【文明地政學叢書第三輯】第七章 徳川鎖国体制と大江山

●大江山系霊媒衆の神託経路

 本題に入る。神託とは神の存在なくして成り立たず、神託は情報だから、情報の発信源が神ということに異論はあるまい。だが神は何処にあるのか、そして神が発する信号は如何なるものなのか、気を象る意の働きから、落穂を拾う如く万葉の開花文明に臨んだ人の属性は、何時しか知に溺れて天性を疎かにしてきた。その退化性因果に伴って文理が生じると、シャーマンがトランス状態になるという。その実証メカニズムは放置されたまま、愚昧を恥じない。文理に問えば、電子の質量×光速二乗=エネルギーなる式が返ってこよう。相対性理論の名付親も文理の経路で生まれた。音(波)を言葉(波)に置き換えたのも文理であり、実証を論理に置き換えるのも文理の仕事である。
 電荷移動は向きが変わらないとき、電圧も変わらないというメカニズムは文理の常識で直流回路と名付けられた。これは「電気が流れた即ち電荷が移動した」と同義で、「波が止まれば粒、また粒が動けば波」に通じ、宇宙恒久の周期性一端といえるが、交流回路の併用なしには情報と成りえない。つまり文理を解いていくと、シャーマンの通信手段を直流回路と仮定して、次の情報化には交流回路が必須との仮設が浮上する。これに相対性理論と量子論を組み合わせ、回路操作のエネルギーが光速二乗と電子の質量で決まる算段を施せば、およそ神の正体を証す出掛かりが得られる。現代は相対性理論が空間を無とした間違いを改めた量子論の時代であり、その確執も波形と波長に絞られ、波と粒に生じる因子の揺らぎも明らかにされている。
  電子の質量と光速二乗を掛算したとき、そのエネルギーはさておき、そのスピード感は如何ほどか、似非教育で感性を鈍化させるより直流回路を体認する方が核心に達するのは早かろう。このスピード感に同調できる人名機能は意の働き以外になく、今際の際の走馬燈の如く目眩く感覚に喩えることもできる。而して、この歳の波は音になる前の段階であり、波の粒が音に変わるとき多種多様の信号を生み出し、直流回路による電波を感得する人の意を通じる。この信号(音)の多種多様性は時空の間を行き交う因子の揺らぎから生じるため、気象を含む環境の相違で信号が異なるとも錯覚する。また交流回路に働く地場の強弱作用とも大きく関わりつつ伝播していく電波ゆえに、共時性を伴う場の歴史が重大なのだ。信号を言葉に置き換える際には、人が有する遺伝情報も決して無関係といえず、日野が信仰の伝染や宗教心の遺伝に踏み込むのもこの所以からである。
 本稿は科学読本でないため、略述に止める。電子は電場と磁場を得て運動の安定性を確保するが、放射性元素のように、安定を自爆させる電子運動も観測されている。これは端的な事例にすぎないが、畢竟の資源は電場と磁場に生じる波に始まり、波は電気力と磁気力を含む螺旋構造のもと、違いにスピンする立体運動を通じて、引力と反引力を生み出す経路をたどる。現時この波を電磁波と呼んでいるが、電磁波にも普通の波と共振する波があり、引力は普通波と共振波が引き合うこと、反引力は共振波と共振波が反発し合うこと、また普通波と普通波が交差するとき、互いの電気力と磁気力が衝突して生じるのが静電気である。つまり、透過力は一定の条件下にある共振波に限られ、この透過力は光速二乗のエネルギーを有するため、神すなわち宇宙万般と人の意が引き合うとき、普通波を放つ宇宙から共振波を放つ人の意までさほど時間は掛からない。さて、波の機能を突き止めて済む話ではなく、新界、霊界、自然界を網羅する宇宙を知ろうとすれば、霊媒衆に与えられる信号が如何なるものかが問題となる。

●神と霊媒衆の交接信号

 筆者が先に述べた「文理」の意味は、文系が実証現場の理をパクリ、理系が論証現場の分をパクル、同根の性癖を表現したにすぎない。これと同じ現象が起こる分野が言語の性質を解く研究領域であり、そのフィールドワークは傾聴に値するものの、場の歴史に伴う共時性を究めていくと、翻訳は必ずしも決定打とならない。つまり、言語の相似性と意味の共通性や特異性など、言葉の発祥は音の捉え方に関わるため、大自然の磁場に強弱作用が起これば、万言の相似性・共通性・特異性などを類似的に翻訳したとしても、それは謂わば贋作に堕し、霊媒衆を装う裏付けにしかなるまい。
 人の本能的属性は幾星霜を数えつつ、人口増殖を実現して、様々な生命の絶滅種を救う手立ても講じているが、環境変異に関わる人の営みは功罪とも影響力が小さくない。音の発信源たる波は波長と波形を有しており、波長と波形は因子で異なり、因子は周期性を有する恒久メカニズムを喪わない。すなわち因子は固有の波長と波形から音を発する素元の構造を有して、宇宙を組成する全ての媒体と関わり、その媒体を透過したり、また衝突したり、衝突に際しては素元音の変化も生じる。これが直流回路と交流回路を通じて得る音の性質であり、宇宙万般(神)とシャーマンが交接する信号でもある。
  万葉一言一句を編む人の社会において、宇宙四元素を気(空気)、火、水、土ともいう上代から、元素周期表のH(水素)、C(炭素)、N(窒素)、O(酸素)を基礎とする現代までの間に、語彙は激しい因子の揺らぎに晒されて変遷してきた。人の本能的属性が飽和状態に達すると、人は不飽和を求めて移動し移動に欠かせない言葉も著しい混種語を生み出していくが、もっとも重大なことは、共時性に伴う場の歴史である。古事記や日本書紀を編纂するまで、日本は千代の旧辞(古い口伝の言葉)を誦習する官吏を備えていた。誦習とは、諳(そら)んじて慣れ親しむことである。
 皇紀暦元年は西暦前六六〇年に相当する。すなわち皇紀元年までの日本は、飽和移動民(難民)の亡命ほか密入があるも、まだ不飽和状態を保っており、人の営みも超克の型示しを範としていた。その代表的儀礼が新嘗祭であり、精霊の宇宙四元素が充ちる場に恵まれるなか、役行者(シャーマン)は神の信号に接し、言葉より実行に努めて恩義の確信を得ようと専念した。例えば、稲・麦・豆・粟・黍など五穀を栽培し、砂糖・塩・酢・醤油・味噌などを精製して、海洋生命の飽和を不飽和に導くことで、四季折々の周期性実測を励行していく。この経路から整えられた霊言を「あおうえい」と捉え、因子結合法に則り、語彙の分解と復元を試すため、文字より口伝の誦習を繰り返す専門的な姓(家業)を配したのだった。以後、様々な語種が飽和状態に晒されると、その伝播は人の移動より早く、霊言「あおうえい」も方言と交接して、語種の飽和状態を不飽和に導く必要が生まれてくる。この転機こそ皇紀暦を建てる最大の要因であった。

●大江山に巣立つ霊媒衆

 さて、駈歩で神と霊媒衆(シャーマン)の交接メカニズムを述べてきたが、神は宇宙万博ゆえ信号の発信源は一ヶ所に限らない。宇宙四元素あるいは元素周期表などに従えば、天啓説、仏教説、神道説など、何れも傾聴に値するが、敬服するまでもない人の本能的属性を隠さず、神霊(みたま)も魂魄(こんぱく)も媒体に穢される因果を含んでいる。宇宙は穢を祓うと同時に、逆も真なりで、その変則的周期性を見せるが、変則もまた人に都合のよい統計の算段にすぎない。朝令暮改を繰り返す天気予報がなにゆえ盛んなのかの現実を見渡せば、農工商の市況操作を企む算段は歴然であり、当たるも八卦の占いを依然信奉する政策の底が割れてくる。これまた霊媒衆を装い神を邪神に組み換えた似非教育に降る天誅であろう。以下その例として大江山を題材とし、その霊媒史を禊祓していこう。
 大江山の呼称は二ヶ所で使われる。一つは福知山市北端に標高八三三メートルの大江山があり、近傍に元伊勢と称する内宮と外宮が設けられている。もう一つは右京区と亀岡市の境にある老坂峠(おいさかのとうげ)を大枝山(大江山)と称する。大江山を舞台とする物語で知られるのは世阿弥また宮増(みまし)作ともいう謡曲で、その古名「酒呑童子」は現代に至るも広く語り継がれている。これ中世に盛行した妖怪变化譚の一つである。「大江山絵詞」も御伽草子「酒呑童子」と関連し源頼光らの鬼退治を絵巻物で描いたもの。技芸脚色は兎も角として、古書では大は尊称であり、江に枝の字を当てる慣行もあり、コトタマ説では山は八間すなわち八尋殿(やひろとの)に解される。その意味は大八州あひる文字の原型で真智形(まちかた)に喩えられる。八尋殿の現代語訳は、幾尋(いくひろ)もある広い殿舎の意で、尋は長さの単位を指し、成人の両腕を左右へ広げ指先から指先まで六尺(約一.八メートル)が通常の目安とされる。因みに、酒呑童子の本拠は滋賀県の伊吹山とされる。
 大江山に巣立つ霊媒衆の来歴を繙けば、青銅器の盛行時代において、鉄を使うヒッタイトほか、スキタイ、ウイグルなどの種と同じように、共時性を伴う場に相応しい神の信号と交接した痕跡を刻んでいる。これは記紀に出る伊吹山と関連して、岐阜県に及ぶ伊吹山地主峰が標高一三七メートルの伊吹山である、日本武尊が東征の帰途、あらぶる神の祟りを受けたとされ、山頂に懸かる雲が青い気を含むため山神の息吹に見立て名付けられたといい、薬草と高山植物の宝庫という。
 老坂峠(大枝山)は山陰道に通ずる京の出入口で、他方の大江山と結ぶ陸路はもとより、この両大江山と伊吹山とのロードマップに重大な場は琵琶湖である。文明わずか五千年としても、歴史の常は天変地異にあり、同様の時空を刻むのは霊媒史も同じ。つまり、大江も伊吹も神との交接を同じくして、互いに陸路と水路による誼を通じていたが、人の本能的属性は錬金術に不可欠の阿片に惑わされ、大江山に巣立つ霊媒衆も葛藤やむなくなる。
 日本先住説は後に別冊で述べるが、日本への亡命を含む難民および密入の渡来がすでに縄文時代にあろうと何らの不思議なく、これを以て日本精神が渡来人に絶滅されるなどありえない。現代は、沖縄、北方領土の強奪占領、他国軍駐留の蹂躙下で、北朝鮮の拉致犯罪まで見逃し、無策無為の為体を晒す政府外交だが、これ古来日本人を装う混血の種が跳梁する位相にすぎない。日本精神の本義は競わず争わずにあり、その型示しは万世一系を保つ神格天皇が代表しており、日本武尊を諭し救うのも、酒呑童子を更生するのも神格ゆえの振舞いにある。それはさておき、物性資源に乏しいという前提のもと、文明開化を海外先達とする思潮は何処より生じたるか。これこそ、大江山霊媒衆に問われる真贋問題であり、その前提さえ禊祓えば、日本の自給自足に何ら悩みはない。

●大江山霊媒衆が絡む事変の例

 伊吹山地に眠る資源は皇紀元年から同二二六〇年(一六〇〇)まで、すなわち関ヶ原の合戦まで、物性リサイクルを保ち得たが、通説の鉄砲伝来以降は著しい費消で乏しくなり、現在その面影を残すのは、旧丹波一帯の各所に育つ産物にしか見られない。山陰道八カ国の一つ丹波は皇紀一三七三年(七一三)北部五郡を割いて丹後国を設けたが、鎌倉期には六波羅探題が守護し、いわゆる南北朝期に至ると、守護は仁木氏(足利実国が祖)から山名氏(清和源氏義範が祖)、さらに細川氏(清和源氏足利支流足利善季が祖)と移って室町期に入り、江戸時代七藩が分立し、廃藩置県後は京都府と豊岡県に分かれ、豊岡県の一部を京都府へ、その残余を兵庫県に編入したのは同二五三六年(一八七六)のことだ。現在も丹波各所に育つ産物は、例えば豆、茸、粟など、味のよいことで広く知られるが、それは宇宙四元素とともに、ニッケル鉱床に最大の要因がある。これも大江山霊媒衆の託宣に基づく成果の一つで場の歴史に嘘は通用しない。
 電熱線の代表格ニッケルは発熱するが、電気抵抗率が大きいため、電磁波が流れにくい物性を有する、伊吹山に漂う雲が青い気を含んだり、京都の地下水脈が豊富なのも大水量の琵琶湖を擁するからで、大江山ニッケル鉱床を含め、似非教育下における文理では剖判し得まいが、ここは詳論を省く。
 大江山霊媒衆も真贋を問われる転機は皇紀元年に始まるが、現代に通じる重大転機は三淵晴員(みふちはるかず)の子が細川元常に養子入り、安土桃山時代の武将・歌人細川幽斎(藤孝一五三四〜一六一〇)の代で、織田信長の天下布武のころである。詳細は文明地政学叢書第一輯『歴史の闇を禊祓う』および第二輯『超克の型示し』とを参照されたい。即ち、キリスト教団イエズス会により霊操ルネサンスが跳梁しだすころ、先に日本へ渡来していた帰化人たちが、その魔術に誑かされて日本に潜伏中の異教活動を本格化させたことにある。
 信長の火薬思想は石山本願寺合戦に顕著だが、もともと石山の地は滋賀県大津市にあり、西の音羽山、笠取山を超えれば京都に連なる。また、同地に石山寺を開く天平勝宝年間(七四九〜五七)は皇紀一四〇九〜一七年に当たる。源氏衆の間で記紀編纂に倣って源氏物語が書かれたとき、後の紫式部は同寺の硯を用いたとされる。なお、前方後円の石山古墳は三重県上野市にある。石山寺の山号は石光山と称し、如意輪観音が本尊とされる。因みに、仏法は阿弥陀如来を中心に、観世音(観音)菩薩を左、勢至菩薩を右に配し阿弥陀三尊と称するが、観音菩薩は六菩薩の化仏(けほとけ)といわれ、如意輪観音はその一つとされる。つまり、観音とは衆生が唱える音声を観じて慈悲を降し解脱に導く仏だから、言靈の交接信号に当たり、また勢至は餓鬼、畜生、地獄から衆生を救う道に立ち、臨終の際に来迦(らいか)して極楽へ引導する仏ゆえ、言靈の情報化に相当する。阿弥陀如来が言行一致を促すのも必然である。
 さてこの石山寺は後に真言宗東寺派が引き継ぐが、信長と戦う主体は石山本願寺(大阪市東区馬場町)である。
 後の大阪城本丸の場に所在した石山本願寺は皇紀二一五六年(一四九六)浄土真宗八世蓮如(一四一五〜九九)が開き、同二一九二年(一五三二)に京の山科本願寺が消失したことで本寺とされた。しかし、二二四〇年(一五八〇)に織田信長と合戦のすえ焼失、その信長もまた本能寺で焼き討ちされる。本能寺は初め本応寺と書いて油小路高辻と五条坊門の間に開かれたが、のち四条西洞院(にしとういん)油小路へ移ると、応の字を能に転じて、信長駐屯のとき焼失する。現在は法華宗本門流の本山として、京都市中京区寺町へ移転している。さて、洞院は藤原北家西園寺流の公経三男の実雄(さねかつ)を祖とする。ここに藤原の氏姓鑑識を述べる気はないが、滋賀県野洲に異称「近江富士」と呼ばれる三上山は標高四二八メートル、御上神社の祭神降誕地として知られる。これより著名なのが藤原秀郷を俵藤太に仕立てあげ三上山の百足退治という絵空事を描く絵巻である。平安初期の武将秀郷は平将門を討った功で下野守となり、その子孫に亘理、小山、結城、下川辺など家格の確かな諸氏を出すも、秀郷は生没年不詳という謎を潜ませる。この奇で珍なる素性隠匿を常とするのが疑史であり、その本質は放火と消火のマッチポンプにある。

●鎖国は何ゆえ生じたか

 関ヶ原は岐阜県南西端の地名であり、伊吹山地と鈴鹿山脈との地峡部に位置して交通の要衝路に当たるが、古くは不破(ふは)の関が置かれ、安土桃山時代に中山道の宿駅となり、北国街道および伊勢街道の起点となる。この場の合戦を機に日本の政権は再び富士山の東へ移転することになり、鎖国体制を整えていく段に歩を進めることになる。
 ただし、皇紀二二四〇(一五八〇)、関ヶ原合戦二〇年前に、長崎知行とキリスト教団イエズス会の間で締結された統治委託契約に基づく港占有権の譲渡があり、長崎交易所までは封鎖できない事情を抱えていた。この国際条約は信長没の二年前に当たる。
 この前後の事跡を付記しておこう。

皇紀二二〇二年(一五四三)ポルトガル船が鉄砲を持ち込む
             カトリック教会ポーランドのコペルニクス地動説を発表
 同二二〇九年(一五四九)イエズス会ザビエルの鹿児島上陸、滞在二年という
 同二二四二年(一五八二)ローマ教皇グレゴリウス一三世が太陽暦を制定
 同二二六〇年(一六〇〇)ロンドンに東インド会社設立
             関ヶ原の合戦で東軍(徳川家康側)勝利
 同二二六二年(一六〇二)オランダ東インド会社設立
 同二二六四年(一六〇四)フランス東インド会社設立
 同二二六九年(一九〇九)長崎北部の平戸にオランダ商館設立
 同二二八四年(一六二四)オランダが台湾開始、三七年間総督
 同二二九六年(一六三六)支那の後金国号を清(一九一二まで)と改称
 同二三〇五年(一六四五)支那の清朝が南京を攻略
 同二三一二年(一六五二)第一次英蘭戦争、二年後に停戦するも、第三次まで継続
 同二三二二年(一六六二)支那の明朝崩壊

●鎖国体制下に忍びが大江山に潜伏

 長崎県の平戸島全域と度島(たくしま)一帯辺りは屈曲する湾岸線で良港に富む多くの拠点を有しており、鎌倉時代の松浦氏がすでに城下町を設けていた。古くは支那大陸や朝鮮半島との交易であったが、皇紀二一五二年(一四九二)イベリア半島のレコンキスタが集結すると、教皇ワンワールド構想の尖兵として、先ずポルトガル船が鉄砲を携え平戸に強引な寄港を果たした。因みに、通常再征服と訳されるレコンキスタとは、イスラム教とキリスト教の長期戦争にバスクが巻き込まれ、最終的にバスクを取り込むキリスト教が勝利する歴史に使う言葉である。このレコンキスタ渦中に派生するのがポルトガルであり、戦争の終結後成立するのがイスパニア(スペイン)である。「太陽の没することなき国」と称し、教皇カトリック教会の評価を高めた。ジェノヴァ出身の航海士コロンブスの物語ほか、多くの伝記伝説を残すが、最も重大な基礎は教皇パウルス三世(在位一五三四〜四九)のとき、パリ郊外モンマルトルの丘の中腹にある殉教者聖堂にパリ大学の学友七人が集まり、教皇絶対説を掲げ修道会認可を得るイエズス会の発足に絞られよう。発足五年後(一五四三)に早くも会員数六〇人限の撤廃を取り付け、七人中の一人ザビエルが鹿児島に上陸する。信長一六歳は鉄砲に強い関心を抱いており、ザビエルの霊操に接して、日本古来の伝統を打ち砕く兵法を編み出していく。
 信長に仕えた明智光秀は清和源氏土岐氏の流れで、美濃国(岐阜県)土岐郷に住した源光信を祖とし、頼貞のとき足利尊氏に従って美濃国守護となり代々世襲するも、斎藤道三に攻められ滅亡。光秀は近江の坂本城主、従兄弟の光春は丹波福知山城主となり、信長討伐の先鋒を果たすが、半月後に坂本城で自刃する。この光秀の後見が清和源氏足利支流に養子入りした細川幽斎で、信長、秀吉、家康に仕えて、最後は熊本城主となる。なお近江坂本の地名は比叡山の麓が名の謂れであり、延暦寺の門前町また北陸道に沿う琵琶湖東岸の港町として発展した。信長と行をともにしながら、秀吉は中華思想を、家康は人権思想を体現し、違いを歴史に刻んでいる。秀吉は天下を征すると、摂家・近衛前久の娘(前子)を自分の養女とし、後陽成天皇の中宮(皇后)として、自ら関白兼太閤の位を横取り、聚楽第を設けて天皇の行啓を強行、没後は吉田神道の「明神」で祀られた。家康は臨済宗南禅寺住職の金地院崇伝をして、キリシタン禁止令を発布しており、天台宗喜多院住職の南光坊天海により山王一実神道「権現」で祀られた。これらの暴挙こそ日本歴代の政府外交が繰り返すお粗末であり、本義の天皇制のほか救うべき道はない。
 太上天皇(上皇)すなわち今上天皇が皇太子に譲位の後に呼ばれる尊称は、持統天皇が文武天皇へ譲位して始まるとされる。以後、親王家から即位した皇室家の当主に、同等の尊称を用いるケースとして、後高倉院、後崇光院、慶光天皇の三例あるが、詳しくは別冊『超克の型示し』を参照されたい。
 皇紀二二六八年(一六〇八)この先例を真似た家康は政権を秀忠に譲って自ら大御所と名乗り、崇伝と天海を参謀格として信長、秀吉らが施した政策の残滓払拭に躍起となる。その要諦は外政より内政の引き締めが急務ゆえ鎖国が最も手早い措置であり、内外の乱れを封じるには、謀略活動が必須であった。忍び寄る海外動向は年表付記の通りで、家康は同二二七六年(一六一六)に没するまで、大御所八年間の政策で隠密体制を整えることになるのも宜なるかな。技芸は忍者物語を痛快とするが、事実は小説よりも奇なり、日野強の卓説「宗教を知らざれば奇で珍なるも、宗教を知れば奇も珍もあらざりき」の通りで、その忍びが大江山に潜伏するのも共時性を伴う場の歴史ゆえである。

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