【文明地政學叢書第二輯】4 神格の禊祓に臣と民が救われる

●霊元上皇と中御門天皇

 東山天皇崩御のとき霊元上皇五六歳で、中御門天皇三一歳のときに崩御(宝寿七九歳)されたが、幼年即位の天皇を支え将軍家を救う禊祓に神格を働かせている。つまり、即位一〇歳の霊元天皇は、家綱四〇歳のとき宝寿二七歳であり、綱吉六四歳没に際して宝寿五六歳、また家宣五〇歳没のとき宝寿五九歳で、家継八歳没のとき宝寿六三歳に当たる。江戸の系が絶えて、紀州系の吉宗三三歳が将軍に着任すると、霊元上皇は吉宗四九歳のとき崩御された。
 また中御門天皇は宝寿三四歳にて桜町天皇一六歳へ譲位、二年後に崩御されるが、時に吉宗五四歳に当たる。桜町天皇の崩御(一七五〇)の翌年に吉宗六八歳で没する。
 さて問題は吉宗の素性である。紀伊徳川家の二代目藩主光貞の四男として吉宗は産まれ、生母は巨勢氏が出自である。巨勢氏は第二五代武烈天皇(在位四九八〜五〇六)期の家職(姓)重役五氏中の一氏で、他に建内(武内また竹内)・物部・大伴・葛城の各氏がおり、神代に通ずる聖地創業の皇統譜に仕えた大臣を家職とする姓である。通説では武烈天皇を継いだ第二六代の継体天皇(在位五〇七・二〜五三一・二・七)の作り話に興じるが、この時代における天象と地表変化は著しく小泊瀬稚鷦鷯天皇(おはつせのわかさざきのすめらみこと)(武烈天皇)また男大迹天皇(おおどのすめらみこと)(継体天皇)の御名が示すように、世界的規模に及ぶ天地異変が繰り返されていた。神格天皇は大臣五家職に正史の無事を祈る勅を発して、自らは身を削ぎ、霊を濯ぎ、水を注ぐ禊祓に徹して民を救うことに専念していた。この神格の伝えが第四〇代天武天皇(在位六七三・二・二七〜六八六・九・七)に至り、古事記と日本書紀を編む禊祓として顕われ、今に通じる神格の働きとなっているのである。天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)(天武天皇)も歴代見ると、大臣五家職の正史保存は必ずしも万全と思えない節を見られる。吉宗が知る伝承には不備はあろうが、吉宗が建てる田安・一橋・清水の三系譜から家斉一一代目が出ることでも、神格天皇の禊祓に臣と民が救われる現実は疑いあるまい。

●桜町天皇の血脈

 第一一四代の中御門天皇の皇太子(第一皇子)昭仁親王は先帝崩御二年前の譲位を承けて一六歳で即位、桜町天皇となる。生母は近衛尚子(女御)。他に中御門天皇の皇子皇女を産する女官は、清水谷石子(典侍)、園常子(典侍)、久世夏子(掌侍)、五条寛子(掌侍)、小森頼李の娘(妃)らで、特に有栖川宮職仁親王の王子(叡仁法親王)の養子入りを記しておく必要がある。
 この桜町天皇をして聖徳太子の再来と称する通説があるが、単なる情知のパーツイズムであり、神格天皇は競い争う空間とは無縁の存在であり、太子には太子としての禊祓がある。
 吉宗は一条兼香(関白)と連携して朝廷儀式の復古に力を注ぎ、桜町天皇は皇祖皇宗の伝承に沿う新嘗祭を復活した。吉宗没の前年崩御した桜町天皇は三年前に第一皇子遐仁(とおひと)親王へ譲位、七歳で即位した桃園天皇は桜町上皇の手ほどきによる大嘗祭のもと自ら神格の奥義を極める。
 桃園天皇の在位中に起きた宝暦事件(一七五八)は別記を要するが、先帝崩御と吉宗没後に揺らぐ因子に自由があり、朝臣も幕臣も生ける屍の性癖は閉じられた空間の隙間で腐食するほかない。桜町天皇三一歳崩御と桃園天皇の二二歳崩御は短命というべきである。天皇の生母は姉小路定子(典侍)であり、二条舎子(女御)の産した皇女(姉)二人のうち第二皇女智子(としこ)内親王は一歳の年長で万が一に備えていた。つまり長引く宝暦事件の後遺症を禊祓するため、桃園天皇の第一皇女の英仁(ひでひと)親王五歳の即位を見送って神格女帝で繋いだのであった。
 後桜町天皇(智子内親王)は皇太子英仁親王一三歳のとき譲位して、宝寿七四歳の生涯を禊祓に尽くし、後桃園天皇二二歳の崩御に皇子なき状況を超克している。御用達の書記を丸呑みする似非教育下の信者は気付くまいが、後桃園天皇の第一皇女の欣子(よしこ)内親王を光格天皇の中宮に入れ、やがて起こる尊号一件を禊祓する準備を整えたのも、未来を透徹する神格の情報こそ次世代に対する備えとなる証であり、世界史をも含めた天皇史の奥義に通ずるのである。

●女帝後桜町天皇と閑院宮親王家

 後桃園天皇二二歳崩御のとき後桜町上皇四〇歳であり、閑院宮初代の直仁親王は中御門天皇の弟皇子ゆえ大叔父に当たる。閑院宮創設の建言をしたのが新井白石という通説は作り話であり、別記略述するが、直仁親王(一七〇四〜五三)は東山天皇第六皇子である。東山天皇には、御息所の近衛基熙の娘(脩子)と女房の讃岐(伊藤一中の娘)や長祥院(さち)らほかが、多くの王子王女を産している。近衛基熙は六代将軍家宣の舅でもあり、霊元天皇の勅により閑院宮号と所領一〇〇〇石が決まり、第三王子の典仁親王(一七三三〜九四)が閑院宮二代目を継いでいる。因みに、第二王子(公啓入道)は天台座主に就き、第四王子(輔平)は鷹司家を継承し、第六王女(倫子)は将軍一〇代目家治の室となる。
 さて、典仁親王は後桜町上皇の七歳年長で叔父に当たるが、後桃園天皇の後継問題で上皇は神格禊祓の奥義を働かせて新開を拓いている。
 典仁親王と同い年の伏見宮邦頼親王(一七三三〜一八〇二)一八代目は初め勧修寺に入り、同家相続(一七四五)と同時に桜町天皇の猶子となり、東大寺別当職(一七四八)を賜ったが、伏見宮貞行(さだもち)親王(第一七代)が薨去(一七七四)したため、後桃園天皇の勅命で還俗、邦頼の名を賜り親王家を継ぎ、翌年元服したのち兵部卿を任ぜられる。
 ところが邦頼親王を主犯に仕立てた後桃園天皇毒殺という風説が流され、京都所司代まで乗り出す事件が起こる。この根も葉もない始末を鎮めたのが、後桜町上皇の禊祓であった。つまり後継天皇に閑院宮家から美仁(はるひと)王子(一七五七〜一八一八)と師仁(もろひと)王子(のち兼仁(ともひと)親王)を、伏見宮家から貞敬(さだゆき)王子(一七七六〜一八四一)を候補とし、朝議を以て師仁王子(のち光格天皇)に決するが、邦頼親王に吹く向かい風は後継候補に選ばれるという栄により瞬く間に通り過ぎた。因みに美仁王子二三歳は既婚者で後に閑院宮三代目となる。貞敬王子四歳は伏見宮一九代目となり、継ぎの邦家親王二〇代目と同じく子沢山に恵まれ、後の親王家増設の基礎を築いた。

●光格天皇から明治天皇へ

 後桜町上皇四〇歳のとき光格天皇が九歳で即位する。このとき家治四三歳、老中筆頭は田沼意次である。この将軍は吉宗の嫡流で、家重九代目から家治一〇代目へと続く。
 家重の次弟宗武が田安家の祖となり、その嫡子が定信である。さらに三弟宗尹(むねただ)は一橋家を開き、その嫡子が治済(はるさだ)(一七五一〜一八二七)である。また将軍一一代目となるのは治済の嫡男(家斉)で、治済の姉保姫は二五代目薩摩藩主の島津重豪(一七四五〜一八三三)に嫁いでいる。
 さて尊号一件は後高倉院と後崇光院で前記しているが、光格天皇の父典仁親王が同じ立場に当たる。国体の負託で成り立つ日本の政体構造は天皇制を基礎に組み立てられているが、朝廷・幕府の如何を問わず政体の不全構造が自ら天誅を招くとき、必ず民を救うのは神格天皇の禊祓である。それゆえに臣も自ら建てた天皇制を護持しようとする。この原義を心得ないまま、体裁を装う政体構造は常に波形の如く浮き沈みする。
 家康も同じで、政権を秀忠に譲ると大御所を称した。この大御所の尊称が上皇・太上天皇(おおきすめらのみこと)の真似事であることは明らかであり、将軍一一代目に就いた家斉の父治済が大御所と呼ばれなくても、大御所に相当する尊称を考えうるのが官吏の性癖であり、以て自らの保身出世の材料とするわけである。つまり、典仁親王と治済の立場は神格と人格という差異はあるものの形而下の関係では同じであり、この二人が時を同じくするのも神の計らいであろう。それをどう捌くかで人の本能的属性が試されるのである。似非の神(情報)を奉ず教育下の信者は気付くまいが、この尊号一件が徳川政権の自壊に連なった大事件だということは直ちに判明する。以下、時系列に従い標題を追うことにする。

●似非女帝説を封じる上皇の禊祓

 生ける屍の跳梁が醜悪極まる断末魔を味わう平成一九年(二〇〇七)こそ、孝明天皇崩御(一八六六)そして明治天皇即位(一八六七)の時代に通ずる重大転機であり、後桜町上皇の禊祓が時を隔てて現在の愛子内親王に及び、さらには悠仁親王の降誕に連なっているのである。有職故実を弁えない現代有識者と称する生ける屍はイエズス教の霊操(マインド・コントロール)に操られる信徒であり、国内的には創価学会やオウム真理教の宗教ビジネスと何ら変わらず、単なる俗慾に狂い踊る我利我利亡者ゆえに、ただ慈悲の念を禁じ得ない。
 統一場理論を整ええない「科(とが)の学」と称する屁理屈のもと、人格さえもたないゾンビによるバトルは実験科学の現場も知らないまま、皇室典範会議において極まるかに見えたが、悠仁親王の降誕によって散会を余儀なくされた。科学の似非論説しか備えない生ける屍に科学を説いたところで詮ない話ゆえ、ここでは歴史的文学論に通じる略記で女系に根ざす神格の実態を述べるに止めよう。
 後桜町上皇は崩御までの間に、前記の伏見宮にまつわる禊祓のほかに、四三歳で京都御所消失(一七八二)に遭い、光格天皇一二歳が仮御所として聖護院を使う三年間の営みを支えた。さらに、この時から四九歳の尊号通達(一七八八)までの間は天明大飢饉(一七八二〜八八)から民を救うため天皇一八歳と協力のうえ神格の禊祓を行使している。
 この間に将軍家では、家治が没し(一七八六)、家斉が一四歳で将軍職に就き、老中も代わった。新老中の松平定信は尊号通達を一蹴したが、朝臣は尊号宣下(一七九一)を強行したのであった。
 大黒屋光太夫ら漂流民が引き起こす事件の審判は武家諸法度違反により、定信は失脚する(一七九三)。時に、後桜町上皇五四歳、光格天皇二三歳であった。光格天皇に第四皇子(兄皇子はすべて夭折)の恵仁(あやひと)親王(のち仁孝天皇)が降誕された(一八〇〇)のは上皇六一歳、天皇三〇歳の時である。
 米国の独立戦争(一七七六〜八三)に続いて、欧州に起こるフランス革命(一七八九〜九四)と時代を重ねるのは寛政年間(一八〇四〜一七)に至って宝寿七四歳で崩御(一八一三)される。
 上皇への諒闇(服喪)が開ける文化一七年(一八一七)に光格天皇四七歳は仁孝天皇一八歳に譲位し上皇となる。因みに寛政最後の遺老といわれる松平伊豆守信明の没年も同じである。
 まさに、後桜町天皇・上皇の禊祓は現代の写し鏡である、生ける屍が企む謀に必ず天誅が下されるのは必然なのである。

●神格の尊号一件と人格の尊称一件

 天明二年(一七八二)の天候不順は現代温暖化現象に通ずる予兆であり、朝令暮改の天気予報では原義を釈明できまいが、重商主義の都市政策は地球規模の格差社会を創出して、食料供給に働く生産地の農民も漁民も家族流出が止まらず、都市部に蝟集する貪欲な胃袋は危険水域を超えていた。
 紀州藩が用意する囲米は将軍家御用達であり、伊勢の白子沖から江戸まで運ぶ船が駿河湾沖で暴風に流されて、気付いたときは遥か日付変更線を超えアリューシャン列島アムチトカに漂着していた。これが大黒屋光太夫の物語で、天候不順のなせる業である。
 翌天明三年(一七八三)には岩木山と浅間山が大噴火して、降灰は田畑を枯れさせ、荒廃した土壌は疫病を流行らせ、海洋漁業に与える悪影響も深刻な問題を突き付けた。
 同じ年の世界最大規模の大噴火は、アイスランドのラキ火山で起こった。ラカギガル(玄武岩質)の割れ目から吹き出す噴煙は陽光を遮り、北半球一帯の食料危機はフランス革命の遠因にも連なっている。
 家治没(一七八六)まで老中首座を務めた田沼意次は吉宗の随行員として出世街道を歩き始めたが、重商主義を政策とした。白河藩主の松平家に養子入りしていた定信は東北大噴火の惨状を目の当たりにし、家斉の老中筆頭に就任すると、直ちに政策を重農主義に切り替えた。主義で政策を案ずるのが生ける屍の性癖であり、すべては成り行き委せのために、格差の反動は米倉を打ち壊す事件(一七八七)の連鎖となり、結局は天皇と上皇に行幸を仰ぐという禊祓により、供出米を得た民は救われて復興へと向け民心一つとなる。これこそが神格の養い・教え・禁ずる「みち」であり、人格が策を弄しては誤魔化す理屈と決定的に異なる生き方なのである。
 天皇一八歳と上皇(女性)四九歳に際して、典仁親王五六歳の尊号通達は朝議の表意であり、通説では典仁親王の格式を関白らの下座に置けないためと釈く。陳腐な話ではあるが、生ける屍の性癖と看過できない問題である。大飢饉の混乱を鎮め、復興に向け民心を纏めて邁進を整えたのは神格の禊祓であり、尊号一件は神格と結ぶ民心の神通力を強めるために決した朝議だと解釈すべきだ。
 家斉が五三歳のとき、治済七五歳に准大臣を下賜する尊称一件の勅は仁孝天皇二六歳の禊祓で、先帝の光格上皇五五歳と結んだ人格の建て直しを意味している。

●尊号一件の軽視に降ろされた天誅

 准大臣(儀同三司)とは、太政大臣と左右の大臣を総称し三司というが、この大臣に空席が生じるとき朝議参席する儀と同じ格式から、儀同三司ともいう。治済は以後一橋儀同と呼ばれ、大御所に勝る尊称は家斉の欣快となり、裏工作で動いた水野忠成(老中筆頭)に葵御紋附鞍(あおいごもんつきくら)と鞍覆を与え日常的使用も許した。葵紋の使用は将軍家血縁に限られ、外戚ですら使用を許されないもの。家斉の慶びが如何ばかりだったかを証すが、所詮は人格レベルの情報にすぎない。
 さて、尊号通達に拒絶反応を示した定信に天誅が下るのも必然である。以て非なる時空の間に働くのが神の信号で予兆は必ず顕れている。尊号一件を軽く捉えた定信の呪縛は朱子論であり、将軍の人事権を司る徳川水戸藩も同じ呪縛を受けていた。「孝」よりも「忠」を重んじる朱子論とは誇大妄想を常とする支那思想の一端であり、禊祓すれば何れも天秤にかける具に成りようがない。似非教育下の現代も同じ。玉虫色術後の呪縛を脱せられず、生ける屍の諮り事は何もかも比べて何ぼの損得勘定だけだ。神(信号)が伝える予兆(実在)を見逃して恥じず、占い擬(もど)きの芸に現を抜かし、危険を売物とするニギリ・ホテン・トバシのもと、安全が遠のく現実は徳川時代と何ら変わらない。暴風に流された大黒屋一行は露国政権(女帝エカテリーナ二世)の人質にされた。定信は尊号一件を「忠」で一蹴する一方で、人質返還と通商を要求する対露外交では「忠」を破る違法を犯して、結果的に欠席裁判で老中失脚(一七八三)という悲運に見舞われた。

 

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