修験子栗原茂【其の二十六】日野家の本流と分流

 さて、法相宗であるが、まず紹介されるのは、開基は玄奘の弟子の慈恩大師基(窺基)、唯識宗や慈恩宗また中道宗とも呼ばれて、華厳宗の隆盛(七〇五)を機にしだいに衰えていくと伝えられる。日本では玄奘に師事した道昭が法興寺で広め、南都六宗の一つとして隆盛(八~九世紀)薬師寺また興福寺などの名刹を建立している。

 私ごときが仏教を説く気など毛頭ないが、起草に欠かせない通過点として、どうしても「縁起」の法は無視できないので「さわり」のみコピーしておきたい。

 法相とは存在のあり方を指し、個々の具体的存在現象のあり方だけでなく、事物一切の存在現象の区分やその有り様をも指すと説かれる。つまり、存在現象のあり方を人間がどのように認識しているのかという研究が進められ、最終的には一切の存在現象はただ「識」にすぎないとするのだ。

 法相宗の三性説は人間が縁起の理法に気づく(覚る)までをダイナミックに分析している。事物は縁起に依るという依他起性、それに気づかず執着するという遍計所執性、縁起を覚って円(まど)らかになる円成実性、この三つの構造から成り立つのが一切の存在というわけである。

 縁起は仏教の根本的教理で基本的教説の一つとされ、釈迦の悟った内容を表明するものとされる。たとえば、因縁性、縁起法、縁性、因縁法、此縁性とも言われるらしい。骨格は「煩悩=惑」→「行為=業」→「苦悩=苦」とされ、無明すなわち真理に暗い無知を根本原因とする、十二因縁が次第に定着して、後世になると、縁起の観念を分けて業感縁起や頼耶縁起などの諸説が立てられる。

 有為すなわち迷いの世界のみ説明するもの、無為すなわち悟りの世界は縁起に含まない、悟りとは縁起を超越しており、縁起が滅した世界であるとしている。初期仏教は「全てのものは原因から現われ、その原因とその止滅を如来は説かれた。」とあり、釈迦は「私が悟った縁起の法は、甚深微妙にして一般の人々の知り難く悟り難いものである。」と経典に述べている。

 縁起の法は「わが作るところにも非ず、また余人の作るところにも非ず、如来の世に出ずるも法界常在なり。如来はこの法を自ら覚し、等正覚(とうしょうがく)を成(じょう)じ、諸(もろもろ)の衆生(しゅじょう)のために分別し演説し開発(かいほつ)顕示するのみなり」と述べる。

 すなわち、縁起は「この世の自然の法則の因縁生起の原理」で、「原因」と、「条件の結果」から編む三つの構造で成り立っており、自らはそれを認知しただけにすぎないというわけである。

 ここでは大縁経(マハニダーナ・スッタ)など、専門的な記述には触れないとする。

 本稿の記事は一ページ目から現ページまで、縁起に欠かせない事のみ記しているつもり、私なりに千切り取りは禁じているつもり、そのため読者に自ら情報のリンクを依存するのは、まことに恐縮で申し開きできないが、ご寛容たまわり御容赦を御願いするしだいです。

 道昭(六二九~七〇〇)の出生地は、河内丹比郡(たじひのこおり)船連(ふねのむらじ)で父は船恵尺(ふねのえさか)であり、恵尺は乙巳の変に際して、消失せんとした『国記』を火中から拾い上げた学者である。修験の口伝によると『国記』の編纂は恵尺を筆頭に行われたとされる。

 道昭は前記のとおり、玄奘の経典翻訳を手伝った遣唐使の一員であり、帰朝の際には玄奘の指示で

 多数の経典類を持ち帰っており、斉明天皇から平城右京の禅院へ保管すべく命じられた。

 以後、道昭は飛鳥寺(法興寺また元興寺とも)一隅に建てた禅院に住みつき、法相教学の初伝たる使命を全うしつつ、天武天皇の勅命(六八〇)で往生院を建立している。晩年にあっては高弟行基の案内で各地の土木や建築の事業現場を巡察しており、自身の示寂に際しては、火葬(日本初)に伏す遺命のもと行基に家督継承を託している。

 ちなみに、私は道昭火葬の地が現在の奈良県高市郡明日香村栗原塚穴古墳と教わっている。これら口伝は自分自身でフォローアップしないと確証がないために、私の信条すなわちフィールドワークを軸に検証した事のみ開示しているが、私的な検証にすぎない事を認識してほしい。

 以下これら口伝のうち、私が最も熱心に踏まえたフィールドワークを示しておきたい。

 落合本「日の本」に関する記述は世界史と日本史を結ぶ最重要事項であり、それは音を文明とした縄文が何ゆえ文字も執り容れる必要が生じたのか、その解こそ内地版の『古事記』と外地版の『日本書紀』を編んだ所以であり、記紀は縄文のワンワールドを知る手掛かりと口伝されている。

 記紀は「神代」に始まるが、その現実的な時代考証は縄文期を指しており、日本列島には世界中の文化文明が押し寄せる地勢上の環境が揃っていた。而して、この地の住民は競うこと争うことに突き動かされる必要もないため、資質的には温和な土地柄や家柄や人柄を好むようになっていた。

 それはまた、ワンワールドの始祖ウバイドにとっても理想郷といえる地であったはず…文明発祥の地はウバイドの灌漑に始まったが、それはペルシャ湾に注ぐ大河とともに、カスピ海から黒海を経て地中海へ達するオリエントの恵みを奪い合う地と化していった。平和の使者ウバイドはオリエントに不可欠の資源ケシの活用とともに、古代エジプト文明の資源キンを本位財として、世界中に根を張る情報ネットワークを構築するワンワールド構想の推進を意図したのでは…。

 たとえば、世界中に分布した人的資源の和合を考えたとき、北方と南方の種族習合を図るためには東極と西極に拠点を定めるのも一つの考え方であろう。これも落合本に学ぶところ大であり、史観を支える洞察の妙に覚るところは、他が追随のしようがない存分の奥行きを秘めている。

 時代の推移から縄文を脅かす侵略の危機を覚ったウバイドは、温和な住民を救済するために、先住氏族から選りすぐりの人材を羅津に集めて、専守防衛の軍事教練をほどこし、その特務実践は上古のスキタイが担ったと聞いている。その精鋭を率いた氏族の頭目こそ蘇我氏とのこと…。

 つまり、日の本とは羅津から見た方向を指し、縄文の温和な氏族拠点の場であり、のち専守防衛を構築するために、騎馬族のターミナルたる羅津で精鋭が戦略と戦術を身に帯びたのである。

 正に「カバネ」の源であり、その恩顧に報いるため奉迎したのが天孫(神武天皇)だったが、これ以降の口伝については私ごときが述べるところではない。

 世に道昭や行基などの祖は渡来とされるが、その真は羅津に移住した縄文の里帰り組であり、特に選抜された縄文の精鋭を指しており、その氏族末裔が列島と半島を往来しながら、世界中へ分布する基本設計として編まれたのが、記紀だという口伝が今も承継されている。

 道昭の父が船恵尺とは前記しており、通史は船氏を次のように説いている。まず渡来系氏族として本拠を河内丹比郡野中郷(現大阪藤井寺市と羽曳野市)と推定この地に所在の野中寺(やちゅうじ=聖徳太子建立の太子寺で上・中・下の一「中の太子」という)が氏寺とされている。ちなみに、太子建立の寺院は四十八にのぼり、野中寺開基を太子の命を受けた蘇我馬子とする説も生じる。

 日本書紀によると、欽明天皇が樟勾宮へ行幸(五五三)した際に蘇我大臣(そがのおほおみ)稲目宿禰(いなめのすくね)は勅命により、船の賦(みつぎ=税)を司る長官に王辰爾(おうしんに)を指名その任を果たした功績から、王辰爾(百済王一六代辰斯王の後裔)は船氏(ふねし)の祖となる勅許を以て新たな家名の創建を成立させたという。

 恵尺は王辰爾の曽孫にあたり、系譜は船龍の子でカバネは史(ふひと)のち連(むらじ)となるが今も私の疑いは晴れない。私の心に刺さったトゲは諸説が言う疑問と別次元のところにある。考古の発掘現場から伝わる疑問の数々は『遺跡』ほか『天皇記』や『国記』にまつわるもの、どれも千切り取り史観の範疇に限られるもので、有職故実を究明するものごとには無関心としか思えない。

 ただし、落合本「乙巳の変」は私の本願を丁寧に説明してくれており、船恵尺ほか渡来系とされる通史の千切り取りを正してくれた事については敬服のほかない。

 ここに指摘する私の疑問は落合本と筋が違うため、落合史観に準じても違えるものでない事に念を込めておきたい。私は恵尺が「カバネ」の代にあって史が何ゆえ連に転じたのか、とはいえ、有職は恵尺が勝手に決められるものではないため、大きな歴史のうねりが生じていた事を洞察しないと疑い解消にはならないと思っており、また『国記』のみ護られたとの説も鵜呑みにできない。

 これらの疑いを晴らすタイミングは、まだ早すぎるので次は行基について触れるとする。

 行基(六六八~七四九)の名付け親は道昭と伝えられ、年齢の差は四〇歳くらい、出生の地は河内大鳥郡のち和泉(現大阪府堺市西区)へ分立、父は高志(こし)才智で長男として生まれる。高志の祖は王仁(わに)すなわち辰斯(しんし)王の子辰孫(しんそん)王と共に日本へ里帰りした一群に属している。落合本は王仁を丁寧に氏姓鑑識しており、その敬服やまない洞察を参照されたい。

 百済の辰孫王や王仁の一群が里帰りしたのは、応神天皇の御代に当たるが、道昭は舒明天皇元年の生まれ、行基は天智天皇七年の生まれ、景行天皇(第十二代)の皇子ヤマトタケルにまつわる口伝は私のかけがえないエネルギーゆえ、応神天皇(第十五代)奉迎は神通力の極みと思えてくる。

 つまり、マガダ王舎城お釈迦さまの伝、玄奘三蔵と道昭の伝、道昭と行基の伝、これらをヤマトタケルの伝に寄せていくと、その時々に揺らぐ時代考証から「西郷隆盛」が浮かび上がってくるのだ。弥が上にも増してくる私の願望は開かれた空間への旅立ちであり、旭日に輝く霊鷲山に立った光瑞の気持ちを妄想すると、新聞配達をした少年期の私が見た日の出と変わらない念が浮かんでくる。

 それはさて、行基の事績は玄奘と道昭の集大成ではなかろうかと思っている。子細は他の情報から得てほしいと願うが、私が特記したいことは、「小僧の行基と弟子たちが、道路へ乱れ出てみだりに罪や福を説いて、家々を説教してまわり、偽りの聖(ひじり)の道から人民を妖惑している」と言う官製フェイクニュースが当時も出回っていた伝承で今も何ら変わってはいない。

 奈良時代に僧尼令違反のもと処分されたのは行基のみとされる。官製権力の弾圧は行基の図抜けた行動力が行政の脆弱性を白日の下に曝したからで、同じ事は時代が新しくなればなるほど、保身術に長けた役人根性として今に及んでいる。これを払拭するエネルギーが任侠とは言うまでもあるまい。

 俗に言う「反社会性」とは、その全部が「反政府」を意味するが、今や政府の意向に何でも反対を唱える勢力までもが、反社会性のレッテルを貼られた者にリンチを加える時代となっている。何度も繰り返すが、この不可思議なトラストを茶の間の隅々まで浸透させたのはテレビである。

 天平八年(七三六)インド僧ボーディセーナ(菩提僊那)がチャンパ王国(南ベトナム)僧や唐の僧らと来日したとされる。菩提僊那(ぼだいせんな)は行基三七歳のとき生まれ、行基六九歳のとき来日して、九州大宰府から平城京へ着くと大安寺を住まいとした。

 菩提僊那の手配はすべてが行基だと口伝されている。彼は南インドのバラモン階級に生まれ、姓はバーラードヴァージャ(婆羅門遅)、青年期ヒマラヤを越えての入唐後は五台山が滞在地であった。唐での本拠を長安(西安市)の崇福寺に定め活動するうち、日本からの入唐僧や第十次遣唐副使中臣名代(なかとみのなしろ)から渡日を要請され、密呪に秀でた弟子仏哲(ぶってつ)と、鑑真(がんじん)の同僚僧道璿(どうせん)と、共に日本上陸のち行基の構想を承継したと聞いている。

 ちなみに、仏哲はチャンパ王国の僧であり、来日後は奈良東大寺の大佛開眼法要に際して、舞楽を奉納するために舞や林邑楽(りんゆうがく)を楽人に伝える一方、多くの密教経典や論籍などの請来伝達に尽くしている。また唐僧の道璿は鑑真の代役を担って、戒律の請来とともに、吉野比蘇山寺を拠点とする山岳修験に少なからぬ影響をもたらし、弟子の行表(七二二~七九七)は最澄の師として周知されている。そして、仏哲も道璿も共に日本で入寂したと聞いている。

 さて、菩提僊那であるが、華厳経の諷誦に優れ密呪にも通じており、密呪は弟子の日本僧へ伝授の法を説いたという。廬舎那仏の大仏開眼法要では導師を担って、聖武天皇、行基、良辯(ろうべん=東大寺開山)と共に東大寺の四聖と称えられている。その示寂も大安寺とされている。

 以上お釈迦様から菩提僊那まで、要略この上ない駆け足を記してきたが、出現したのち消えていくマガダ国の在り様に「歴史の相似象」を感じるのは私だけだろうか。心酔するヤマトタケルに依りを寄せていくと、釈迦に見合う近習には大西郷が見えてくる、玄奘三蔵は修験サエキであり、道昭その後継行基は羅津からの里帰り組だから、廬舎那仏開眼の大日如来は聖武天皇にあたる。

 私の夢が正夢か否かはさておき、次は日野家について確認していきたい。

 日野家は藤原真夏(まなつ)からはじまる。この際に、真夏(ユリウス暦七七四~八三〇)以前を簡単に付記しておきたい。藤原氏が中臣鎌足(なかとみかまたり)に始まる事は周知されるが、その時期は天智天皇八年で鎌足(同六一四~六六九)五六歳の死に際しての賜姓とされる。

 ところで、当時の暦年数を表すとき、持統天皇(第四十二代)の以前は一年ごとではなく、天皇の御世ごとにまとめて記載するのが普通という事を付記しておきたい。

 つまり、鎌足の生前中は中臣鎌子連(なかとみのかねこのむらじ)として、孝徳天皇と斉明天皇の御世で内臣(大錦上)の任にあり、天智天皇の御世で内大臣(大織冠)の任にあったという。

 鎌足を継いだのは二男の不比等(ふひと=史)であり、不比等(六五九~七二〇)の娘宮子(母は賀茂比売)は文武天皇妃で聖武天皇の母、宮子の四年下の妹光明子=安宿媛(母は県=あがた犬養橘三千代)は聖武天皇妃で孝謙天皇の母、その妹たちは省略して男子四人に触れておきたい。

 藤原四兄弟の長男は武智麻呂(むちまろ=六八〇~七三七)で南家を創建その祖とされている。

 同二男は房前(ふささき=六八一~七三七)で北家を創建その祖とされている。

 同三男は宇合(うまかい=六九四~七三七)で式家を創建その祖とされている。

 同四男は麻呂(まろ=六九五~七三七)で京家を創建その祖とされている。

 聖武天皇十三年(天平九年)の天然痘は藤原四兄弟の命を揃って奪いとる猛威を放っている。また兄弟それぞれ家名の由来は、武智麻呂の邸宅が房前の邸宅に対して南に位置したこと、宇合の仕事が式部卿を兼ねたこと、麻呂の仕事が左京大夫すなわち京職(きょうしき)を兼ねたことにある。ちなみに、京職とは律令制における京内の司法、行政、警察を司る行政機関のこと。

 日野家の出自は藤原北家(初代房前)であり、同二代目は三男八束のち真盾(またて=七一五~七六六)、同三代目は三男内麻呂(うちまろ=七五六~八一二)、同四代目が長男真夏その生涯(七七四~八三〇)は奈良時代(七一〇ー七九四)後期から平安時代(七九四ー一一八五)初期にかけての貴族だから、所領地も平城京から平安京への移行に沿うものと思われる。

 家名の由来は伝領地の山城国宇治郡日野とされるため、真夏の代に定まったか否かを論じてみても大きなテーマになるまい。真夏は平城(へいぜい)天皇(七七四~八二四)と同い年であり、天皇の側近中の側近として、即位の前後も上皇になられてからも腹心として仕えている。

 日野家二代目は三男濱雄(はまお=不明~八四〇)、同三代目は長男家宗(いえむね=八一七~八七七)、同四代目は長男弘蔭(ひろかげ=不明~九〇四)、同五代目は長男繁時(しげとき=不明~九四三)、同六代目は長男輔道(すけみち=生没年不明)、同七代目は四男有国(ありくに=九四三~一〇一一)、同八代目は七男資業(すけなり=九八八~一〇七〇)、同九代目は二男実綱(さねつな=一〇一二~一〇八二)、同十代目は三男有信(ありのぶ=一〇三九~一〇九九)、同十一代目は長男実光(さねみつ=一〇六九~一一四七)、同十二代目は二男資長(すけなが=一一一九~一一九五)、同十三代は長男兼光(かねみつ=一一四五~一一九六)、同十四代目は長男資実(すけざね=一一六二~一二二三)その号は日野後帥また法名は和寂と伝えられる。

 さて、日野家の氏寺法界寺であるが、同三代目家宗六歳(八二二)のとき、伝領地日野に法家寺を建立そこへ最澄自作の薬師如来の小像が祀られ、同八代目資業(従三位)六四歳が出家後に薬師堂の建立を為して法界寺を称したと伝えられる。また以後の名乗りを日野流と言っている。

 親鸞(一一七三~一二六二)は、同十代目三男有信の四男有範(不明~一一七六)の長男で四人の弟がいるとされる。つまり、有範の死去三年前に親鸞が生まれ、父が死ぬまでの三年間に弟が四人も生まれた事を文献渉猟の常識人=有識者はどのように説明するのだろうか。ここに私が参照している資料は『公卿類別譜』であり、四男有範の長兄は同十一代目で、次兄宗光(一〇七〇~一一四三)の次が資経で生没年不明、有範の下には六人もの弟の名が列記されている。

 ちなみに、持明院統に仕えて、大覚寺統の院司も担った俊光(一二六〇~一三二六)は第十七代で通史に言う南北朝時代の中心人物とされるが、ここでは親鸞のフォローアップに徹したい。

 親鸞生誕のときは、祖父に当たる有信十代目が没後七十四年にあたり、伯父実光十一代目は没後二十六年にあたり、従兄弟資長十二代目は五五歳(享年七七歳)、資長の嗣子兼光十四代目は二八歳で享年五二歳、兼光の嗣子資実十四代目は一二歳(享年六二歳)ということになる。

 また親鸞入寂のときは、資実十四代目の没後三十九年にあたり、資実の嗣子家光十五代目の没後二十五年にあたり、家光の嗣子資宣十六代は三八歳(享年六九歳)ということになる。

 通史は親鸞(享年九〇歳)を得度九歳として、父有範のすぐ下の弟範綱(のりつな)に伴われ京都青蓮院の慈鎮(じちん)和尚(後の天台座主で慈円)のもと範宴(はんねん)を授けられたという。出家しばらくして、比叡山にのぼり、検校(けんぎょう=当時は事務監督官)の慈鎮が勤める横川の首棱厳院(しゅりょうごんいん)の常行堂で勤行二十年を徹したとされる。

 親鸞もまた私が控える神格ではあるが、叡山から世相へ下るのは三〇歳くらい、すなわち、土御門天皇から、順徳天皇、後堀河天皇、四條天皇、後嵯峨天皇、後深草天皇、亀山天皇まで、その歴代の世相を案じることにより、日野家十七代目俊光の天命その善導を口伝に遺している。

 その生涯はヤマトタケルが応神天皇奉迎の下ごしらえをしたように、シンランは南北朝統合のため家督継承の根本理念を明らかにしたのである。

 通史は日野家分流を十二と数えており、裏松(うらまつ)、勘解由小路(かでのこうじ・かげゆこうじ)、烏丸(からすまる)、北小路(きたこうじ)、竹屋(たけや)、外山(とやま)、豊岡(とよおか)、日野(ひの)、日野西(ひのにし)、広橋(ひろはし)、三室戸(みむろど)、柳原(やなぎわら)の家名を挙げている。このうち、家督の重大性につき最も対照的な裏松家(名家→子爵)と柳原家(名家→伯爵)の要略を記しておきたい。

 分流十二家のうち、最初に創建されたのは柳原家であり、日野家十七代目の俊光の四男資明(一二九七~一三五三)すなわち正二位・権大納言を祖として、近現代にあっては大正天皇の生母(二位の局=にいのつぼね)を輩出した事でも知られる。

 ただし、ここでは日野嫡流が家督継承のピンチに陥ったとき、日野宗家の家督を再興した裏松家を優先して述べるとする。

 日野家に限られないが、特定の地域に多数の同姓が集住する場合においては、姓氏とは別に家紋や居宅の異名を家号(屋号)として用いることがある。裏松も家号その本姓は日野であるが、日野家の有職故実に鑑みれば、分家それぞれに重大な家督が備わるのも当然だから、氏姓鑑識は史家の責務で避けては通れない登竜門とされるのだ。

 裏松家は日野家十九代目の時光の孫重光(一三七〇~一四一三)を祖としている。重光の父資康も重光の子義資も裏松を称したが、重光の孫義資(父は政光=重政)の子勝光は日野宗家の家督継承を担っている。ちなみに、重政の娘富子(一四四〇~九六)が将軍八代義政の正室となり、周知される応仁の乱で歴史上の著名人とされるが、その諸説に有職故実が乏しいのは何ゆえか。

 さて、裏松家が担った役割に焦点を当てると、前記裏松義資の子勝光が宗家日野嫡流を継ぐまでの間の宗家にあっては、時光(一三二八~一三六七)十九代目を継いだのは、裏松資康の弟資教(一三五六~一四二八)が日野家二十代目となるが、資教の長男で後継の有光(一三八七~一四四三)二十一代目は院執権(一四一七)そして権大納言(一四二一)となるが、その職掌を二つとも辞し(一四二五)出家祐光を号するとされる。

 事由は将軍四代目義持(一三九五~一四二三)と日野家の確執が原因で追放され、家督と所領は弟秀光に移されたが、秀光死去(一四三二)その後継に同流広橋兼郷の子春龍丸を養子とするも同じ年内に死去、そのため兼郷が一時的なリリーフ役を担っている。

 時に南朝復興を目指す後南朝と結んだ有光は、嘉吉の乱(一四四一)後の動揺に乗じて、二年後に伊勢楠木氏と結び禁闕(きんけつ)の変を起こし、御所から剣璽(けんじ)を奪い比叡山根本中堂に籠もるが幕府の鎮圧に屈している。有光の討ち死に後・子の資親は六条河原で斬罪に処された。

 ちなみに、剣璽とは天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の事で八咫鏡(やたのかがみ)を加え三種の神器と呼んでいる。幕府は剣璽のうち神剣は奪い還したが神璽は消息不明とされている。

 嘉吉の乱とは美作守護の赤松満祐による反乱事件のこと、禁闕の変とは御所から剣璽を奪い去った事件のこと、両事件とも同じ年号(嘉吉)内のため、後者の見出しを別に禁闕と呼んでいる。

 一方、裏松家の娘たちは、将軍家御台所(正室)が四人(業子=なりこ、康子、栄子、宗子)うち栄子は将軍五代目義量(よしかず)を出産している。のち裏松家当主の勝光が日野宗家を継いだのは広橋兼郷の死去(一四四六)によるが、資康→重光→義資→重政→勝光と続く裏松家の系譜は元から日野流嫡流とも間違われるほど、裏松家が担った家督継承の役割は重いものになっている。

 また時代が江戸期へ移ると、烏丸光賢(一六〇〇~三八)の二男資清(参議)が分家して、家号に裏松を用いた事から、日野家の本筋が裏松家に代わっても嫡流と間違われる事に重なっている。その後年に生じる宝暦事件(尊王論弾圧)に連座した裏松光世にあっては、永蟄居(一七五八)を受けた後で落飾(出家)まで命じられている。この光世こそ有職故実の大家で『大内裏図考證』の著は皇居消失の際に古式に則る再建の手引書となっており、その指揮を担った老中松平定信(尊号一件の不敬不心得者)が依存の聖書としている。なお明治期の華族制は裏松を子爵家としている。

(続く)

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