悪しは千差万別が当然であり、そこに派生する卑しい「ないものねだり」に潜むエネルギーが飽和の限界に達したとき、そこに群がる人の善悪など無力の極みと認識するのが世間ではないのか。これを炎上と騒ぐのが現状ネットの世界ではないのか。自分勝手な異なるモノサシで善悪を講じる事より、自然淘汰された後の不飽和状態を認識して、その淘汰に働くエネルギーを検証しないかぎり、弾正=公安に関する理念と実相の違いなど判るはずあるまい。

 有職故実と家督継承の真価にかんがみれば、弾正=公安の理念は勧善懲悪を見極める事にあるため治安の本質に精通しなければならない。すなわち、今ただいまの今に精通しなければいけないのだ。直中に通用したモノゴトが十年→百年→千年と生き続けるとき、そのモノゴトは善であり、不飽和=継続を保ち続ける治安の本質に成りえるのではないか。

 養い・教え・禁じる、法の理念に遵うなら、教育の場は「家庭と学校と社会」の次元があり、その整合性が一貫するところを理想とするが、そんな理想を信仰する現実なんぞありえない。となれば、昨日と今日の何処に違いがあるのか、その違いを見極める自覚を高めるほかない、その自覚が高まる先に見える自分自身の姿こそが人間の信仰ではないのか。

 私が行政の監視下に置かれた事を自覚したのは中学生に達したころであるが、警視庁公安三課との関係を深め始めたきっかけは、昭和四十年代に多発した教育の瓦解現象に端を発している。マスコミ用語に転用すると、左翼運動の過激化と訳されるのだろうが、その先棒を担っているのが自分達マスコミと自覚しないところに日本社会の悲劇が潜むと思わざるをえない。

 戦後日本の政官業をリードした主役はテレビの視聴率に集約されており、それはインターネットに転じても変わらないが、視聴率のチャートに一喜一憂する相は今やリアルタイムで周知され、それら奇形に操られて嬉々とする民主化は生まれて間もない命にも根付こうしている。この奇怪な先駆けも昭和四十年代に多発した教育の瓦解現象に端を発しており、それは家庭と学校と社会それぞれが勝手気ままな信仰を唱え始めた相に集約されている。

 形式的な相をコンピューターのソフトウェアに実装するアルゴリズム(計算の手続き)を律令制に組み込んだ最初の人を菅原道真と自負するのは私だけであろうか。

 その根拠こそ、中森様の表現を借りれば「神格天皇、有職故実、家督継承、氏姓鑑識、共時性」がキーワードになるのであり、この歴史的経験則から浮上してくるのが未来の相になるのである。

 今や時代は電脳アルゴリズム(コンピュータープログラム)に傾倒しているが、デジタルの秘策を講じて産したのは人脳アナログであり、両者の整合性こそが未来を拓くカギと思うのである。

 六角定頼や上杉謙信などの弾正台に思いを馳せるまでもなく、死ぬ覚悟とは何ぞやを知りえないで暴走した若者の多くが昭和四十年代の学徒であり、その残党はテレビを梁山泊として、彼らが信じる勧善懲悪の実践にまいしんするが、そうした対極に与した一人が私の立ち位置でもあった。

 以後、私は世相の遷り変りに乗じるが如く公安すなわち弾正への思いを深化させるが、骨の髄まで沁み込んだ信条は「秩序とは何ぞや」に対する念であった。現行社会の表と裏・右と左まんべんなく行き交った私の行動は多くの疑いをもたれ、その常は生死のタイトロープ上を渡り歩いていた。

 そんな状況下を生き抜いたのは命の恩人が少なくなかったからである。恩人の中でも先んじて私を庇護したのは警視庁公安三課に働くノンキャリ組であったが、その土壌を築いてくれた佐野あっての私であり、私が早くに弾正=公安に目覚めたのも佐野の懇切な導きに与っている。

 昭和四十年代の安保騒動に際して、佐野都議は警務消防委員会委員長に任じており、その群を抜く適正能力に対しては、内務省時代から続く治安のレジェンド達からも広く認められていた。

 律令制下の弾正台であれ、現行下の公安委員会であれ、高邁な理想を掲げれば掲げるほど、大きな隔離を投影するのが現実であり、果ては頽落的な淘汰に出直すのが通史の常道だろう。

 総論賛成・各論反対の現実を脱却し得ないかぎり、何が生き残って、何が絶滅したのか、その変容変質も含めたうえで、総体的なアルゴリズムを導くほかないのが喫緊ではないのか。

 自分の影を追いかけるようなデジタル庁を設けたところでイタチごっこは終わらない。何のために最先端ホストコンピューターを開発したのか、人脳が作った電脳に支配されたいと念じているのか。

 自分一代の人生も儘ならない下衆が弥栄な天皇皇族を軽んじるなど以ての外ではないのか。

 箕作姓の祖を六角承禎と仮定するのは私の憶測にすぎないが、承禎と阮甫の生誕期には二七八年の時が費やされている。日本人の氏姓(戸籍)を八咫鏡(三種の神器)と覚る私にしてみれば、開国に備えるため要した江戸時代と同等の年数に思えて仕方ないしだいである。

 延宝元年(一六七四)まで美作国英多郡と表記された地史を繙いてみると、明治初年時点での当該知行領主は龍野藩(歴代藩主は本多家→小笠原家→幕府→岡部家→幕府→京極家→幕府→脇坂家)が十一村を支配、上野沼田藩(真田家)が五十一村、美作津山藩(森家→松平家)が三村で明治四年の廃藩置県に引き継がれていった。

 龍野(たつの)藩は播磨(兵庫県)龍野周辺を領有したが、播磨一国を支配した姫路藩の江戸期は池田氏に始まっている。ただし、元和三年(一六一七)池田利隆三三歳で没すると、嗣子幸隆(のち光正)は幼少を事由に鳥取藩へ転封とされ、膨大な播磨の所領は次の如き中小藩に分割された。

 松平信康の娘(峯高院)が嫁いだ小笠原秀政の明石藩十万石、同・妙高院(部屋住料十万石)の夫本多忠政の姫路藩十五万石、忠政の二男政朝の龍野藩五万石、家康の娘(良正院)の遺領を分配した赤穂藩三万五千石、平福藩二万五千石、山崎藩三万八千石ほか、池田氏一族の鵤(いかるが)藩のち新宮藩一万石、林田藩一万石など、このうち、本多政朝(譜代大名)は上総大多喜藩より入封したが鶏籠山上にあった龍野城を山麓に移して平山城として再構築している。

 寛永三年(一六二六)政朝の実兄忠刻(姫路藩主)が嗣子なく没する。翌年政朝は宗家姫路藩主を継ぐと、龍野領五万石に千姫(忠刻の妻)の化粧料十万石のうち一万石を加え忠刻の甥小笠原長次に龍野藩主を継がせた。やがて長次は加増二万石を得て豊前中津藩へ転封(一六三二)よって龍野藩は幕府が預かるも、翌年には岡部宣勝(美濃大垣藩主)が入封(五万三千石)この岡部も三年後に摂津高槻藩へ転出ふたたび龍野藩は幕府の預かるところとなる。

 更に翌年(一六三七)末期養子が認められないため、外様大名となった京極高和が出雲松江藩から六万石で入封、高和が讃岐丸亀藩主へ転封(一六五八)となるや龍野城は幕府によって破却された。再び龍野城を修築(一六七二)したのは、信濃飯田藩から入封した脇坂安政五万三千石であり、この安政は老中堀田正盛の二男だった事から元々が外様の脇坂家も願譜代(一六八三)に推されている。

 のち正規の譜代となる龍野藩主脇坂家においては、襲封三代目安清の弟安利へ二千石を分与ゆえに五万一千石が以後龍野藩の表高とされている。二十八年間の寺社奉行を経て老中まで累進した龍野藩脇坂家八代目藩主は安薫(やすただ=一七六七~一八四一)で西本願寺の三業惑乱を裁断している。

 安薫の長男安宅(やすおり=一八〇九~七四)九代目は箕作阮甫と同世代に当たるが、襲封すると寺社奉行→京都所司代→老中と昇進しており、孝明天皇の覚よろしき功績を積み重ねている。安宅の個人情報も重要であるが、その情報源は甲賀流シノビ衆に集約されており、一点のみ採録しておくと桜田門外の変が起こったあと安宅に内命が託されていた。

 井伊直弼の覚悟が示されたあと、老中その幕閣は順次しりぞき、安宅も辞任(一八六一)その翌年家督を養子安斐(やすあや)に譲っている。安斐は藤堂高猷(たかゆき)の四男であり、高猷は宗家十一代目この藤堂氏に関しては多くの説があり、周知は次のごとき四通りが広く知られている。

 歴名士代に中原朝臣説あり、輿地志略に宇多源氏佐々木氏族説あり、中興系図に平朝臣説あり、寛政譜に藤原朝臣説あり、近江犬上郡藤堂村(現滋賀県犬上郡甲良町在士)が発祥とされる。伊勢津藩初代藩主の藤堂高虎(一五五六~一六三〇)を宗家初代とする説がもっとも広く知られており、その評伝の多きは他を圧倒するところがあり、本稿もまた別のスペースをもうけるほかない。

 さて、脇坂安宅に託された内命のことであるが、それは隠居の身でありながら老中へ復職する事に定められていた。安宅と薩摩藩島津家は姻戚の関係にあり、勅使大原重徳(しげとみ)が島津久光と共に江戸へ下向するにあたり、同じ老中板倉勝静(かつきよ)と一緒に薩摩藩邸へ出向いて応接せよとのこと、その際に一橋慶喜を将軍後見職にすること、松平慶永(よしなが)すなわち春嶽(しゅんがく)を大老にすること、この確約を勅使重徳と締結することにあった。

 もう一つ家康の二女良正院(督姫=一五六五~一六一五)に触れておきたい。

 本能寺の変は甲斐と信濃に無主状態をもたらし、甲信地方の領土争奪戦は徳川氏と北条氏が代表的合戦を展開することになった。結果、和睦の条件は旧織田領を徳川氏が・上野一帯の所領を北条氏が治めることになり、家康の二女督姫が北条氏直の正室として嫁ぐことになり、氏直との間にふたりの娘をもうけることになった。

 のち秀吉の小田原征伐で戦国大名北条氏は壊滅することになり、氏直は高野山へ流されて、督姫は氏直が死去(一五九一)したあと家康のもとに戻っている。督姫の娘は文禄二年(一五九三)と慶長七年(一六〇二)に早世と伝えられ、督姫は秀吉の肝いりで池田輝政に再嫁(一五九四)この縁組は五男二女の子に恵まれている。その子らは次のごときとされる。

 慶長元年(一五九六)生まれの千姫(ちゃちゃ)、同四年(一五九九)池田忠継、同七年(一六〇二)忠雄、同九年(一六〇四)輝澄、同十年(一六〇五)政綱、同十二年(一六〇七)振姫、同十六年(一六一一)輝興であり、督姫の生年には天正三年(一五七五)説もあり、その出産年齢を根拠に喧々諤々あるが、どの計算手続きをみてもアルゴリズムのつまみ食いとしか思えない。

 どうあれ、甲賀流シノビ衆の足跡を追うために欠かせない情報群なのである。

 次に英多郡五十一村を知行藩領とした上野沼田藩であるが、秀吉の小田原征伐で沼田領が真田家に返還されたこと、以後の真田家が明治に至るまでの記事は前述の通りであり、他の英多郡三村を知行藩領とした美作津山藩についても前述の通りである。

 甲賀流シノビ衆に関しては、池田氏や小笠原氏も重要な情報源、ただし簡略にしぼるとする。

 周知の池田氏は和泉池田村(現大阪府和泉市)を発祥とする摂津池田氏が知られる。荘官としての赴任先は摂津と美濃に池田荘を拓いたとされ、源平期に源氏頼政の弟泰政が池田氏へ養子入り、摂津豊島郡を泰政の子泰光が時景に継がせ、美濃池田郡を泰継に継がせたという。

 平安期から戦国期にかけては、主君を摂津源氏、楠氏、足利氏、細川氏、三好氏、織田氏と変えて有力な国人としての勢力を維持したとされる。この勢力は荒木村重らの下剋上で失う事になり、その当時を担った和正は江戸期の旗本になって再起を目指したが、光重の代に同族家臣団の不祥事に連座改易の処分に屈従したと伝わっている。

 清洲会議に織田家重臣で出席した恒興は近世大名の池田氏とされ、その嗣子輝政は家康の娘督姫を後妻に迎え松平姓の使用を許されている。江戸初期には一族一門で播磨、備前、淡路、因幡に合計百万石近い諸藩を有したため、播磨宰相・姫路宰相・西国将軍などの称号が用いられていた。のち分家支藩が複数改易の処分にあったが、備前岡山藩三十一万五千石や因幡鳥取藩三十二万五千石は明治の維新まで続いており、その子孫は侯爵に列せられている。

 その他では、摂津池田氏の分流美濃池田氏、近江佐々木氏の分流近江池田氏、伊予周敷(すふ)郡池田郷に集住した伊予池田氏、出羽庄内に住み朝日山城主盛周を代表的な人物とする出羽池田氏など広く知られる系譜の所在が確認されている。

 源氏系泰政九世孫という教依(のりより)は内藤満之の娘を妻とするが、この妻は先に楠木正行へ嫁いでおり、正行の戦死で教依に嫁いだとされる。そのため、教依の子教正は正行の子だという説が生まれ、この説は光政以降も根強く続き今に至っている。

 近江池田氏に触れておきたい。

 近江甲賀郡池田の地名を由来とするが、のち蒲生郡へ移っており、六角氏の配下ながら同族とされ観音寺城の陥落で六角氏から離れ、浅井長政、織田信長(柴田勝家与力→佐久間信盛与力)に仕えた経歴が伝えられている。

 本能寺の変後、明智光秀に仕えたが、山崎の戦いに敗れると羽柴秀吉に寝返ったとされる。豊臣の政権が成立すると伊予の大名で登場するのが景雄や秀氏で西軍に属した関ケ原で改易の処分とされ、江戸時代では藤堂氏の家臣となって後に旗本を許されている。ともかく、池田氏の成り立ちには諸説確定し得ない情報が多くあり、多数の耳目を惹くため私見は小笠原氏の次に述べるとする。

 小笠原氏は清和系河内源氏の流れを汲み、武家の有職故実を伝える一族としても知られる。

 甲斐巨摩郡小笠原の地名に因むとされる小笠原氏は、牧場や荘園があった現在の山梨県北杜市明野町小笠原と南アルプス市小笠原に居館があったと伝えられる。その本貫は原小笠原荘とも言われる。甲斐源氏の嫡流武田氏に対して、加賀美氏流小笠原氏は庶流と解されるが、格式や勢力の上では同等レベルにあったと解されるのが通例である。

 全国各地に所領や一族を分布した大身ゆえに、鎌倉期には本拠を信濃へ移し、室町期には幕府から信濃守護に任じられている。嫡流は信濃と京都に二分され、庶流は信濃内のほか阿波、備前、備中、岩見、三河、遠江、陸奥など広範に及んでいった。

 戦国期の宗家は武田氏に圧されて没落したが、安土桃山期に再興して、江戸期は譜代大名となって多くの事績を積み上げていく。

 小笠原氏が武家社会で有職故実の中心的存在となるのは室町期以降と言われる。それは礼典や武芸全般に通じた事で時の幕府から重用されたことにはじまる。すなわち、小笠原流の起源でもある。

(つづく)

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