【文明地政學叢書第三輯】第八章 大江山系と非大江山系

●もう一つの霊媒衆

 大江山の筋の違う霊媒衆にも触れておきたい。奈良県南部の大峰山(おおみねさん)は別称を金峰山(きんぶせん)という。江戸時代中期の皇紀二四三九年(一七七九)光格天皇即位に際して役行者没一一〇〇年遠忌祭の勅命で神変大菩薩の諡号が発せられた。
 而して、当の役行者は天武天皇在位中に没したことになり、古事記は天武天皇の勅命により編纂に及ぶため、当時の伝承は官の誦習が基礎であり、神との交接も音声が司配(しはい)したことになる。大峰山脈の主要部諸峰を総称して呼ぶ大峰山(大峯山)は、北部を金峰山と呼ぶ場合に南部の総称として使われる。修験道第一の行法は陰暦四月八日に入るのが通例とされ、熊野から入るのを「順の峰入り」また吉野から入るのが「逆の峰入り」と伝わる風習が慣例とされる。
 同二三五一年(一六九一)以来、金峰山頂上の経塚から数次にわたり、大量の経筒、経箱、神像、仏像などが出て発掘も盛んに行われた。吉野の金峰神社は、金山毘古命(かなやまびこのみこと)を祭神として、野山の地主神また金鉱の守護神という信仰の対象とされ、別称では、蔵王権現、かねのみたけ神社、あるいは金精大明神としても知られる。
 同じく吉野の金峯山寺は金峰山修験本宗の総本山で、役小角の創建と伝わり、天平年間(七二九〜四九)行基が蔵王権現を祀るともいう。行基(六六八〜七四九)は百済王の子孫といわれ、姓氏は高志(こし)、和泉(大阪南西部)の人といい、元興寺にて得度した後に諸国行脚し、その途次で道路の補修、堤防の築造、橋梁の架設、貯水池の設置など全国で多くの事績をこなし、寺院の建立も少なからず、東大寺の大仏建立に際しては、勅命を受け奉仕に励んで、聖武天皇から大菩薩の号を賜ると伝えられている。因みに、高志は越(こし)で北陸地方の呼称と同じ義を含んでいるが、今は説くを省くとする。
 金峰山と表記が同じ山名、山号、神社名が他にも多々ある。長野と山梨の県境に見える秩父山地の主峰は金峰山と書くが「キンプサン」または「キンポウサン」と訓み、北側から千曲川に、南側からは釜無川に清流を発する源である。この山も古来信仰の対象となり、祀るのは武蔵蔵王権現であり、古くは水晶の産地として知られていた。神奈川県鎌倉市にある臨済宗円覚寺派の浄智寺はキンブサン(金峰山)の山号で知られる。新潟県長岡市のキンブジンジャも金峰神社と書いて、吉野と同じく金山毘古命を祭神とするが、同一三六九年(七〇九)に北国鎮護のため吉野から勧請したと伝わっている。
 大峰山(大峯山)は狭義に山上ヶ岳を指す場合もある。山上ヶ岳の標高は一七二〇メートルであるが、大峰山脈の諸峰は大凡一二〇〇〜一九〇〇メートル台で聳える。山上ヶ岳は役行者修験道の根本道場といわれ、金峯山寺があり、修験道の開祖を山上様と称える慣わしもある。
 また、山上寺と呼ぶ寺もある。滋賀県神崎郡永源寺町に所在する永源寺は臨済宗永源寺派の大本山であるが、通常は永源寺の別称として山上寺という呼び方が使われる。
 因みに蔵王権現とは、役行者が修験中に感得した悪魔を降伏させる菩薩であり、忿怒の相で、右手に三鈷(両端三つ叉の爪もつ金属亜鈴の如きもの)をかざし、右足をあげた像で描かれている。この像を祀る金峯山寺の本堂を蔵王堂と称し、役小角創建とされる。山上ヶ岳の蔵王堂は天険の地にあって参詣が困難なたため、天平年間に行基が現在地に安置したという。
 ただし、同二〇〇八年(一三四八)反建武政権に属した高師直の兵火で焼失、同二一一六年(一四五六)に再建との記録がある。この事件はいわゆる「南北朝物語」の一端であって、足利尊氏の執事として政務の実権を掴んだ師直であるが、蔵王堂焼失の天誅は、足利兄弟の和議により、摂津武庫川で上杉顕能(あきよし)に殺されるという顛末に決着している。
 され、大峰山地に巣立つ霊媒衆と大江山の霊媒衆には、明らかな筋の違いを見る位相が顕われる。むろん、神との交接に共通性が多いのは当たり前であるが、簡潔な究め方をすれば、「格」の違いであり、大江山では本義のアマテラスと交接しえない電気抵抗率に揺らぐ格しかない。
 何ゆえ天武天皇が古事記編纂の勅命を発したのか、その意味が重要である。神と交接する神格天皇の位相を剖判すれば、実兄の天智天皇の即位に際して皇太子となるも、今上の重篤に接し、その平癒を願って吉野の山中で心神を浄めたと受け取るのが筋である。
 これを政府御用達の書記は吉野への退去と取り違えるが、後世もまた先例に倣う行政の保身主義に拘泥したまま現代に至れば、公金の横領独占は常態となり、政官業言がともに一蓮托生のサバイバルしか見られない。神の信号はもともと言語道断の相を示しており、無責任な地球温暖化などの標語に関係なく、サバイバルとは違うリサイクルの原義を解くが、その原義を解くにはアマテラスを悟るほかない。

●鎖国下の大江山総督とは?

 皇紀元年、日本は飽和状態に達した神世(宗教界)を不飽和に導くため、超克の型示し現人神(神武天皇)をして日本列島全域の行政改革に歩を進めた。その飽和状態克服の歴史を伝承する文献が記紀である。すなわち、皇親の型示しは、「天の誓(うけ)ひ(い)」「天の岩戸開き」「須佐之男命と櫛稲田姫命」「大国主命の経営」「武甕槌(たけみかつち)神の言向け和は(わ)し」「国譲り」「天孫降臨」「海幸彦と山幸彦」などの物語に刻まれている。
 標高日本一の霊峰富士(不二)を遥拝して現人神の神事が行われるのはおよそ標高半分の大峰山脈においてである。さらに標高半分の大江山をして、神意忖度の行政改革が続けられていく。その行政に不満が鬱積して、東国行政を開くのが鎌倉幕政であり、その歴史を踏まえつつ再び東国政権を構築するのが江戸幕府であった。
 家康は大御所と称し、富士山を仰ぎ見る駿府(静岡)を開くと、大江山の動向を諜報活動する体制を整えるべく励んだ。源頼朝の失敗を繰返さないためである。キリシタンの蔓延などの国外政治の侵入を鎖国で封じつつも、もっとも懼るべきは、西国政権が積み上げた歴史の重みゆえ、大江山を自らが総督するため、紀伊と尾張と大江山を結ぶ三方のロードマップを描き強化を急いだ。さらに本拠の江戸(東京)を安定させるため、東国の要として、水戸(茨城)にもっとも重大な布陣を敷いた後、権現たる自身の安置場所を日光山と定めて臨終に備えた。
 二荒山は男体山の別称として使われるが、標高二四八四メートル、補陀落浄土(観音浄土)なる仏教的理想世界から命名されている。ただし、山名は音でニコウ(二荒=日光)とも訓まれる。男体山は日光火山群の主峰であり、上古には火山活動の沈静化を願う山岳信仰を根付かせたが、皇紀一四二七年(七六七)勝道上人の創建と伝えられる社殿が麓にあり、山上に奥宮、また中腹に中宮が設けられている。
 この二荒山神社の祭神は大己貴(おほなむちの)命、田心姫(たごりひめの)命、味耜高彦根(あじすきたかひこねの)命であり、勝道上人は神宮寺も開いており、桓武天皇の上野国講師に任ぜられている。因みに男体山は日光富士の別称を有する。
 鎌倉幕府滅亡の主因は現人神の軽視にあり、室町幕府滅亡の主因もまた、現人神を叉割く罪の天誅であり、家康もまた源氏に固執して、武士(家人)の一念を貫こうとしたが、霊媒衆真贋を見極められず、江戸幕府の行く末は軽輩の手で倒された。
 これら政体の観音浄土を成すのは、常に現人神の禊祓であるが、ここでは鎖国下の大江山に巣立つ姓として、その屋号「出口」の観音について触れておくことにする。
 出口を直訳すれば、神意は口から出る音すなわち言葉で発せられ、その音を手に託せば筆先となり、口と手は情報が同じ義で成らなければ意味はない。つまり、風紀を乱す「口八丁手八丁」の如きと異なるのだ。
 霊言「て」音を記紀に載る百神の中の宝座に照らせば、天之吹男神は津島を宝座としており、「て」は脳内神経の扉を開く「つ=大戸日別神」の働きを承けて、日(ひ)=霊(ひ)すなわち神の信号が吹く風の如く出てくる位相を意味する。宝座すなわち島の意味は「締め括る」である。津島の津が港を意味するように、発生言語が集まり出て行く位相を「て」は意味する。
 次の霊言「く」音は沫那芸神(あはなぎのかみ)で宝座は佐渡島(佐け渡し締め括る)である。沫は泡と同義で反引力に相当するため、共振電波すなわち「あ」と「わ」の関係に通じ、伊邪那岐神(男系因子)また伊邪那美神(女系因子)の如く、相互分担して、明瞭な意味を選り分け繰り結ぶ操作をいう。
 さらに、霊言「ち」音は宇比地邇神(うひちにのかみ)で宝座は筑紫島(尽くし締め括る)である。その神意は宇宙と比するとき、地球は邇(ちか)し「い=須比智邇神(すひちにのかみ)」が承けて、須(統)べからく智に比す事柄は邇(に)たりを意味する。そのゆえに、出口は単なる家名ではないのだ。
 現人神の威厳を畏怖する江戸幕府は表門に京都所司代を配し、朝廷の専権事案たる行政に悉く干渉しつつ、裏門では大江山霊媒衆を操作するために、奈良市北東部にある柳生の地に陣屋を設け、伊賀(三重県)と甲賀(滋賀県)に根ざす霊媒衆を採用した。
 伊賀は大化改新で伊勢に併合されたが、天武天皇のとき再び伊賀国となり、平安期は平氏、そして鎌倉期は大内氏、さらに室町期は伊勢北畠氏の勢力下に置かれた。この伊賀と伊勢を江戸幕府によって託されたのは藤堂氏であり、藤堂家の祖は近江国愛智郡を司る大領(郡司長官)家のうち犬上郡藤堂村に住した者が始まりで、六角氏、京極氏に仕え、初代藩主の高虎は浅井、織田、豊臣を奉じた後に徳川に仕えた。
 甲賀は滋賀県南東部にある信楽丘陵を占める地で、天武天皇即位のころ鹿深(かふか)と称し、日本書紀に記される地名であり、古くはアヘンも手掛けたが、薬を開発するのが盛んな地として知られる。
 つまり、西国の飽和状態を不飽和へ導くため、東国へ移動した政体であるが、その不飽和もおよそ二七〇年しか続かなかった。

●大江山発祥の大本信仰

 徳川将軍家は第一五代までのおよそ二七〇年を持ち堪えたが、その成果は神格天皇が第一〇七代の後陽成天皇から第一二一代の孝明天皇まで、皇女二天皇を含め、歴代一五皇親で支えた皇紀(二二六三〜二五二六年)あればこそである。この時代における神格による禊祓は、別冊『超克の型示し』を参照されたい。
 さて、職能や地名などを所縁とする姓氏が出現すると、政体は次第に姓氏階級制度を設けるようになり、朝廷では源平藤橘(源氏、平氏、藤原、橘)の四姓が政権争奪を行うようになり、その鬱積が募るや公家侍と家人の集合体が朝廷制に嫌気を催し、幕府(武家政治)を建て封建制を敷くようになるのである。
 神格を保つ天皇は皇親(すめらみおや)の勅(みことのり)を順守のうえ、姓氏超克の振舞いで型示しをする。氏上(うじがみ)に準ずる民も永く姓氏は埒外とされたが、幾たびかの戸籍開放を経ながら、次第に家名も許されて、明治に至るやすべての民が家名の登録を急がれることになった。
 この制度は鎖国一五代に及ぶ継続を経てこそ成り立つ話であり、開国制度下の移民法では難を極めて、皇国史観の如く「国民は統べて天皇の赤子」と嘯く政策などが俄仕立てで通用するはずもない。
 鎖国下において幕府が難渋した政策の一つは非人(無戸籍者)の扱いで、結局は被差別業種の管理化に編入し、ようやく非人を戸籍に組み入れることに成功した。非人は技芸が達者で定住を嫌う修験者から、犯罪を背負い逃げ回る狡猾者まで、ミソもクソも一緒に一纏めにされ、被差別業種の管理職弾左衛門にはその見返りたる政府公認の独占公益事業が与えられた。これが現在に至る同和問題の起源であり、今や政官業を挙げての癒着の温床となり、乗り遅れまいと相乗りの言を巻き込みつつ、似非教育下の点取り信徒を養う民主化が今日(きょうび)の実相とはなっている。
 戸籍の売買(うりかい)や貸借(かしかり)は古からあるが、戸籍は政府を支える住民基本台帳の原本であるがゆえに、外圧開国下で戸籍が株式と同じように扱われ売買の対象となれば、もはやわが祖国は営利追求の法人会社に委ねたも同然となろう。
 なにゆえに明治政府が民の家名登録を急いだのか、その理由はここにある。問題は、西洋ルネサンスの鬼子として誕生したロヨラ流の霊操によって洗脳を受けた官吏が養成され和魂洋才なる妖怪が巣立つと、鎌倉時代に始まった封建制の特殊法人を詐取して、祖国を株式組織としたことにあるのである。現今の「民営化」は何も最近の新政策ではなく、明治に始まった戸籍株式化の総仕上げと言うべきである。
 識字率が低かった明治初期、国民がみな家名登録する際の名付けに、枝葉末節の事実は広く伝わるも、歴史を見透かす波形は浮かばない。真贋を問わず易断に呆ける風俗は時代を選ばないが、人の本能的属性は常に利己欲優先の信仰を潜ませつつ、家名登録に際しては名跡名字を望む富裕層ほど、その信仰を担う霊媒衆に貢ぐを惜しまない。
 幕政総督下で自在性を失った大江山霊媒衆にとり、幕末維新の働きも少なくないが、家名の名付親を任じる役割は千載一遇であって、貢を惜しまない富裕層が群がったこともあり、貧困層には無償で名付けを施したため、その信奉礼賛で大江山に差し込む光も俄に強くなったのである。
 むろん、大江山に土着の霊媒衆は少なくとも、もとより霊媒衆は修験道を旅するため、そのネットワークは全国津々浦々に及ぶ。かくして苦もなく、大本講社が起ち上がっても何ら不思議はあるまいが、そこに忘れてはならないのは、維新の神仏分離令(一八六八)や神格天皇の東京行幸(一八六九)などの重大施策である。さらに仏式陸軍と英式陸軍の兵制布告(一八七〇)、平民苗字許可制(同年)、寺社領没収(一八七一)、士族および平民の身分制存続(同年)、壬申戸籍実施(一八七二)等の施策がある。
 壬申戸籍すなわち国民がみな家名を登録するという制度の実施は、霊媒衆に千載一遇の好機をもたらし、大江山が俄に活気づくのも当然であろうが、鎖国下で辛酸を嘗めてきた霊媒衆は、再び同じ苦渋を招くほど愚かではない。神仏分離令は廃仏毀釈テロを引起こし、寺社領没収の引金に利用されたのだが、もっとも重大な政治的暴力は神格天皇の東京行幸に尽きる。
 力不足の維新政府は現人神の威徳を必要としたのだろうが、いわゆる南北朝の暴走政権でさえ、神格天皇の遷宮を政争の具(つばら)に用いる何ぞは控えている。大東亜戦争を歴史の闇へ封じるために、前代未聞の東京国際軍事裁判を強行した戦勝連合国さえ、自ら出廷も辞さない現人神の勅には恐れ戦いている。然るに維新政府は、霊操洗脳に魂の奥まで冒されて、現人神の威徳を封じる「和魂洋才」なる標語の下、経歴詐称の富国強兵制を強行していく。明治に始まる富国強兵策は最終的に未曾有の原爆投下で史上最大のジェノサイド(皆殺し)を招くが、その経過は後に別記するとして、ここでは大本講社を起ち上げた大江山霊媒衆の真贋に焦点を絞ることにしよう。

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