修験子栗原茂【其の五十二】新聞王ウィリアムと大統領フランクリン

 文字は新聞のネタに化ける事で人を明るい場へ導こうとする。音声は放送のネタに化ける事で人を暗闇へ誘う事もできる。文字は活字に、音声は電波になったとき命が与えられる。その命は人の脳内検索を通じて基本的な回路を知り、その回路へ様々な情報システムを撃ち込むために役立てられた。その第一弾が催眠術を仕込んだ情報散弾銃であるが、種々の試し撃ちで得たデータを解析する事から生じたのがマインドコントロールであった。フランクリンが挑んだ初の大統領選で正面きって表層に浮上したウィリアム・ランドルフ・ハースト(一八六三~一九五一)は新聞王と呼ばれている。

 新聞王すなわち活字ネタの将軍であり、その戦略が新聞である事は言うまでもない。一方の音声は既に第30代カルビンが大統領として初の演説を初めてラジオ放送(一九二四)で行っており、その九年後すなわち第三二代フランクリン当選に新聞王ウィリアムが手を加えている。

 ウィリアムは米メディア・コングロマリット・ハースト・コーポレーションの創業者で、映画『市民ケーン』のモデルとしても知られている。

 ウィリアムの父ジョージはゴールドラッシュの時代に銀鉱山を中てた一発屋で大富豪からカリフォルニア州の上院議員へ転身している。ウィリアムは父がバクチの質で手に入れたローカルメディアを受け継ぎ情報ビジネスへの第一歩を刻んだとされている。

 ゴールドラッシュ(一八四八)のころ日本は嘉永年間から安政年間へ向かう時期にあたり、世界は産業革命を加速化させる石炭の燃料化が急ピッチにフル稼働しだした時代でもあった。ちなみに二十世紀初頭の英国ウェールズでは炭鉱六百か所以上を数えるとともに、常時、約二十万人の労働力から採掘される石炭が輸出(一九一一)重量で全体の約九十%を占める状況下にあったとされる。

 もう一つ印刷に関する事を付記しておきたい。蒸気式印刷機の出現(一八一一)から輪転印刷機の発明(一八五一)が公開されると、大量生産で安価な印刷物が世に出回るようになり、現在の主流を担う平版オフセット印刷(一九〇四)さらにゼログラフィ(静電写真法)の時代がやってくる。大量生産による印刷用紙の出現も工業化に歩を合わせるが、製紙の工業化には別記を要する重大な歴史が軽視されており、ここでは「ユグノー戦争」を記憶に留める事だけを記しておく。

 亜麻や木綿のボロを主原料とした紙の原料不足を木材で解決(一七一九)してから、砕木パルプの出現(一八四六)そして化学パルプ(一八五一)の出現に至って、輪転印刷機と時を同じくする紙が作られるようになった。他方イギリス政権のロバート・ビール内閣が制定した銀行条例は中央銀行のイングランド銀行が「スターリング・ポンド紙幣」の発券(一八四四)を独占そして贋金の偽造防止技術として従来の透かし以外の技術開発が本格化されていった。

 現在、新聞を出版するジャーナリズム組織は「紙」と呼ばれているが、当該者は「神」と間違える思い込みにうぬぼれ、邪気を拡散している事に気づかない日常を奔り回っている。

 新聞紙(しんぶんがみ)は英語ニュース・ペーパーの直訳と言われた。その用途は印刷ゆえ昼夜を分かたず、輪転機の稼働に依存しなければならない。重要なことは紙質にあり、薄くすると破れ易く裏抜けしやすくなる、丈夫にすると重く厚くなってしまう、白くすると裏抜けしやすくなる、軽くて薄い紙は破れ易くて裏抜けがしやすくなる、これら多くの課題を超克するわけだから確かに「神」と呼ぶのも分かるが、それは「紙質」であってジャーナリズムのことではない。

 木材からパルプを機械的に取り出すTMP=( Thermo Mechanical Pnlp )と古紙を主要原料とするパルプを使うため、山川草木と印刷機器に係る工業化と化学合成、どれ一つとして、自然界との環境問題を抜きに偉そうな論陣を張る立場ではないのだ。

 また新聞が産み出す利権のカズカズは、立法、行政、司法の権限さえ脅かすことになる。

 そうした意味では当に第四の権力と言えようが、政治の尊厳を損なう神々の乱心でしかない。

 ラジオやテレビの本質は周波数に基づく電波や電子で成り立っているが、そのソフトウェアは新聞業界のノーハウに負うところが大半であり、日本の如きはラジオもテレビも新聞業界の掌に操られる媒体にすぎない。信を装う「ウソの神」を奉る政界もまた同様ではないのか。

 さて、新聞王ウィリアムであるが、アメリカでは一六九〇年ボストンにおいて、ベンジャミン・ハリスがフォーリンとドメスティックの両パブリック・オカレンスを出版したのが初とされる。

 ボストンに出現した新聞は、政府の抑圧が及ぶ前に植民地から巣立っており、ボストン知事がボストン・ニューズレターの出版を許可したのは一七〇四年とされている。その直後ニューヨークとフィラデルフィアで週刊論文が出始めており、これら初期の新聞はイギリス式に従うもので、通常は四頁程のスペースに英国から取り寄せるニュースを選んで伝えたが、コンテンツは編集者の利益から組み立てられ、初の日刊紙(一七八三)はペンシルベニア・イブニング・ポストを名乗ったという。

 産業革命はコミュニケーション手段としての新聞に大いなるハイウェーをもたらし、一八一四年のタイムズ(ロンドン)は一時間あたり一一〇〇回のインプレッションを行う事が出来る印刷機の設備投資を行ったとされる。最初(一八三六)の安価な新聞「ベニープレス」が市場に出回ると、所得に恵まれない層を対象とした記事も次第に増えていった。

 ウィリアムは父から譲渡(一八八七)された新聞「サンフランシスコ・エグザミナー」を後年ザ・モナーク・オブ・ザ・ディリーズと改名するが、最良の設備と才能ある作家を集め、汚職の暴露から妄想インスピレーションに満ちた物語まで数多くの発表を続発したとされる。

 ニューヨーク・モーニング・ジャーナル紙を買収(一八九五)すると、ニューヨーク・ワールド紙所有者ジョーゼフ・ピューリツァーと、新聞の発行部数をめぐる競争激化が加わり、両紙は購読者の増加対策として、キューバの暴動に関する記事を多く掲載するようになった。その内容は実相取材を行う事よりも市民感情を煽るショッキングな出来事に偏向していき、スペイン軍がキューバ人を強制収容所へ封じ込めたあと、疾病と飢えで死者が急増するなどの捏造でっち上げの記事キャンペーンで燃え盛る米西戦争(一八九八)の気運を煽り続けたとされる。

 右の争いは「イエロー・ジャーナリズム」の呼称で後世への教訓とされたが、黄色新聞を逆に参考資料として第四の権力まで伸し上げたのが現行ジャ(邪)ーナリズムの実態ではないのか。

 黄色新聞(イエロー・ペーパー)は、多彩な形容詞と誇張をちりばめて、迅速を争うため日常的な検証不足が慣行化されていき、ウソの上塗りを繰り重ねる技芸が社会全体へ広がっていった。

 結果、新聞の購読部数は確かなる急増を遂げた皮肉の記録が今に伝わっている。

 歴史家フランク・ルーサー・モットは一九四一年にイエロー・ジャーナリズムの特徴五つを以下の如くにまとめているが、マスメディアにとってはカエルのツラに小便なのかもしれない。

 *赤や黒の大きな活字で人を驚かせるような見出しをつける、大したニュースでもないことを多く扱うため、全体としてウソ臭い構成があらわになる。

 *絵や写真を多用するが、その多くはどうでもよいもので、盗用や捏造も少なくない。

 *あらゆる種類の詐欺的行為が行われており、たとえばインタビューやストーリーの捏造、誤解を招く見出し、エセ科学のエビデンスなど挙げればキリない言葉が沸いてくる。

 *日曜版においては、カラーの漫画や中身の薄い記事を掲載する付録がつけられる。

 *弱い者の味方であるかのように振る舞うテクニックに酔い痴れている。

 今から百二十数年も前の時評であるが、後年ますます劣化する通販は何をか況やでしかない。

 ウィリアムの政治暦は一九〇三年から四年間でニューヨーク州(第十一選挙区)選出の下院議員を務めており、大統領選を目指した事は明らかであるが、二年前(一九〇一)大統領二五代目のウィリアム・マッキンリーが暗殺される事件に絡む政敵のレッテル貼りにより、その夢が潰える皮肉も自ら行ったイエロー・ジャーナリズムのブーメランによるものである。

 同じウィリアムを名乗るマッキンリーは在任二期目の初年度に凶弾で暗殺され、後継は副大統領のセオドア・ローズベルトの昇格となるが、死後マッキンリーの名は北米アラスカ州の最高峰「マッキンリー」山の命名に遺されている。この事件もまたアメリカンドリームの一端といえよう。

 大統領マッキンリーの暗殺と新聞王ウィリアムに係る因果も記憶に留めてほしい。

 アンブローズ・G・ピアスは一八四二年の生まれ、七一歳からの旅に出て消息不明となるが、ウィリアム初の新聞「サンフランシスコ・エグザミナー」を起ち上げた初期から連載コラムニストとして協力した一人であった。西海岸で最も強い影響力をもつライターに仲間入りすると、ウィリアムとの関係は一九〇八年まで続いたとされる。即ち、ウィリアムが政治家を退く翌年までのことだ。

 アンブローズは容赦ない毒舌や風刺を好んで放ったとされ、新聞記者として長いキャリアを背景に多くの論争を巻き起こし、ウィリアムの立場を危うくする一方においては大きな恩恵も与えていた。アンブローズが書いた一九〇〇年の風刺詩には、結果的にマッキンリー暗殺を知っていたかのごとき表現が見られる。それはケンタッキー州知事のウィリアム・ゴーベルが就任直前の凶弾で暗殺された際にアンブローズは次の如き不埒な風刺の詩を新聞に掲載していた。

 ゴーベルの胸を貫いた凶弾は

 西部のどこにも見つからない

 弾はいまなおスピードをあげ

 マッキンリーを撃ち倒さんと飛ぶ

 というものだったが、翌年その通りの事件が発生、その反動は政界転出のウィリアムが放つ野望を砕かんとする政敵の報復に利用される、どっちもどっちで双方邪心のもつれあいでしかない。

 晩期アンブローズの消息不明も失踪をテーマにさまざまな揣摩臆測が生じたとされ、今どきならば井戸端会議にも及ばないテレビのワイドショーが飛びつきそうなネタの宝庫ともなりえている。

 ちなみに、イエロー・ジャーナリズムでウィリアムと覇を競ったハンガリー系アメリカ人のジョーゼフ・ピューリツァーについては、その遺志に基づきピューリツァー賞が創設(一九一七)されて、現在二十一部門の賞に分類される中たとえば、新聞、雑誌、オンライン上の報道、文学、作曲などに功績ある者が受賞するという。運営はピューリツァーの基金寄贈を受けたニューヨーク市コロンビア大学が当たっているが、その受賞制度の中の応募要項が私に奇異の念を覚えさせるのだ。

 即ち、各部門応募ごとに参加料を徴収すること、具体的に応募された「モノ」だけ選考すること、要はノーベルショー(賞)の二番煎じ、第四の権力が為すべき事ではないと覚るのである。

 それはさて、アメリカを論ずるとき米西戦争に触れないわけにはいかない。

 アメリカの建国史には大した年期を覚えないとしても、アメリカンドリームの深層には先史文明に見るワンワールドの構造が潜むため、その深層に蓄えられた歴史を軽視する事は許されない。

 米西戦争を囃し煽るため、イエロー・ジャーナリズムが放った紙ツブテは演出か否か、いつの世も最初に召集令状(赤ガミ)を受け取るのは媒体(メディア)であり、メディアは戦争司令部に属する広報の尖兵として、戦前から戦力に組み込まれる宿痾から逃れられないのである。

 即ち、媒体メディアには政治の延長線上にある戦争のトリガーとなる危険が潜んでいるのだ。

 ジェノバに生まれたイタリア人コロンブス(一四五一~一五〇六)が来島(一四九二)した大きな島キューバは西インド諸島に属してメキシコ湾を含むカリブ海にあり、視野を広げて見渡せば、西経八〇度を中ほどに東西を横切り北緯二〇度―北回帰線の範疇に所在しており、世界史に浮上するのは大航海時代であるが、ヌエバ・エスパーニャの出現後に数奇な運命を負うことになる。

 ちなみに、ズレてはいるが対極面の東経一二〇度―一三〇度の間で北回帰線―北緯三〇度の範疇に所在する琉球=沖縄(大東諸島)は南西諸島に属する東シナ海にあり、キューバの歴史と似て非なる事あっても、数奇な運命に巻き込まれる点では多くの共通性を潜ませている。

 太古の文明を刻むイベリア半島の歴史に鑑みると、原住民のほか交易のため入植したフェニキアやギリシャからの移住が混じり、第二次ポエニ戦争(前二一九―前二〇一)ほか三度の戦争を経てからヒスパニアと呼ぶ古代、中世(四〇九―一七一五)そして近世(一四一七―現在)と大きな区切りを付した中に、近代(一八〇八―一九三〇)と現代(一九三一―現在)が含まれている。

 現在ピレネー山脈の北側にはフランスがあり、南側に広がる半島がイベリアで由来は諸説いろいろあるが、属州としたローマ人はヒスパニア(ラテン語)と呼んでいた。

 現スペインはラテン語に由来してイスパニアともエスパーニャとも呼ばれたが、大航海時代には北アメリカ大陸、カリブ海、太平洋、アジアにおけるスペイン帝国の副王領をヌエバ・エスパーニャと称した。ここでは歴史に詳しく触れてはいられないが、中世の西ゴート王国を建てたのはゲルマン系ゴート族の西部族とされ、東部族とは付かず離れずの関係を保ったと聞いている。

 原始ゲルマン人は現在のデンマーク人、ノルウェー人、アイスランド人、アングロ・サクソン人、オランダ人、ドイツ人、イングランド人、スコットランド人などの祖とされている。うちアングロ・サクソン人になったゲルマン系部族にはアングル人、サクソン人、ジュート人、フリース人の四種が含まれていたともいう。ちなみに、ゲルマニアは古代ローマ時代に呼ばれた地名とされる。

 原始ゲルマン人は中世初期に再編され、ゲルマン(系)民族と分類されて四世紀以降フン人(中央アジアやコーカサスや東ヨーロッパに住んだ遊牧民)の西進を避けて大移動が始まり、ローマ領内の各地へ建国するうち、フランク人、ヴァンダル人、東ゴート人、西ゴート人、ランゴバルド人などを名乗る新しい部族が形成されていったという。

 米西戦争はキューバを錦の御旗とするアメリカがフィリピン第一共和国を率いて、交戦相手のスペイン帝国と対決した事を指すが、キューバの民兵は約三万人、アメリカ軍は正規兵と民兵あわせて約三十万人、相手のスペインは正規兵と民兵あわせて約三十四万人と記録されている。

 地中海文明の戦渦に巻き込まれたイベリア半島は、当初はキリスト教に帰依したが、新興イスラム教の侵攻に追われ、のち再征服(レコンキスタ)と呼ぶキリスト教の巻き返しが成功すると、そこに成立(一四九二)し得た帝国は「太陽の沈まない帝国スペイン」と呼称された。

 レコンキスタ(七一八―一四九二)は、カスティーリャ王国とアラゴン王国の合併で成立したキリスト教スペイン王国により、イスラム教ナスル朝グラナダ王国をイベリア半島から一掃した再征服を意味すると言うが、その間(一一三九)にカスティーリャ王国から独立したポルトゥカーレ伯アルフォンソ一世の国土(ポルトガル)回復運動(ルコンキシュタ)の意味も含んでいる。

 このイベリア半島に復興したキリスト教を世界へ向け放った一面を含むのが大航海時代の始まりでヌエバ・エスパーニャ副王領の遺産が現行キリスト教を養う礎である事も忘れてはならない。

 明治元年(一八六八)九月八日、日本が明治の夜明けを迎えると、同年十月にはキューバ人による独立運動がスタート、この因縁こそが日本の南島経略や満鮮経略に通じるのである。

 サイコロの上にキューバが表れたら、その下には沖縄と台湾を含む南西諸島が隠れており、上下の因果は西と東に横たわる北回帰線を走るため、その重力不安定な気候変動に伴う地政学を身に帯びる知力がなければ、戦争とは何か・平和とは何かを鑑識するエネルギーなど得られまい。

 ここでは通史が言う米西戦争(一八九八年四月二十五日―同年八月十二日)を要略したのち新聞王ウィリアムと大統領フランクリンの事案に戻るとする。

 宣戦布告の二か月前アメリカ海軍の戦艦メイン号はハバナで起こった暴動に対し、権益保護のため派遣されたが湾内停泊中の爆発で艦前方が吹き飛ばされ、残骸は沈没、艦の前方で就寝または休憩の時間内だった乗員二六〇名が死亡、負傷者六名も死亡したとされ、そのうちボーイやコックの日本人六名が死亡・二名が生き残ったとされている。

 普仏戦争(一八七〇年七月十九日―翌年五月十日)すなわちフランス第二帝政期のフランス帝国とプロイセン王国の間に生じた戦争は、北ドイツ連邦のみならず、南ドイツのバーデン大公国・ヴュルテンブルク王国・バイエルン王国と同盟を結んだプロイセンが圧勝し、崩壊したフランス第二帝政は皇帝不在の第三共和制に取って代わられ、パリでは一時期とはいえ労働者による史上初の政権パリ・コミューンを樹立したが、ヨーロッパにおける孤立は免れなかった。

 プロイセン国王はドイツ皇帝ヴィルヘルム一世と名を改めドイツ帝国の樹立を宣言した。後の三国同盟(一八八二)はドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリアによる秘密軍事同盟とされ、後の三国協商とヨーロッパ流の複雑怪奇な組替えを演じながら第一次世界大戦へなだれこむのであるが、参戦やむなき日本とヌエバ・エスパーニャに取って代わるアメリカンドリームのこれまでを振り返り解き明かせば、現在と未来への教訓が絶え間なく浮き上がってくる。

 日清戦(一八九四年七月二十五日―翌年四月十七日)と日露戦(一九〇四年二月―翌年九月)から学ぶ事の多きも今さらではないが、同時に三国同盟と三国協商を知っておく事も欠かせまい。

 ロシア&フランス同盟・イギリス&ロシア協商・イギリス&フランス協商を要約して英仏露協商と言い独墺伊同盟との交戦的な対立構造を指すのであるが、そこに信は存在しないのである。

 十九世紀末から二十世紀初頭におけるヨーロッパはフランスの孤立で一時的な小康状態を保ったがドイツにヴィルヘルム2世が即位(一八八八―一九一八)すると反抗やまない鉄血宰相ビスマルクは退陣(一八九〇)に追い込まれた。皇帝は宰相が締結した独露再保障条約の更新を拒否、この事から孤立したロシアと孤立していたフランスが軍事協定を成立(一八九四)させた。以下省略するが戦争原因が政治の延長線上にある証をもって知るべきではないのか。

 つまり、カリブ海のキューバと東シナ海の龍キュー、日清と日露、三国同盟と三国協商、第一次と第二次の世界大戦、すべてがワンワールドを描くジグソーパズルのピースではないか。そのピースに刻まれた歴史の一つ一つはまた未来のワンワールドに不可欠のテーマと成り得るのではないか。アメリカンドリームをワンワールドの表舞台にデビューさせるため、ヌエバ・エスパーニャに潜む歴史を受け継がせた礎こそ有職故実を担う家督の継承にあり、そこに日本精神の公が潜むのである。

 新聞王ウィリアムこの男と覇を競ったピューリツァーもアメリカンドリームを描くピースの一つに違いはないが先を急ぐため、長くイエロー・ジャーナリズムに関わってはいられない。

 宗教と哲学が媒体メディアに請うところは触媒作用を実現することにあり、今や科学も触媒作用の何たるかを実証し得るところまできたが、肝心かなめの媒体メディアが国際政治の下僕となってビジネスに勤しむ日常にあっては、時が来るまで気を鎮めて待つしかあるまい。

 さて、大統領フランクリンであるが、フロリダ州マイアミで暗殺の難を逃れたあと、これまで市場経済への政治介入を控えていたとの建前をとりはらうや、ニューディール政策と呼ばれる政治介入の強行をあからさまに見せつけることになる。

 大統領選二回目は当時の一般投票歴代最多得票率60.80%を得て再選されたが、任期一期目の一九三三年から二期目一九四〇年の間まで名目GDPや失業率は前任者ハーバート一九二九年の経済水準に戻ることはなかった。

 第一回目の大統領選で前任ハーバートの経済対策を徹底的に叩き当選した結果の大失態が明示され批判を浴びる格好になったが、翌年(一九四一)暮れに突入した第二次世界大戦の軍拡と軍需を得た経済は未曽有の景気回復をもたらせる。

 当時の政治的パフォーマンスを担ったラジオ放送はフランクリンに大いなる利益をもたらし、毎週定期的に行ったラジオ演説は「炉辺談義」と呼ばれ、国民の人気を集める様々な企画のもと戦時中の士気高揚策にも大いなる功績をもたらせた。

 前記したがフランクリンは一九一三年の大統領命で海軍次官に就いてから、海軍に向ける思い入れ深度は並のレベルでなく、特に大統領在任中の遺憾なき施策は現在に引き継がれている。

 米海兵隊(マリーン)は一九一〇年代から三〇年代の戦間期、独立した戦闘能力を維持するために小規模な師団的部隊を大隊単位で恒常的に設置していった。それは中米やカリブ海の諸国への圧力となり、キューバの首都ハバナその湾内への派遣はハバナ戦役を引き起こしている。またフランクリン在任初年度にはニカラグアでサンディーノ戦役が勃発して、相手の将軍が率いるゲリラに振り回され苦戦した事から、大胆な政策転換のもと以後のマリーンはフランクリンがリードした。

 ニカラグアと他の中米諸国からマリーンを撤退させたフランクリンは、軍事占領を解く代償としてキューバにはバチスタ政権、ニカラグアにはソモサ政権などの傀儡政権を樹立して間接的支配構造を構築していった。すでにモデルとしたドミニカ共和国にはトルヒーヨ政権が傀儡になっていた。

 新聞王ウィリアムはこれを善隣政策とカモフラージュそのレッテル貼りに勤しむところとなる。

 艦隊海兵軍は一九三三年十二月に創設された。その狙いは敵の海軍基地奪取という任務に長期間の遠征を費やすマリーンの激務を緩和させる思いが籠められていた。

 在任四年目(一九三七)すなわち昭和十二年の対日策は表面上で協調的姿勢を装いつつ、日中間の紛争には一定の距離を置いた外交政策を講じている。その最たる要因は前年二月二十六日に発生した大日本帝国陸軍将校が率いるクーデターを玉音一喝で鎮めた神格天皇に畏怖しての事と戦後占領下でGHQを率いたマッカーサーが言明したとの話を私は修験から聞かされた。

 何の裏付けもない事ゆえ記事にすべきではなかろうが、信を覚らないヤジウマと異なる読者に贈る現人神なるがゆえの神通力を伝えたいわけである。

 一九三九年九月ヨーロッパの列強から宣戦布告が発せられた。アメリカンドリームのデビューには時期早々だったが、ヨーロッパから見れば時期早々ゆえ開戦に踏み切ったのであり、フランクリンと同様に乗り遅れた列強首脳はアジアの日本そのものにあった。

 開戦前の選挙でフランクリンが公約の一丁目一番地に掲げたのは「戦争はしない」であった。

 一九二八年八月二十七日に「戦争放棄に関する条約」ケロッグ=ブリアン条約ほかパリ不戦条約の通称ある署名(翌年七月二十四日の発効)に名を連ねた締結国は六十三ヵ国に及んでいた。

 米合衆国の成立来ワンワールド幹事国はナポレオン帝政期を踏まえ、フランスとアメリカに始まる話し合いに端を発する事が慣習のように思えてくる。戦後の先進国サミットもフランスの呼びかけにアメリカが応じたモノであり、不戦条約も米国務長官ケロッグと仏外務大臣ブリアンとの話し合いを機に通称として使われ、のち多国間協議に発展するというレールに沿ったモノである。

 初め前提は第一次世界大戦を念頭に位置付けたと自負したのであるが、第二次世界大戦の炎上まで世界中に続発したボヤ騒ぎの裏に潜む列強の存在を覚ったときに、この不戦条約が意味するところは別のところにあったのではないかと思えてくるのだ。

(つづく)

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