修験子栗原茂【其の九】

 東京オリンピック開催が決まった事で著しく変容する一つに、私が住む足立区も巻き込まれ、その変容は未来への置き土産として、抱えきれない宿題を突き付けられることになった。東照大権現徳川家康を祀る日光坊中と日本橋を結ぶ日光街道は、江戸五街道の一つであり、宿場町の中でも千住宿は最重要の役割を担っていた。現在の東京拘置所は関東代官伊奈氏の邸宅があり、将軍三代目の家光が鷹狩の際に休憩した小菅御殿の跡地でもあった。

 隅田川と荒川の間に密集した千住地区に比すると、荒川北岸の広範な地域は未開の地で大掛かりな造成は行われなかった。関東大震災の人口流入も人目についたが、東京オリンピック開催が決まると大規模な造成工事と共に団地群の建設ラッシュが始まり、都心に住む貧民の流入は未だに全国一位の生活保護者を抱えている。急激な人口増から生じる諸問題を誰が予想しえたのか。世界に広がる難民問題を発信する国際政治もメディアも、その対策は未だに右往左往を繰り返しているのみ…。

 人が増えれば、土木建築のインフラはじめ、学校や病院などの福利厚生から、廃棄物処理を含んだ環境衛生など、誰もが予想し得ない負の遺産が尽きないのである。日本が上古の代から世界一を保ち得た文明の証しは、治安秩序と保健衛生と信託郵便の評価を満たしたからである。今は昔の話と笑い過ごすから、人命の部位たるコロナ・ウイルスを敵と見立てる愚かさに気づかないのだ。

 足立区は都の財調で特別区最大の予算を獲得してきた。

 足立区の道路は急ピッチで整備が進められた。

 足立区が設置した生活ゴミ焼却炉は、全国の自治体から足立区モデルと呼ばれた。

 これらは行政や地元議員の政治力ではなく、名より実を求めた区民の手柄によるものであり、その区民ボランティアを相手にして、真摯な対応をしてくれた実力者が副知事鈴木俊一である。

 前述のとおり、都知事東龍太郎は二期八年の在任であったが、東都政の運営は当初から副知事鈴木俊一(一九一〇~二〇一〇)が差配する事で潤滑に機能してきたのである。

 副知事鈴木俊一の在任期間と、私が選挙を手伝い政界に近づく第一期は重なっている。

 而して、私の戦後政治史は鈴木俊一を抜いたら語りつくせない。鈴木の系譜は歴然であり、まずは俊一の両親に触れる必要がある。父は山形県西村山郡七軒村(現大江町)出身とされ、東京高等蚕糸学校を卒業すると、東京府蚕糸試験場の技師となり、北多摩郡中神村に生まれ育つのが俊一である。俊一の母は南多摩郡大蔵村(現町田市)の名家に生まれ、俊一の外祖父に当たる中溝五郎は鶴川村の村長をつとめ、曽祖父に当たる中溝昌弘は神奈川県議会議長をつとめている。

 中溝家の親類には、自由民権運動家の昌孝や近衛文麿直系の反共テロリスト多摩吉(防共護国団)や、独文学者で東京帝大教授の青木(旧姓中溝)昌吉がおり、昌吉は昌弘の長男である。

 俊一の妻敦は石田馨の長女であり、石田は内務省神社局長や警視総監など歴任している。俊一夫妻の長男紘一は化学者で東大名誉教授そして、二男悠二は元興銀常務をつとめたという。

 俊一は府立二中、三高、東京帝大法学部政治学科を卒業して、内務省へ入省(一九三三)、戦後の占領下で内務省が分割(一九四七)され、俊一は地方自治庁へ配属される。約三年間に及ぶ次長から事務次官へ昇進すると、戦後最長の約八年間を在任して、第二次岸内閣(一九五八)の官房副長官で事務を担当した。翌年(一九五九)東都政の副知事に就任すると、都政全般を取り仕切る責任を担い東都政二期八年の在任で都庁を去るが、万博事務総長として、大阪万博に携わり、首都高道路公団の理事長就任など歴任している。

 のち都知事として再び都庁へ戻るのは、昭和五十四年(一九七九)のことである。

 さて、東京都の貧民収容所と化した感のある足立区であるが、その団地新住民には旧住民を遥かに越えた大物が居住していた。私には真似できないが、私の理想とする人の一人である。五年前に命を医療に託した私は、過去の資料を全部廃棄していたから、今は「長谷川さん」のフルネームを明確に書けないが、あまたの利権を目の前にしながら、私利私欲を見事に絶った得がたい一人である。

 高度経済成長期の政治課題として、公害問題は最大の難問となった。モータリゼーションは時代の寵児ともなったが、文明に伴う副作用は生命そのものを脅かす課題をつきつける。特に河川や大気を汚染して止まない公害は人間にかぎらず、あらゆる生命を蝕み種々の奇形を産出していった。

 人口流入を担った足立区の諸問題も一様にあらず、ひときわ廃棄物処理は難問の一つとなり、産業廃棄物は責務を業者に押し付けても、人口急増の生活ゴミは都政の案じるところとなる。案じた末の政策は日本初の大型ゴミ焼却炉の設置であった。当時未開の地であった竹ノ塚北方は幅四メートルに満たない芝川を挟み埼玉県に接するが、その地に大型焼却炉を備える施設の構築を決した。

 大多数の日本人は右肩上がりの景況に浮かれ、自分に被害が及ばない限り公害に無関心であった。

 住民もまばらな地区となれば、政治家も選挙の投票数が少ないから無関心は同じことだった。

 そうしたとき、新築の近隣団地に入居していたのが長谷川さんである。焼却施設構築の説明会場に出席した長谷川さんは、誰もが気づかなかった提案を投げかけた。当時さわがれた公害を大別すると①大気汚染、②水質汚濁、③土壌汚染、④騒音、⑤振動、⑥悪臭、⑦地盤沈下、の七種が指摘されて多数の健康障害が重大な政策テーマに取り上げられた。

 焼却施設は生活ゴミの回収からはじまる。生活ゴミの回収車は狭い路地から路地を抜け、大通りを走り回って施設へ到着するまで、区内の隅々に排気ガスをまき散らし、疲弊する路面を痛めつけては騒音、振動、悪臭、果ては地盤沈下すら引き起こしかねない。焼却炉の運転中にあっては、煙突から出る煙にどれほどのダイオキシンが混じっているか、その分析もどこまで信頼して良いのやら…。

 陳情には必要ないが、請願には政治家の連署が必要になり、彼らは票にならない事を積極的に行う体質に欠ける。長谷川さんは、政治家の生態を熟知していたとしか思えない。

 而して、長谷川さんは近隣住民への声掛けからスタートして、近隣住民による自主的な交流会議の場を立ち上げた。結果、焼却施設の運営に要望八項目の条件をまとめあげ、都知事への陳情作成書を持参のうえ直訴を決行している。これら一連の挙動は政治に精通しないと気づかない。しかし、この第一次直訴にあっては、東京都が表面上ものの見事に裏切った形をとっている。

 未来を透過し得た長谷川さんも、のち陳情を知った副知事鈴木の慧眼もすごかった。

 当時かけだしの大型焼却炉を検証すれば、短期の耐用年数は技術者なら明らかにわかる。

 増える一方の生活ゴミに対して、ニーズに追いつかない焼却炉は廃棄物と変わらない。

 一刻の猶予も待たない焼却炉の入れ替えは、まったく新規の開発を実現しなければならない。

 第一次直訴を裏切った当局の負い目は長谷川さんのペースに翻弄され、新規改良の焼却炉は日量で二五〇キログラムのゴミを燃やすものが四機と決まり、常時運転は三機あとの一機はスペアとしての待機炉と定められた。つまり、日量七五〇キログラムの生活ゴミが燃やされるのである。

 本題はここからである。副知事鈴木の協力を得た長谷川さんは、近隣住民の代表で構成された自主自立の運営会議が保有する権限として、東京都と締結した焼却施設の運用契約において、その条項を護れないときは、近隣住民運営協議会が焼却炉の火を消す事が出来ると定めたのだ。

 運営協議会には、近隣住民以外に干渉は許されず、いかなる勢力の干渉も受けないとし、足立区の行政や議会それに準ずる政治団体の参加や介入も受け付けないとした。

 つまり、生活ゴミ焼却施設の改築を認めた代償として、東武鉄道路線の高架促進はじめ区内道路を整備すること、各所に駐車場を設けること、工事車両の搬入搬出を事前協議で了解を得ること、また工事日程に変更ある際には事前協議で了解を得ること、さらに燃やす廃棄物は生活ゴミに限るなどの取り決めを厳格に行うとした。

 而して、長谷川さんに忍び寄る魔の手は日ごとに増していった。たとえば、豆腐をつくれば同時に生じる「おから」が産業廃棄物に指定されると、家内営業が多い豆腐屋の負担は軽くはない。区内の豆腐屋が竹ノ塚の焼却炉で燃やしてほしいと願うのは当たり前だろう。豆腐屋団体が地元の政治家に相談のうえ、「おから」焼却の陳情と選挙権の行使を交換条件とする思い付きもまた、簡単に安易と突き放せる悩みではないだろう。当然、悩みは長谷川さんに持ち込まれる。

 他方、焼却施設とそれに附帯する事業全般においては、土木建築やプラントすなわちゼネコンから開発事業分野まで、連関する事業体も大中小が入り混じるため、工事日程から工事内容まで協議会へ事前通告を義務付けられた業者も大変なら、それを受ける協議会委員も並みでは務まらない。

 ひときわ道路整備などの屋外工事などは天候にも左右されるだろうし、工事トラブルを含む日程の変更や設計変更も日常的な課題になりかねない。そのたびに、協議会への届け出が必要となれば大手企業の常套手段は決まっており、贈賄もしくは非常勤役員として自社に取り込むことである。

 そうしたターゲットの一番手にあったのが長谷川さんである。直撃はまだしも、家族や親族などを巻き込む搦め手を含めたら、収賄を拒絶するのはメディアが伝えるほど簡単ではないのだ。

 長谷川さんは奉公を貫くために鬼と化したのである。

 それを支持して後援したのが副知事鈴木俊一であった。

 事情を知らない一般人はもとより、陳情や請願を「なりわい」とする公人に至るまで、焼却施設の運営に干渉や口出しは無用とされ、他区に比べ足立区の街づくりが急ピッチで進む、それらは議会と無縁の奉公から生じた成果である事を強調しておきたい。奉公に疎い世間は自らの無知を恥じないが毒を吐くまえに、身の周りの奉公に自らの汗を流すべきだろう。

 奉公に惜しげもない汗を流したとき、初めて気づかされるのは、善行を貫くには鬼になる覚悟さえ求められること、それが世俗と承知できなければ奉公は実感できないのである。長谷川さんは見事な鬼を演じた任侠の人であり、足立区における歴代の功労者と銘記されるべき貴人である。

 暦を同三十五年(一九六〇)の夜学卒業後に戻すこととする。

 法律上の成人に無関心な私ではあるが、成人一年前の同三十五年は激情乱発と沈思黙考が錯綜する体験と情報に振り回されている。中でも山口二矢の任侠は一日たりとも消えない。彼のイサギヨサは激情乱発と沈思黙考が同時に働く極上の実行力を示している。

 政治は潔さと無縁の代物にすぎないが、二矢のイサギヨサは激情に追い込まれても黙考する機能が同時に働くエネルギーがあることを実証している。

 私は二矢の刺殺決行の一挙手一投足が脳裏に焼き付くまでフイルムを費やした。

 のち幼児期に体験した未開の地に出向いてはイノシシとの実体験に臨んでいる。

 修験のネットワークが存在しなければ適わないことである。

 二矢に刺激された第二弾が政治と利権に蠢くモンスターの解剖であり、このとき、実感し得たのが剖判という不滅の原理に操られるヒト属の本能的資質である。

 その模範的事例が眼前に展開される日朝あるいは日韓の政治的課題であった。

 落合本の核心を成す一つに満鮮経略があり、日本の命運を透かすには、不可欠の重要事項であると同時に、南東経略とのワンセットも忘れてはならない。

 昭和の大戦は文明世界のサバイバルを命題として、一区切りのあとは、東西分断と米ソ二極による冷戦構造と呼ぶインチキ体制がほどこされ、日本は朝鮮半島をステージに命運を託すことになった。

 同二十五年すなわち十年前の朝鮮動乱を剖判しないと現実は透かせないのである。

 どうあれ、朝鮮動乱を休戦に持ち込んだキーワードは非戦地帯三十八度線ということになろう。

 李承晩(リ・スンマン一八七五~一九六五)は李氏朝鮮の系譜を踏む両班の家に生まれ、自称する族譜では太宗(第三代一四〇〇―一八=初代国王成桂の五男)の長男譲寧大君(第四代世宗の兄)の末裔一六代目と伝えられる。すなわち、太宗の長男は生誕十年目に王世子(継承者)となるが、品行粗暴を事由に王世子十三年目に廃位のち譲寧大君に封じられ、新たな王世子を弟(三男)世宗が継ぐ事情が生じている。さて、何ゆえ李承晩に触れる必要があるのか?である。

 非戦三十八度線は李承晩ラインとも呼ばれた。そもそも、朝鮮の国名は中華明王朝の冊封体制下に置かれた銘で高麗の武官にして明王朝の傭兵たる李成桂に賜与された銘でもある。ただし、李成桂の素性鑑識をみると通史の鵜呑みは当たらない。太祖康献大王(在位一三九二―九八)の諡号を定めた政権は李成桂の五男(太宗)が第三代に就任した後のことである。

 つまり、朝鮮半島の歴史を鑑みるにあたっては、中華歴代の王朝史と日本歴代の天皇史に時間軸を合せた「ものさし」が必要であり、そのトライアングルを地政学で結ぶことにある。

 西暦一四世紀の晩期に始まる朝鮮史を通史で案じると、中華は北元を除く元を征した明王朝(一三六八―一六四四)が、東アジア全土への施政権拡充を目指して、高麗に根差す軍団李氏を懐柔のうえ冊封体制を敷く事に成功している。他方、日本では南北朝一本化の最終章が整えられ、足利四代目の義持を擁する管領が室町政権の体制強化に改革の断行を講じていた。

 やがて中華は清王朝(一六四四―一九一二)に変わるが、そのころ、日本は明正天皇(女帝)から後光明天皇への譲位が行われ、徳川将軍三代目家光が晩期を迎える状況下にあった。

 中華の政権が清王朝に移っても、李氏朝鮮の地位は冊封体制下に置かれたが、もともと傭兵の希求本願とするところは金塊と罌粟の報酬であり、小難しい政権運営なんぞに興味は薄いのである。その実証は初期段階に示されており、この希求本願は李氏朝鮮に限られた事ではないのだ。

 例示に適性を欠くかもしれないが、様々な競争に金メダルを欲する属性は限りなくいる。これらの属性に共通するのは、遺伝性や生活環境に偏る傾向が多くみられ、家督の真価を心得る事に無関心で個体の趣くままに人生を全うしようとする。その個体が氏神的あるいは部族的に集団化すると、利権争奪を専らとする政治に呑み込まれ、戦に秀でた勢力は傭兵として評価されてゆく。而して、彼らは国柄や家柄を護る事よりも、偏向的な時勢に身を委ねて順応するのである。

 清王朝は明治四十五年(一九一二)が終焉といわれる。朝鮮の支配権を争った日清の変は十八年も前のこと、その尾を引く日ロの変は八年前すなわち同三十七年(一九〇四)のことだ。その間の朝鮮半島に何が起こったかは関心ある人の検証に委ねるとする。

 さて、李承晩は明治八年の生まれ、出自は開城市(北朝鮮ケソン市)近郊とされるが、ケソン市は高麗の王都だったところ、李承晩ライン設定後に北朝鮮の直轄市として扱われた。承晩は李氏朝鮮の王族分家を出自とすることに拠り所を見出していた。数え二十歳(一八九四)のとき、科挙の制度が廃止されたので、ミッション・スクールの培材(ペジェ)学堂へ入学して第一期生となった。すでに朝鮮は冊封体制を脱していたが、その事由はロシアの侵攻ほか世界の潮流によるものだ。

 而して、承晩ら若者が開化に目覚めるのも通例であり、承晩が政治犯として獄中生活を強いられた経験も例外ではない。日清・日ロの変があれば、米合衆国が世界にデビューするのもワンワールドの世界観からみれば順当なことだろう。当時の政権が承晩をアメリカに派遣した事由として、購買数や視聴率にすがるメディアの報道を検索すると、承晩は英語が話せるとか、政権と同じ王族の出身ゆえ当然と言わんばかりである。

 安楽なウソに始まるフェイク・ニュースの独り歩きは際限なき嘘の塊を出現させてしまう。

 日ロの変(一九〇四―〇五)に区切りがつくころ、渡米した承晩が面談したのは大統領セオドア・ローズベルトで「我々の皇帝は朝鮮人の利益を代弁できない」と断じて、大韓帝国と高宗(李氏朝鮮第二六代国王かつ大韓帝国初代皇帝)を貶めつつ、「我々は在野の政治団体代表である」と言い放つ情報が独り歩きしている。米大統領も甘く見られたもので、現在と何ら変わりない情報であろう。

 そのまま米国に残留?できた承晩はワシントン大学とハーバード大学に学んだあと、プリンストン大学において哲学博士号を取得したという。時の大学総長は第二八代アメリカ大統領ウィルソンだと伝わる。ちなみに、セオドア・ローズベルトは第二六代アメリカ大統領である。

 明治四十三年(一九一〇)大日本帝国と大韓帝国の間に日韓併合条約が締結されている。

 当時まだ在米中だった承晩は大学総長ウィルソンに可愛がられ、総長宅に来る常連客には「将来の朝鮮独立における救世主」と紹介されたという。承晩が帰国したのは、大学院卒業(一九一一)後で半島は日本領になっていた。伊藤博文暗殺(一九〇九)の余韻がくすぶる時期でもあった。

 朝鮮総督寺内正毅の暗殺未遂事件(一九一三)関与を疑われた承晩は逃亡の途で日本に立ち寄った形跡があるという。下関、京都、東京など観光して、鎌倉市で開催された朝鮮人学生大会にも参加の足跡をのこし、ハワイの日本人としてホノルルに居を構えたともいう。

 大正八年(一九一九)上海で結成された大韓民国臨時政府の初代大総理に選ばれ、国際政治の場を足げく動きまわり、アメリカでのロビー活動では一層異彩を放ったとされる。その動向は常に被害者意識を錦の御旗に掲げて、場所も場面もわきまえない積極果敢は誰もが真似できないともいう。

 昭和二十年(一九四五)八月十五日を経た十月、承晩は在朝鮮アメリカ陸軍司令部の軍政庁統治下にある半島に戻ると、独立建国運動を率いる中心人物へのレールに乗せられる。すなわち、李成桂が明王朝に懐柔された相似象であり、李承晩を懐柔したのは米陸軍司令部というわけで、在日占領軍の米国マリーンとは一線を画するのである。

 つまり、アメリカ合衆国は一つにあらず、民政より軍政が支配する国であり、その軍政も陸と海は統帥が異なり、ホワイトハウスはハリウッドと同様のアメリカン・ドリームにすぎないのだ。

 それを知っていたのが山口二矢一七歳だったのである。

 世界最小の国土バチカン市国(一九二九)はカトリックの総本山として世界に君臨している。列強大国の首脳といえども、バチカン市国を忖度しなければ首座は保全されない。

 列強大国の首脳が振り回される分断国家の一つ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を忖度しないと国際政治に君臨する事はできない。

 小が大を惑わす事においては同等であり、前者が民事を重んじれば、後者は軍事を重んじる。

 この謎解きが出来なければ、自ら学者を任じるなど許されないのではないか。

 私一九歳の段でこれ以上の続きを書くと、あと六十年余の執筆に応じられなくなるので、然るべき段取りに進んだとき日朝あるいは日韓の半島問題に再び触れるとしたい。なぜなら、私が朝鮮半島に足を踏み入れた昭和四十七年(一九七二)十月維新の渦中を書き遺しておきたいからである。

(続く)

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