こんにちは。
戦略思想研究所 中森です。
先日よりYouTubeチャンネル「むすび大学」にて「仲小路彰のグローバリズム思想」をご紹介しています。
昨今の風潮として、当チャンネルの視聴者は「グローバリズム」という言葉にアレルギー反応を起こしてしまうことは十分に認識していましたが、私の説明が下手なこともあり、老碩学の士の思想体系に誤解を招いてしまったことを反省しているところです。
そこで「戦争と平和」と題して、説明を補足させて頂きます。
先に結論をお伝えしますと、「仲小路彰のグローバリズム思想」は決して空想的理想主義ではありません。
ひとたび「平和」を唱えれば、直感的に左翼的思想に侵されていると峻別されてしまいがちですが、弊社note記事に転載している”「地球の平和」の現實的諸問題”に目を通して頂ければ、「平和文化の體系的表現」に重要性を認識して頂けると思います。
以下に一部を引用します。
この世界の危機に對して――「平和を守れ……」のスローガンのもと、平和運動は全世界に展開され、政治的・思想的な平和維持の方策が論議されている。しかし、これらの平和運動の本質をとらえるとき、果してこれで平和を確保することが出來るであろうか?――という疑問が、果しない危惧とともに湧き上つて來るのを、いかんともすることが出來ないのである。
それは現實の平和論が、餘りにも論理的・イデオロギー的側面にのみ止まり、むしろ最も抽象的な「平和理論」と化していることに最大の問題が存すると思われるのである。問題は、人類がいかに第三次大戰を回避し、眞に平和的創造的社會形態を實現するかという問題であり、平和についての一般論よりも、生きた現實を通じてあらゆる社會的文化的側面に對する明確な體系的な構成による明確な認識を必要とするのである。
しかも、現在このような平和文化に對する體系的な構成による研究は皆無であり、今日この平和文化の體系的表現によつて、戰爭と平和との二律背反に苦しむ人類のあらゆる外面的・内面的諸問題の解決を圖ることこそ、最も要求され、希望されるものである。
弊社note記事”「地球の平和」の現實的諸問題”の全文はこちら。
したがって、平和は「守る」ものではなく、文化として「構築」するものと捉えるのです。
西洋には”汝平和を欲さば、戦への備えをせよ”との格言があり、その格言から「平和文化の體系的表現」の重要性に通じる内容をWikipedeaから引用します。
1928年のパリ不戦条約において各国全権代表が署名するため用意された万年筆には、「もし平和を欲するならば、平和のために備えよ(Sī vīs pācem, parā pācem.)」と刻印されていたという。キリスト教非戦主義の立場に立つレイトン・リチャードは、この逸話を紹介したうえで、ウェゲティウスのものとされる古い格言は「今や流行遅れ」であって、「二度の世界大戦の経験は、もし諸国家がその平和の夢を実現しようとするならば、彼らは戦争以外の、そしてもっとすぐれた道をとらねばならないことを教えた」と述べている。
有史以来、人類文明とは戦争文明といって過言ではないほど、戦火が絶えることはなく、戦争のために持てる叡智を総動員し、科学技術を発達させてきました。戦争があってこそ文明を謳歌してきた人類史は皮肉としかいいようがなく、仲小路彰いわく「戰爭と平和との二律背反に苦しむ人類のあらゆる外面的・内面的諸問題」なのです。
その問題を解決する緒、それは「人類は平和のために持てる叡智を総動員してきたことはない」という事実。正しくは、その事実が残されていない、有史以前の人類史を完全に忘却してしまっているという事実です。
有史以来、世界は常在戦場であるがゆえに、人類にとっての平和という概念の定義は「戦間期」となり、「戦争を抑止することが平和を守る」こととされてきました。人類史は戦争から始まり、戦争に終わることが前提となっているのです。戦争ではなく天変地異かもしれませんが、常在戦場という前提は変わりません。私自身、「戦間期」に生まれているがゆえに、「戦争を抑止することが平和を守る」ことであると信じきっていました。
ただし、「仲小路彰のグローバリズム思想」に出会ったことで、その信仰心は揺らぎ始め、『NATIONAL GEOGRAPHIC 2026年5月号』の記事「モヘンジョダロの最も不可解な謎」を目にした時、ある確信と希望を持ったのです。
当該記事は弊社note記事でも紹介しましたが、その一部を引用します。
学者たちがモヘンジョダロに興味をかき立てられるのは、戦闘や暴力を示す明確な証拠や、王の権威を示す遺物が見つからないという理由が大きい。
弊社note記事”モヘンジョダロの最も不可解な謎【ツラン論考39】”はこちら。
縄文時代の一万年、遺跡から戦争目的の武器がほぼ出土せず、遺骨の分析で暴力的な死が少ないことは、考古学的な定説となっており、縄文人の「特殊性」とされていました。しかしながら、工学技術の粋を極めたモヘンジョダロにも、その高度な文明とは裏腹に、いわば「縄文的」な事象があったのです。
「縄文的」な事象とは「純粋なる平和」です。
ある確信、それは「戦争を抑止している状態は純粋なる平和を意味しない」ということ。
ある希望、それは「人類は純粋なる平和を構築可能、正しくは再興可能である」ということ。
「仲小路彰のグローバリズム思想」は決して空想的理想主義ではないのです。
ただし、これだけでは「グローバリズム」という言葉に対するアレルギー反応を払拭することはできません。現行社会における「グローバリズム」は「一極支配」という概念と結び付けられてしまっているからです。
それならば「グローバリズム」という言葉を言い換えればいいという意見もあるかもしれませんが、今は亡き老碩学の士の信念を軽率に曲げるようなことは到底できません。しかも、好むと好まざるに関わらず、人類文明はグローバル化するのです。
決してグローバル化を推進するとか是認するとかそういう話ではなく、なるべくしてなってしまうのです。「これ以上、世界のヒト、モノ、カネをつなげるのはやめてくれ」と叫んだところで、文明の利器が簡単にそれを可能にしてしまうのです。
そもそも人類はつながろうとする生き物です。俗世と隔絶されても強く生きる民族もありますが、民族を率いる指導者の統率力または共同体の結束力に尋常ならざるものが要求されます。ましてや仙人のようにひとり山奥で暮らす生きる術を俗世の誰が持てるでしょうか。
グローバル化の問題は「つながり方」で、聖徳太子の神・佛・儒のイデオロギーの調和と體系化、その「型とふるまい」に倣うほかないでしょう。
もはや江戸時代の約260年間の平和は手本になりえませんが、やはり平和的素質は日本にあると信じるものです。
1415年、ポルトガルのエンリケ王子は北アフリカのイスラム教徒の要衝セウタを攻略。世界中に植民地支配の地獄をもたらす大航海時代が始まります。大航海時代もまた一種の「グローバリズム」であるため、「グローバリズム」という言葉が忌み嫌われることも仕方がないことです。

ただし、エンリケ王子が嚆矢となろうがどうであろうが、必ず人類は大海に出ていたのです。否、有史以前、すでに環太平洋では丸木船に乗って古代人が大海に出ていたのです。大海に出た古代人に植民地支配を行った形跡があるのか否か。
古代の大航海と中世の大航海の結末を分けたものは何であったのか。
米国ミズーリ州の「ミズーリ」という言葉の語源は、先住民の言葉で「丸木舟を持つ人々」を意味する部族名。ウィンストン・チャーチルの「鉄のカーテン演説」が見透かしていた100年後の未来は「もし平和を欲するならば、平和のために備えよ(Sī vīs pācem, parā pācem.)」であったのではないでしょうか。
ここで、ミズーリ州生まれのラインホールド・ニーバーが著した『アメリカ史のアイロニー』より引用します。
人間状況に関する聖書的解釈は、人間的自由の独特なとらえ方の故に、悲劇的、あるいは悲哀的であるというよりは、アイロニックなものである。この信仰によれば、人間の自由は、必ずしも自然の[宿命的]力に対して、あるいは英雄的に挑戦することを要求するものではない。人間は、人間的であろうとする努力において、決して悲劇的ではない。また、人間は、自然世界における必然的あるいは偶発的な出来事と関係するからといって、必ずしも悪の中に引き込まれる必要もないのである。それ故に人間は、自然のもつ混乱の中に哀れな仕方で巻き込まれているものとして理解されることもできない。人間の歴史における悪は人間がその独自な能力を誤って用いた結果と考えられている。この誤用は、人間が自らの力や知恵、そして徳についての能力の限界を見誤ることによって生じるものである。つまり人間は自らが創造的力をもつ者ではあるけれでも、しかし、被造物であるということを忘れてしまう故にアイロニックな被造物なのである。
人間を他の被造物から区別する人間独特の自由に関する聖書の概念は、人間が自然を支配し、自然の諸力を人間の諸目的に仕えさせる権利をもっていることを想定している。それ故に、人間はその創造的な力を主張することによって罪を犯すというふうに単純に言うことはできない。この点が、ギリシア悲劇のプロメティウス的なモティーフとは区別されなければならないのである。アイスキュロスの『縛られたプロメティウス』では、プロメティウスが文明の技術を創造することで人間が人間的になるのを助けようとしたためにゼウスは嫉妬している。それに対してプロメティウスは次のように宣言する。「人間に幸せをもたらす大地の隠された宝である。銅、鉄、そして金、・・・・・・その他に誰がその発見を誇ることができるであろうか。そんな者がいるはずもない。もしいたとすれば、それは偽り者に違いない。この事態をたったひとことで説明せよというならば、それはあらゆる人間的な業は、すべてプロメティウスより出る、ということになる」。
有史以来、人類は「戦争のために持てる叡智を総動員」してきましたが、その歴史はプロメティウス的傲慢さが支配しており、閑院純仁いわく「人間は、あまりにも増上慢であった。人間の分(分際、分限、本分)を知らなかった」のです。

それが、古代の大航海と中世の大航海の結末を分けたものであると思うのです。
それは、「古代のグローバリズム」と「中世から現行社会におけるグローバリズム」の違いと言い換えることもできます。
ゆえに「仲小路彰のグローバリズム思想」のモデルは「古代のグローバリズム」にあり、地球人類が「平和のために持てる叡智を総動員」せんとする「地球の平和」を目指すものなのです。
そして、「仲小路彰のグローバリズム思想」の起点は「日本」であり、グローバリズムにアレルギー反応を起こす人々が口にする「日本が日本でなくなる」という懸念は全く不要。国際金融資本とその傘下の市場がグローバル化したことによる弊害は大きいものがありますが、その点をもって「グローバリズム」を説明するとなれば、プロメティウス的傲慢さを顕現しているとしかいいようがありません。
人間の分を知り、天(宇宙大自然)に従えば、万世のために太平は開かれる。
天(宇宙大自然)に従うとは、天にすべてを任せるということではなく、地球人類が「平和のために持てる叡智を総動員」することです。
これは私の信仰ですが、天(宇宙大自然)は「地球の平和」を求め、その実現を期待しているのです。
そのうえで、「日本が日本でなくなる」ことを天(宇宙大自然)が期待しているとは到底思えません。
畏れ多くも、ヒンドゥークシュの長老マギが天皇家に邂逅した時、同じ信仰を持ったものと思うのです。
今回の補足説明は以上とさせて頂きますが、2万点にも及ぶとされる仲小路彰文献の調査研究はまだ始まったばかり。
私の理解する範囲の説明では説得力に欠けるため、やはり空想的理想主義に過ぎないとして切り捨てられるかもしれません。
ただひたすらに、「我が誠の足らざるを尋ぬべし」。
それでは、また。
戦略思想研究所 中森護