【文明地政學叢書第三輯】第二章 日野強の伊利紀行

●日野大尉と日露戦争

 皇紀二五六〇年(一九〇〇)に北清事変の殊勲者として王文泰(清吉)が京都日出新聞に紹介されたことは前に記したが、北清事変は義和団事件とも言われて、反キリスト教の排外運動が山東地方から起こり、北京まで侵入、日本を含む列国の大公使館区域を包囲攻撃した事件である。連合八カ国の軍が出動して大使館員らを救出したが、結果として外圧はさらに強まり、支那大陸植民地化に一層拍車をかけることになった。
 満洲を軍事占領したロシアは和約後も撤兵を行わず、その占領地を朝鮮半島にまで伸ばすべく鉄道敷設など、都市化を促進した。
 皇紀二五六二年(一九〇二)、三八歳の日野は参謀本部出仕を命ぜられ、対露戦略のため現地派遣の大役を担うことになる。以後一〇年余に及ぶ日野の特務生活が始まり、まず日露開戦の直前まで義州(大陸と半島の境界域)に拠を構えた日野はロシアを翻弄するため万策を尽くすが、主力が工作活動(スパイ)に置かれたのは常道である。二五六四年(一九〇四)二月に始まる日露戦争において、日野大尉の活躍を詳しく報ずるなど有りえないことで、同年一二月一四日附の少佐昇進により推測するほかない。翌年(一九〇五)九月に日露講話条約が調印されると、近衛師団の第一軍は一一月下旬に東京帰還を果たして、四一歳となっていた日野少佐は戦功により功四級金鵄勲章を授けられている。

●日野強の個人情報

 日野の個人情報は黒竜会の葛生能久(くずうよしひさ)『東亜先覚志士記伝』下巻(昭和一一年一〇月刊)七一四〜七一五頁に紹介された簡単な記事と防衛庁防衛研修所戦史室が調べた履歴を元に、岡田英弘が取材した情報以外は寡聞にして知らない。この岡田説に筆者の氏姓鑑識を加えて以下に日野情報を先ず記しておく必要がある。
 目的は維新政府が編み上げる皇国史観に基づいて、富国強兵の兵制改革が擬似天皇制を仕立て上げるため、大江山系シャーマニズムを国是に加えて開国に備えた歴史を整えることにある。似非教育下の定説は自らの取材不足を恥じず、政策御用達の疑史を鵜呑みにして、公文書的情報の事実以外は裏面史と表現するが、玉虫色的な表現が満ちる表面史は事実を何も解明していない。つまり、「長いものには巻かれろ」の如く時代の徒花として、食欲を募らせ欺し欺される時空を彷徨いながら、自ら生み出す負を未来に先送りする。そのうち最も質の悪い負は恨み(裏見)であり、本稿は裏面史を述べる気は髪の毛一本もなく表裏一対の歴史を立証するだけである。
 大江山系シャーマニズムの源流を突き詰めると、史上最初と言われる世界帝国アッシリアの成立まで遡るが、本誌編集会議の意向で筆者の本懐は次の機会を俟つとして、今回は大本教団の巣立ちから現代に至るまで、複雑に枝分かれして、未だ混迷する国際社会の位相から、日本政府が免れない国際外交上の責務を示し、課題超克の方向性を明らかにしていきたい。
 さて日野強(一八六六〜一九二〇)は伊予小松町(愛媛県周桑郡小松町)に日野常吉の二男として生まれるが、氏姓の源流は朝廷に摂家制度が成立したとき、家格階級を名家と称して、他に広橋、烏丸、竹屋、葉室、勧修寺らがおり、いわゆる南北朝時代には北朝に属した。強は出口なおの二男清吉より六歳の年長であり、皇紀二五四九年(一八八九)二五歳で士官学校を卒業し陸軍歩兵中尉に任官する。以後三年間の不明期間を経て同二五五二年(一八九二)二八歳で丸亀の歩兵第一二連帯附となり、同年一二月二〇日に中尉へ進級する。
 日清戦争においては、釜山に上陸後を各地を転戦して、講和後は大連湾から乗船し、大島義昌少将の混成第九旅団の編成の地に帰還した。同二五五七年(一八九七)三三歳で大尉に昇進し、同二五五九年(一八九九)には台湾守備歩兵第一一大隊中隊長、同二五六一年(一九〇一)三七歳で近衛歩兵第二連隊中隊長に栄転している。

●日野少佐に新疆探索の大命

 皇紀二五六六年(一九〇六)七月一日附で日野は参謀本部附となり、直ぐ「その筋より新疆視察の内命を受けたり」と『伊利紀行』に記しているように特別任務を拝命した。同書初版の序文(皇紀二五六九年四月付)で奥保鞏(やすかた)(当時の陸軍参謀総長)は、日野の特務について「日野少佐曩(さき)二新疆旅行ノ命ヲ受クルヤ・・・」と記し、後に出た復刻本(一九七三年)の推奨文で護雅夫(東大教授)も「その筋より・・・」と曖昧に書いているが、日野強の個人情報を辿った岡田英弘は「その筋」を参謀本部と決め付けている。
 これを蓋し参謀本部ならんと読むのは通年の性癖であり、岡田を批判する気はないが、「その筋」とは参謀本部ではないことを後述にて明らかにする。
 日野少佐四二歳は特務遂行の準備について同書に詳述しており、携行備品など揃えると情報不足の東京を離れて、まず文献渉猟と現地事情聴取のため直ちに北京入りして情報収集に当たる。本番の事前準備に区切りをつけると、日野は北京から南下、直隷省(河北省)の保定(省都)に多賀宗之を訪ねている。
 多賀宗之三五歳は東京神田の生まれ、陸軍歩兵大尉で四年前から直隷総督を担う袁世凱の招聘で軍事顧問となり、賀忠良という支那人名を使って辮髪をたくわえていた。紀行本に記されないが、日野は保定滞在中に袁世凱が力を注ぐ軍事学校の参観など済ませており、多賀との尋常ならざる関係を暗示している。多賀と別れ鄭州に向かうとき、日野には上原多市二四歳ほか同行者が加わり、後々の歴史に少なからぬ節を刻んでいる。上原は山口県大津郡俵山村の生まれ、萩中学校卒業後に支那を放浪して、多賀との知遇から将弁学堂(陸軍将校の養成所)に入り、支那名を原尚志と名のり、弁髪・支那服の姿で勉学に励み卒業すると、士官学校に当たる陸軍武備学堂の教職に任じた。

●日野に同行する人物の個人情報

 保定から蘭州まで日野に同行した呉禄貞は皇紀二五四〇年(一八八〇)湖北省雲夢県に出生、湖広総督を担う張之洞の策で日本に留学していたが、義和団事件のとき唐才常が湖北・漢口にて反清の挙兵を計画すると、帰国して安徽省大通における泰力山自立軍の反乱に加わり、わずか二日で敗れ再び日本へ戻る経歴を有する。日本の陸軍士官学校第一期騎兵科を卒業して湖北に帰ると、呉は間を置かず武漢三鎮の重要人物となり、傘下に革命志士多数を擁した。清朝が北京に練兵処を設立する同二五六三年(一九〇三)一二月、呉は陸軍騎兵科監督に招かれるも自らもつ職能は活かされず、同二五六六年(一九〇六)秋に鉄良(軍機大臣)の許可を得ると、陝西、甘粛、新疆、モンゴルの調査旅行にでかけた。ところが、河南・陝西を経て蘭州に達したとき、甘粛巡撫の樊増祥に革新的所見を述べたのが禍したのと、軍機処からの呉来訪の公知が遅れたのとが重なり樊に呉は偽軍人と見なされ、逮捕後に陝西総督の升允へ報告されて、直ちに死刑を行うよう具申されてしまう。なぜなら、呉の所見は康有為が推進した改革運動(一八九八)と似ており、康らの蜂起は失敗に終わるとともに国賊として指名手配されていたからである。ただし、升允は慎重に事を運び、軍機処に問い合わせ、呉が公人であることを確かめ、監視つきで呉を北京へ送り返す手配をしたので、呉は命拾いすることができた。そして、日野と出会い同行に至るというのが岡田の調べだ。ここに登場する升もまた後述を要するが、一八五八年の生まれでモンゴル系満州人(蒙古旗人)として知られる。
 さて、日野は上原と呉を同行者として鄭州を発つと、騎馬で河南省を黄河南岸に沿い西進して陝洲に到着する。このとき善導大師遺跡と昭陵(唐代)調査を名目とする大谷光瑞(一八七六〜一九四八)一行が西安へ向かう旅に追い着く形がとられる。西安は陝西の省都であり、前記の通り、呉には苦い思い出の地だった。ここで日本人一四名が働く姿を確認すると、大谷一行と別れ甘粛の省都(蘭州)へ向かう。

●日野と本願寺法主大谷光瑞

 浄土真宗西本願寺派の大谷光瑞が近現代史に刻む足跡は、かつて織田信長の火薬思想と本願寺が繰り広げた抗争が形を変える位相で再現されており、単なる僧たちの特務と見たら間違いである。本願寺法主と結ぶ皇女や皇子については、すでに「超克の型示し」稿で前記しているが、ここでは伊利紀行に絞り日野と光瑞の関係を述べよう。
 光瑞は皇紀二五六二年(一九〇二)ロンドン留学三年を経て帰国するが、次に知られるのが第一回大谷探検隊で、光瑞はベルリン、ペテルブルグ、バクー(アゼルバイジャン)を経由して、渡辺哲信、堀賢雄、本多惠隆、井上弘円の四人を軸として中央アジアを踏破した。その行程は露領トルキスタンのオシュから新疆へ入り、カシュガル、ヤルカンドを経由しタシュクルガンに至り、ここで渡辺、堀と別れたあと、ミンタカ嶺を超えフンザ、ギルギット、カシミール経由でインドに出ている。別れた渡辺、堀はタクラマカン砂漠を縦横に踏査しながら甘粛を抜けて陝西の西安に達している。
 同二五六四年(一九〇四)二月に堀は北京に在留しており、後に北京入りする日野に自らの体験談を伝授した。以後、堀は西安入りする大谷一行と合流し、日野らとは相前後して同じ経路をとるも、前記した如く両者は別路を行くのである。光瑞を描く個人情報には辟易やまないが、日野の伊利紀行後に展開される大江山系シャーマニズムと光瑞の関係を解く情報は寡聞にして知らない。これを解く鍵は堀川辰吉郎であるが、堀川については伊利紀行が重大であり、まず日野の原文を熟知しなければ、堀川に辿り着くこと何ぞはできない。

●日野の勧奨で上原自立する

 皇紀二五六七年(一九〇七)元旦を東楽城で迎えるまで日野は蘭州を騎馬から二輪馬車に乗り換え踏破していた。同年一月一八日に甘粛最西端の安西に入ると、日野らは新疆を目指しハミ、トルファンを経て省都ウルムチに到着するが、ウルムチの直前で東亜同文書院(上海)卒の林出賢次郎から特段の配慮を授かった。新疆で潜伏二年間を経た林出は帰国を予定していたのだが、日野との出会いで自らウルムチ入りを案内、数日間を同居して有意義な情報を与えたのである。後に林出は日野の次女と結婚している。得がたい情報を得た日野は清の文武諸官と漢詩交流を重ね、南州少佐と呼ばれるほど大歓迎され、聯魁(新疆巡撫)や王樹枅(新疆布政使)ほか長庚(伊犂将軍赴任のため途次滞在中)ら要人の信任もとりつけた。
 このとき上原は長庚から気に入られ、日野の勧奨も加わり、新疆で陸軍式備学堂の総教頭として軍事教育を行うため、新疆に留まり自立を決することになる。後に台北(台湾)で死去する広禄(立法委員)はイリ出身のシボ族であるが、自分の老師は上原だと公言して憚らなかった。上原は任期四年を終えると、同二五七一年(一九一一)一一月にロシア領に入り、タシケント(ウズベキスタン)で投獄されるが、当時ペテルブルグ日本公使館附武官の荒木貞夫(大尉)が調査したが、一時は行方不明とされた。同二五七三年(一九一三)八月に上原は皇帝特赦で釈放され、イリに戻って揚飛霞(伊犂鎮守使)の軍事顧問になるが、翌年の召喚命令で北京入りする。日本軍が青島を占領するのは、その直後であり、多賀宗之(中佐)が軍政参加のため派遣されていた。上原多市も多賀に従い青島に渡り同二五七六年(一九一六)の第三革命に際し、馮国璋(南京督軍)の陣営のもと、諜報活動を行う多賀配下で働くも、同年九月三四歳で病死というのが上原の個人情報とされる。
 さて話を前に戻すと、日野は文武の見送りを受けて、ウルムチを発ち三頭立てロシア式四輪馬車でイリの綏定城に到着する。イリでは伊犂将軍の手配で七城の地を隈なく視察できており、その事由について、日野は日露戦争中の日本軍の健闘に思いを馳せている。

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