修験子栗原茂【其の三】

 さて、本題に戻るとする。

 東京入りした当時の秀孝には上京の目的がなかったのだろうか。本人は述懐を頑なに拒んだ。今も私の手元に遺された写真には、当時を偲ばせる想い出が秘められており、療養で社会不在となるまで一日たりとも平坦な日々を過ごした事のない秀孝が恋しくてたまらなくなる時がある。

 昭和十六年に本籍を東京へ移した秀孝三四歳の家族構成は、妻と異母姉の下に私が生まれ、二年後三六歳のとき三男が生まれて五人になった。翌十九年の元旦を迎えると、足立区千住の全域が戦火に燃えつくされるとの報せがあり、秀孝は事前に準備を済ませていた住居に引っ越した。そこは明治の終末期に着工を始めた荒川の北岸から百メートルほど離れた場であり、翌年の大空襲に遅れて爆撃を受けながらも、辛うじて難を免れる梅田地区であった。

 同二十年(一九四五)六月、秀孝三八歳へ召集令状が配達された。入営地は熊本県人吉うち奇遇は縁ある画家東山魁夷(本姓中村)と一緒であったが、戦況の先が見えていた秀孝は修験の裏技を使い同年十一月には家族の元に戻っている。つまり、玉音放送は拝聴する場が違っても、秀孝と私は同じ時間を共有しながら、天皇陛下のナミダに心の深奥を揺さぶられていた。

 同年八月十五日、私は満三歳三四九日目に玉音放送を拝聴し、同二十三年一月一日、秀孝四十歳と私六歳一二三日目は皇居一般参賀に参列これ史上初の祭りごとであった。宝寿四七年目の天皇陛下は戦争で瓦礫と化した江戸城に焼け残る宮内府庁舎屋上に超克の型示しを明らかにした。現人神の振る舞いは、秀孝の肩に乗る私に衝撃の感覚をもたらし、背骨から後頭部へ突き抜けた電流が天空へ吸い込まれていく印象を抱かせ、私は身震いが止まらなかった。

 熊本人吉から帰宅した秀孝に休息はなかった。戦前、有力人士の出資で設立された会社は、当初は路線バスの吊り手などを加工する仕事で始まったが、戦後になると、鉄道車両の分野に進出しながら南海電鉄など関西方面にも取引先をひろげ、工場用地も増大一途を続けていった。他方、同二十二年の学制変革は、国民学校を公立小・中学校へ移行するもので、私は翌年四月に住区の公立小学校へ入学したが、当時は内向性の対人赤面症であり、親の背中越しでしか世間を見られなかった。

 私は秀孝が熊本人吉に入営した約五か月間を除くと、同二十八年十月(小学六年生)まで貧しさを知らずに過ごしている。戦時中も戦後も秀孝の手配が及ぶかぎり、望んだモノゴトは何でも手にする恵まれた環境下に育まれており、同二十一年に生まれた末の子四男を加え家族六人ともども、世間に後れを取るようなモノゴトは何もなかった。

 ただし、秀孝が家族と一緒に食事したことは、朝・昼・晩いずれも一度としてなかった。それゆえ同二十年十一月から同二十八年十月までの間における、秀孝の動向は休日の節々でないかぎり、何も知らないまま過ごしてしまったのである。そこで晩年の療養入院先へ見舞に出向いたとき、親と子に響き合うはずの誠意を籠めて聞き出そうとしたが、とうとう目的は達せられないままに終わった。

 同六十四年(一九八九)一月七日、昭和天皇が崩御の訃報、同日の新元号は平成、そして翌二年九月に秀孝八二年の生涯が永眠することになった。終に自分史を墓の中に眠らせてしまった。私も同じと決めていたが、落合先生の執筆労苦に報いるため修験子の責務を果たすことにした。

 戦後、私が住む街は長屋群と長屋群を仕切った空間があったり、広い部屋と庭がある戸建ての家がポツン・ポツンと建つ農業地ほか、複数の民家と路地で一画を形成したり、狭い部屋に肩を寄せ合うような密集地とか、田畑や野原の近くに養魚場や沼・池など人もまばらな地域など、混在一帯を成す未開の地というイメージが記憶に残されている。宿場町だった千住は出生の地であるが、荒川ひとつ挟むだけで街並みは大きく違っていた。

 鉄道は浅草を起点に最長は日光鬼怒川の先まで延びる東武線が敷設されているが、日常的な利用が多い路線は東武伊勢崎線で乗客数も最大であった。足立区のターミナルは北千住駅で東京上野駅から茨城水戸方面へ延びる常磐線が走っている。今でも変わらないのは、東武鉄道は浅草から遠くなればなるほど、乗客の気持ちが寂しくなってくる路線だと言われる。とはいえ、今や北千住駅を通過する他の鉄道車両は、地下鉄日比谷線、地下鉄千代田線、地下鉄半蔵門線、秋葉原つくば学園都市線など都合六路線が乗り入れる東京でも有数のターミナルになっている。

 それはさて、秀孝三八歳の戦後は末の子が生まれた事で家族六人となり、再スタートした車両部品加工業をエネルギー源にして、活気みなぎる従業員数が増加する渦中にあった。近辺には田辺製薬や曙石綿などの中堅企業の足立工場もあり、真言密教の西新井大師がある地域には日清紡績が町一つに匹敵する広大な土地に多数の女工が働く工場群を運営していた。また産めよ増やせの人口増加政策は学徒の収容を難しくして、新たな公立小・中学校の増設が急ピッチで進められた。

 町の名士と知られるようになった秀孝は、会社経営の大半を幹部社員に委ねながら、町会の発展と学校運営の支援など、オピニオンリーダーの統括者に押し上げられていった。修験道場で鍛え上げた秀孝は、瞬時の判断力と強健な体力を有するほか、潜入工作はじめ、土木建築作業、大型トラックの運転など何でも他に勝っていた、頼まれたら退かない性質が身上であるゆえに、もはや身に余る公共奉仕は収益増加が著しい会社の蓄えにまで手が伸びてしまった。

 創業者の孤独な性としか言いようがない。辛酸をなめつくした母つぎの心痛はやまない。生き馬の目を抜く東京にあっては、出る杭は討つしのぎあいが日常の寄り合いである。同二十六年の全国地方選挙の立候補者に祭り上げられた秀孝は、真綿で首を絞められる状況に陥れられた。身から出る錆を浄めなければメッキもままならない。次点で落選という結果も悪かった。得票が少なければ煽り屋も去るだろうに、次点は今度こそ挽回と煽る選挙ビジネスの的にされ、修験で鍛えた秀孝の強靭なメンタルもマイナスに舵を切ってしまった。災いが従業員と家族に向かうのは当然だろう。

 最大の不幸は秀孝が私利私欲に無縁なこと、修験の本質は逆境をチャンスと断じるから、決めたら退かないので頃良いとき死ぬしかない。秀孝が歩けば殿様行列になり、それは会社を解散したあとも変わらず、借金で火だるまになっても人がついてくる、その不思議な風景は今も私の脳裏から消えることなくよみがえってくる。

 他方その風景を冷めた目で見るのが世間だから、わざわざ母つぎへ告げ口して不協和音を煽りつつ楽しむ手合いも少なくはない。他人の不幸は蜜の味とは、何とも虚しい言葉ではないか。悪夢は夢で終わらないのが現実これも上古の代から変わらない。右は秀孝四三歳の春、私が満一〇歳になるのは暦が初秋に変わるとき、すこーし世間が気になってきたころである。

 原爆投下は休戦の決定打(私は国際政治に終戦はないと思っている)となって、戦勝連合国で成る呉越同舟が降した決議は日本の施政権再生を同二十七年(一九五二)とした。その間は形骸化された日本政府の実態が明白な傀儡にすぎなかった。ところが、施政権再生の発効年になっても日本政府は自主権の行使再開を拒否し続けたまま、現在進行形の悪夢から目を覚まそうとはしない。

 のち弁解がましい屁理屈は枚挙にいとまないが、国費や公金の受給生活者にあって、一貫した憲法遵守を保つ実在は皇室以外に皆無という惨状が続いている。立憲制民主政体に変じた施政権の運営は国会が最大の強制機関と定めるも、実態は愚劣な糾弾と馬耳東風が日常化していく。税金ドロボーの台詞に流行語大賞を与えたメディアに至っては、仮面を剥ぐと利権を貪るパラサイトそのもの、選挙内容が八百長でも審判を受けた政治家に、罵詈雑言を放つ自らの暴走を恥じようとしない。

 少し目を凝らせば誰にも分かる現実であるが、八百長に加担した有権者も同罪だから、互いに心の疵を舐め合う事で黙認してしまう。汚職議員が選挙に強い要因ともいえよう。こんな不愉快な現世を痛快に心地よく生き抜く道理はあるのだろうか。その天理を熟知するのが修験なのである。

 天理の法則を身に帯びる錬磨は修験の第一であり、今を認識したら過去に思いをはせる、過去から現在を認識したら明日の予見につとめる、明日が予見できたら未来に思いをはせる、その未来が今と過去とに通じる一貫性を保ったとき、それが天地の気象に当てはまるか否かを見究める、この道理に生きる修験は人の資質は必ず一つに集束すると解っているからだ。

 確かに人それぞれの資質は異なるように思えるが、それは国際政治がしつらえた鑑識であり、人が自ら保有する遺伝情報にコンタクトしえるスイッチをオンに切り替えるなら、過去と現在に一貫して生き続けるモノゴトはなにか、その一貫性を根幹に現在の枝葉や果実が有ることを知らされる。人の資質に優劣の「モノサシ」を用いる政策ほど愚かなものはない。なぜなら、そのモノサシから生じる現実は混沌そして行き着くところは戦争だからである。

 好きと嫌いはあって当然だろう。しかし、それは自分の心身に留めるべきで、他に押し付けようとすれば、必ず争いのタネになるのは必然だろうし、動物が競い争うのも本能ゆえ仕方ないが、人類が動植物の絶滅危惧種を救うのは、人類自身が危惧種になる事を怖れるからで、わずか数世紀で急激な人口増が生じれば、住む場を失う難民が全世界へ及ぶのは当たり前、国際政治の恒久的テーマに人口問題が常在するのも必然と気づくべきである。

 自分自身にとって、成るべくして成る明日が見えていれば、自分が何者かを知っていれば、明日に備えるべき事を備えるのは思うほど難しくはない。明日の予見が大きく違わなければ、見える未来も次第に遠くまで見られるようになり、自分の為すべき事に確かな手ごたえを覚えるようになる。これ誰でも可能なこと、それが日常化すれば競い争う事がバカバカしいと思うようになる。

 さて、選挙ビジネスの餌食にされた秀孝は、その代償に私の恩人となる知友を得ていた。この恩人については後述で明らかにするが、もう一つ読者自身が認識を要するべきことがある。それは日本が占領下にあったとき、無条件に受け入れた公職選挙制度のこと、断じて法学に触れるのでなく制度の実態を理解してもらいたいのである。法理など学んでも役には立たないからだ。

 自主憲法制定とか、憲法擁護とか、私も関連本発刊の手前あるから、相応の学術分野や行政現場を検証したが、世界中に憲法遵守の実践を体現する現場など、唯一日本の皇室以外には、どこにも実在していないのが現実としか思えない。慶応四年戊申三月すなわち同四年九月八日(一八六八年十月二十三日)発布の改元詔書により、同年は一月一日にさかのぼって明治元年と定められた。同元年三月十四日(一八六八年四月六日)に明治天皇が天地神明に誓約したのが五箇条の御誓文である。

 起案は参与由利公正(福井藩士)に始まり、福岡孝弟(土佐藩士)が修正するも、封建的な色彩が指摘されたのち、木戸孝允(長州藩士)が普遍的な内容に変更加筆のうえ、東久世通禧を通じて岩倉具視に提出された。原本は天皇の書道指南役だった有栖川幟仁親王が清書したものである。アメリカ合衆国憲法の影響を受けた政体書は冒頭で「大いに斯の国是を定め制度規律を建てるは御誓文を以て目的とする」と掲げ、続いて御誓文の五箇条全文を引用している。

 御誓文の第一条は「広く会議を興し万機公論に決すべし」とあり、第一義に民主主義の標榜を内外に宣明しており、落合本が公開した伊達宗弘の大勢三転考「名」の世が「公」へ移り、現行法に規定するまでもなく象徴天皇すなわち「オホヤケ」は、開国と共に続行中なのである。ちなみに、落合本のみが洞察した秘事に「大西郷と木戸の渡欧目的は明治憲法の策定も一つ」とあるが、その裏付けは御誓文を仕上げた英傑が木戸である事から明らかであろう。

 昭和二十一年(一九四六)六月二十五日、帝国議会の衆議院本会議において、首相吉田茂は現行の法案審議を始めるにあたり、冒頭「御誓文」に言及して

 日本の憲法は御承知のごとく五箇条の御誓文から出発したものと云ってもよいのでありますが、いわゆる五箇条の御誓文なるものは、日本の歴史・日本の国情をただ文字に表しただけの話でありまして、御誓文の精神、それが日本国の國體であります。日本国そのものであったのであります。この御誓文を見ましても、日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の國體でなかったことは明瞭であります。

と答弁して、五箇条の御誓文は日本の民主主義の原理であるとしている。

 本年(二〇二〇)の米大統領選が混迷に陥った要因は一つではないが、主因は選挙法でもなければ不憫な現職候補者の暴走でもない。右のごとく大政奉還後の日本政体は、民主主義と立憲議会制から成る憲法案を講じるため、西南の役(一八七七)を奇貨として、大西郷と木戸を欧米へ送るため姿を消してもらったのだ。その成果が明治二十二年(一八八九)制定の明治憲法であり、現行法とともに検証してみれば、にわか作りの現行法改良は誰でも分かる道義ではないか。

 感受性に勝る弱年層に「やればできる」などの暴言を放つのは、厳に慎むべきで正しくは「やれば分かる」と言うべきである。高学歴が教育ビジネスにあやかる現世において、たとい無駄でも実践は小賢しい筆舌より、遥かに手ごたえある記憶が刻まれるのである。

 選挙ビジネスの餌食にされた秀孝の帳尻は、秀孝以外の家族五人はじめ、害を被った会社従業員を含めた勘定をしなければ、また決算に時効が有るのか無いのか、そんな計算が可能な学術など実際に存在するのか、真実を求めるなら学術は邪魔にしかならないのである。

(続く)

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