修験子栗原茂【其の四】

 閑話休題、興味が湧かなければ無視してください。

 必然あるいは偶然か、仕掛けが有ったのか無かったのか、どうであれ、自身が向き合ったことから退く事を知らない、そんな人たちが盛んに輩出された時代に触れておきたい。

 私はヤマトタケルが気になってたまらない。時代は異なるが、そんな思いを共有した人たちのプロファイルとエピソードを、スイッチ・オンした私の遺伝情報から掘り起こしてみたい。

 天保飢饉の乱に生じた一つに「大塩平八郎の事象」があり、

 淡路阪神の乱に生じた一つに「山口組の炊き出し」があり、

 東日本激甚の乱に生じた一つに「世界中の任侠」が集まりました。

 以下、博徒やテキヤあるいは遊侠のレッテルを貼られるなど、世間の作り話に目をそらして、為すべきことを為した任侠の人たちをテーマにする。ちなみに、任侠の人たちは顔役とも呼ばれた。激甚災害と任侠を結ぶ絆には、歴史の相似象を垣間見ることができる。顔役は実名より、通り名のほうが広く知られ、その通り名は地名や屋号が冠詞につけられる。大半は旧家や名家に生まれるが、世間を憚る家族を思いやって、人別帳(戸籍)から抹消するケースが多く見られる。

 さて、上州(群馬県)大前田村の田島栄五郎(一七九三~一八七四)その通り名は大前田栄五郎と呼ばれたが、上州系三親分の一人であり、他の二人は、伊豆(静岡県)間宮村大場の森久次郎(一八一四~九二)その通り名はダイバの久八と呼ばれ、もう一人が伊勢(三重県)古市で丹波屋伝兵衛と呼ばれ、のち清水次郎長との掛け合いで大親分の器量が知れわたる。

 栄五郎は「上州系三親分」のほか「関東の三五郎」と呼ばれる同世代がおり、その一人が江戸の火消し頭で新門辰五郎(一七九二または一八〇〇~七四)、もう一人が通り名を江戸屋寅五郎と呼ばれ粋な羽振りの良さで知られた。

 栄五郎の生家は大前田村の名主で、父も兄も博奕に興じて博徒になったと伝えられる。父と兄から博奕のイロハを教わった栄五郎一五歳のとき、素行の悪い博徒を刺殺した事で凶状もちとなり、罪を背負う流浪のさなか時は十一年後、今度は縄張り内一家うちの博徒を殺し、実に十五年後の四一歳に達したとき、殺した博徒の親分と手打ちの盃を交わしたという。最初の過ちから三十年ちかくも旅で鍛えた侠客の器量は、その剛腕と手際のよい談判が広く世間に知られるようになった。

 晩年の栄五郎が全国に預かった縄張りは、都合二〇〇か所を越えたとされ、親分衆からは和合人の鑑として絶対的な信頼を克ち得たと伝えられる。講談や浪曲ほか映画などのブームがくると、大前田栄五郎をヒーローに扱う芸能が一世を風靡したのは私の想い出でもある。

 森久次郎の通り名ダイバは出生地の「大場」と侠=オトコを磨いた品川台場の「ダイバ」に因んでダイバの久八またはダイバの親分と呼ばれた。久八が無宿渡世の道へ踏み込むのは遅く、野天=ノヅラの博奕で入牢した時二八歳に達していたとされる。親分は甲斐(山梨県)都留郡下吉田村が庭場で人斬り長兵衛の異名をもつ、下働きの修行中に兄弟分の盃を交わしたのが、甲斐八代郡竹居村名主の子で中村安五郎この男ドモる癖あったがゆえ、通り名を吃安=ドモヤスと呼ばれた。

(ドモヤスは後述する)盃を飲み分けした兄弟分はもう一人おり、都留郡境村名主で後に豪商となる天野海蔵という男であった。二人とは後年も互いに協力し合うことになる。時がたち、生地の伊豆へ戻った久八は、東海道随一の顔役といわれた半田竹之助その通り名を丹波屋伝兵衛と呼ばれた親分の姉志津と結婚することになった。結婚後の久八は短期間のうちに、伊豆下田、甲斐石和、相模小田原などの貸元と結んで自身の地盤を固めていった。

 大前田栄五郎は久八より二一歳も年長であるが、盃の飲み分けは五分とされている。それには次の事情があったとされている。嘉永二年(一八四九)四月、久八三六歳は殺された兄弟分の仇を討った時の縁で知り合った事情通の男から、栄五郎暗殺の計画がある事を知らされる。その情報の正しさを証明する確認を得た久八は、暗殺計画の首謀者を殺害したという、それを聞かされた栄五郎は久八が恩を売らない事に感銘したのち、栄五郎からの急接近で兄弟分になったというわけだ。

 のち大前田一家の貸元で舎弟頭の保下田久六が清水次郎長(一八二〇~九三)に殺される、久八は栄五郎との義理から次郎長と敵対関係になり、富士大宮で対陣したときは、両者の陣営に集まる数の凄さが長い間の語り草にされている。

 同六年(一八五三)、幕府は品川台場の再開発に取り組んでいる。

 普請奉行は伊豆韮山の世襲代官三十六代目の江川太郎左衛門こと英龍(一八〇一~五五)の差配となるが、英龍は西洋式砲術と海防沿岸警備の先駆けとして知られる幕臣である。ところが、工事現場では労務者への賃金未払いが発生しており、労務者のサボタージュやストライキで、工事がストップ直ちに措置を命じられたのは豪商天野海蔵であった。海蔵は工事続行を兄弟分の久八へ丸投げ、この紛争解消に臨んだ久八の器量がきわだち、後年いつまでも語り草にされている。

 久八の手配は次の通りであった。まず滞った給与を立て替える、日給制とボーナス制に切り替えたのち、労働意欲を高めるために工夫をこらしている。それは片手だけ入る穴をあけた銭樽を数か所に設置して、労務者が土石を運ぶたびに樽内の銭を掴ませることにした。欲張って銭を多く握った手は樽から抜けない仕組みに仕立てたわけである。結果、工事は順調にはかどり、喜んだ労務者は絶賛の拍手をおくり、その称賛は尾ひれを加えながら、広く世間へ知れわたっていったという。

 次は新門辰五郎に触れるとしたい。

 辰五郎は藤堂系庶流であるが、江戸の飾り職人・中村金八の子とされた。下谷の山崎町にあったとされる辰五郎の生家は幼いころに出火して、その火事で父の金八は焼死したと伝えられている。このとき辰五郎を引き取ったのは町田仁右衛門であるが、町田は浅草十番組「を」の火消し頭をつとめる顔役であった。のち町田の娘と結婚して養子縁組する辰五郎は、文政七年(一八二四)に家督を継ぎ町火消の組頭として天下に名を知らしめていく。

 辰五郎の生年に二つの説あって差は八年とされる。ちなみに、徳川慶喜(一八三七~一九一三)と辰五郎の関係は、家康と藤堂高虎の関係にも通じており、慶喜の二年後に生まれた常吉が、辰五郎の下がり盃を受けたとき「自分のトシを云ったら、頭が三十九年も若いのか」と返した顔は忘れる事が出来ないと秀孝に伝えている。而して、辰五郎の生年は仁孝天皇と同じである。

 辰五郎の生年は寛政十二年(一八〇〇)ゆえ、町火消の家督相続は数え二六歳である。のち金竜山浅草寺の僧坊である伝法院新門の番を仰せつかった事から、通り名を新門辰五郎と呼ばれて、浅草を本拠に近傍の入谷や上野を含む一帯を仕切り、下町の顔役として名を馳せていった。

 東叡山寛永寺円頓院(現台東区上野桜木に所在)は、開基が徳川家光、開山が天海、東の比叡山が山号の由来で、延暦寺と同様に寺号は年号を使用している。日光山輪王寺とは一対とされ、法親王の入山と座主は門跡と同等の意味を有する。広大な寺領を有したが、創建前の地主は藤堂高虎であり、焼失前の根本中堂に祀られたのは、慈眼大師天海、徳川家康、藤堂高虎の三人であった。藤堂系庶流辰五郎を慶喜に仲介したのは、寛永寺大慈院別当の覚王院義観だとされている。

 元治元年(一八六四)慶喜が禁裏の御守衛総督に任じられ、その京都入り前に先発したのが配下の数百人を率いた辰五郎であり、二条城の警備守護にあたるため駐留する事になる。このとき、ロードマップに精通した上坂仙吉(会津の虎徹)と栗原常吉が便宜をつくし、地の利や都の裏事情を知った辰五郎は大いに感謝して、親子より違う年齢を超え兄弟分の盃を交わした。

辰五郎六五歳、虎徹三三歳、常吉二六歳の時だったという。

 鳥羽伏見の変は大政奉還(一八六七)後の戦であるが、慶喜は大阪城を去る前に、家康由来の金扇大馬印の死守を辰五郎に託しており、のち辰五郎は東叡山寛永寺で謹慎中の慶喜へ返還する。他方で虎徹は官軍が放置した会津藩の戦死者多数を埋葬したのち、藩士の遺品を故郷の遺族へ届けるため、命を捨てる覚悟で会津の地へ潜入している。会津領が官軍の駐屯地にされていたからである。一連の働きに常吉も混じっていた事を私は秀孝から聞いている。

 辰五郎は江戸へ戻ると再び慶喜に仕えており、戊辰戦争に決着がつくと、慶喜は謹慎から開放され駿府(静岡県)を移住の地と定めた。辰五郎は娘ヨシが慶喜の近辺世話役になること、自分も駿府へ随行したい旨を慶喜に願い出て許されている。のち娘ヨシは慶喜の側室になり、慶喜家の家督を継ぐ慶久を出産するが、一般には養母の新村信を生母と扱う説が知られている。

 駿府に移住した辰五郎と盃を交わしたのが清水次郎長であり、当時の次郎長は、清水湊の警固役に任じられており、遠江磐田郡で盛んだった製塩事業に参入した辰五郎を快く歓迎している。その後の辰五郎は慶喜の近辺に危険が及ばないことを確認したのち、帰郷を待ち焦がれる浅草に戻っている。ちなみに、辰五郎が各地に遺した家は少なくないが、京都の屋敷二軒と、大阪堂島の邸宅は一般にも知られることになった。任侠で盃を交わした兄弟分も大前田栄五郎に退けはとらない。

 ここで、徳川慶喜家の家督を継いだ慶久(一八八四~一九二二)に触れておきたい。

 慶喜四八歳のとき生まれた慶久は、東京へ移る際の下宿先は嘉納治五郎(一八六〇~一九三八)の屋敷と決められていた。治五郎の生家は酒造界で嘉納三家と称されるうちの一つで、他家は菊正宗と白鶴の商標で広く知られる酒造メーカーである。治五郎の父が嘉納の家に養子入りして嘉納の姓を名乗っているが、元々の出自は藤堂高虎系庶流だから辰五郎と同流といえよう。

 治五郎二三歳のとき講道館柔道を創始、のち近代オリンピックの父と呼ばれるピエール・ド・クーベルタン(一八六三~一九三七)は「治五郎の支援で中興の祖になれた」と言い遺している。

 慶久の妻は有栖川親王家の実枝子王女であり、二人の子女喜久子様は高松宮宜仁親王殿下へ輿入れ妃殿下になられるが、慶久の父は慶喜ゆえに将軍十五代目の孫ともいえる。私ごとき不肖が何ゆえに殿下と妃殿下に仕えたかは、本稿が自叙伝に及ぶとき詳述するので、今は差し控えておく。

 私が何ゆえ任侠に触れるかの事由は、常吉に始まり、秀孝と私に伝承された絆は任侠そのものゆえ避けて通れず、戦後日本の深層構造も任侠抜きには語れないからだ。占領下の東西インチキ体制から養育された日本人は、単なる国籍の下に換骨奪胎されてしまった在日がほとんど、戦勝国の施政権に従うほかない政府には慈悲を禁じ得ないが、表と裏が錯綜する現実に対して、戦後は古代ケルト人の伝承だったハロウィンをバカ騒ぎに変じて恥じない世相に覆われている。

 相似象はテキヤの伝承をバカ騒ぎに変じたテレビやネットの世界が演じている。

 換骨奪胎のゾンビはアメリカン・ドリームが象徴しているではないか。

 この意味が通じなければ辛抱をこらえて以下にも目を通してほしい。

次は長岡忠次郎その通り名が国定忠治(一八一〇~五一)に触れておきたい。

 上州佐位郡国定村の豪農家に生まれた忠次は一〇歳で父と死別、赤城山南麓で米麦と養蚕の仕事に精を出す母の代理で大人社会にも混じるようになる。純真を損なう不条理のストレスを癒そうとし、博奕と喧嘩に明け暮れするなか、大前田栄五郎と出会う機会に恵まれた。栄五郎は忠治の中に潜んだ可能性を見抜いて、自分の縄張りから百々(ドウドウ)村の権益を譲ることにした。

 十代でシマ=縄張り持ちになった忠治は、敵対が続いた博徒を殺してシマを広げたが、凶状持ちの手配が及ばない信州へ身をかわし、信州一帯に自分の盗区を広げていった。つまり、当時は関東取締出役の管轄地が限定されており、信州は関東の管轄外とされていた。また盗区とは博徒が他のシマ=ニワ場を実質支配下に治めることを意味している。

 天保の大飢饉は天保四年(一八三三)に始まり、その二年後(一八三五)から二年間が最大の規模とされるが、収束は同七年(一八三六)また同十年(一八三九)と断定する説あり、学術の屁理屈は生活のためなら優柔不断を改めようとしない。どうあれ、忠治が上州と信州に自分のシマを拡大した時節は天保飢饉の中期とされている。

 大飢饉の詳細は省略するが、如何なる時代も窮民救済のノーハウに優れているのは、現実に絶える事ない伝承を引き継いでいる任侠が図抜けており、それは遺伝子の働きによって保たれている。そのボランティアを横取りしようとするのが、いつの世も政治家とメディアの二大権力である。

 人は自分に押し寄せる窮地が手に余ると、心理的なストレスから自暴自棄に陥り易くなり、他人が何を言おうと聞く気になれない、そんな時もっとも救われるのは、何も言わず黙々と目の前の障害を取り除いてくれるボランティアの出現であろう。それこそが任侠の真骨頂なのである。大飢饉の時も激甚災害の時も必ず現れるのが任侠の魂で普段は潜在している場合が多いのだ。

 戦後の日本を生き抜いた原動力は政策でもなければ、学術でもない、何も言わずに黙々と為すべき事を為した一人一人のナミダそのものである。

(続く)

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