修験子栗原茂【其の一八】黒い霧の発端ともなる吹原産業事件(前編)

 私の妻は新婚生活も通常あり得ない環境の超克からスタートしている。工場兼住宅の建物は二階に欄間と襖で仕切る二間の部屋しかなく、増築で二間を加えたのは四年後になってしまった。私たちの隣室を使うのは両親と二人の弟たちであるが、日中は全員が一階の仕事場と事務所兼ダイニングほかキッチンで過ごし、風呂場も脱衣室がなく廊下を利用するため、妻が入浴する際には全員が立ち入り禁止エリアを設けるという日常を定着させていた。

 問題は新婚の性生活であるが、二間の仕切りは欄間と襖だから音はつつぬけ、私も妻もセックスに淡白だから、これ幸い無きにしも非ずと思っていたが、青春も真っ盛りの弟二人は違っていた。すぐ下の弟が私たちをおもんぱかって謀叛を企てると、直ちに実行する家訓に則って出奔という思いきり好い奇策を実行したのである。慌てて取り乱したのは母つぎ独りだけであった。

 つまり、秀孝と同居内離婚状態にあった母のよすがは自分が産んだ子三人だけだった。この子らは絶対に手放さないとする思いは狂気のようであり、母の気を和ませる役を担う私は母の思いを何でも受け容れる日常を大事にしていた。私は母に無断で結婚したわけではないが、母にしてみれば、私の結婚は心の整理と準備が済まないうちに現実を迎えたのであろう。私の妻に不満がある訳ではないが私を奪い取られたかのような幻覚に惑わされ、私の結婚は夢の中の出来事と思っていたのかも…。

 弟は私の結婚が決まると、新婚生活に見合う借家を私に無断で探しまわっていた。義姉さんとなる人の事を思えば自分が応援しないと、兄を手放さない母が義姉さんを我が家に住まわせる。家の中に新婚が住むスペースなどない、母を気遣う兄は義姉さんを説得するに決まっている、自分が頑張って義姉さんの新居を別に探さなければと独断していたのである。

 次弟は自分が案じた通りの結果に我慢がならなかった。母の大悲が実感できない弟は母の生き方に承服できなくなり、自分が家出したら「どうなるのだろうか」その結果が知りたかった。

 母は次弟の出奔に気落ちすると病の床に臥せてしまった。私を枕元に呼び寄せ蚊のなくような声で弟を探しだし、連れ戻してほしいとつぶやき、虚ろな視線は今にも死に絶えるかのごときだった。

 兄弟三人の中で次弟はもっとも母に似ており、私は母の大悲を心に宿して、末弟は幼い自分の命を生き返らせたのは母だという記憶が身体に刻み込まれている。どんなに母の我がままがすぎても私と末弟は母の思いに寄り添ったのであるが、もっとも母に似た次弟の思いは別のところにあった。

 次弟の出奔先をつきとめた私は直ちに会う事を控えることにした。それは次弟の性質を知り抜いた兄弟であるからこそ、その感じる何かを知ってからでも遅くはないと判断したからである。次弟には夫と死別して娘を抱える彼女の存在があったのである。次弟と会うタイミングを見定めた私は、まず母の事は気に掛けなくても大丈夫である事を納得できるように説明することにした。

 いつも通りの兄弟に戻った私たちは、今一番に必要とするものはなにか、その日常生活についての思いを語り合っていた。次弟は当面の収入を機械工場の技術者として賄っていた。手に職を持つ身は食うに困らない、若いうちの苦労は買っても身につけろとは、言い得て妙なる実感でもあった。

 次弟のその後は引く手あまたの技術者として、かなりの高給を得たようであるが、自分の初の子が流産だった事を知った私は次弟に婚姻の入籍手続きを了えていたかを質し、まだと聞いたので直ちに入籍するよう促している。のち入籍後に妊娠した子は無事に出産できたと聞いて嬉しかった。

 次弟は連れ子の娘を我が子として良縁をもたらし、自分の娘も同様に育て上げており、望んだ男の子が生まれると、アマチュアボクシングの全日本新人チャンピオンとする事に成功している。それは夜学高校を中退してボクシングジムに通った若き日の自分が夢みた事の実現でもあり、私が重視する家督継承の成果であり、自分の代で華と咲かなくとも系譜の知らしめる事にウソはないのである。

 次弟のエピソードにも触れておきたい。もっとも母似の次弟なるがゆえのエピソードは、母の死を看取る臨終に際して、異母姉を含めた我ら兄弟の全員が病室に集まるなか、次弟のみ開け放った病室出入口に佇んだまま頑なにベッドの傍へ寄ろうとしないのである。

 時局は私が末弟に会社を譲渡してから十五年後の事であるが、次弟は私の退職と入れ替りに末弟の会社へ工場長として転入していた。夫と死別した異母姉も末弟の会社で働いていた。すなわち、母と同居する私が末弟に連絡すれば家族全員その場で行きわたるが、次弟の言は「母ちゃんは兄貴の母で俺の母ではない。俺を産んだにすぎない」と譲らない。兄弟全員が次弟に「お前が一番お母ちゃんに似ている」と茶化しても、頑として譲らないのが「血は水より濃い」の証しでもあろう。

 次弟の話題を長引かせたが、要は家督の建て方の一端を示したかったのである。

 秀孝と私の父子二代を天秤にかければ、ストックフローもキャッシュフローも重みを加える二人の実績は何もないが、そのシーソー「ぎったんばっこん」が機能不全に陥った事は一度もない。

 つまり、栗原源五家(愛媛県)の分家として秀孝家(東京都)が創建されると、秀孝と私は家族の助けによって、異母姉と弟二人の分派三家系の創建を見ることになり、私の家系は今や微量の揺れも見逃さない安保の天秤すなわち家督を得る事になった。この現実はストックやキャッシュを見つめる視線の先には映らないが、戸籍すなわち三種の神器に言う鏡(鑑)を見つめれば、何よりも優先して知る必要がある貴方自身が映っている事に通じるのである。

 世界最古の家督は歴代天皇家によって保たれている。私が鎮(まもる)お墓は開かれた空間を保つ場の統一を目指しており、秀孝家を支えて下さったミタマのくつろぎ処でもある。

 歴代天皇に備わる神格は皇祖皇宗の教えと自負する私の真似事にすぎないが、お墓は私が知りたい事を教えてくれる案内処でもあり、家督の重大性に気づけば目先の財物には惑わされない。

 以下なにゆえ家督継承の義が重大であるのか、その家督こそが國體を支える礎になっている事例を示しておきたい。それは、この年に表面化した事象が何よりの参考になるからである。前記メディア発信の事案に「黒い霧の発端ともなる吹原産業事件」があり、私の前世と来世に不可欠の盟友である白蓮寺開山釈恵念(石川恵一)にも関わるため、ここに覚悟の敢行を決した記事をもうける。

 以下に「東京地方裁判所―昭和四十年(刑わ)二三七二号―判決」をコピー(一部省略する場合もある)するが、裁判記録のため、読者には「くどい!」と嫌われるかもしれない。しかし、戦後日本社会にはびこる詐欺の思想と実相を知ること、その実相に潜む闇の利権にうごめくもの、その利権を争う勢力の人身御供にされるもの、その延長線上に生かされる今を知るための資料となるのだ。

 どうあれ、私が生き永らえたのは、本事案の深層構造を若年のうちに体得したこと、それは本件が序章にすぎないこと、その本筋となるのは実は家督継承の重大性にあり、落合本『南北朝こそ日本の機密』に勝るとも劣らない秘事に連動してくるのだ。

 第一章【認定事実】の第一節〈被告人らの経歴等〉においては、第一に《被告人・吹原弘宣》、第二に《同・森脇将光》、第三に《同・平本一方》、第四《同・東郷隆次郎》、第五《同・木村元》、第六《同・大橋富重》、第七《同・法人(株》森脇文庫》、この関係性は以下に述べられる。

 第一《吹原》の出自は岐阜県の浄土真宗東本願寺大谷派の末寺、その本籍地の旧制中学校を四年で中退し、昭和二十三年ころ上京して繊維製品ブローカー、金融ブローカーなどをしていたが、同三十五年十月(株)函館タイムズを買収したのち、商号を北海林産工業(株)と変更その後さらに工業を興行と変更して、鉄路の枕木販売等を営業目的に同社の代表取締役となり、同三十七年九月四日には貸ビル業、遊技場経営、宅地造成ならびに分譲、不動産売買、倉庫業等を営業目的として、吹原産業を設立して代表取締役に就任、その他数社の代表取締役をしているものである。

 第二《森脇》の出自は島根県簸川郡(現出雲市)平田町、昭和三年慶大経済学部二年で中退すると、個人または会社組織で、貸金業、土地売買斡旋業、出版業等に従事してきたが、同三十四年三月に到り、先に同三十一年二月出版業を営むため設立していた(株)森脇文庫の営業目的に金銭の貸付仲介等の業務を附加し、同社の代表取締役としてその貸付業務の全般を統括主宰しているものである。

 第三《平本》は昭和二十五年三月拓大商学部を卒業し、東京日日新聞社に入り社会部記者をしていたが、同二十九年一月に退社して森脇が主宰の安全投資(株)へ入社し出版部長となった。同三十一年二月森脇文庫の設立に伴い同社取締役に就任し出版部門の総責任者となったが、同三十五年十一月ころ出版業務が廃止されてからは、その残務整理に当るかたわら、同社の貸金業務にも関係した。そして同三十七年二月に退職し、翌三月新中央観光(株)の代表取締役になったが、程なく辞し、同年七月に東邦地所(株)を設立して代表取締役となり、不動産の売買、斡旋、管理等の業務に従事しているものである。

 第四《東郷》は昭和二十一年九月に東京帝大経済学部を卒業し、日亜製鋼(株)に勤めたのち、同二十二年九月(株)野村銀行(初代野村徳七両替店→二代目野村徳七が有価証券現物問屋野村商店を創業→大阪野村銀行→大和銀行ちなみに野村證券は証券部が独立したもの→あさひ銀行と合併→りそな銀行)に入社し、同三十七年六月二十八日から同三十九年十月八日ころまで大和銀行の京橋支店長を担う地位にあったものである。

 第五《木村》は昭和十七年某商業学校を卒業し、翌十八年一月に野村銀行に入社し、同三十七年七月二十一日から大和銀行京橋支店長代理となり、同三十九年十月八日ころまで得意先係責任者として同支店に勤務していたものである。

 第六《大橋》は昭和十四年三月旧制中学校卒業後、志願兵として軍隊に入り、樺太で終戦を迎え、シベリヤに抑留されたのち同二十二年八月復員し、一時CIC(米国陸軍情報部)に勤めたが、逆スパイ容疑で検挙されたことがあって同所をやめ、その後石油製品、鋼材等の販売を手掛けたがいずれも成功せず、同三十年ころに至って、興亜建設の名称で個人営業により不動産売買ならびに建設業を始めて相当の利益を上げ、同三十三年五月には、資本金五百万円で右個人営業を(株)組織に改めて興亜建設(株)を設立し、その代表取締役となった。そして同三十七年六月東京都墨田区千歳町三丁目二十二番地に千歳ビル(敷地および建物の所有名義は大橋個人)が竣工するとともに本店をそれまでの東京同区菊川二丁目三番地から右千歳ビルに移転する一方、順次増資(資本金は同三十八年六月十三日現在一千九百万円)、業務目的の追加(実際の事業内容は不動産の売買およびその仲介が主である)等を行っていた。同人は、ほかに(株)伊豆長岡カントリー倶楽部など数社の代表取締役をも兼ねているが、興亜建設は、同人が経済活動の基盤とし本件各種犯行の背景としてきた中心的会社である。なお、大橋は森脇とは、かつて同二十九年ころ同人から騙取手形の割引を受けたこともあったが、その後同三十七年十一月一日ころ森脇文庫から六百万円の融資を受けて以来、同四十年に至るまで継続して取引関係に立っていた。

 第七《森脇文庫》は、昭和三十一年二月十一日東京都中央区日本橋室町一丁目十六番地に本店を置き、雑誌および図書の刊行を主たる目的として資本金五十万円で森脇により設立された会社(同年一月資本金を二百万円に、同三十四年四月資本金を四百万円に各増資)であるが、同三十四年三月営業目的を雑誌・図書刊行・金銭貸付・仲介ならびに不動産売買・仲介等と変更し、同年五月二十八日東京都知事に対し、出資の受入、預り金及び金利等の取締等に関する法律七条に基づく貸金業開始の届出をなし、同三十五年十一月からは右出版業を事実上廃止し、貸金業を唯一の業務として現在に至っているものである。

 第二節〈いわゆる吹原事件〉においては、第一《三菱銀行長原支店通知預金証書の詐欺関係》から、❶「犯行に至るまでの経過」1『伊藤忠事件と森脇および吹原の出会い』

 吹原は昭和三十七年六月二十七日伊藤忠商事(株)より、芝浦製糖(株)ほか十三社の株式合計七百五十万株分の株券(時価十三億円相当)を騙し取った。吹原は右株券のうち芝浦製糖二十万株を翌二十八日、金融業(株)日興の代表者斉藤福造に渡してこれを担保とする金融を依頼した。斉藤はこの株券を金融業(株)大黒屋の専務山野井仙也のもとに持ち込んで金融を図り。さらに山野井が森脇文庫に出入りしていた岩久保仁の紹介で同日夜森脇と会い、翌二十九日森脇文庫から同株券を担保に金五千六百万円の貸付を受けたのである。

 ところが、右貸付に先立ち森脇が、右二十九日に芝浦製糖に対して株券の発行確認をしたことから、吹原の詐欺の犯行が直ちに伊藤忠に露見し、驚いた伊藤忠では調査のうえ右芝浦製糖の株券が森脇文庫にあることをつきとめた。そこで、伊藤忠取締役瀬島竜三、財務部長増田猛夫、財務部管理課長中山昭雄らが、同年七月三日ころ森脇に面接し、右株券を吹原に騙取された経緯の概要を説明するとともに、伊藤忠の信用にかかわる問題だからと株券回収への協力方を懇請し、森脇がこれに応じて吹原にも話を聞きたいと申し出たので、中山課長らが吹原を連れて森脇方を訪れた。ここにはじめて

 森脇と吹原との面識が生じたのである。

 こうして、その後同年七月十日ころまでの間に数回にわたって、森脇、吹原、伊藤忠三者の間で交渉が重ねられた結果、山野井の森脇文庫からの借入金を吹原が返済することを約し、森脇もこれを了承して右株券の伊藤忠への返還に応じたので、この事件は表面化することなく落着した。

 森脇は右交渉の過程において、前記中山、岩久保らの関係者および吹原の話などから、次のようなことを認識した。すなわち、吹原が手形詐欺師(俗にいわゆるパクリ屋)仲間の一員で犯罪の前科もあり、さほど経済的信用もないこと、それにも拘わらず同人が三菱銀行銀座支店に巧く取り入ってある程度の銀行取引をしていること、吹原が自由民主党の黒金泰美代議士、大平正芳代議士らの池田派の有力者と交際があり、この政治家との関係をことさら吹聴することによって自己の信用を虚飾しようと努めていること、伊藤忠からの株券騙取も右政治家との関係を犯罪に利用したものであり、黒金らと極めて昵懇な関係にあって自民党資金の運用まで委されており、伊藤忠に融資してやれるほどの資金的余裕があるとの吹原の虚言に伊藤忠側も騙されたものであること、また吹原が右株券を騙取するに当っては、伊藤忠に対し、「相当額の株券を形式的に担保として提供すれば、これを三菱銀行銀座支店に保護預けにしておくだけで十億円を融資する」旨の虚言を弄したうえ、伊藤忠から提供を受けた株券を三菱銀行銀座支店に保護預けにするかのように見せかけ、別の物件の保護預り証を渡して伊藤忠側を騙したものであること、などである。

 以上のような事実を知ることによって、森脇は、吹原との出会いの直後において、既に吹原の人物、詐欺の前歴、手腕等を認識していた。

 ❶の2『森脇と吹原との昭和三十九年春ころまでの取引状況』

 森脇は、吹原と取引することによって利益をあげようと考え、伊藤忠の前期事件が落着した直後の昭和三十七年七月中旬ころから、吹原に対し同人の資金繰りの面倒を見てやろうと好意を示した。しかし、森脇は、前述のような吹原の人物・資力等の実態に鑑み、貸付金の回収を確実ならしめるための方策として、吹原に貸付けた資金はほとんどそのまま銀行に預金させ、その証書を預って手元に確保しておき、他方、預金取引の反復によって生ずる吹原の対銀行信用を利用して吹原に銀行から融資を受けさせ、その銀行からの借入金を森脇文庫への返済金や一部吹原の事業資金に当てさせれば、吹原に対する貸付を重ねるに従い貸付金の増加に伴って高利による利益があげられる、と考えた。

 そこで、森脇は、そのころ吹原に対し、事業資金を得るには銀行から融資を受けることが必要であり、そのためにはまず大口の預金をしなければならないから、その預金をするための資金を貸付けてやろうともちかけ、事業資金に窮していた吹原はこの申し出に応ずることになった。

 このようにして、吹原は、昭和三十七年八月以降森脇文庫から融資を受けるようになったのであるが、森脇の指示に従い、森脇文庫から借受けた資金の一部を同文庫への返済や自己の事業資金に当てたほかは、三菱銀行、大和銀行、三和銀行等に通知預金あるいは定期預金などとして預けたうえ、原則として預金証書を森脇に渡し、短期間で解約した預金の大部分は森脇文庫への返済金に当て、右預金の繰返しに基づく信用によって得た各銀行からの大口借入金も、一部を自己の事業資金等に当てたほかは、森脇文庫への返済金に当てることを継続した。

 こうして、森脇は、多数回にわたって吹原に多額の預金の資金や事業資金を貸付け、その間貸付金の切替、高利率による利息の元本繰入れなどをして貸付額の増加を図るとともに、一方前記回収計画に従い、かつ元利金の天引その他の強引な取立方法を合わせ用いることによって、吹原から確実に利益をあげていった。

 そして昭和三十九年五月中旬の時点において、森脇の計算によれば、森脇文庫の吹原に対する債権残額は三十数億円に達していた。

 なお、森脇は、吹原との取引の過程において、森脇文庫の自己資金をもって貸付を行っていたのであるが、その取引を自己に有利に取り運ぶための手段として吹原に対し、あたかも貸付資金が森脇文庫以外の金主から出ているかのように装い、その金主を「バック」または「背景」と称し、「差入れて貰う念書はバックに見せるだけだから」とか、「バックの要求だから」とかいう口実をしばしば用い、吹原をしてバックが実在するものと思い込ませていた。

 ❶の3『被告人・森脇の企図』

 昭和三十八年秋ころから、吹原に対する銀行融資が次第に減少し、吹原の森脇文庫に対する借入金の返済も渋滞の度を加えるようになった。そこで森脇は、かねて自分が大口預金者として力を有していた三和銀行東京支店に対し、吹原を有望な顧客だと称して紹介し銀行取引を開かせたうえ、吹原への融資方を慫慂(しょうゆう)し、昭和三十九年二月二十五日同支店から三億円を吹原の経営する吹原産業に融資させ、その融資金の大半を吹原をして森脇文庫に対する返済金に当てさせた。その後同年三月、さらに森脇は、三和東京に対し吹原への三億円の追加融資方を申し入れ、吹原の取引実績や担保物件、資力等に不安を感じた同支店が、期末でもあり追加融資に難色を示すや、同支店に対し追加融資をしないならば森脇関係の大口預金を引きおろしかねない態度を示して強く融資を迫り、ようやく同月三十一日に至り三億円を吹原産業に追加融資させ、その金員のうち一億五千万円を吹原をして森脇文庫への返済に当てさせることができた。

 こうして森脇は、吹原に対する銀行融資がむずかしくなってきたことばかりでなく、吹原の個人ならびに関係会社の資力の乏しさを明確に認識するようになった。

 そこで、森脇は、従来のように吹原をして銀行からの融資金等で債務を弁済させることが期待できなくなったので、三十数億円の巨額に達した吹原の債務を非常手段によって一挙に大銀行に背負い込ませて債権の回収を図ろうと考え、昭和三十九年五月中旬ころには次の企図を抱くに至った。

 すなわち、吹原をして同人が信用を得ている銀行から自己振出の他店渡り小切手(以下「他手」ともいう)と引換えに銀行振出の自己宛小切手(以下「預手」ともいう)を入手させて、これを吹原から債務の弁済として受領したうえ、翌日他手の決済資金を吹原に貸付けて決済させるという操作(以下「預手交換」という)を繰り返させることにより、吹原と銀行との間に密接な関係を保たせると同時に、吹原をして別に高額の短期資金を銀行に出し入れさせてその銀行に対する信用を増大させて行き、最後に他手によって一挙に銀行からの高額の預手もしくは通知預金証書ないし定期預金証書を引き出させ、この最後の他手決済資金は吹原に貸付けないで右預手もしくは預金証書を債務の弁済の名目の下に取得する。

 そして、右のような実質的には資金の裏づけのない預手あるいは預金証書を取り立てる時に備え、自己を善意かつ権限ある所持人と主張するための仮装手段も合わせ講じる。それにはまず、前記のような銀行操作に対する自己の主導性が資金の流れ自体から暴露するのを避けるため、吹原に対する他手決済のための貸付金と、他手決済、預手交換、吹原からの債権回収等の間における資金のつながりを可及的に遮断する方法をとる。その一つとして、同年七月十日自民党の総裁選挙が予定されているのを奇貨として、右他手決済のための吹原に対する貸付金をあたかも吹原を通じて当時の池田内閣の官房長官である黒金泰美に総裁選挙資金として貸付けたように仮装し、かつ最後に入手すべき預手あるいは預金証書についても、それを右総裁選挙のための貸付金等の弁済分として受領したか、もしくはその弁済分を自己が吹原を介して預金したものであると付会しうるように工作する。こうして、最後には、銀行に対し右工作に基づいて自己が善意の正当な所持人もしくは預金者であることを主張し、かつ総裁選挙との関連性にも触れながら右預手もしくは預金証書の支払を求める。もし銀行がたやすくこれに応じない場合には、銀行の不当な預手もしくは預金証書発行についての責任を追及するとともに、銀行および自民党に対し、総裁選挙資金問題が公けになった場合には、黒金官房長官の責任ひいては自民党の責任問題として池田内閣の退陣という政治問題にまで発展しかねないとの恐れを抱かせ、もって銀行の信用面と政界からの圧力との両面から銀行を畏怖、困惑させて金員の支払に応ぜざるをえない立場に追い込んで目的を遂げる。森脇は、以上のような企図を抱いた。

(続く)

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