天保の飢饉は忠治の出番に休息を与える暇がなかった。混迷が日常化するなかで、被災の後始末や出直しを図る人々の思いは十人十色だから、喧嘩もめごとも日常茶飯事となり、事を治めるのは喧嘩慣れした荒くれを大勢かかえる国定一家のほうが役人よりも手際がよい。ましてや、頭を使うよりも体力に勝るほうが引く手あまたゆえ、荒くれを仕切る忠治は指名手配などに構ってはいられない。
しかも、忠治のシマは上州一帯から信州一帯へ及ぶ広範な地域に達していた。そんな地域の全域を駆け廻っていたら、どんなに頑健な心身だって病んでしまうのは避けようがなかろう。案の定、軽い症状を無視した結果として、忠治の肉体は日を追うごとに中風が悪化してしまう。もはや国定一家の跡目に思いを馳せないと間に合わなくなる。
弘化三年(一八四六)三七歳の忠治が決した跡目相続は、子分の境川安五郎と決めたが、時代的な背景と国定一家の事情を踏まえると、襲名盃の準備だけでも二~三年は要するだろう。加えて、忠治捕縛の回し状を発出している治安当局のメンツだって、いつまでも黙認しているわけにはいかない。
国定一家の跡目相続を行う襲名盃を済ませた嘉永三年(一八五〇)、関東取締出役は忠治の捕縛を実施して、身柄を江戸の勘定奉行の池田頼方の役宅へ移送した。忠治の吟味が終わると、小伝馬町の牢屋敷に拘留される。多岐に及ぶ罪名のうち、最も重い刑は上州吾妻郡大戸村の関所やぶりで、大戸関所の処刑場でハリツケにされ、遺体は三日間さらしものにされたあと廃棄された。
忠治四十一年の生涯は、廃棄後の遺骸が今も消息不明のまま、諸説憶測のネタは尽きることない。
一方、長岡の家督は忠治が博徒になるとき、弟の友蔵に継がせていたが、友蔵は事業経営に優れた才覚を発揮して、副業の養蚕を織物づくりに引き上げるや、利益率の高い事業の拡大を図ったのち、安定経営に切り替え継続を第一義に据えたとされる。明治十五年(一八八二)忠治没の三十一年後であるが、後裔の長岡権太は、忠治夫妻の墓碑を建立しており、碑銘に彫刻の文字は元伊勢崎藩の儒者新井雀里が手掛けたと伝えられる。
忠治との因縁あさからぬ剣豪に千葉周作がおり、その因縁の広がりに触れておきたい。
北辰一刀流の創始者である千葉周作(一七九三~一八五六)の出生地に諸説あるが、宮城県栗原郡荒谷村が有力視されている。周作の剣術修業は他流試合で培われ、その足跡が及ぶところ、武蔵(東京)、上野(群馬)、信州(長野)それは北信濃を経て諏訪へ進んだとされる。旅のつれづれに増え続けた門弟数も人の噂で広がるが、伊香保神社に奉納額を掲げようとした際には、地元の真庭念流が阻止する騒ぎとなり、上州撤退の原因になったともいわれる。
この騒動は周作の名を広くいきわたらせ、やがて噂は多数の作り話を生じて、のちメンツに障った忠治が周作の道場へ殴り込み、逆に高弟から諭され、忠治は自らの未熟を恥じたあと、周作との絆を深めたとする噂もあるが、忠治と周作の仲が親密だったのは事実であった。
それはさて、日本橋から神田お玉が池へ移転した周作の道場は、玄武館と命名され、門人から出た剣豪には清川八郎ほか、山岡鉄舟、山南敬助など知られ、四天王としては、塚田孔平、海保帆平、森要蔵、井上八郎の名を挙げるのが常識とされる。隠れ官製の『天保水滸伝』にあっては、大利根川の河原に陣取った笹川一家の平手造酒を四天王に加えるが、単なる興行でしかない。
江戸幕末の剣術三道場とは、斎藤弥九郎の練武館、桃井春蔵の志學館、千葉周作の玄武館、を指す場合が順当とされ、それぞれの評価としては、練武館の「力」、志學館の「位」、玄武館の「技」を挙げる事が隠れ官製の格付けとされている。
落合本は幕末の剣術道場が果たした大役を検証しており、大役は二つ、誰もが知り得る剣術指南の表看板が一つ、もう一つこそが本義であり、諸藩外交特使が利用した権益交渉の場と指摘、その通り洞察史観の真骨頂が示されている。
周作と生年が同じ任侠の人、大塩平八郎は後述を期している。天保十年は大飢饉いまだ苦難の中をさ迷う人の多きに、普段は心の奥に潜む任侠の魂が解き放たれる時でもあった。水戸藩主徳川斉昭は周作を剣術師範の馬廻役一〇〇石の扶持で招聘、のち二男も三男も馬廻役に任じられている。さらに四天王の一人と目される塚田孔平は、水戸弘道館で知遇した会澤正志齋、戸田銀次郎、藤田東湖らと親交を深めて、後の天狗党にも加わっている。
次は石渡助右ヱ門の子助五郎その通り名が飯岡助五郎(一七九二~一八五九)に触れておきたい。
石渡家は相模三春町(横須賀)で半農半漁を営むが、助五郎一六歳のとき、三春町に力士を率いた友綱部屋の親方良助の一行が巡業に来たという。日本の相撲界が遠い昔に発祥した事は今更の話ではないが、現在の相撲協会と助五郎世代との顕著な違いは、封建制と立憲制との差異あるから、歴史を踏まえた上でイメージする必要がある。たとえば、神社境内の相撲が盛んなころと、テレビの放映が相撲を盛んにするのでは、比較そのものが成り立たないことになる。
天保水滸伝で助五郎のライバルとされる笹川繁蔵も千賀ノ浦部屋の中退者であり、友綱部屋と同じケースで当時も現在も部屋の名前だけは変わらない。
それはさて、友綱部屋の親方良助は三春町巡業の際に、助五郎一六歳の力士入門を勧誘しており、本人その気になったようであるが、助右ヱ門は名主の永島床兵衛に頼んで、人別帳から助五郎の籍を抹消したうえで入門を許したとされる。これは何を意味するのか、どう考えようと、退路を断たれた助五郎の身の上にプレッシャーをかけたのは疑いがあるまい。
友綱部屋への入門を勧めた親方良助は一年も経たないうちに急死したという。助五郎その後は消息不明とされるが、やがてして、地引網の豊漁景気に沸く上総(千葉県)九十九里浜に現われる。力士廃業は親方の急死が原因とのこと、次に助五郎を見込んだのは網元の文五郎だったが、その文五郎もまもなく死んでしまう。助五郎は墓参を済ますと、下総(千葉県)飯岡へ出稼ぎに赴いていた。
飯岡はイワシの豊漁に沸いており、玉崎明神例祭の奉納相撲に参加した助五郎は、持ち前の怪力で土俵上を独り占め、無双の仁王立ちは尾ひれを付けて近郷近在に響き渡ったと伝えられる。その後は地元の荒くれを取りまとめ、銚子の顔役五郎蔵からポストとシマを譲り受ける。台風や大時化などの都度、途方に暮れる漁業環境を改良するため、助五郎は飯岡漁港の整備全般に目をくばり、再開発に人手が不足すると、出生地の三浦半島一帯に募集をかけて、希望者には移住可能な保障をほどこし、飯岡発展に尽くしたとされる。而して、助五郎は飯岡にとどまらず房総半島の大親分として、急速に増大する一家の構えに新たな問題を抱えざるを得なくなる。
隠れ官製のヒーローにされた笹川繁蔵(一八一〇~四七)に触れておきたい。
飯岡助五郎との年齢差十八年も下、両者の縄張りは隣接した地が多かった。
香取神社領地内の下総須加山村大木戸で、醤油と酢の醸造を営む岩瀬嘉三郎の三男その幼名福松が繁蔵の本名であり、大好きな相撲に興じて成長した繁蔵は千賀ノ浦部屋に入門していた。デビューの四股名に岩瀬川を用いたが、一年も経ないうち廃業しており、連れ添ったのが同門で近郷出身の勢力富五郎であった。富五郎は繁蔵が殺されたあと一家を継ぎ跡目となる。
須加山村に戻った繁蔵と富五郎は博奕に興じるうち、仲間が集まりだし、繁蔵を親分に据え一家を構えたとされる。繁蔵三三歳のとき、須加山明神の例祭にかこつけ、農業支援の名目を掲げて、総長賭博(親分衆が大金を使う博奕)を企画、その花会(=総長賭博)への参加を呼び掛ける回し状(案内状)を手当たり次第に発送したとされている。ただし、こんな事は現在の半グレでも控える事ゆえ作り話にしても稚拙がすぎている。
飯岡一家と笹川一家の合戦は、隣接地に頻発した子分同士の小競り合いに端を発している。博徒の縄張り争いは近郷近在で働く堅気衆に被害が及ぶため、直接被害がなくても、近郷の村名主は連名で直訴状を提出する事が慣例化していく。ここでは関東取締出役に事態収拾を訴えていた。役人の姑息手段は、いつの時代も大差ない浅知恵で組み立てられ、ここでは関東取締出役の制度改変が行われて助五郎を岡っ引きに仕立てあげた。
つまり、銚子の飯沼陣屋から出立する関八州の見回り役を案内しろとのこと、そのため、助五郎に十手取り縄を持たせようというわけだ。繁蔵は一家を立ち上げる前から、助五郎へ仁義を通すための挨拶をしており、助五郎も「気張れよ」と励まし、二人の間には険悪な空気など存在しなかった。
助五郎に十手取り縄を持たせた事で二人の間に微妙な空気の澱み生じてしまった。
以後、助五郎五三歳に繁蔵逮捕の命令が発せられる。
舞台は大利根河原の決戦へ暗転、助五郎は子分の半数を失ったが、繁蔵は用心棒の平手造酒を失うだけにとどまった。表面上の帳尻は助五郎の大惨敗であるが、それは十手取り縄を押し付けた行政が敗北したことを意味している。なぜなら、この絵図を設計したのが役人だからである。
このあと、屈辱を味わった行政の反撃は毒薬よりも恐ろしかった。指名手配に追われた繁蔵は奥州各地を警戒しながら旅せねばならなかった。大飢饉の影響が未だくすぶり続ける時節であり、行政の怠慢が明らかになるのは、いつの時代も災害対策に遅れを執ること、比して、任侠を基底に出現するボランティアの働きは対照的な称賛に包まれる。名誉挽回に迫られた行政の講じた苦肉の策が『天保水滸伝』の演出だとすれば、すべて辻褄が合うのはどういう事なのであろうか。
弘化四年(一八四七)ほとぼり冷める頃を見計らった繁蔵が郷土に足を踏み入れると、待ち構えた飯岡一家の子分三人が闇討ち繁蔵は絶命してしまう。笹川一家の跡目富五郎が体制の立て直しに取り組む過程にあって、行政の厳しい追い込みは容赦ない壊滅の手を休めない。執拗な追いまわしが続く中で行き場を失った笹川一家は東庄金毘羅山に籠城することになった。その兵糧攻めには五十二日間を耐え抜いたが、終に一家の消滅を防ぐことはできなかった。
笹川一家が消滅したら、次の餌食は飯岡一家そのシナリオが『天保水滸伝』であり、若年三八歳で殺された繁蔵をヒーローめいた姿で仕立てるとともに、平手造酒を悲劇のヒーローに仕立てあげる。
繁蔵を殺した飯岡一家の親分を悪人に仕立てようと計らい、岡っ引きと博徒この二足の草鞋を履き権力を使い分ける、それが任侠と言えるのか、任侠なんてそんなもの、十手取り縄を押し付けたのは誰かなんぞ忘れてしまえばよい。これが行政の常套手段だから隙は見せられないのだ。それは時代のブームに乗せられて、隠れ官製の『勧善懲悪』が善悪を定めるところとなり、それに加担して利権に群がるのが興行メディアのビジネス・モデルなのである。
当時は講談・浪曲・映画などの媒介が『天保水滸伝』でヒットを飛ばしていた。現在ではブームの火付け役にテレビやネットが使われ、地球温暖化などには目もくれず、ひたすら燃えさかる山火事を楽しむかのようである。
甲斐(山梨県)竹居村名主の四男その通り名ドモヤス(一八一一~六二?)に触れたい。
生家の中村家当主は甚兵衛を世襲名としており、四男ドモヤスの本名は安五郎(安蔵とも)で幼い頃からドモル癖が治らないまま、大親分になっても陰ではドモヤスと言われた。天保飢饉に際しては「甲州の郡内騒動」という不名誉な言葉が全国に広がってしまった。それは暴走やまない無宿渡世の流入で地方自治の怠慢が問われた行政区のことを指す言葉でもあったのだ。
郡内騒動の原因は無宿人の流入を意味しており、庄屋も名主も行財政の補完を担う郡中惣代として幕府指令の無宿人取締の任に当たっていた。
中村家は当主の死後に、ドモヤスの長兄が甚兵衛を襲名して、八代郡上黒駒村の名主小池嘉兵衛の二男その通り名は黒駒勝蔵(後述する)を訓育のうえ、弟ドモヤスの跡を継ぐ大親分に育てるという責任を担っていた。甚兵衛はドモヤスの為すべき仕事を認識しており、その仕事は命を落とす確率が高い事から後継を用意しておく必要があったのだ。勝蔵はドモヤスより二十一年も若いけれど、その年齢差は仕事を達成する上で欠くべからざる条件でもあったのだ。
ドモヤスが喧嘩や博奕を日常的にやりだすのは、飢饉の惨状が身近な二十代になってから、博徒や無宿人を率いて一家を構えると、富士川の舟運事業を権益として、その縄張りを拡大しつつ進出した地域は駿河まで及んだので、次郎長との確執は宿命的な対決の繰り返しとなった。侠盛りの三十代は近接した鴨狩津向(ツムギ)村の文吉とシマ争いが常態化して、嘉永二年(一八四九)に捕縛された津向文吉が八丈島流刑となったため、文吉のシマはほぼ自動的にドモヤスの手にわたった。
同四年こんどはドモヤスが伊豆新島への流罪服役となるが、二年後ペリー来航の騒ぎに紛れるかのように、ドモヤスは無宿者六人を率いて島抜け(脱獄)を決行している。官製のニュースは、島抜け強行の際に名主ほか数人を殺しており、鉄砲や漁船を盗んで半島網代に上陸したという、この情報は俄かに信じがたいが当面は有りのままにしておく。ドモヤスは人斬り長兵衛の下働きをしている際にダイバの久八や天野海蔵とノレン兄弟の盃を交わしていたので、網代に上陸してのちは、兄弟分から大いなる援けを借りて帰郷の途についている。
この流刑中に郷土で頭角を表していたのが黒駒勝蔵であった。
帰郷後ドモヤスは勝蔵を弟分とする盃を交わし。二人で盗区を含めたシマの地固めに徹した。関東取締出役はじめ石和(イサワ)代官に追われるドモヤスと敵対したのは、三井卯吉(次に記す)系の祐天仙之助ほか国分三蔵や犬上郡治郎らが代表的といわれる。
ドモヤス五〇歳のとき長兄甚兵衛が死去したとされる。
ここに落合本を読んでいないと、見過ごす訳にいかない謎が秘められている。甚兵衛の健在中には捕縛されて当然のドモヤスが自在の振る舞いをしていたが、甚兵衛没の翌年になると、捕縛と移送で入牢した甲府堺町の牢内において死亡のアナウンスが甲斐一帯に流された。
ドモヤスの遺産全部を吸収した跡目の勝蔵は、巨大化した黒駒一家の全国デビューを果たし、舟運権益でドモヤスが対決した次郎長との抗争も一段と激しさを増していった。
異種の目明し三井卯吉(一八〇二~五七)の挿入は欠かせない。
甲斐武田氏の時代から代々牢番を継ぐのが三井の家系であるが、潜入特務を担う卯吉は出自不明を装うことになる。卯吉は勝沼の祐天と東部国分村の三蔵を配下として、ドモヤスと勝蔵のほか、市川大門村の鬼神喜之助と小天狗亀吉らに敵対していく。
天保九年(一八三八)卯吉宅には博徒が参集していた。そこへ御用の役人が踏み込んで捕縛の博徒多数を挙げるが、その捕縛記録を見ると、卯吉の名が記されないまま保管されている。同十一年には甲府城下で処罰者八十余名にのぼるガサ入れを行うが目的未詳のまま、嘉永三年(一八五〇)のガサ入れは甲府盆地一帯に及ぶも処罰者十名と少ない、これも捕縛騒動の目的未詳のまま、卯吉が絡んだ事件であることは変わらない。
安政四年(一八五七)卯吉は居宅に踏み込んだ小天狗一党に斬り殺されるが、卯吉は転居を頻繁に繰り返すため、小天狗一党が居宅中の情報を掴んだ謎は解明されていない。この時の現場は街道筋の山田町とされており、その憶測は諸説あるが、卯吉は身代わりで斬殺された説が有力とされる。
つまり、卯吉系祐天と一家を構える親分吉原亀とは抗争中だった。卯吉の謀計で甲州所払いとなる亀は祐天に斬り殺された。亀の子分が出向いた先は祐天がモヌケのから、その身代わりで卯吉が斬り殺された。再び姿を現した祐天は、卯吉を斬った亀の子分を殺すと、卯吉の跡目を引き継ぎ甲斐から姿を消したとされている。
どうあれ、卯吉没後の甲斐と街道筋は博徒の取締強化が一段と厳しくなり、その影響は駿河にまで及ぶところとなったため、いつも隠される行政の思惑は何だったのか、牢死のドモヤスも謎であるが長兄甚兵衛の政治力も謎だらけ、それを解明しえる人は皆無と言われるが、それらの謎を解く洞察の手引きが落合本であることは言うまでもない。
山本仙之助その通り名は祐天(一八一八~六三)にも触れておきたい。
祐天は法印の号だから、山本系は修験ではないかとの短絡が世間にあふれかえる。氏姓鑑識の知を深めるのは日本史に限らず史学の第一歩であり、それを等閑にして史学に踏み込むなんぞは、先哲に不敬と思わなければ礼を欠くであろう。
これまで姓を記さずに名を記してきたが、仙之助の場合は祐天と表記したい。
祐天の怪力は三人分、ケンカは負け知らず、自ら山本勘助の末裔を称したそうだ。甲州勝沼に拠を構えて、柳町の卯吉配下と自ら名乗って、多数と敵対する事を辞さずに、津向文吉やドモヤスが社会不在の間に縄張りを広げたとされる。祐天は国分三蔵をパートナーに暴走と抗争に明け暮れて、その神出鬼没ぶりは大男に相応しくないとも評され、何事も卯吉を後ろ盾にしたという。
祐天は卯吉の目明し仲間とも深い関わりを有していた。祐天が武蔵(東京)青梅に姿を現した時は目明し師岡孫八を頼っており、目的は武蔵小金井の顔役小次郎を紹介してもらうこと、願いが叶った祐天は小金井小次郎に紹介されたとき、本姓の山本仙之助を名乗ったという。文久元年(一八六一)世界中を席巻していた、世界青年党のファシズム上陸にガス抜きを準備していた頃でもあった。
同三年には清川八郎が浪士組の募集を始めており、祐天は本姓を名乗って手練れの子分たちと共に入隊している。浪士組五番隊の組頭に任じられた祐天は、京の都で待機を命じられるが、清川の腹と意が異なる芹沢鴨や近藤勇が新選組を結成したので、清川に従う祐天も江戸に戻るが暗殺された清川八郎の後継が決まらず雲散霧消してしまう。のち祐天が所属したのは、江戸市中取締役の松平忠敏が主導した新徴組であった。
奇しくも、祐天が浪士組五番隊の組頭になったとき、六番隊に所属していたのが、祐天に殺されたドモヤスの用心棒桑原来助の子大村達尾であり、この二人は新徴組でも一緒になったことで、のちに父の仇は祐天と知って仇討するチャンスを狙い続けていた。それを知らない祐天は遊興先の南足立郡千住宿の遊郭から出てきたところを、助っ人と共に待ち受けた大村に斬り殺されてしまう。同年十月十五日が明ける朝だったが、本哲院宗勇智山居士の戒名が正体を明らかにする。
(続く)