【文明地政學叢書第一輯】第三章 駅逓制度と紀州人脈

●紀州人脈

 浜口儀兵衛(一八二〇〜一八八五)は後年の名乗りを梧陵と号し千葉県の銚子ヤマサ醤油で知られる紀州豪商の浜口吉右衛門家の弟(儀兵衛)家に生まれた。正保二年(一六四五)創業というヤマサの出自は和歌山県有田郡である。ここでは醤油製造に不可欠の製塩が紀元前から行われていた。もとより房総半島と紀伊半島の往来は頻繁で、多くの紀州人が房総に移住している。
 創業時は徳川三代家光の時代ゆえに吉宗上京より古く、日本橋に物産問屋を開設した兄家は弟家が製造する醤油や海産物を売るという住み分け事業を展開した。両家とも当主は代々襲名制で兄家は吉右衛門を、弟家は儀兵衛を名乗る習わしであった。
 梧陵は弟家七代目として生まれたが兄家に養子入りし、両家を統括する形で活躍したと伝えられる。安政元年(一八五四)の東海地震は津波を伴い紀伊・四国から九州(大分)へと伝搬するマグニチュード七・四〜八・四の規模であり、翌年の八丈島付近を震源とする同六・九級の地震を含めて安政の大地震と呼ばれている。
 このとき梧陵が大活躍する物語が「稲むらの火」として一般に知られるものであり、佐久間象山に学び勝海舟や福沢諭吉らと信仰を深め、紀州藩では勘定方や権大参事を務めている。
 梧陵の没年は内閣制度が発足した年(一八八五)であり、これは郵便事業開始(一八七一)に当たり宿駅制度を所管とする長官の駅逓頭に梧陵が着任したという情報とともに銘記すべきである。
 その後の浜口家伝は「醤油研究所」の開設(一八九九)など近代化を推進して順調に発展する様子を伝えているが、明治四二年(一九〇九)に醤油製造工場の出火で灰燼に帰することから兄弟分業の家業形態が変化する。
 つまり、販売商品を失う物産問屋の独立であり、吉右衛門家九代目の弟(吉兵衛)は、ヤマサより早く銚子で創業(一六一六)した醤油製造業者の田中玄蕃(ヒゲタ)および深井吉兵衛の二家と合体し、「ヒゲタ」を商標に銚子醤油を設立して、その社長に就任する。これすなわち物産問屋の品不足を補うためであった。
 以後、吉兵衛は娘(光子)の婿養子に吉右衛門一〇代目の弟を迎えるが、そこに生まれた孫娘(順子)の婿養子として、初めて浜口兄弟家以外となるキッコーマン一族から茂木新七を迎える。
 吉右衛門九代目(容所、一八六二〜一九一三)は衆議院議員三期を務め、貴族院議員の経歴ももつ。経済活動では本業のほか植林を営み、鐘紡重役、富士瓦斯紡績・九州水力電気・高砂製糖の各社長、富国銀行頭取、朝鮮銀行幹事、浜口代表社員、猪苗代水力電気取締役など歴任している。
 弟(三男)吉兵衛(一八六八〜一九四〇)は東京帝大を中退、欧米を視察、やがて起こる日露戦争に出征して陸軍歩兵中尉まで昇進する。
 紀州豪商浜口兄家九代目吉右衛門の弟(三男)吉兵衛は軍役を終えると、経済活動に入った。弟家の醤油製造工場焼失で製造部門を失った浜口兄家はみずから製造部門の確保を図る必要に迫られたが、その任に当たった吉兵衛が「ヒゲタ」を商標として銚子醤油を設立したことは先に述べた。
 銚子醤油の社長に就任した吉兵衛は矢野恒太に協力して第一生命を興し、衆議院議員(一九二〇〜二八)として銚子港の整備事業に取り組んだほか、千葉県水産社長や浜口理事、武総銀行取締役を兼任し、第一相互貯蓄銀行、東京ゴム工業、第一生命、富国銀行、利根織物などの監査役も務めた。
 吉右衛門一〇代目(乾太郎、一八八三〜一九四六)は銚子醤油と東浜植林の社長に就いたほか、浜口合名社員(代表社員)、浜口商事社長などを務めており、若いときに米エール大の留学経験もある。
 乾太郎の妹尚子は嵯峨実勝(侯爵)に嫁いで一八歳の時に浩を出産した。後に愛新覚羅溥傑に嫁ぐ浩は、少女期から上大崎の浜口邸(現在は駐日タイ大使館)で育ち、溥傑と見合いするのもこの浜口邸である。
 ちなみに、嵯峨家は実勝の祖父実愛が正親町三条(公卿制の大臣家)から改姓して名乗ったもので、後に嵯峨邸は味の素を創業する鈴木家が買い取ることになる。
 浜口家伝において特記すべきことは、吉右衛門一一代目の嫁に本稿1に挿入した系図に記載されている野津鎮之助侯爵の娘美智子を迎えた点である。美智子は大原総一郎に嫁いだ真佐子の姉で、鎮之助の長女であった。
 さらに、吉右衛門一二代目の妻は、味の素一族で社長・会長を務める鈴木恭二の娘睦子であった。
 次は本丸の和歌山藩主家である。

●紀州徳川家人脈

 徳川八代将軍吉宗(一六八四〜一七五一)は、紀伊徳川家第二代目光貞の四男で、生母は巨勢氏の出であった。吉宗が江戸に持ち込む紀州流は、現代にも多くが引き継がれており簡単には要略しえないため、焦点を狸穴に絞って略述しよう。
 一四代将軍家茂(一八四六〜六六)は紀州藩主に四歳で着座、また将軍には一三歳で着座した。正室は第一二〇代仁孝天皇(一八〇〇〜四六)の皇女和宮であり、第一二一代孝明天皇(一八三一〜六七)の妹である。
 家茂は将軍名で、紀州藩主一三代目としては慶福と名乗った。一一代藩主斉順の長男として生まれたが、父斉順は一一代将軍家斉の六男である。
 この家茂の出生場所が狸穴(通信院が本庁舎として移る紀州徳川侯爵家)であった。孝明天皇の攘夷をもっとも深く理解し和宮(静寛院宮)を通じて神格の奥義を学んだ歴代将軍中の筆頭格である。
 将軍になる家茂を継ぐ紀州藩一四代目は、伊予国西条藩主九代目(紀州の支藩)松平頼学七男の頼久であったが、将軍家茂よりの一字賜号で茂承(一八四四〜一九〇六)と改名する。
 西条藩江戸屋敷に生まれた茂承は狸穴に移ると戊辰戦争や鳥羽伏見戦など激動の時代を潜り抜け明治の世を迎える。版籍奉還により和歌山藩知事その後の廃藩置県(一八七一)を機に知事を辞職して東京に戻った。
 明治一七年(一八八四)の華族令制度で侯爵となるが、新政府のもと窮乏士族に対する援助育成のため徳義社を設けて尽力した。
 茂承を継ぐのは頼倫であるが、その長男である頼貞(一八九二〜一九五四)は学習院から英国ケンブリッジ大学へ留学(一九一三)し大学内に音楽図書館を造営(一九二一)、大正一四年(一九二五)の侯爵位の継承後も長く海外活動を続けた。チュニジア・チリ・フランスの各政府から勲章を受け帰国すると貴族院議員を経て参議院議員(一九四七〜)二期を務める。頼貞の妻は島津藩三〇代目忠重公爵の妹為子である。この頼貞の海外留学に同行するのが上田貞次郎であった。

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